第七話 暖かな日の下で 前編

 ……白だ。

 何物にも染まらぬ純粋な白。何物も見通せぬ無垢な白。

 その只中に、わたしは一人、立っていた。

 いや、立っているのかすら怪しい。はたして今、わたしは立っているのか、或いは横たわっているのか、はたまた逆さまになっているのか、わたしには判別出来なかった。わたしを包む白が、わたしの平衡感覚を狂わせた。


 しかし、今のわたしに断言出来ることが一つだけある。わたしは、この場所を知っている。

 あぁ、憶えている。あれは確か、四百年前のこと。わたしが帝国を滅ぼした後、気が付いた頃には、今と同じようにこの空間にわたしは居たのだった。

 あの時、この場所で何があったのか。それは……。


「名も無き人間よ……」


 遥か昔の日に思いを巡らそうとしたが、わたしの思考は突然の声に阻まれた。

 その声はわたしの後ろから響いてきた。後ろへと身を翻すと、わたしの前方に一つの光が浮かんでいた。握り拳ほどの大きさのそれはピクリとも動くことはなく、まるで固定されているかのようにそこに浮かんでいた。


「……あなたは――」

「遥か昔、お前は大きな罪を犯した……」


 わたしを呼んだ光に声を掛けようとしたが、その光はわたしの言葉を遮った。あれにとって、わたしの思考などは取るに足らないものなのだろう。何故ならば、あれはわたしたち『人間』よりも遥か高次の存在、『神』なのだから。

 帝国の教会が信じるような神などは、実際には存在しない。しかし、『神』と呼べるものは確かに存在する。彼らが人間の前にその姿を現すことは滅多に無いことだろう。だが、わたしがこうして彼らに召喚されたのは二度目だ。そこで起こったことを、わたしはしかと憶えている。

 わたしは大人しく口を噤み、光の次なる言葉を待った。


「お前の罪、それは、同種である人間を殺しすぎたことだ。お前の生み出した屍を積み上げれば、天にも届く程だろう。お前の嘗ての行動は、この世界の均衡を崩さんとしていた……」


 均衡の崩壊。それは、帝国の滅びを意味しているのか。いや、違う。神の言うわたしの罪とは、もっと昔からの積み重ねのことを指しているのだ。


「我らが望むもの、それは『均衡』である。世界をなるがままに任せ、我々はお前達生命の営みを見守ってきた。生命達は様々な地域で繁栄し、生態系を築いていった。その様はまさしく、我々の目指す『均衡』であった。しかし、世界には均衡を保つものばかりではない。稀に、それを破壊せんとする者が現れる。奴らが均衡を崩す時、我々は奴らに罰を与えてきた。世界の均衡を維持する為に。

 お前は人間を殺しすぎた。それは、世界の均衡を崩さんとするほどだった。故に、我々はお前に罰を与えた……」


 そう、わたしは罰を受けた。それによって、わたしは二つのものを失った。一つは自分の名。もう一つは、『死』だった。

 脳裏に映像が次々に浮かんでは消えてゆく。神の裁きを受けてからの、あの恐ろしき日々を。


「お前の罪は、決して赦されるものではない。お前は、我々の意思に反する行いをしたのだからな」


 神の無機質な声を聞きながら、わたしは一人、慄いていた。ここに再び召喚されたということは、わたしはまた神の裁きを受けるのではないかと恐怖していたのだ。

 しかし、わなわなと身を震わせていたわたしに投げ掛けられた神の言葉は、実に意外なものだった。


「……だが、此度のお前の行動を見て、我々はお前に対する考えを改めることにした」

「えっ?」


 思いもしなかった神の言葉を聞き、わたしの口から思わず声が漏れた。

 此度のわたしの行動? それは、魔術師の集団から帝国を守ろうとしたことを指しているのだろうか?

 わたしの頭上に疑問符が浮かび上がる。そんなわたしに答えを提示するかのように、神は静かに語りだした。


「つい先ほど、ある人間の集団が一つの国を滅ぼさんとし、攻め入った。これを放っておけば、その国は滅び、多くの人間が死に、我々の望む『均衡』は崩れていたことだろう。だが、実際に国が滅びることは無く、均衡が崩れることも無かった。名も無き人間よ、お前が均衡を守り抜いたのだ」


 そうか。わたしは、守れたのか、帝国を。

 わたしはほっと胸を撫で下ろした。それは、神の望む均衡を守ったことに対してではなく、帝国が無事であることに対しての安堵からだった。


「お前の行動は、我々の意思そのものであった。故に、すべてとは言わぬが、お前の罪の一部を赦そう」

「罪を……赦す?」


 神はそう告げると、その光は徐々に上へと昇っていく。そうするにつれて光は輝きを増し、やがて直視出来ないほどに輝きだした。

 わたしは目を右手で庇いながら、神を見上げる。しかし、神の姿は光に埋もれ、完全に見えない。ただ、その声だけははっきりと響いてくる。


「我々はお前の此度の功績を称え、罪を赦そう。そして、嘗て罰としてお前から奪った『死』を、お前に返還しよう」


 神がそう言った次の瞬間、光は更に増してゆき、真っ白な空間をさらに白く染める。あまりの眩しさに当てられ、わたしは思考を巡らせる間も無く、瞬く間にそれに包まれていく。

 この空間も、わたしも、わたしの思考さえも、すべてが白に埋もれてゆく。その中で、わたしは妙な感覚を覚えていた。

 それは、まるで………………。


 ***


 ……左手に、温かな感触を感じる。

 包み込むようなその温もりは、とても懐かしく、優しく、そして心地良い。ずっと、こうしていたいと思えるほどに。そんな感覚を抱きながら、わたしは微睡んでいた。

 わたしは薄目を開き、首を回して周囲をぼんやりと眺める。すると、先ず目に入ったのは見慣れない天井。それから、見慣れない壁紙に、これまた見慣れない窓。次々と自分の知らない景色が目に飛び込んでくる。そして、わたしの背中には柔らかな感触。どうやら、わたしはこの知らない空間で寝かされていたようだ。


「……ここは……?」


 無意識にそんな言葉を口から漏らしながら、まだ眠気の晴れない頭のまま体を起こす。そのままぐるりと回りを見渡す。あぁ、やはり、わたしの知らない部屋だ。

 一体何故、わたしはここに寝かされていたのだろう? そもそも、ここはどこなのだろう? ここに寝かされる前、わたしは一体何をしていたのだろう?

 いくつもの疑問が頭の中に浮かび上がる。しかし、未だはっきりとしないわたしの脳はこれを処理できず、答えを出せぬまま、疑問は思考の海へと溶けていく。


 そんな中、わたしは左手に違和感を感じた。そちらへ目を向けると、そこには、一人の女が居た。彼女はわたしの隣に突っ伏し、小さく寝息を立てながら眠っている。しかし、彼女の左手は、しっかりと、しかし優しくわたしの左手を握っていた。


「……リーザ……」


 ふと、彼女の名前を呟く。

 まだ記憶があやふやなのに、この子の名前だけはすんなりと思い出すことができた。それはきっと、彼女がわたしにとって、とっても大切な人だからだ。


「……んぅ……? ……せんせぃ……?」


 わたしの声に気がついたのか、彼女はベッドから顔を上げる。初めは眠たそうに瞼を擦る彼女だったが、わたしと目を合わせるなり、両目を見開いて驚きの表情を見せた。


「せ……先生……!?」

「どうしたの? リズ。そんな信じられないものを見るような目をして」


 そう言うと、わたしはリズにふっと微笑みかけた。すると、わたしの中で懐かしい感覚が蘇ってきた。そうだ、この子はわたしの大切な教え子。そして、家族だ。これまでも、何度もこうしてこの子に微笑みかけたのだった。

 次々と思い出される過去の記憶に懐古の念を抱いていると、唐突にリズがわたしに抱きついてきた。


「わっ!? ど、どうしたのよ……?」

「うぅ……! せんせぃ……! セラ先生……!」


 リズを抱きとめると、彼女はわたしの名を呼びながら泣き出してしまった。突然のことに動揺しながらも、何とか宥めようとリズの髪を優しく撫でた。


「もぅ……急に泣き出してどうしたのよ?」


 そう優しく問いかけると、リズは鼻をすすりながら、途切れ途切れに言葉を絞り出した。


「だ、だってぇ……! せんせぃ、ぜんぜん目を覚ましてくれなくてぇ……! 怪我だってぇ、ひどかったしぃ……! もう、目を覚まさないんじゃないかって、しんぱいでぇ……!」


 わたしが怪我をしてずっと眠っていた。それを聞いた途端、わたしの脳裏に一つの記憶が蘇る。そこには帝国を襲う魔術師の集団と、それに従うドラゴン。そして、わたしは帝国を守る為に彼らと戦っていた。

 やっと思い出した。わたしはあの戦いで大きな傷を負い、最後には捨て身の覚悟でドラゴンを討ったのだった。


「せんせぃ、このまま死んじゃうんじゃないかって、思ってた。……けど、良かったぁ。本当に、良かったぁ……!」


 リズは、わたしを抱く腕に一層力を込める。わたしも、リズをより強く抱きしめた。

 どれ程の間目を覚まさなかったのかは分からない。しかし、その間中、リズはずっとわたしの側に居てくれたのだろう。わたしはもう二度と目を覚まさないかもしれないという不安に耐えながら、ずっと、わたしの手を握っていてくれたのだ。

 そのことに気がついた途端、わたしの瞳からも一つ、また一つと涙が零れてきた。


「リズ……ありがとう……」


 まるで幼子のように泣くリズに、わたしはぽつりと、そう呟いた。


 ***


「ふ~む、記憶に若干の混濁が見られるが、じきに治るだろう。心配はないよ」

「はぁ、良かったぁ」


 一通りの検査を終え、穏和そうな初老の医師はそう診断した。それを聞き、わたしの隣に座っているリズはほっと胸を撫で下ろしていた。

 ここは帝国病院。帝国内の屈指の医者が集う病院だ。その一室で目を覚ましたわたしは、早速医師たちの診断や検査を受け、今に至る。


「それにしても……あの怪我が綺麗さっぱり治ってしまうとは……」


 リズの心境とは裏腹に、診断を終えたばかりのこの医者は怪訝そうな面持ちをしている。まるで、奇跡でも目の当たりにしたかのような表情だった。

 リズの話に拠れば、わたしがこの病院に担ぎ込まれてから既に七日が経過しているそうだ。この病院に入院した時、わたしはそれはそれは酷い有様だったそうだ。足や肋骨の骨折に、内臓の損傷、そして、全身に大火傷を負っていたそうだ。普通なら息絶えているはずの状況だったが、わたしは何とか虫の息で生きていた。さらに、完治する筈が無いと思われていたその傷が、この七日間の内にすべて消えてしまったというのだ。


「……これも、魔術師の力……なのかも知れんな……」


 初老の医者は、眉間に皺を寄せながらそう呟いた。

 いや、これは魔法の力じゃない。そのような損傷、自然治癒の延長である治癒魔法で治せる筈が無い。これは、そう、まさに神の御業、とでも言うべきか。


 はっきりと憶えている。神は言った。わたしに『死』を返還する、と。『死』を奪われ、不死身となったわたしに『死』が戻り、既にわたしは不死身では無い。そして、わたしは今まさに生きている。これは、わたしに残された最後の命。神がわたしに授けてくれた、たった一つの奇跡なのだ。


 そのことを知っているわたしは、しかし口を噤んだまま、医者のしかめ面を眺める。例え真実を示したとて、それを証明する術をわたしは持たないのだから。


「……何はともあれ、後遺症の類の心配はいりません。ですが、一応念のため、数日間は様子を――」

「邪魔するぞ」


 医師がそう締めくくろうとしたが、その言葉は突然の来訪者によって遮られた。わたしの背後の扉を勢いよく開いて現れた彼は、遠慮という言葉を一切知らないといった表情を浮かべたまま、わたしとリズの前に進み出た。

 彼はわたし達を一瞥すると、手元の資料に目を落としながら、無感情な声で話し出した。


「お前達が、先日魔術師の集団から帝国を守ったという魔術師か?」

「え、えぇ……」

「そうだけど、一体何の用?」


 いまいち状況が飲み込めないまま返事を返し、隣のリズは男に睨みを利かせる。しかし、男は表情をピクリとも動かさない。


「王がお前達との話し合いを望んでおられる。ついて来い」


 彼がそう言うなり、扉から数人の男が診察室に入り込み、わたしとリズを強引に連行しようとする。


「ちょっと! いきなり何するのよ! 放して!」


 リズが激しく抵抗するも、男たちの力には勝てず、無理矢理歩かされる。わたしはあまり抵抗することは無く、されるがままだった。男はわたし達の様子を見て少し満足気な表情を見せると、わたし達を先導するように歩き出した。

 すると、初老の医師が突然彼の前に立ちはだかった。


「お待ち下さい、士官殿。彼女はまだつい先程、眠りから醒めたばかり。急に体を動かしては、体に良くありません。担当医師として、彼女の体に無理をさせるわけにはいきませぬ。

 王との謁見のお話、今すぐでなければならない理由がお有りなのですか? もしそうでないのならば、本日はお引取り下さい」


 まあ、帝国の人間が魔術師であるわたしの体を気遣うとは。恐らく彼は、わたしのことを魔術師としてではなく、一人の患者として見てくれているのだろう。そのことに、わたしは若干の感動を覚えた。

 医師の言葉を聞き、少し眉を顰めながら士官の男がこちらを振り向いた。医師の言葉のお陰で、同行するか否かの決定権がこちらに移ったということか。


 医師やリズが優しい眼差しをこちらに向けてくる。二人とも、わたしのことを気遣ってくれている。それが、わたしにはとても嬉しいのだ。

 しかし、王との話、か。さすがにこれを無視するわけにはいかない。何故なら、その話はきっと、わたし達だけ二人じゃなく、この世界に住む魔術師全員の未来を決定する、重要なものだから。そう、わたしの勘が告げているのだ。


「……行きましょう」


 少しの沈黙の末に、わたしはそう答えた。それに対し、医師がわたしに問いかける。


「ほ、本当によろしいのですか……?」

「えぇ、わたしは大丈夫です。お陰さまで、随分と良くなりましたから」


 わたしの返答を聞くと、医師は渋々男に道を譲った。その横を、男の後に続いて歩いていく。


「……お大事に、なさって下さい」


 去り行くわたしの背中に手を添えるかのように、医師の言葉が届いた。

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