第七話 先生になる 前編
リーザを盗賊たちから救い出した次の日の朝、わたしは早々に目が覚めた。
いつも通りベッドの上から天井を見上げるが、梁に小鳥は留まっていない。きっと、あの子達はまだ寝ているんだろう。
窓を押し開け、外の景色を眺める。日はまだ完全には顔を出しておらず、木々の間から覗く空は白んで見える。
昨晩のことで体は疲れているはずなのに、あまり良く眠れなかった。わたしの中に、大きな不安とこれからへの罪悪感が渦巻いていたからだ。
寝巻きから普段着のローブへ着替えると、少しでも気分を落ち着かせようと紅茶を淹れた。
ちびちびとそれを飲みながら、わたしはあの子がここにやってくるのを静かに待っていた。
***
紅茶が尽き、家にようやく起きたらしい小鳥たちが騒がしく飛んでくる頃、玄関のドアが弱々しく叩かれた。どうやらあの子が来たようだ。
いつもは無断で家に入ってくるくせに、今日に限っては遠慮がちになっているらしい。昨日のことを後ろめたく思っているのだろう。
わたしはゆっくりと、玄関のドアを開いた。わたしの目の前には、わたしを見上げる小さな女の子、リーザが立っていた。
彼女は上目遣いにわたしを見上げたり俯いたり、右へ左へ視線を泳がせたりしながらも、ようやく声を絞り出した。
「お……おはよう、ございます……」
「えぇ、おはよう。さぁ、そんなとこに突っ立ってないで、さっさと入りなさい」
わたしは笑顔を浮かべながら、彼女の背中をトンッと叩いた。少し戸惑いながらも、彼女はわたしに促されたように家の奥へ歩いて行った。
わたしは台所へ向かいながら、その小さな背中に呼びかける。
「テキトーなとこに座りなさい。お紅茶淹れてあげるから」
「う、うん……」
蚊の無くような返事が返ってくる。あの子は相当昨日のことを申し訳なく思っているらしい。全く、あんなこと気にしなくてもいいのに。
わたしは茶棚の中からリラックス効果のある茶葉を選び、紅茶を淹れていく。昇り立つ湯気に連れられた香りが鼻腔をくすぐる。
わたしは紅茶の入ったポットとティーカップを二つ、それとお茶請けにクッキー数枚をお盆に載せ、リーザの待つ居間へと向かった。
「はい、お待たせ。どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
リーザの目の前に紅茶とクッキーを置くと、彼女は小さく頭を下げた。
わたしは彼女の向かい側に座り、再び紅茶を飲む。うん、我ながら美味いものだ。
わたしが美味そうに紅茶を飲む一方で、リーザはクッキーや紅茶に全く口を付ける気配がない。このままでは、折角わたしが淹れた美味しい紅茶が冷めてしまう。
「リーザ、紅茶飲まないの?」
「あ、えっと……その……」
「もしかして、紅茶苦手なのかしら?」
「う、ううん。そうじゃ、ないんだけど……」
何を訊いても歯切れの悪い返事しか返ってこない。やはりこの子は遠慮しているのだ。こうなれば、無理にでも飲ませるしかない。
「全く、人が折角厚意で出した紅茶だってのに、一口も飲まないっていうのは失礼なんじゃない?」
「は、はぃ」
少々語気を強めて言うと、彼女は怯えた様子で紅茶に口を付けた。一口それを飲んだ瞬間、彼女の顔がぱぁっと和らいだ。
「美味しい?」
「うん、おいしい……」
「それはよかった。ほら、クッキーも食べなさいな」
「うん」
わたしが勧めると、リーザは幸せそうな顔でクッキーを頬張った。少しずつ、彼女はいつもの調子を取り戻していった。
***
「紅茶のおかわりは要るかしら?」
「うん、ちょうだい」
リーザはあれからクッキーを平らげ、二杯目の紅茶を所望する。彼女の気分は随分落ち着いたようだ。これなら少しは話しやすいだろう。
二杯目を注いだティーカップを彼女のソーサーの上に静かに置く。しかし、リーザは中々それに口をつけなかった。
「お、おねーさん……」
「何かしら?」
「あ、あのね……そのね……」
リーザは自分のティーカップに注がれた紅茶を見つめながら、必死に言葉を絞り出そうとする。わたしはその様子を何も言わずに見守った。
そして遂に、彼女はわたしの顔を真っ直ぐに見上げながら勇気を振り絞って言った。
「き、昨日の夜のこと、めいわくかけちゃって、ごめんなさい」
リーザはわたしに向かって頭を下げた。下げたままの頭を上げる気配はない。この子は待っているのだ。わたしの言葉を。わたしの『いいよ、許してあげる』という言葉を。
しかし、わたしは心の中に一抹の寂しさを感じていた。何もわたしは、この子に謝って欲しくて助けたわけじゃない。大切だったから助けたのだ。そんなわたしが欲するのは謝罪の言葉じゃない。
「はぁ……。リーザ、わたし、ちょっぴり悲しいわ」
「えっ……?」
わたしの言葉が意外だったのだろう。リーザは顔を上げて、驚いた顔でわたしを見上げた。
そんな彼女に、わたしはそっと言葉をかける。
「わたしはね、あなたのことをとっても大切に思ってるの。もちろん、村の他の人たちのこともね。わたしはね、そんな大切なみんなのことを家族だと思ってる。家族なのだから、助け合うのは当たり前じゃない。だから、迷惑をかけてごめんなさいだなんて、他人行儀で寂しいことは言わないで?」
リーザはしばしわたしの言葉に戸惑っていた様子だったが、やがてその意味を理解したのか、再びわたしを真っ直ぐに見つめた。
「じゃ、じゃあ、その……助けてくれて、ありがとう」
「いい子ね。よしよし、頭撫でてあげる」
「わぁっ、ちょっとやめてよー」
リーザの頭をわしゃわしゃと撫でる。口では嫌がりながらも、その顔はどこか嬉しそうだった。
ひとしきり撫でると、満足したわたしは紅茶を一口飲んだ。リーザも二杯目の紅茶に口を付ける。
さて、リーザは話すことは話したし、次はわたしが話す番だ。そう思った途端に気が重くなる。わたしの話を聞けば、この子はきっと深く傷つくだろう。
それでも、たとえそれが残酷でも、わたしはやらなきゃいけないんだ。それがきっと本当にこの子のためになる。わたしはそう信じている。
「リーザ……一つ、大切な話をしたいの。いいかしら?」
「大切な話?」
「そう、あなたのお父さんとお母さんについての話よ」
「……っ!」
リーザが一瞬息を呑んだのが分かった。この子は察しているのだろうか。今から話そうとしていることが、悪い報せだということを。
わたしの中で罪の意識に似たものがむくむくと大きくなっていく。話したくない。この子を傷つけたくない。わたしは何かに押しつぶされそうな感覚を覚えた。
しかし、もう退くことはできない。この子に残酷な現実を突きつけることを選んだのは、他でもない、わたし自身なのだから。
***
昨晩、リーザを村長宅のベッドに寝かしつけた後のことだ。
「村長、リーザのことで大事なお話があります」
わたしがそう話を切り出すと、村長はそれまでの穏やかな笑顔から一変、重々しい表情を浮かべた。わたしが何を言わんとしているか、既に察している様子だった。
「大事な話とは、一体何ですかな?」
「村長、わたし、あの子に真実を伝えたほうが良いと思います」
「……」
真実、両親の死。あの子に一番近しい人たちのことを、この村の大人たちはずっと隠してきた。それは優しさや愛故であることはわたしも分かっている。でも、それだけではだめなのだ。
優しさや愛だけでは足りない。無責任な思いやりは、いつか自分も相手も傷つける。だから、わたしたちは今こそ誠実であらなければ。
村長は何も答えなかった。瞳を閉じ、何かを思案するようにただその場に立っていた。わたしは続けた。
「あの子が東の森に行った理由は、村長も分かっておいででしょう。あの子は帝国に行こうとしたんです。帝国にいるはずの両親に会いに行こうとしたんですよ。あんな子供でも、夜の森に無闇に立ち入れば、獣に襲われると分かっていたはずです。それでも、あの子は危険を冒してでも森を抜けようとした。それほど、あの子の思いは切実なのですよ。
……皆さんがあの子に真実を隠しているのは、思いやりのためであることは分かります。ですが、このまま嘘を吐き続ければ、きっとあの子はより傷つきますよ。叶わぬ希望を持ち続け、それが叶わぬと知ることがどれだけ残酷なことか。
村長、今ならまだ間に合います。あの子に、真実を伝えましょう?」
わたしは自分の考えをすべて打ち明けた。しかし、村長は尚も目を閉じたまま黙っていた。
やはりわたしの考えは受け入れてもらえないのか、と諦めかけたその時、突然彼が口を開いた。
「セレスさんの言う通りじゃ……」
「えっ……」
村長は薄く瞳を開いた。しかし、その目はどこか遠くを見つめていた。
「ワシらはのぉ、あの子のことを産まれたときからずぅっと見てきたんじゃ。こんな小さい村じゃからのぉ、あの子のことをまるで自分の孫のように可愛がったもんじゃ。
セレスさん……わしらがあの子に対して優しすぎたのではない。わしらが、あの子が傷つくことに耐えられなかったのじゃ。自分の孫や娘のように接してきたワシらにとって、あの子に真実を伝えることは、自らの手であの子の首を絞めるほどに辛いことなのじゃ。だから、ワシらはできなかった。
しかし、そのせいで今日あの子は傷ついた。獣に襲われたそうじゃな。それはそれは怖い思いをしたに違いない。ワシらが甘えていたせいで、あの子を深く傷付けてしまった」
村長は遠くを見つめながら、その両目からは涙がこぼれていた。
「もう、こんなことを繰り返す訳にもゆくまい」
そう断言した彼の目には、固い決意の中にまだ躊躇いの色が揺れていた。
この村の人たちは弱いのだ。
他人が傷つくのを恐れ、自分が傷つくのを恐れる。至って普通の、一般的な人間なのだ。
彼らには少々荷が重いのかもしれない。それを肩代わりすることは、果たして罪であろうか。
だから、わたしは……。
***
「良く聞きなさい、リーザ。あなたの両親はね……もう、この世にはいないのよ」
わたしは言い聞かせるように、一つ一つ静かに告げた。
リーザは初めはきょとんとしていたが、次第にその意味を理解していったのか、徐々に顔を曇らせた。
しかし、それとは裏腹に口許は緩んでいた。
「そっかぁ……おとーさんとおかーさん、死んじゃったんだ……」
リーザは震えた声で、繰り返すようにそう呟いた。
「わたし、てっきり……二人とも、わたしを捨ててどこか遠くに行っちゃったて思ってた。だって、二人ともぜんぜん帰ってこないし、そんちょーは何も教えてくれないし、てーこくまで会いに連れてってくれなかったんだもん。
でも、よかったぁ。二人とも、わたしを捨てたりなんかしなかったんだね? 二人とも、わたしのこと大好きなままだったんだよね?」
「えぇ……そうね……」
リーザは必死に声を明るくしようとする。しかし、発するたびに声は震えを増し、目の端からは大粒の涙が零れ落ちる。
「よか……った。二人とも……ぐすん。うぅ、おとぉさん……おかぁさん……えぐっ……。
いやだぁ、いやだよぉ……! あいたいよぉ……! おとーさんとおかーさんに、あいたいよぉ! ひっく、うわぁ~~ん、うわぁ~~ん」
「リーザ……っ!」
リーザは泣いた。感情を抑えることなく、それに身を任せるように泣いた。わたしには、悲しみに震えるその小さな肩を、強く抱きしめることしかできなかった。
***
わたしの腕の中でひとしきり泣き、鼻をすすっているリーザにそっと声を掛ける。
「……落ち着いた?」
「……うん」
少し荒っぽく赤く腫れた目をこすりながら、リーザは答えた。
わたしはもう一杯紅茶を淹れようと立ち上がろうとする。すると、ローブの裾がひっぱられた。見ると、リーザが泣き腫らした目でわたしを見上げていた。
「どうしたの?」
「おとぉさんと、おかぁさんの、おはかはどこ?」
涙声を必死に絞り出しながら、わたしにそう尋ねた。
あぁ、リーザのご両親よ。この子はとても強い子です。まだこんなにも幼いのに、今あなた方の死という壁を乗り越えようとしています。
わたしは膝を折ってリーザに目線を合わせる。
「あなたのご両親のお墓は村にあるわ。これから一緒にお墓参りに行きましょうか」
「うん、行く」
リーザは座っていた椅子から飛び降り、足早に玄関の方へと歩いていく。
後ろから見えるその背中には、嘗て見た弱々しい面影などどこにも無かった。
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