第1章 懐古厨の萌えフォビア

「萌え」とは草木の芽が出る(伸びる)様の事であり、

転じて漫画やアニメのキャラに特別な好意的感情を抱くことを言う。

浅くて広い「好き」という言葉が相応しくない場面において狭くて深い感情を表す。

2000年以降、「萌え」は言葉として定着したが、

言葉の広がりとともに対象も多様化したため、

その意味する範囲は曖昧で明確な定義付がされない。


「萌え」という言葉が広まり始めたちょうどその頃、

中学生だった私は友人の勧めで「機動戦士ガンダム」のビデオを見てハマった。

その原因はアムロやシャアがカッコイイとか、セイラさんに恋をしたわけでもなく、宇宙戦争をリアリティの面から補強した「設定」にあった。

スペースコロニーなどの用語を始めSF世界観そのものに憧れたのだった。


第一話「ガンダム大地に立つ!」の物語としての完成度も確かに素晴らしいのだが、極端な話、永井一郎氏のナレーションによる「人類が、増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって半世紀が過ぎていた。―」から始まるプロローグだけでも物語に入り込むには十分だった。

モビルスーツ戦の緊張感やアムロの成長、シャアの復讐劇といった物語の核心についても、ミノフスキー粒子に起因する電波障害やニュータイプ、ジオニズム思想といった設定があってこそである。


その後手当たり次第に設定本を買い漁り、専門誌の「ガンダムエース」を購入するようになった。

ある時、ガンダムシリーズ復活と銘打って「機動戦士ガンダムSEED」(2002年)放送を告知する特集が組まれていた。


第一話をリアルタイムで視聴したが、終盤までガンダムは活躍しない展開でファーストガンダムで受けたワクワク感を最後まで感じることができなかった。

しかし、最大の問題はキャラクターである。

安彦良和のキャラクターにはなんとも感じなかったのに、平井久司のキャラクターは生理的に受け付けない「なにか」があった。


少女マンガのように大きな目、鋭く尖ったアゴ・・・

こういった絵柄は2000年代の流行であり、いわゆる「萌え絵」と呼ばれるものと共通する特徴であるが、

事にリアリティを求めていたガンダムにおいては世界に入り込むのを妨害してるかのように感じたのだった。

にも関わらず、「無限のリヴァイアス」 (1999年)、「スクライド」 (2001年)、「蒼穹のファフナー」 (2004年)、「ヒロイック・エイジ」 (2007年)、

「鉄のラインバレル 」(2008年)と平井絵は2000年代のSFアニメを席巻した。


こうして私はSEEDや現行のアニメを見ることなく、「Z」、「ZZ」、「逆シャア」など宇宙世紀シリーズや「イデオン」、「ダンバイン」、「ボトムズ」、「マスロス」などの80年代リアルロボットものばかり見るようになってしまい、同世代との趣向はますます剥離してゆき「ゆとり世代」にして「懐古厨」となったのだ。


富野監督はこうした絵柄に対してこう論評している。

「いわゆる萌えアニメのキャラの目が大きいのは、視聴層のオタクが、他人からの目線に飢えているため 」。

なるほど、テレビでアイドルが執拗にカメラ目線で媚を売るのと似ている。


リアル系SFではダメでも、萌えアニメであれば絵柄の問題は問わなかったが、

80年代のロボアニメを見慣れた身には萌えアニメの視聴自体にかなりの苦痛を伴った。

今の作品と昔の作品の大きな違いはキャラクターを見せるかストーリーを見せるかだろう。

キャラクターもストーリーも作品の重要な要素だが、「けいおん!」や「らき☆すた」などはまさにキャラクター性だけで話を作っていた。

ガンダムでもアムロは機械オタクで指のつめを噛む癖があったり…というキャラクター性を持っているが、物語の展開によってその成長が描かれている。

しかし、「けいおん!」や「らき☆すた」は成長が描かれていない。永遠に同じような日常が描かれているだけで発展がない。(日常系、空気系)

自分の好きだったアニメと比べ、圧倒的に「中身が無い」と感じて、観る気がおきなかったのである。


今思えば個人的な視聴スタイルの影響もあると思う。

80年代のアニメは全てレンタルビデオなどで短期に集中して見ており、

そもそもテレビでアニメを見なかった。

つまり、比較的時間に余裕のあった学生時代に「映画一本観る」感覚で4クールアニメを見ていたので「週一の酒のつまみ」で1クールアニメを見るといったスタイルにはなり得なかったのである。

しかし、そんな個人的事情はそっちのけで、萌えは2000年代において過大に盛り上がりアニメ業界全体を覆った。

先述の平井久司の例を見てもわかる通り、萌えが中心ではないストーリー重視の作品にも当然の如く「萌え演出」が目に付くのである。


「電車男」(2005年)以来マスコミやメディアが作り上げた萌え文化に対してそもそも否定的だった。

萌えの一つの原点とも言われる「うる星やつら」のファンでもあり、

多くの人がラムちゃんに恋焦がれたように、キャラクターに対して「萌え」に近い感情を抱いた事がない訳ではない。

しかし、そうした感情を製作者も視聴者も明確な意図を持って作品を作り、楽しむ程、社会に受け入れられ「文化化」しているのが最大の問題だった。

この作品世界にのめりこむために、その世界にいるのは自分だけと思いたい。

しかし、「私萌えるでしょ?」と言わんばかりのあざとい演出によって自分の背後に同じように画面を見つめるオタクという集団の存在を意識してしまうのである。これでは作品に没頭できない。


もちろん、この萌え文化を共有して楽しむファンダムの中ではいいかもしれないが、それは果たして本当にアニメのためなのか?

製作者もオタクを萌え漬けにしておけば、お金が入るだろうという魂胆で乱雑に萌えアニメを量産してきたのではないか?

そして、いい大人が作られた「萌え文化」に簡単に騙されているのではないか?と考えるようになった。

こうした萌え絵や萌え文化に対する嫌悪感を「萌えフォビア」という。


80年代のリアルロボットブームが89年を境に廃れたように

2000年以降のアキバ系オタク文化もいずれ廃れて、硬派な作品も生まれるだろうとただ我慢を続けていたが、

2010年を迎え、減るどころかますます下ネタばっかりの萌えアニメが増えたことに失望した私は「オタク受けを狙ったパンツアニメばっか」とアニメ業界の現状をこき下ろしたのであった。

翌年の震災がこの状況に変化を与えることをこの時点では知る由もなかった。

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