log.12 避難


 朝から日本国内は大騒ぎとなった。テレビや新聞はこぞって朝鮮半島での有事を報道し、ちょうど情報が行き届いたのが6時からの朝方だったために各メディアは出勤・通学する者たちの関心を一身に集めた。

 全てのチャンネルが官房長官の記者会見の模様で埋め尽くされ、「日本政府は現在朝鮮半島で推移している事態に対し冷静に対応する」と日本政府の方針が国民に伝えられた。

 記者からの「韓国にいる日本人は無事なのか」などの質問に対しては「韓国政府と情報を共有し、その対応に当たる準備ができている。現地大使館などと連絡を取り、在韓邦人の安全を確認中である」と答えた。

 「韓国にいる日本人をどうやって避難させるつもりですか!」

 「自衛隊が韓国に行くという話は本当ですか!」

 「日本も攻撃される可能性があるんじゃないですか!」

 矢継ぎ早に降りかかる質問に、山口官房長官はあくまで冷静に、粛々と答えるしかなかった。

 「国民の皆様は必ず政府がお守り致します。ですので、どうか国民の皆様も冷静に行動して頂ければと思います」

 記者会見の予定時間を大幅に過ぎても、絶え間なく降りかかる質問の嵐は一向に止まなかった。



 

 半世紀の時を経て再現されてしまった北朝鮮の南侵を受け、日本国民の誰もが関心を抱いたのは何よりも韓国内にいる日本人の安否であった。

 国の関係各所には問い合わせの電話が殺到し、国会前にもマスコミだけではなく同胞や家族などの安否を求める大勢の人々で溢れかえった。

 既にこの時点で、テレビのニュースよりも先にインターネットでのSNSを通じ、韓国の惨状が多くの国民の目に留まっていた。空港に殺到するパニック状態の民衆、砲撃によって破壊された民家の瓦礫、犠牲になった民間人の無残な遺体まで写真がアップされている状況だった。

 このように韓国内は、日本人が想像する以上に酷い有様だった。

 当然、誰もがこの惨状が広がる韓国に残っている日本人を助けるために、自衛隊などが動くものと考えていた。

 しかし――


 「自衛隊が出せないというのは、どういう事だ!?」

 その声が響き渡ったのは、官邸地下に設けられた緊急対策室の中だった。現実化した朝鮮半島有事に対し、政府が設置した緊急対策室には、南雲首相を始めとする政府閣僚たちが集まっていた。

 たった今聞いた報告が信じられない南雲は、目の前できつく口元を結んで佇む東郷に迫った。

 「自衛隊はいつでも日本人救出に行けるように、準備を整えていたのではなかったのか?」

 「確かに統合部隊による現地派遣部隊の準備は整えておりました。ですが、現状に至った結果、我が自衛隊が韓国に向かう事は事実上不可能になりました」

 余りにも簡単に言ってくれた東郷の言葉に、南雲は苛立ちを覚えた。ここでも東郷の悪い癖が出ていると、さすがに平時は許容していた南雲も憤りを覚えざるにはいられなかった。

 「君は言っていたじゃないか。韓国にいる日本人を救出する事に、自衛隊は動けると」

 「はい。ですが、それはあくまで平時の場合でした」

 「どういう事だ……?」

 東郷は躊躇もなく、説明した。

 「根拠に申し上げた自衛隊法第84条の規程では、自衛隊が邦人救出活動を行えるのは『輸送の安全が確保されている状況』と定められています。……つまり、たとえ自衛隊であっても、紛争状態にある危険な地域へ行く事が不可能なんです。開戦した時点で、救出作戦の前提条件は崩れ去っていたのです」

 南雲は言葉が出なかった。東郷の言う通り、現安保法制下では自衛隊が紛争状態にある韓国に向かう事は不可能だった。近年、新たに成立した安保法制に伴い改正された自衛隊法では、自衛隊が海外の日本人を助けに行く事ができるようになったが、現段階ではまだ未完成と言って良かった。何故なら、自衛隊が活動できるのはあくまで「平時」の場合に限るからだった。

 それに、自衛隊法が記しているのは「救出」ではなく、「在外邦人等輸送」と定められているのを、南雲たちは知らなかった。正確にはその差を、南雲たちは理解できていなかった。

 「なので、どうしても開戦になる前に自衛隊を韓国に派遣したかったです。想定よりも早く、事態が動き……」

 「そんな、……そんなのは言い訳にもならない」

 全身から憤りよりも、力が抜けていくようであった。脳内がパチパチと何かが弾けていくようだ。一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなった。

 「要は韓国に残っている日本人を、自衛隊は助けに行けない。そういう事なんだな……?」

 あれだけ躊躇なく口頭で説明していた東郷の顔にも、微かな戸惑いと捉えるべき変化が見られていた。先程まで結ばれていた口元が、更にきつくなっている。ここで初めて、東郷は答えに躊躇しているようだった。

 この時点で、朝鮮半島有事前から練られていた日本人救出作戦が開始する前から暗礁に乗り上げた。




  

 ソウル 日本大使館


 北朝鮮の攻撃開始以降、軍事境界線やDMZを中心に韓国軍と北朝鮮軍の間で激しい戦闘が展開されていた。そして38度線から遠く離れていない首都ソウルも北朝鮮の野戦砲などの砲撃に晒され、既にソウル市内のあちこちで被害が出ていた。

 日本大使館では、開戦前は邦人救出活動における自衛隊の韓国入国を粘り強く交渉していた日本大使が、本国と連絡を取り合っていた。

 「定期便や臨時便の民間航空機だけでは全然足りません。一刻も早く、自衛隊の輸送機や艦船をこちらに派遣してください。ソウルだけでも、一万の日本人が残っているんです!」

 電話の向こうにいる相手の返答を聞き、大使は愕然とした。だが、開戦までに邦人救出が間に合わなかった時点で、この展開は予想できていたとも言えた。

 「大使、日本人学校の校長や教師たちが来ています。早急に国外退去の手続きと、航空会社のチケットを求めています」

 電話を終え、椅子に座り込んで項垂れていた大使は、すぐに顔を上げた。そして答える。

 「日本だけではなく他国の航空会社や外務省にも問い合わせるんだ。とにかく日本人を韓国から脱出させる席を多く確保しなければならない」

 「しかし……」

 職員の懸念は、大使も痛い程理解していた。そう、この状況下では、どの国の航空会社も自国の国民を乗せるだけで精一杯なのはわかっている。

 「とにかく我々が頑張るしかないだろう! 自衛隊が来られないのなら、民間の航空機や船のチケットを買い集めるしかない!」

 大使の指示に、職員は深く頷き返した。これは韓国の同意を得られなかった自分たちの不手際だ。まだ仕事は終わっていない。大使館としては一つでも多くの席を確保する事を努めるしかなかった。

 「お願いします! 通してください!」

 ドアの向こうから、切羽詰まった声が響く。言い合っているような声が大使たちのいる部屋に近づいてきた。

 そしてドアが開き、三人の日本人が現れた。二人は初老の男性と中年男性、そして一人は若い女性だった。職員の制止を振り切り、三人の男女が大使に詰め寄る。日本人学校の校長と教師たちだった。

 「お願いです! 一刻も早く、飛行機のチケットをください!私達だけでは、全員分の席を取れなかったんです!」

 一番前に出てきたのは、若い女性教師だった。その顔には必死さが浮き出ていた。

 彼女の姿には、所々薄汚れた形跡が見られた。普段は生徒たちの前でキチンとした身なりを整えているであろう髪や服には乱れがあり、ここに来るまでに相当苦労した事が伺える。

 「子供たちだけでも、早く避難させてください!」

 彼女たちの懇願を聞き入れたいのは大使も山々だった。だが、現実的に難しい事は確かだった。

 「我々も努力しています。必ず、皆さんを安全に日本へと送り届ける所存です」

 「それなら、早くチケットをください! せめて、子供たちの分だけで良いんです!」

 「……すまないが、まだ君達に渡せる分は確保できていない」

 「そんな……」

 女性の愕然とした顔が、大使には堪えた。ふらりと後ろによろけた彼女を、別の教師が慌てて支える。今度は校長が前に出た。

 「自衛隊は。自衛隊はどうしたんです」

 「残念ながら、現時点で自衛隊機などが来る事はできません。たとえ出来たとしても、現法下ではすぐに来る事は……」

 「空港には避難する人々で溢れています。私達もここに来る途中、多くの人が空港へ向かう光景を見ました。中にはチケットも取れていないのに、とにかく空港へ向かおうとする日本人もいました。私達もチケットを買えていない。明らかに民間の航空会社だけでは足りていないのはみんながわかっています」

 「このままでは、日本人が戦火に巻き込まれる事になります……」

 他の教師に支えられた女性が、力なくそう言った。それはここにいる誰もが理解している事だった。

 「どうして……」

 ゆっくりと体勢を立て直しながら、彼女は思いの丈を叫ぶ。

 「どうして、日本が日本人を助けられないんですか!」

 彼女の目には、大粒の涙が零れ落ちていた。噛み潰すような嗚咽が、部屋中に浸透する。校長がふと、大使に促した。

 「大使、外を見てください……」

 校長が窓のそばへ向かい、閉め切っていたカーテンを開けた。眩しい昼の明かりが差し込む。空は曇天だ。砲撃に晒されたビルなどから黒煙が昇る。だが、彼らの視線は下へと向けられるべきで、実際にそこへ向けられた。

 窓へ近づくと、木霊するような声も聞こえてくる。窓から大使館の門前を見下ろしてみると、そこには大勢の人々が群がり、閉鎖された大使館に詰め寄っていた。

 全て、日本人だった。「助けて」という文字を書いたプラカードを掲げている者もいた。

 大使館前には開戦直後から大勢の日本人が殺到していた。だが、大使館側は訪れる全ての日本人を入れはしなかった。何故なら北朝鮮のゲリラが紛れ込んでいる可能性があったからだ。それでも館内に入りたい者には、パスポートを提示させる処置を取っていた。

 「これだけ多くの人が助けを求めています。それなのに、日本がこの人たちを助ける事もできないのは余りにも酷ではありませんか」

 「……せめて、大使館に避難させる事はできないんですか」

 目の前で困っている人間を、一人でも多く助けたいと思うのは正義を無意識に愛する人の自然の摂理だ。彼女も全く同様であり、大使もそうだ。だが、人は同時に何かに常に縛られた存在でもある。

 「それがここのルールです。申し訳ないが、ご理解頂きたい……」

 彼女はもはや、何を言っても無駄だと諭したのか。焦燥した顔を残すだけで、それ以上口を開く事はなかった。

 



 開戦から十二時間が経過した頃、日本政府は尚も韓国にいる日本人を救出する目途が立っていなかった。

 開戦前に計画していた救出作戦が頓挫し、自衛隊が紛争地帯にある韓国に向かう事が出来ない事が判明し、マスコミや野党も政府の対応を批難し始めていた。

 それでも政府は、日本人救出を諦めていなかった。

 「総理、韓国内の日本人の避難に関してご報告があります」

 内閣危機管理監が、官邸対策室に入り浸る南雲に声を掛けた。憔悴し切った南雲は誰が見ても話しづらい雰囲気を纏っていたが、この有事に構う要素には至らない。

 「米国が韓国に派遣される米艦に、米国民の避難民と一緒に日本人も同乗してくれる事を約束してくれました。米大使のもとに行ってくれた外務大臣からの報告です」

 「そうか……」

 政府は自衛隊の救出作戦が頓挫するや、あらゆる方面での避難・救出の方法を模索・検討を始めていた。

 「よくやってくれた。米国にも礼を言わないといけないな」

 「民間の航空会社やフェリー会社にも政府の方から要請を掛けました。ですが、それでも未だ数千名の日本人がソウルに残っていると言う大使館からの報告もあります」

 「……古賀危機管理監」

 「はい」

 「かつて、これと似たような状況で日本人が戦火の只中に置き去りになりかけた事があったのを知っているか」

 「……テヘラン脱出、ですか」

 「イラン・イラク戦争の時、テヘランに取り残された日本人は日本政府の救援を待ったが、救援機が飛んでくる事はなかった。結局、取り残された日本人の窮地を救ったのは他国トルコの救援機だった」

 1985年のイラン・イラク戦争で、当時のイラクのフセイン政権がイラン上空を飛行する飛行機は軍民問わず撃墜する声明を出した事で、テヘランに取り残された日本人は窮地に立たされた。

 憲法上の理由から自衛隊機は派遣できず、危険な地域に民間の航空会社も救援機を飛ばせなかった。

 結局、テヘランの日本人を救ったのはトルコ政府と救援の要請に応じたトルコ航空の救援機だった。

 「今回も、日本は、日本人を見捨てようとしている。民間や他国に国民を代わりに助けてもらう。日本はあの頃から何も変わっちゃいない」

 「………………」

 重い沈黙。内閣危機管理監が手渡した政府からの要請に応じた航空会社などのリストが目に通される。その中で、南雲の目がある所に止まった。

 「……この会社は」

 南雲が見詰めている社名を、内閣危機管理監が覗き込む。

 「それは、防衛大臣が手配した会社ですね」

 「東郷防衛大臣が……?」

 「はい。防衛省が要請したフェリー会社です。二隻が仁川に向かう予定で……」

 南雲は朝見た東郷の固い表情を思い出した。自衛隊の派遣が出来ないと告げた東郷とは、あれから一言も交わしていなかった。東郷は防衛省に戻り、官邸には姿を見せていない。

 「確か、この会社の船員は……」

 南雲の眼前。その社名に、日本政府は一縷の望みをかける事になる。


 ――ノアズアークジャパン株式会社。


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