log.10 暗雲
韓国 ソウル
この日、韓国の首都に当たるソウル市内の一画において、市民たちがその幕の内に隠れた新たな住人の登場を心待ちにしていた。
普段は市民の憩いの場として親しまれている公園には、市民だけではなくテレビカメラなどを据えたマスコミも大勢集い、まるでお祭りのような騒ぎであった。
普段とは異なる賑わいを見せる公園の中心部で、壇上に立った女性がマイクを片手に、幕を被った“彼女”に注目を集めさせた。
「では、遂にお披露目です。どうぞ!」
女性の合図に従うように、白い幕が剥がされて、椅子に座った少女が市民たちの前に晒される。
カメラのフラッシュが一斉に瞬き、彼女を白く染め上げた。
フラッシュが眩しいと言っているかのように、彼女の目は細く伸びている。
だが、眩しいから目を細めているわけではない。
これが、彼女の常であった。
誰も座っていない椅子の隣に、一人腰を下ろした少女。
堂々と背を伸ばし、ピシリと姿勢を正した少女の姿は一風、毅然とした様相を思わせるが、その両足は裸足で、まるで何処かをさ迷っているかのような印象を浮かばせる。
細く刻まれた目鼻立ちは、現代の整った顔立ちが多い今のこの国の女性らと比べると、同じ民族とは思えない程に凛々しく光っている。
市民たちの注目、そして感動や情熱を一身に集めたそれは、只の銅像。だが、単なる銅像でもない。
彼らが生み出した、愛の結晶そのものなのである。
「彼女を守れ! 彼女を守れ!」
「辛い歴史を忘れるな!」
「合意反対! 政府は不平等に結ばれた合意を破棄せよ!」
銅像が現れるや、市民たちは拍手を捧げながら、シュプレヒコールを上げた。
そして周囲が一旦落ち着いた後、少女が佇む壇上に一人の男が昇った。
男が現れると、市民からは拍手が上がった。
「このソウル市内にまた新たに平和の少女像が建てられた事は、市民皆様の応援の賜物であり、そして平和に対する願い、その強い想いがあってこその結果であると感じます。この少女像がハルモニの傷みを少しでも和らげる存在に、そして現代を生きる我々を平和な時代へと導く存在になる事を切に願います」
祝辞を述べた男――市長に対し、市民からは歓声と拍手が盛大に上がった。
市民の歓声とカメラのフラッシュを浴びながら、市長は手を振り返し、満面の笑みで壇上から下りた。
ここに、十五体目の“少女”が建立された――
韓国国内でこのような動きが生じたのは、2011年に韓国の市民団体が在韓日本大使館前に無許可で設置したのが事の発端だった。
それは過去の歴史に存在したとされる朝鮮人慰安婦を模した銅像で、特に十代の少女がモデルとなっていた。
日本政府はかねてより大使館前の像撤去を要求し、2015年には日韓両政府の間で慰安婦像の根本となった問題の最終的かつ不可逆的解決を確認し、韓国政府にしては日本政府が撤去を要求する像に関して適切な解決に向けて努力される事とされたが、ソウル市議会が像の撤去阻止を目的とする条例を制定するなど、韓国国民の反発もあり、むしろ問題解決は程遠いものとなっている。
最初は不法に設置された像の扱いに頭を悩ませていた市長も、市民の反発を受けるや一転、像の保護に前向きな姿勢を見せるようになり、こうして新たに増えていく像の除幕式には嬉々と姿を見せるようになっていた。
「お疲れ様です、市長」
「いやあ、あそこまで歓迎されるとは思ってもみなかったよ。勇気を出して足を運んでみた甲斐があったというものだ」
除幕式を終え、帰りの車に乗った市長は安堵するかのような表情でそう言った。
実を言うと、彼は除幕式に参加するのは初めてであった。
今までは書面で祝辞を寄せていたが、自身が直接出向く事はなかった。
何せ、政治的に複雑な問題が絡んでいるのだから、仮にも一政治家である彼も下手に踏み切る事はできなかったのだ。
対日政策に関しては一切の配慮も許さない国民性でも、政治に関わる立場からすればそういうわけにもいかない。
しかし、こうなるのも時間の問題だった。
増え続ける銅像。政府は黙って見て見ぬフリを続け、選挙が近付く昨今――自身の政治生命を更に長引かせ、そして発展させるために、彼は遂に踏み切ってしまったのだ。
余りに政府が関与せず、日本の抗議も大したものではないと考えるようになってしまい、麻痺した感覚に己の欲が気付かぬ内に染まってしまった。
「市長の支持率もこれ以降鰻登りなのは確実でしょう」
「これで、次の選挙も勝ったようなものだ。我ながら英断だと思うよ」
「しかし、日本からの強い抗議は避けられませんね」
「大した事はない。それは国が対応すべき問題だ。我々、一自治体には関係のない事だよ」
そう言って、市長は心が躍った。そう、何も悩む必要はない。これで正解なのだ。
自然と、市長の口許には笑みが零れていた。
このような行動が如何なる結果を生み出すのか思いも知らず――
日本海
大和灘
一番早い所では既に桜が咲き始めた3月末――未だ冷たい風と海水温度の日本海、そのど真ん中に聳え立つ海底山脈『大和灘』は、夏はイカの好漁場として日本の漁業産業に潤いを齎す。
だが同時に、この辺りは日本の広大な
漁期は六月から七月なので、まだ冬の風が吹き渡る大和灘に漁船の姿はない。だが、この海域を定期的に巡回する海上保安庁の巡視船が、三隻の見慣れない船を発見した。
「左舷三十五度、三隻の船舶を発見。漁船と思われる」
巡視船が発見したのはいずれも船籍不明の三隻の漁船だった。だが、見慣れずともその船を、海上保安官たちは見た事があった。昨年の夏に、この大和灘で違法操業を繰り返していた北朝鮮の木造漁船とほとんど同じだった。
しかし三隻共に網などを投げていたり、漁をしている様子はない。
当然だ。漁のシーズンは夏だ。だから地元の漁師もまだここまで船を出していないし、昨年問題になった北朝鮮の漁船も来ていない。その筈だった。
不審に思った巡視船側は、該船三隻に接近。停船を呼びかけようとした所、三隻の異常に気付いた。
「あいつら……なんか揉めてるぞ」
三隻共に木造船であったが、船上で船員が別の船の船員になにか喚いている。近付きながら、巡視船がその動向を見守っていると、一隻がとんでもない行動を起こした。
「――! 一隻、武器を持っている!」
一隻、船上でライフルのような物を持った船員を確認した巡視船側は、直ぐに介入すべき事態であると判断。だが、三隻の間では既に最悪の事態が起こってしまった。
タタン、タタン。
船橋にまでハッキリと聞こえた発砲音。保安官たちの目には、しっかりと火を噴く銃口が見えていた。
「該船より発砲音!」
「被害は――」
緊張が走る巡視船内。
だが、彼らが撃っているのは他の二隻の漁船だった。
ライフルを持った船員が、近くにいた他の二隻に向かって発砲を繰り返していた。撃たれている二隻は、ただ逃げ惑う事しかできない。一人、二人と、撃たれた船員が海に落ちていく。
「三隻の間に割って入るように突っ込め!」
巡視船はフルスピードで、銃撃戦をおっぱじめた三隻の漁船の中へと船首を突っ込ませた。巡視船側も銃撃を受ける危険性の高い行動だったが、船長が即断し、巡視船の船体を割り込ませた。
そして、当然――
「ブリッジの右舷船窓、破損!」
「本船、右舷より銃撃を受けている!」
割って入った巡視船が銃撃を受け、船橋にいた保安官たちは身を伏せた。防弾チョッキを着用する暇もなかったので、保安官たちは撃たれれば命の危険もあった。
だが、この身を挺した巡視船の行動が、二隻の漁船を救った。発砲した漁船側は現れた日本国海上保安庁の文字が書かれた船体を前に背を向け、一目散に領海外へと逃走していった。
銃撃を受けた巡視船は追走はせず、二隻の漁船と海に落ちた船員の救助に当たった。撃たれた船員二名を救助したが、一名が救出後に死亡した。
救助、拿捕した漁船二隻は海上保安庁によって石川県沿岸にまで曳航され、負傷者を含めた船員の身柄を確保、事情聴取を行った。
そしてその際に得た情報は日本にとって驚くべきものだった。
日本 東京
首相官邸
海上保安庁よりもたらされた情報は、南雲を驚愕させるのに十分なものだった。
「……この情報は、確かなんだな?」
「はい。総理」
昼方に船籍不明の漁船二隻――後に、北朝鮮船籍と判明――を拿捕した海上保安庁が聴取した船員の証言などから得た情報が、山口官房長官から南雲首相に届けられた。
南雲は書面から目を離し、そのこめかみを押さえた。
「……二隻は北朝鮮籍の漁船という事になってはおりますが、その正体は漁船を装った工作船である事が、船員の証言から判明しました。船員は元は軍人で、任務のために我が国のEEZ内に侵入したそうです」
「その任務、とは……」
「本来は三隻の工作船によって、日本沿岸に接近し情報の収集、工作員との接触などが主な任務だったそうです。ですが、彼らは土壇場になって……」
祖国を裏切った。
山口の口から漏れ出たその言葉に、南雲は現実離れしたような違和感を覚えた。
「発砲した方は三隻のリーダー船だったようで、逃走を企てた二隻を処分しようとしたようですね。そちらは領海外に逃走しました」
「しかしそのタイミングで海保が発見したのは、正に奇遇としか思えないな。よく見つけてくれたものだ。もし、彼らがそのまま海の藻屑に消えていたら……そのような許し難い事が我が国の海で起こっていた事実すら、知る事はなかっただろう」
「………………」
三隻を発見し、そして即座に介入を決断した巡視船の船長の判断は英断だったと言えた。確かに乗組員の命の危険はあったが、彼らの勇気ある行動が日本に宝船をもたらした。
いや、それは果たして宝船と言えるのだろうか?
もしかしたら、それはこの先の不幸を報せる――
「総理」
「……あ、ああ。すまない。何だね」
「身柄を確保した北朝鮮船員側が、我が国を通じて韓国への亡命を申請しております」
「そうか。では通常通りに、韓国の大使館に連絡を取ってくれ。日本政府は彼らの亡命を人道的見地から全面的にバックアップしよう」
「わかりました」
「だが……」
南雲は一抹の懸念を抱いた。
「この時期に北朝鮮の工作船が三隻も日本海で行動していたのは前代未聞だ。それに、北朝鮮の工作員が任務の直前に亡命を企てるなど、気になる点が多すぎる。これは慎重に事を見極めなければな……」
あの半島で、何かが起こっている。
いや、起きようとしている。
南雲は肌身でそう感じていた。
だが、それに気付いていたのは海を越えた先の国々だけであったのは、南雲でさえ知らない。
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