log.5 選択
東京から飛行機で博多空港に降り、三國は地元に戻る途中の街で書店に寄った。漫画雑誌を買う以外の目的で書店を訪れたのは久方ぶりだったが、参考書を買うのはもっとご無沙汰だった。
予備自衛官になるのにも試験を受けてもらうと聞いた三國は、さっそく試験勉強に取り掛かろうとした。
試験に備えてある程度の休暇をもらったので、三國はその間に学生以来となる勉強に打ち込もうと決めたのだ。
防衛省の人から聞いた話では、高校入試程度の難易度らしいが、学生の頃の勉強から既に二十年は経過しているので当然不安はあった。
三國は「公務員試験」の棚に並んでいた自衛官向けの問題集を眺め、若干息苦しさを感じた。こんなに多い数の分厚い過去問を見たのは学生の頃以来だし、なんと言っても自衛官と一口に言っても様々な種類があった。
その中から自分が受ける「予備自衛官」「予備自衛官補」というキーワードを探してみたが、見つからなかった。
「とりあえず……まぁ」
仕方ないので、あれこれと手に取ってみる。
やがて三國の両手には、分厚い本が何冊もズッシリと山を作っていた。
船員はたいてい買い物が豪快なのが特徴だが、三國もまた例に違わず、しかもこんな場面においてもその特徴は現れていた。
この後、レジで店員や後ろの客に怪訝な目で見られながら購入したのは言うまでもない。
さすがに重い。肩が抜け落ちてしまいそうだ。三國は両手に本を抱えたまま、我が家に辿り着いた。
玄関の前に着くと一旦本を置き、肩をぐるぐると回す。インターホンに手を伸ばしかけた時、後ろから女性の声がした。
「あ、おかえり」
三國が振り返ると、肩からさげた膨らんだエコバックから、ネギなどの野菜が見えている正に買い物帰りスタイルの女性が立っていた。三國は「おう」と返事をしつつ、肩を回すのを止めなかった。
「なにしとんの?」
「うーん、いや。丁度良いや、ドア開けて」
「なん買ってきたん」
「過去問」
「は? なんの?」
「予備自衛官の」
「??」
疑問符を顔一杯に表す彼女に、「良いからドア開けて」と急かし、玄関の扉を開けさせる。
ヨイショ、と下に置いていた本の山を再び抱え、開いた扉に手を掛けたままの彼女の方へと向かった。
玄関に本を置く三國の背中に、問いかける声。
「あんた、自衛隊に入るん?」
「いや、うーんと……詳しい話は後でするよ」
「あんた、その歳で自衛隊って色々どうなん? 給料もグンと下がるやん」
「だから……話すって」
旦那が自衛官になろうとしてると思い込むや早急に家計の心配をする我が嫁に少し頼もしさを覚えながら、後に合流しようと無言の取り決めを行い、三國は最後まで肩を圧迫する過去問の山を居間に、彼女は買い物袋を台所にそれぞれ向かった。
「で、これなに?」
目の前にズッシリと積まれた過去問の山を指差し、彼女は改めて問うた。
「実は帰る前に、会社の方に行ってきたんだ」
「会社って、派遣先の方やろ? もうあんた、そこの社員みたいなもんやね」
「まぁその点はこの際どうでも良いんだよ。 で、どうして会社に顔を出したかと言うとだな……」
三國は予備自衛官の話を持ち掛けられた事を話し始めた。目の前で彼女は、三國の話を黙って聞いていた。
「……というわけで。俺、予備自衛官になるつもりなんだ」
「………………」
最後まで口を挟まず、三國の話に沈黙を以て迎えていた彼女の口が、ようやくゆっくりと動き出した――
「ふーん」
その口から出たものが、それだけだった。
「……あれ? 他に反応はないのか」
「なにが? 話聞く限りだと、別に、船員を辞めるってわけじゃないんやろ?」
「まぁそうなんだが」
三國も説明を受けたが、予備自衛官とは普段は普通の仕事に就き、有事の時だけ自衛官として招集されるものだ。彼女もその点をよく理解しているようで、特段気にしている様子もなかった。
「なら別にあたしがとやかく言う事はないよ。 それとも、なに? 反対されるとでも思ったん?」
そんな事を聞かれて、三國はふと考えた。いや、そうとも思わなかったな。この十余年、彼女――
「いや、わかっていた事ではあったけど……なんか拍子抜けかな」
「なにそれ? もしかして、自衛官になるって聞いた妻が『旦那が戦争に行っちゃう』とか勘違いして心配すると思ったん? あたしをそこらへんにいるか弱い奥さんと一緒にせんといてよ」
そう言って、カラカラと笑う姿を見ていると、逆に頼もしさすら覚えてしまう。
こういう強かな女だからこそ、家を任せられる。
「あんたの仕事、最初はよーわからんかったけど、今はそういう仕事やって知っとるし。予備自衛官?って、なっても、今更それほど変わらんやろ」
その時、三國はまるで鏡を見ているような錯覚を覚えていた。
自分が何の躊躇いもなく、予備自衛官に志願すると公言した時、社長と防衛省の人の反応がようやく理解できたような気がした。
「俺は理解ある妻を持てて幸せだ」
「ほんま、感謝しとき? こんな良い奥さん、滅多におらんで」
自分で言うな、とツッコミを入れ、聞いていて心地よい嫁の笑い声がまた響く。
響子はいつだって、こんな女だった。
「しかしあんたもよう自衛官になろうって思ったなぁ」
台所から包丁を叩く音を奏でながら、彼女の声が参考書を睨んでいた三國の耳に届いた。
「あんた、本当は自衛隊に入りたかったん?」
問いかける響子の言葉に、三國は「いや」と否定する。正直、興味はあっても自分がなろうと思った事は今まで特になかった。学生時代、海上自衛隊を進路に選んだ同期もいたが、自分自身が自衛隊に関わる事など考えもしなかった。
「予備自衛官になるって言っても、マジもんの自衛隊員になるってわけでもないから普段と大して変わらないよ。通常はこれまで通りの仕事に就くわけだし。何かあった時、民間の船員として安全な所に居るか、予備自衛官の船員として一緒に戦えるか……それだけの違いだよ」
「それ、大分違うと思うけどなぁ」
「何だよ、やっぱり反対か?」
「そういうわけじゃないって。ただなぁ、ちょっと気になっただけやって。一応聞くけど、やっぱりそのー……その”何かがあった”時って、その予備自衛官なんちゃらとして、危ない所に行くんか?」
夫を気遣い反対はしないと言う、もしくは素直な気持ちから夫の意思を尊重して反対しないとその口は言っても、やはり妻として少しは心配しているようだった。
三國もわかっている事だが、夫の仕事を理解している彼女が、普段から夫の事を全く心配していないというわけではないのだ。
「その”何か”に依るとは思うけど、予備自衛官はあくまで後方支援が主任務だから、本職の自衛官みたいに最前線に往く事はないよ。予備自衛官は、サポート的な? そういう役割だよ」
夕飯の支度を一段落させた響子が、洗った手をエプロンで拭いながらこちらに来るのを見計らって、防衛省の人から貰った予備自衛官のパンフレットを取り出す。
パンフレットの表紙には「有事の際、国を支える力になる! 予備自衛官制度」という漫画風の絵が一緒に載った謳い文句が印刷されていた。
その中身をパラパラとメージを捲りながら読んでいた響子が声を上げた。
「ふーん、予備自衛官って色々な職種があるんやなぁ。あ、看護師もおる」
響子は元看護師だ。初めて聞いた予備自衛官という制度に、その目には興味の色が伺える。
「自衛隊に入った事のない俺達民間人が入れるのが、その「技能コース」なんだってさ。特定の技能や資格があれば、予備自衛官になれる。俺の場合はそこに新しく導入された「海技資格」だな」
「じゃああたしもなろうと思えば、その予備自衛官になれるんやね。女性も普通におるみたいやし」
「タダで入れてもらえるわけじゃないぞ? 試験に受かればの話だ」
「あたしを馬鹿にしてる? これでも、年々難易度が上がると言われている看護師の国家試験を一発でパスした女やで」
「それを言うなら俺だって、学生の頃に一級海技士まで取った男よ」
「なに張り合ってんの……」
「まぁ、ともかく。民間人も予備自衛官を受けようと思えば受けられる、そんなもんだ。受けようが受けまいが自由なんだ。俺は受ける方を選択した。それに、これも俺が選んだ仕事なんだ。行けと言われたら、どんな所にも行ってやる覚悟さ」
「なにカッコいい事言おうとしてんの? そんなの、普段と変わらんやろ」
そう。響子の言う通りだった。
だからこそ、自分はこれを選んだ。
そこに他人の付け入る隙はない。これは自分自身が考えて決めた事だ。
誰も邪魔できない。これが自分の自由意志なのだから。
「ところで、気になる事があるんやけど」
「うん?」
「お給料ってもらえるん?」
主婦としてそこはやはり気になるようで、話題は打って変わって現実的な方向へと移っていった。
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