log.2 転船

 

 三國誠也みくにせいやはもともと、この船の乗組員ではなかった。


 現在、『かしはら丸』の船長として乗船している彼は、もとは瀬戸内海を走るRORO船の航海士だった。東京に本社と大阪に一つの営業所を置く帝国海運株式会社の船員で、卒業してから二十年来この会社に勤めていた。

 まだ三十代だが、十年経たずして一等航海士を拝命され、以来十年以上様々な航路を経験し、年齢に見合わない経験と才能を兼ね揃えた若手のエースだった。





 ――1年前 瀬戸内海


 大小様々な島が点在する瀬戸内海の胎内を航行するRORO船のブリッジにて当直に立つのは、既にこの航路を数え切れない程に往復している三國誠也・一等航海士チーフオフィサーだった。彼の眼前には船首の先に広がる瀬戸内の海と、船を囲う島々が見えていた。


 RORO船とは――トレーラーなどの車両、シャーシ、コンテナなどと言った貨物を運ぶ船舶の一種である。

 島国として海上輸送が大半を占める日本において、フェリーと並び、日本国内で海上輸送される貨物のほとんどを運んでいる貨物船でもある。

 軍用の部門では冷戦時代、米軍が対ソ戦を想定し迅速に戦車等を輸送するため、RO-RO形式の輸送艦を建造、現在も多数保有しているが、岸壁とトレーラーヘッドさえあればどんな港でも荷役が可能な点が軍民問わずRORO船の利便性を認めている。


 若い船員でありながらもこの航路みちを進むのはベテランに成長しつつある証だが、彼がチョッサーとして難しい瀬戸内の航海を任されるのは、彼の積み重ねた経験だけではない。彼には一つの才能と呼ぶにふさわしいものがあった。

 少し先の未来が見える――つまり、先見の明があった。肉眼で視認した他船の行動の先を予見したり、天候を読むのも得意だった。

 最初はただ勘の良いだけ――もしくは、あまり目立った成果が出たわけでもないので他の船員に気付かれにくかったため、彼の才は裏方で彼自身を支える以上の事には至らなかった。

 その才能が明確化したのは、ある出来事が原因だった。

 それは瀬戸内の最大の難所・来島海峡を通過していた時。航路を通過していた別の船が目の前で座礁した。その少し前に、彼は他の船員に、座礁した船の危険性を指摘していた。その時はまだその船は海図上においても安全な航路上にいて、座礁する可能性はあまり考えられなかったのだが、彼の予感は見事に的中したのだ。

 もちろんそれだけではなかった。二度目、三度目とあった。荷役に使っていた設備が不具合を起こし、三國が直前に危険を報せた事で、傍にいた作業員が助かった事があった。もし三國が気付かなかったら、最悪の事態になっていたのかもしれない出来事だった。

 だがしかし、彼の人間性を鑑みれば先見の明が無くとも今と同じくらいの地位に上り詰めていただろう。彼は真面目で、優秀な船員だった。

 それに――

 実際にこの先見の明が無くとも、大した変化はないと思う。

 確かに大きな出来事が何度かあったが、それらは別に先見の明など関係なく、船員側がもっと注意しておけば解決できる問題ばかりだった。三國の場合はただ、それらを先見の明とやらで乗り越えているだけに過ぎず、要は過程が違うだけだと三國自身は考えていた。

 安全に航海する事は船員の使命である。

 例えば、この瀬戸内の航路も、周りは島だらけで航路も狭い。しかし船舶の交通量、漁船などの小型船も多い。船員としてのスキルが高められる難所だらけであり、船員としての使命と心をより強く意識しなければならない航路である。

 「三國サン」

 同じ当直に入っていた甲板員の中島が、コーヒーを差し出してきた。

 三國より一回りも年上だが、入社して五年、未経験から船に乗り、最近はようやく海技免状を取得できる分まで履歴が溜まってきた。

 三國にとっても頼りになる人生の先輩だった。元サラリーマンとして、三國の知らない陸勤の話を聞かせてくれる。

 「ありがとうございます」

 三國は手渡された温かいコーヒーを受け取り、それを口に付けた。

 インスタントなのに、何故かこの人の淹れるコーヒーはいつも美味しい。

 それを本人に話したら、中島曰く、サラリーマンの新人時代からコーヒーを淹れ続けた成果かもしれないと言った。そこは陸も海も同じようだ、と二人して笑った。

 「あ~、中島さんのコーヒーはマジ美味っす」

 「そう言ってもらえると、淹れ甲斐があるねぇ」

 「やっぱり船員にはカフェインは欠かせませんよ。海で居眠り運転なんて洒落になりませんからね」

 「想像しただけでも恐いですね」

 実際に船員がうたた寝や居眠りをして船が衝突や座礁などの事故は前例がある。それらは大抵、会社側の無茶な労働環境などが原因なので、そんな事故を起こせば当然海上保安庁から捜査の手が入れられるが。

 「そうそう、三國サン。そろそろ休暇じゃないんですか?」

 「そうなんすよー。 正確にはもう三ヵ月は越えてるんで、いつ連絡が来てもおかしくないんですが」

 日本国内を走る内航船の船員は一般的に三ヶ月乗船、一ヶ月休暇がデフォである。そして三國が所属する帝国海運も同じだった。

 「博多で降ろしたら、そのまま下船なのが理想なんですけどね」

 「三國サン、出身は九州ですものね」

 「はい、唐津です」

 家に帰って、前の休暇で購入した二代目バイクを整備したくて今からでもウズウズしてしまう。いつかはその愛車で北海道を周るのも夢だった。

 「そう言えば中島さんも、海技士の試験受けるんでしょう?」

 「うん、次の休暇にね」

 中島は陸上の会社員から船員に転職した元陸の人間である。船員不足に喘ぐ海運業界、人が欲しくて未経験でも採用する会社が増えている。人の方も、不景気な陸より給料の良い海上職を魅力的に見る者が若干ながらも増えてきた。

 中島のような未経験出身の船員は、三國のように然るべき学校を出、免状を持って就職してきたわけではない。航海士として船の運航に必要な免状を、船の学校を出ていない中島が得るには、会社の船で「乗船履歴」を積むしかない。これは船員の経験のようなもので、一定数これを積まなければ海技士試験を受ける事ができない。

 「頑張ってくださいよ。今年の末に完成する新造船のために、航海士をもっと増やしたいって課長が言ってましたから」

 「もちろん。でも、やっぱり不安はあるな。僕、昔から試験っていうのが苦手でねぇ……」

 「大丈夫ですって、中島さん。すっごく勉強してたじゃないですか、俺知ってますよ。それに、士官になれば給料も上がります。娘さん、もうすぐ高校卒業でしょ?」

 士官と部員――軍隊で表せば、士官と兵卒。

 免状があるとないとで、給料などの差は異なる。

 経験よりも免状が重視される。

 船員とはそういう世界。

 「そうなんだよね。やっぱ金が必要になるから、そういう所は叶えたいよ」

 「なら、やっぱり頑張るしかないですね。ていうか、大丈夫ですよ。中島さんならきっと」

 「うん、ありがとう」

 未経験ながらも慣れない環境から努力し、真摯に取り組んできた中島の姿を三國は長い間見てきたし尊敬の念すら抱いてきた。

 この人なら絶対に受かる。

 三國はそう確信していた。

 合格したら飲みにでも行きましょう。奢りますよ――と、三國が中島を困らせてしまいそうな提案をしようとした時。


 ――トゥルルルル。


 ブリッジに置いてあったファックスから、受信を報せる音が鳴った。

 ブブブと虫の羽音のような音を響かせながら吐き出された紙面には、見慣れた「船員課」の文字が見えた。

 中島がその紙を剥ぎ取り、三國に手渡した。

 「噂をすれば、ですよ」

 その言葉を聞いて、三國はわくわしながら紙を受け取る。

 いつまで経っても、この瞬間は楽しみだ。

 中島の言う通り、紙面には三國の予想通りの休暇を報せる内容が書かれていた。

 だが、よく目を通してみると、どうやらそれだけではなかった。

 「……転船?」

 そう、休暇の下には「転船」を命ずる文が綴られていた。




 「他社の船に、転船ですか?」

 博多港に到着後、荷役中に本社船員課の課長の電話を出た三國は、改めてその内容を問い質した。

 「うん。申し訳ないんだけど休暇の後、その会社の船に乗ってもらいたいんだ」

 普段は船員配乗を担当している事務の女性から連絡が来るものだが、今回は珍しく課長直々の電話であった。

 転船とは陸で言う転勤のようなもので、会社に言われて他の船に移るケースは普通にある。

 そして、”他の会社の船に乗る”というのも、実は珍しい話ではない。

 派遣業以外で、会社によっては、何らかの関係がある別会社の船に、自分の船員を送り込む例は存在する。帝国海運も自社の船員を他社の船に派遣する事は確かにあった。

 だが、三國にとっては初めての事だった。これもまた勉強か、と三國は己を納得させた。

 「どんな船です?」

 「フェリーだよ。ウチに負けないくらい、けっこう大きい船だよ」

 「フェリー?」

 「そう」

 フェリーって、あのフェリーか?

 と、よく太平洋や日本海で北海道まで走っているフェリーを想像する。

 「人が足りないらしくってさ。まだ出来たばかりの会社なんだよ」

 「そうなんですか」

 まぁ、フェリーならRORO船と大して変わらないし、まだ良い方か……。

 三國は他の船員がタンカーなどの船に派遣されたという話を思い出す。それに比べれば、RORO船とタイプが似てるフェリーならやりやすい。

 実際にRORO船は広義のフェリーとも言われているほど、その構造は似てきている。厳密には細かい点で違いがあるが。

 RORO船はあくまで貨物船であり、三國が乗っているRORO船もトラックやシャーシなどを積むが、一般の乗客と乗用車の乗船は行っていない。稀に乗ってくるドライバーのための部屋も備えているが、基本的に十人未満の定員しか想定されていない。また、船員数もフェリーに比べて貨物船であるRORO船の方が少ない。

 「ところで、なんていう会社なんですか?」

 「えーっとね、確か……」

 その不思議な社名に、三國は思わず首を捻った。

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