ノアズアーク
伊東椋
log.1 方舟
その余りの厚さに、まるで錘のような雲が、空を覆っている。空が低い、と感じさせる要因は、一つの切れ間もなく頭上から鉛色の遥か水平線までを覆い尽くしているにも関わらず、雨粒一つ零れていないからだ。
しかし目の前の桟橋を埋め尽くす程の移動する人並みを見詰めていると、いつここに雨ではない別の物が落ちて、散華の字の如く大惨事にならないかと肌からは冷や汗が止まらない。舫で繋いでいる我が船もすぐには離岸できないし、もし巻き込まれればひとたまりもない。
誘導に従い、着の身着のまま乗船する人々の光景は、我々日本人にとって初めて直面する『難民』の姿であった。ニュースなどでよく見聞きはしていたが、自分達には関係のない遠い世界の出来事であった難民が、今正にこのアジアの片隅で広がっている。
これ程、緊張する仕事は船員になって生まれて初めての事だった。予備自衛官への志願の有無にサインをする際、自分には想像できなかった戦場の空気。それがここにある。みすぼらしい恰好をした人々の姿は自分達が逃れてきたはずの戦火の残り香を、現場を見た事がないはずの日本人船員たちの鼻に嗅ぐわせる。特に平和慣れした国の国民には刺激的過ぎる香りだ。
嗚呼、しかし。これも仕事なのだ。どんな仕事もやってみなくちゃわからないし、入社前のイメージが異なるのはよくある話ではないか。
そう、仕事だ。そこに政治も歴史も関係ない。只、そこには責任と義務がある。つまり責務だ。給料を貰っている以上は、それだけの仕事をしなくてはならない。
逆に言えば、給料以上の仕事をする義務もないのだが。
では、これは給料分に見合った仕事か?
考え、口元が緩む。
答えは、明白だった。
20XX年〇月
韓国 仁川港
再び開戦の火蓋が切って落とされたのは五日前の事だった。北朝鮮が突如、南北共同で半世紀に渡って維持を続けてきた軍事境界線を破り、南侵を開始。ミサイルの雨が韓国内に降り注いだ。
半世紀ぶりに着火した戦火は留まる事を知れず、二日目には首都ソウルにまで及んだ。圧倒的近代化の差を有していたはずの韓国軍は不意打ちが効いたのか首都への攻撃を許してしまい、韓国国民だけでなく韓国に居住する全ての人間の生命が危機に瀕した。
誰も望まぬ朝鮮動乱が再開してしまった事態に際し、日本が先ず懸念を抱いたのは他の諸外国同様、自国民の安全だった。韓国居住者、旅行者含め韓国内に存在する全ての日本人が戦火に巻き込まれる可能性は十分にあった。
即座に日本政府は自衛隊による在留邦人の避難を実施しようと動いたが、自衛隊が韓国領内に入る事は例え自国民の救出が目的であっても簡単にはいかなかった。
まず、韓国政府は以前より、歴史的経緯から朝鮮半島への自衛隊の派遣を強く警戒していた。
朝鮮半島有事の際、在韓邦人救出のために日本政府が自衛隊派遣を要請してきた場合の対応に関し「日本と協議して我々が必要性を認めれば入国を認める」と言う考えを示してはいたが、具体的な協議は一切行われないまま現在に至ってしまっていた。
だが、たとえ韓国が自衛隊の派遣を認めても、そもそも日本の法律がまだしっかりと整っていない事が難しさに拍車を掛けていた。
――自衛隊法第84条の3
「防衛大臣は、外務大臣から外国における災害、騒乱その他の緊急事態に際して生命又は身体の保護を要する邦人の輸送の依頼があつた場合において、当該輸送において予想される危険及びこれを避けるための方策について外務大臣と協議し、当該輸送を安全に実施することができると認めるときは、当該邦人の輸送を行うことができる」
この規定を根拠として、自衛隊機又は船舶・艦艇を「在外邦人等の輸送」の手段に利用できるのだが、あくまで現状の自衛隊法が示すのは「救出」ではなく「輸送」である。
その点が最も重要であり、留意すべき部分だ。
あくまでも輸送の安全が確保されている状態でなければ、自衛隊機を輸送機として、あるいは艦艇を使用できないのである。
これらの事情から、日本政府は在韓邦人の救出に大きな苦労を強いられる事となる。
苦肉の策として朝鮮海域に進出する米軍に協力を要請し、米艦に邦人を米国民と一緒に輸送してもらう約束を取り付けた。だが、日本側は米軍艦船を含む在留邦人を乗せた全ての艦船を護衛する艦を除き、「輸送の安全が確保されている」と限る自衛隊法により海上自衛隊の艦艇が派遣できない状態に陥っていた。
米艦は邦人を同乗させる事に同意してくれたが、あくまで在韓米国民の「ついで」である。
全ての邦人を戦火から救い出すためには、やはり日本の船が必要であった。
だが、海自の艦艇は使えない。
そこで――ある会社の船が選ばれた。
邦人を日本本土まで避難させる船。その数があればあるだけ欲しい今こそ、その会社は存在意義を発揮する。
――ノアズアークジャパン株式会社。
難産の末に誕生したこの会社が所有する二隻の船が、日本人に留まらず大勢の人々の希望となる事は、設立当初は誰も予想だにしなかった――
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