3. 徘徊




 マンハッタンの心臓の周りを、二人は徘徊する。


 たどり着く先が確定していないから、いいのだ。黄色いタクシーの洪水や、引っ切りなしに舞い込む世界のニュースと株価の動きを流し続ける電光掲示板や、一面を反射ガラスで武装した高層ビルが身を寄せ合う、プロザックをキメすぎた鬱病患者のような躁ぶりがはびこるこの通りを抜け、ほんの少し暗く、ほんの少し気温が低い場所を、自分たちは求めている。それ以外の条件は、条件ではない。どこにたどり着くかは、十五分後にわかる。それは単なる結果だ。計画性を持つと、自滅する。自分たちの散歩には、そういうルールがあった。


 だが今日は、一歩先を行くシャンペンブロンドの男娼の足取りが、やけに速い。まだ知らないはずの行き先が、実はもう決まっているかのように。美術館の前で昼寝をし、互いに仕事先に連絡を入れ、のびきったスパゲティを夕食に喰い、ヴァージンメガストアの前で三十分余りを無駄に過ごした間に、この男は何を考えついたのか。


 ろくなことではないだろう、とロバートは思う。


 ぎらつくブロードウェイを下り、四十二番の角まで来て、男娼は予告もなく右に折れる。


「おい。アンヘル。どこ行くんだ」


「おまえんち?」


「俺んち? おまえ知らないだろう」


「知らない。教えてくれ。どこに住んでるんだ、ロバート」


 男娼はそのまま、地下鉄の乗り場へと繋がるコンクリートの階段を降りていこうとする。二段下ったところで、ロバートの腕が伸び、ナイロンシャツの袖からはみ出た男娼の右手首を掴む。階段を昇降する人の足早な群れが左右に裂け、その中央に男二人が手を繋いでいる絵ができた。


 擦り切れた色をした、どう見てもサイズが小さすぎるジーンズのポケットに大切そうに隠してあった男娼の右手が、ロバートが引いた勢いに任せて抜け出す。男は骨ばった、白く長い指を持っている。ニコチンが切れた指先が、細かく振動する。


「来い」


「どこへ」


 男娼は素直に階段を二段登ってかえし、ロバートと同じ平面に立つ。目線の高さが、男娼の方が僅かに高い。奴が履いているブーツのせいだろう、とロバートは思う。視線の先で商人が歩道の上に黒いポリ袋を広げ、ネオンを不規則に反射する腕時計を叩き売る。「ロレックスだよ、旦那。特別価格」。


 一目で観光客とわかるウールジャケットをまとった中年男の集団が足を止めたせいで、即座に混雑が生じた。横目で見やったかと思うと、男娼はすぐに徘徊を再開する。ロバートは、そのブーツの踵の音をつける。四十二番を、今度は西に向かう。


「ロバート」


「何だ」


「どうせ金ないんだろう、月末だし」


「だったらタダでやらせろよ」


「ロバートの家行けば部屋代が儲かるし」


「そっちの家はどうなんだ」


「うちは今日、エリィがいるし。休みらしい。どうする、やめる?」


 男娼は、足を止める。


 歩道のど真ん中、バカバカしいほどのスローモーションで、振り返る。


 作り笑顔だ。


 商売繁盛しているわけだ、この男。


 アンヘル・レヴィクの容姿に、これといった特筆すべき点はない。いかにも脱色したという感じの、しかし下品ではないシャンペンブロンドの短髪は、ひと昔前のイギリスのパンクロッカーか何かのように逆立ててある。眉と睫毛は、生まれながらの濃い茶色が残り、やけに大きい黒目だとか、少し左に縒れた高い鼻だとか、下唇が赤すぎる大きな口だとか、顔立ちにはどことなくヨーロッパ臭さが漂うが、この街において、目を惹くようなものではない。


 では何か、と言われれば、それはその猫のような笑みだ。


 アニマルシェルターの檻の向こう、必死に愛想を振りまいて新しい主人に見初めてもらおうとする犬たちを傍目に、媚びず、求めず、だがこちらを見つめて何気なく寝そべったかと思うと、不意に腹を見せて甘い声を出したりする猫。


 自分が罠にはめられていくのが見え見えで、ぞくぞくする。


 ただし。


 この男は、誰とでも、金にならなければセックスをしない。


 セックスをするなら、金を取る。


 ロバートは、この男にだけは、自分の弱みを見せたくないと思っている。


 この男とは、余程のことでもない限り寝ないと決めている。


 頭の中では。


「……てめぇ、写真撮らせろよ。絶対」


 性欲に、勝てたためしはない。


 確か、あと数ブロックも歩いたら、入り口の脇にATMを備えた安い宿屋があった。





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