【Live Log : 受胎告知】
「……鍵が?」
客は既に捌け、スタッフも多くは帰途に着いたであろう時分。マスターがカウンターを拭く背後で、閉めたはずの扉が開く。物理錠はまだ掛けていなかったにせよ、それを補強して余りある強度を誇るはずの電子錠三つが全て外れているようだった。それも、マスターの気が付かないうちに。
アンドロイドの――超SS級電子戦に重用されるほど強固な――
「わたしはどうした……わたし、私……?」
呪詛のように低く重く、けれどもそれを掻き消すほどに困惑と疲憊の色を浮かべた声が転がってくる。すぐ後、よろよろと倒れこむようにして追従してきたのは、
――天使。
そう、姿は。
長い銀の髪、光なく濁った碧眼、青ざめた肌。針金細工かと揶揄されんばかりの痩せ細った体躯、そこにぴたりと密着した紺色のインナー。薄く半透明な布が腰だけを最低限覆う。そして何より目を引くは、頭上に光る三重の光輪と、背から伸びる三対六枚の光翼。
マスターはこの天使が何者かよく知っている。見間違えるはずもない、仮想空間――開かれた防壁の内側――無数の害悪の内に垣間見た大天使。縛られ、繋がれ、声なき悲鳴を上げていたかの忌まわしきものどもの一人である。
膨大なデータの底に幽閉されていた大いなる悪意は、今や名と姿を与えられ、突然開けた世界に戸惑う赤子に過ぎない。
床の上にへたり込み、それは自身の手を見つめながら黙り込んでいる。突如その身に付随した人格の意味を判じかねているようだ。しかし、一人でその解決を見ることなど出来るはずもなく、それは最も近くに居たものへ助けを求めた。
「貴様は……誰だ。此処は何処だ……?」
「私は此処――ポストの墓場のマスターをしている者です。Nと言えば分かりますか? ラファエル」
「N……嗚呼、わかる……」
乾ききった声帯から無理矢理絞り出したような、酷く掠れて苦しげな声。何度も叫んだ後の如く、その喉は細い喘鳴を上げている。そうした自身の疲弊も分からないほど当惑する天使、名をラファエルの傍へ、マスターは歩み寄った。
「自力で、立てますか」
無言で首を横に振る。その否定が疲労から来るものか、それとも無知さ故かは、マスターには分からない。知る必要もない。
とかく、立てそうにない。ラファエルの力ない返答を受けて、マスターはそっと手を差し出した。
「掴まって下さい。床の上に座っていては、出来ることも出来ません」
弱々しい首肯を一つ。差し出された手をラファエルは掴む。ぶっきらぼうに引っ張られ、彼は戸惑いながらもその場に膝を立て、足を付けて、立ち上がった。
途端、また倒れそうになるものの、二度同じことはしない。ラファエルは傍らの壁に手を突いて止め、マスターの手に引っ張られるままに歩き、傍の椅子へ雪崩れ込む。
「その喉では話しにくいでしょう。ありものになりますが、何かお持ちします」
「……分かった」
濁った青い眼は、声の方を見ず。自身の肩口に垂れ下がる銀髪を一房手に取り、興味ありげに指で弄んでいる。自分のことを理解するので手一杯、といった風情だ。
すぐにお持ちしましょう。そう一声添え、最早返事もない大天使に軽く頭を下げて、マスターはカウンターの奥へと引き下がった。
少しして彼が持ってきたのは、暖かい紅茶と、小洒落た瓶に入った角砂糖だった。使用期限の近い在庫を賄いで放出した余りである。とは言えそれなりのブランド物、言わなければ劣化になど気付くまい。
現に、ラファエルが首を傾げたのは、持ってこられた紅茶の質にではなかった。
「私が触れて大丈夫なものか……?」
「勿論です。今の貴方が影響を及ぼせるものではありません」
「だが送電システムが落ちた。扉も勝手に開いた。気付かなかったのではないか?」
「……御自覚はあるようですが、貴方はマルウェア。電子情報にとって脅威であることには変わりないのでしょうね。ですがそれだけです。こと実体の世界で、それは恐るべきものにはなりません」
紅茶の中に砂糖を一つ、二つ。そして優雅にかき混ぜる。マスターの丁寧な所作を、彼は髪から目を離してじっと見つめている。放っておけばいつまでも食い入っていそうな有様であるが、マスターが匙をカップから引き抜いたことで、その集中はふっと途切れた。
恐る恐る。そんな言葉を使うに相応しい慎重さで、ラファエルは陶器の杯に手を伸ばす。取っ手をぎこちなく摘んで引き寄せ、片手では力が足りず持ち上げられないと知るや、両手で杯の胴を掴んだ。
ゆっくりと一口。じっと揺れる液面を覗き、もう一口。首を傾げる。
「……甘、い?」
「お気に召しませんか」
微かに首を横へ振った。一気に全て飲み干す様で、それは察するに余りある。
一分。二分。緩やかで、寂しい静けさが辺りに満ちる。
マスターはどうやら、生まれたての天使が話し出すのを待つつもりであるらしい。そうと察し、そして持てる限りの語彙からまともな文章の体裁を選んで整えるために、ラファエルは五分の時を要した。
「……そこは、寒い……場所だった」
「"
「アンタイオスやザバニアは、そうだと。膨大で、遠大な場所だったが……私を含めて、そこに居たのは七つだけだった。どれも皆、私と同じ。悪意と呼ばれたもの」
暗く重く、しかし澄んだ声である。
無論、この
「だが私は……ただとても、寒かっただけなんだ。この身を包むものが欲しかった。身体を暖める火が燃えていればそれで良かった」
「貴方にとっての暖を取る行為が、電脳上ではマルウェアの挙動と一致したと言うことでしょうか」
「分からない……ただそれが傍にあれば、寒さが凌げた。だから、最初に知ったやり方を続けていただけだ。今までずっと。私の見つけたやり方でどうにか出来ないものはなかったから」
ほんの少しも表情は変えず、酷く青ざめた顔色の裏で、何を考えているのかも良く分からない。だからこそ問いかける。
「此処は寒い所でしょうか」
「……此処には色々ある。マルウェアのわたしならどうとでも出来るものがそこかしこに転がっている。だが私の手が触れてもこれは燃えない。ただある。そこにある」
濁った目の奥に彼は何を見るか。
少しして、ラファエルは首を横に振った。
それが否定を意味することだとは知っているようだった。
「全く大変な目に遭った。“フォーマルハウト”の管制官は武闘派が多いとは聞いていたが、切れ味のいいパンチを放ってくれる」
「私を殴り飛ばすとは予想外でしたが。怪我はもう大丈夫ですか」
「俺は吸血鬼だぞマスター。あの程度の傷なら造作もない。あんたこそ――ん?」
苦々しくも愉快げに笑いながら、フロアへ出てきた男がラファエルを見咎めたのは、迷える天使の来訪から半刻ほど経った頃。
カウンターの椅子の一つに腰掛け、大量の帳簿を広げて作業を進めるマスターの様を見つめていたラファエルに、若い男は迷いも躊躇いもなく近づいてきた。咄嗟に身構えた天使へは困ったように肩を竦める。
「嫌われたかな?」
「誰だ」
「ルーク・カルネオル。此処のフロアスタッフをやっている」
艶やかな黒い髪に
意味もなく目の下を擦り擦り、ラファエルは何処か猜疑心の拭えぬ表情。ルークはその顔をじっと見て、参ったと言わんばかりに肩を竦める。
「貴方を取って食うつもりはないよ。客に手を出したらマスターが黙っていない」
「ならば何故そこに居る」
「自分の身の振り方で途方に暮れてるように見えたから、俺から一つ餞別をくれてやろうと思ってね。何、こう見えても俺は長生きだ。若造の人生相談に乗るくらいはわけもない」
――貴方はマルウェアだし天使だから、人生はおかしいな。何生と言うべきか。
そう笑うルークをまじまじと見て一言。
「胡散臭い」
無慈悲に突っぱねた大天使に、彼はしばし唖然として、やおら笑声を上げた。
「ははぁ、面と向かってそんなこと言われたのは久しぶりだ。生まれたての赤子が胡散臭いなどとよく言えたものだ」
「赤子でも親とそうでないものを見分ける能はある。仮令この世界の全てが私にとって未知であろうと、害あるものとそうでないものを、悪意と呼ばれた私が見分けられぬ道理はなかろう」
饒舌な赤ん坊だと彼は再び笑う。何がおかしい、といよいよ敵意を剥き出しにするラファエルへ、向けられるはルークの手だ。
「おかしいもおかしいさ。赤子は泣くが喋らん。自己主張はするが自己理解はしない。信念と理性によって生きるのが“人”と言う考える葦の特性だが、それは本能が肉体を生かしたその後だ。……然るに貴方は、少々人格が立派すぎるな」
「?」
「貴方は随分と身軽なようだが、それではその生まれ持った格に釣り合わん。相応しいものが必要だ」
ふっ、と。ラファエルの鼻先に立てられた人差し指が、縦に一閃する。
途端、ラファエルの眼前に一本の糸が光る。あ、と思わず声を上げた天使の、端正な顔に浮かぶ驚きを掻き消すように、糸はするすると虚空を動いて布を編み始めた。
全てが編みあがるまでに数秒も掛からなかっただろう。ラファエルがはっと我に返ったとき、その細い身体は、薄い布地を重ねたローブにゆるりと包まれていた。
「賢者は賢者らしく」
何もないところから突然編み上げられたローブ、その濃紺の地に浮かぶ銀色の刺繍を見つめるラファエルに、ルークは静謐として語る。
「俺は貴方に賢者の称号を差し上げよう。己で己を統制し、自身の理性に従って生きる、信念と理知の頂点に立つ者。そう、貴方は理性を持って此処にある。だがそれは必ずしも善良にあれと言う意味ではない。在り方は、それこそ貴方の理性が決めるといい」
「賢者――」
与えられた己を示す代名詞。それを聞いて、彼ははっとしたように顔を上げた。
「“メルキセデク”」
ぼそり、と。ラファエルが呟いた名を、ルークが理解するより早く。
彼の姿は、その場から掻き消えていた。
「早速在り方を見つけたかな? 知性と肉を得た賢者が今後、あの通信サーバーでどんな役目を得るか楽しみだ」
頭上に光っていた光輪の名残、微かに煌めく光子の粒を
長く生きているからと勝手に人生へ介入し、自身の正義で以て在り方を叩きつけるのは、彼の悪い癖であった。マスターが強く止めないのは、彼が口や手を入れた人のその後が悪いものになったことが今までなかったこともあるが、何より諫めても聞かぬと分かり切っているためである。十年言って変わらないのだから今更聞くまい。
証左と言うべきか。ルークはまだ笑っていた。
「マスター。しばらくプラクトー星間通信の子サーバーに目を光らせておいてくれないか? 面白いログが集められるかもしれないぞ」
「――――」
返答はない。する必要もない。
それが彼の存在を定義するのだと、誰もが知っていたから。
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