【Live Log : Neutralized】

「マスター。……マスター!?」

「は――!」

 大きく肩を揺すられる感覚を引き金に、今までハッキングに振り分けていた領域を再配置。シャットダウンしていた感情演算と、機体の運動機能を再起動する。

 セットアップ完了まで三秒。アンドロイドとしては異例の速度で起動を終えたマスターを、しかし肩を揺すった青年は心配そうに見ていた。茶髪に鳶色の双眸、印象の薄い顔、背を伸ばしていても何処か冴えない雰囲気――要するに、まだこの環境に慣れていない新人。

 ヒナタ。基準世界線に暮らし、何の因果かこの時空の交差点で働くことになった、普通の人間である。

 大丈夫ですか、と首を傾げる青年へ向けて、マスターは黙したまま頷きを一つ。穏やかな声音で続ける。

「ご心配をお掛けしたようですが、私は問題ありません。演算箇所を別の領域に振り分けていただけです。扉の前に張り紙でもしておくべきでしたか」

「いや、そんなことは……ええと」

 困惑している。というよりは、これとは別件で訪ねてきたようだ。普段あまりフロアに出てこず、また彼が不在でも客をあしらえるスタッフが、それでもマスターを呼び出さざるを得ない用事。面倒ごとを予感しつつも、マスターは言葉を待つ。

 果たして、ヒナタは厄介ごとを持ってきた。

「マスターを出せって喚いてるお客様が一人、店の真ん中に居座ってます。ルークさんが退店させようとしたら殴り飛ばされました。表のスタッフじゃちょっと、どうしようもないです」

「……お名前を伺っていますか?」

「カノープス様と」

 思うことはある。しかし口には出さない。

 マスターはただ立ち上がり、新人ながら上手く立ち回ったであろうヒナタを丁寧に労って、そのまま表へ出る通路へと足先を向けた。


「お客様、落ち着いて下さいってば! 店長はすぐ来ますから!」

「煩い、お前に用はないんだ! 御託を並べる暇があったらさっさと呼んでこい!」

 表に出るなり、半泣きの女声と、それを掻き消すほどに大きなだみ声がフロア中に響き渡った。ある程度避難指示は済ませてあるらしい、客は特殊な手続きのいる者以外を除けばおらず、夜にも拘わらずがらんとしている。さりとて残った客が平然としていられるわけもなく、フロアは嫌な騒がしさで満ち満ちていた。

 擾乱の中心は、フロアのど真ん中に仁王立つ大柄な男性。そしてその傍でワインとデキャンタ片手におたつく若い女性。後者はこの酒場のスタッフたるナベシマであるから、前者がヒナタの告げたカノープスなる名の持ち主であろう。


 マスターが粗方状況を把握したところで、動き。男がマスターに気付いたのだ。

「貴様か……!」

 絞り出すような怒声。濃い隈を浮かべた目でぎらりとマスターを睨みつけ、大股で歩いてくる。ちょっと、と礼儀も忘れて憤慨したナベシマが、猫のごとくに素早く両者の間へと割り込んだ。手にはバットを持つようにワインボトルを握りしめている。難癖を付けに来た暴漢だと思い込んでいるようだった。

「これ以上このお店で狼藉を働くようなら力ずくで退店して頂きますよ!?」

 ボトルを振り上げ、目を三角にして叫ぶ華奢な女性に、男の理性は遂に瓦解した。何だとこいつ、怒鳴り声を上げ、ルークを殴り飛ばしたという拳を振り上げる。既に一人を殴打した拳は赤い。血である。それがどんな意味を持つか、想像できない者は此処にいなかった。

 故に動く。誰より早く、古い床を軋ませて。


「ナベシマさんッ!!」

 二者間に身体ごと割り込んだマスターは、真正面から右ストレートの一閃を喰らった。

 咄嗟に身構えることも許されぬほどの刹那、一瞬で振り抜かれた拳はアンドロイドの重い機体をも弾き飛ばし、倒れこんだマスターは強かに背を打つ。どだん、と木の床全体が倒れた衝撃に揺れ、振動はあっと言う間に店内の空気へ伝播、者共の狂乱に沈んだ理性を急速に引き戻していく。しかし男の表情は剣呑なまま。

 それら状況をコンマ数秒の内に再把握し、マスターは倒れた機体を必要最低限起こす。そして、真っ直ぐに立てた人差し指を男に向けて関節をロックし、最低限の情動回路と運動回路に演算領域を残したまま、残りの全てを計算回路に再配置。それらも瞬きより短い間に終えて、彼は男に向かって声を張り上げた。

<<Protocol : Soothing Stigma!>>

 ノイズが掛かっている。演算域を大幅に別回路へ移譲している故に、リアルタイムのノイズ除去がままならない証であった。しかし、紡がれた宣言は確かに引き金としての役目を果たし、指さされた対象――即ちカノープスの変容が始まる。

 変容は男の興奮を鎮め、店内に理性的な空気を齎す形で現れた。まるでスイッチを切ったように激情が沈静し、騒乱は静謐に取って代わられる。


「マスター、今の!?」

「……いつか話します。今は、お客様への対応を優先してください」

 水を打ったように静まり返る店内、驚きを含めた人々の視線。困惑と不安の入り混じる空気の中、マスターは慌てて近づいてきたナベシマへ諭すような声音で指示を出し、拳を喰らった場所に手を当てながら身体を起こした。一方のナベシマは困惑の表情も露わに、立ち上がろうとするマスターと、唖然とした顔で立ち尽くす男とを交互に見ている。

「マ、マスターはどうするんです? お客様と話されるんですか」

「ええ、多少時間が掛かります。今日はこれ以上お客様が増えることはありませんから、貴方とルークさん、ヒナタさんだけでも対応できるでしょう。もし私に取り次ぎがある場合は遠慮なく言って下さい、場合に応じて指示を出します。――それと、ナベシマさん」

 無感情なモノアイが、猫のような眼を真っ直ぐに見据える。

 ぎょっとしたように瞠目する彼女へ、マスターは密やかに告げた。

「私を庇ってくださったのは有り難いことですが、ワインを振り回したのは失策ですね。そのワインは酒蔵に戻して、新しいものをお出しして下さい」

「! すっすいませっ」

「ええ、次から気を付けて下さい。……では、お願いします」

「は、はい」

 ワインのボトルとデキャンタを手に、ばたばたと慌ただしく客の間へ紛れていくスタッフの背を尻目に、マスターはエプロンの裾を軽く払う。そして男の顔をちらと一瞥し、僅かに首を傾げたかと思うと、何事もなかったかのように深く頭を下げた。

「お待たせしました。此方へ」

「ふん」

 客とスタッフの起こす騒々しさなど、当然と言わんばかり。

 二人の姿が消える頃、フロアの空気は元に戻っていた。


 応接間、と手書きの札が下がった扉の向こうには、質素な調度品の置かれた部屋が広がる。やや手狭な空気の否めない中、頑丈なチーク材のテーブルを挟んで、マスターと男は対峙していた。

「ご用件は『コズミック・テレスコープ』の件でしょうか?」

な。以前にもお前と似たようなことを仕出かしたハッカーが居たが、その時は『マクスウェル・オヴザーバトリ』、その前は『インフィニット・ベネディクト』。分かるだろ、お前が呼ぶその名は偽物だ」

 男の声色は堅く、非難の色を帯びる。

 マスターはそれでも、怖気づくことはなかった。

「確かに……かのサーバ内に潜ませたものが本当に『真理』なるものを揺り起こすための情報ならば、わざわざ侵入者ハッカーに対して侵入ハッキングを煽り立てるようなメッセージを残す必要はないでしょう。そんなメッセージを残したものも、私には予測が出来る。――防壁の厚さから見て、他に害を成すデータの集積と推測しましたが、いかがでしょうか。詐欺に用いられるマルウェアにメッセージを自動生成するものがあるとは私も聞き及んでおります」

「そこまで分かっててやるってのか!?」

 何てことしやがる、と激昂しかけた男の声を遮って、投げかけた声は、冷たく。

「そのまま、同じ言葉をお返しします」


 虚を突かれ、刹那出来た思考の空隙に、マスターは言葉を捻じ入れる。

「私を私たらしめるものは、貴方方がかのデータの奥底に幽閉するものと同じ――電子媒体上を飛び交う情報の山積。私は、私と出自を同じくする者の声を聴いたのみです。あのような場所に、あのような姿で彼等をおくなど、非道とは思いませんか」

 ふざけるな、と、地獄の底から這い出たような声が、それを破った。

「お前は自分が何を言っているのか分かっているのか。あれは単にアバターを貼り付けているだけだ。人格なぞ欠片も存在しない。仮に人格があったとしても、あのクソ忌々しい天使マルウェアどもが“氷地獄コキュートス”から這い出てみろ。俺達の世界はどうなる? 星間通信サーバーを破壊されて、俺達の住む地球は全宇宙の損失を一体何で贖えと言うんだ!? 出来るわけがないだろう!」

 激しい打擲。男の激情を込めた拳がテーブルを揺らす。

 それでも、マスターの態度は変わらない。

「カノープス様。此処が『ポストの墓場』と呼ばれる理由はご存知でしょう」

「知らずに来るほど愚かじゃないぞ、Nとやら。此処は漂着するもの全てを受け入れる場所、記憶と記録の墓場だと。前評判は聞いた。――だがな、あんなもの受け入れられるアテが此処にあるのか。あの害悪の天使を解放して、此処が……あの世界が、無事でいられると?」

「判断するのは私です」

 マスターの冷徹な声が、煮え滾る怒りを覚まして響く。

 思わず声を喉に詰まらせたかの者へ、続く声は厳しい。

「貴方に口を出される謂れは、ありません」


 男と、彼と。睨み合い、緊張の糸が張り詰める。

 その空気を打ち払うは、控えめなノックの音だった。

「すみません、マスター? ちょっといいですか?」

 ドア越しにも険悪な空気を感じ取ったのだろう、開けもせずにおずおずと尋ねてきたのはヒナタである。牽制するようにかの者へ視線を送っていたマスターは、声が届いた瞬間、何の感慨もなくレンズの向く先をその方へと向けて膠着を破った。

 ソファに座ったままどうかしたのかと声を投げかける。そこでようやくドアを開け、彼はその隙間から顔を出した。お客様の前で失礼だ、と怒る声に慌てて頭を下げ、身体を滑り込ませる。明らかに刺々しい雰囲気の男に緊張の隠せないヒナタは、おたつきを隠しながら、マスターと閉じられたドアの向こうを交互に見た。

「えっと、マスター、ちょっとフロアに出てきてくれませんか」

「フロアに? 私でなければ解決しそうにないトラブルですか」

 ヒナタは申し訳なさそうに点頭を一つ。

「いきなりフロアの電気が全部止まりました……電灯だけじゃなくて、ケトルも冷蔵庫も全部止まってます。ルークさんの見立てだと、送電システムの何処かが故障したんじゃないかってことです。まともな仕事にならないので、残っていたお客様は返金手続きをして元の世界線にお返ししました」

 要点を押さえた報告。新人と言う割には慣れた報告は、恐らく先輩のルークかナベシマから仕込まれたものだろう。


 分かりました、と返答しざま、マスターは身を沈めていたソファから立ち上がる。

「ありがとうございます、ヒナタさん。残りのシフト分も付けておきますから、今日は上がって構いません」

「えっ? でも、マスターだけじゃ」

 人手が足りないだろう、と続けかけたヒナタの肩を、数度叩き。彼とすれ違いに部屋を出ながら、マスターは淡々とてらいなく綴る。

「店ごと木っ端微塵にでもされない限りは、大抵私一人で対応できる事案です。人手の心配はならさずとも大丈夫ですよ。……貴方もお帰りください、カノープス様。私はフロアの状況を確認しに行かなければなりません」

「――――」

 言葉はない。その代わりに、彼は黙ってソファから立ち上がる。そして、足音荒くヒナタの横を通り抜け、マスターより先にフロアへ出ようとして、その背を重たい声が撃った。

「貴方は私の綽名を御存じのようですが、由来を聞いたことは?」

「俺はサーバーの使用履歴にNってのが並んでるのを見ただけだ」

 苦いものを吐き捨てるような声。振り向きもせず、そのまま歩み出ようとするその足を、マスターは静かに止める。

「Neutralized。それが私の識別名です」

「…………」

沈黙が十数秒。男は眉間に皺寄せ、吐き捨てる。

「『辺獄』――星間通信サーバーの防壁に対するハッキング行為は、俺の睡眠時間を五日分削った。お陰でこちとら情緒不安定の胃腸炎だ。何だお前は、マルウェアを無力化Neutralizedする前に俺やサーバーの管理スタッフを殺す気だったのか? そうだとしても違うにしても、結局お前の正義は誰かを踏み付けて成すものだ」

 嘲笑にマスターが言い返すことは、

「思いあがるなよ機械生命体アンドロイド俺達人間の牙城は俺達人間が守る。お前に、お前たちに、お前たちの貪欲で愚かな好奇心に、俺達の英知の結晶をぶち壊されてたまるか」

 扉の閉まる音が冷たく響いた。



〔停電は翌日の午後三時までに問題なく復帰。念の為送電システムを総点検し、午後から営業を再開しました。当事案に関する追加のLive Logは存在しますが、諸般の事情により内容は現在秘匿されています。 :マスター〕

〔Live Logがあるってことは何かあったんですよね? :ナベシマ〕

〔当事案の関連ログとして整理されているとだけお伝えしておきます。今はさる方との契約によりこれ以上の情報開示はできません。 :マスター〕

〔中々面白いものを見たぞ。マスターが怒ると怖いから言わないが。 :ルーク〕


〔追記:許可が降りました。準備が整い次第追加します。 :マスター〕

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