ベニスモモの花びら

 1


我が編集部は人の出入りが激しいので、別れと出会いを繰り返してばかりいる。なので慣れっこにはなっていたのだけれど、その報せには驚かされた。

 入道が、編集部を去ることになったのだ。

惜しまれながら辞めていく先輩、膨大な仕事に耐えかねて飛ぶ新人、散々引っかき回してクビになる愚か者。見送る背中は様々だったけれど、入道はいずれとも異なっていた。東京本社の編集部への転勤だ。入道本人が編集長に、異動を直訴したという。

東京で勝負してみたいのだと、入道は私に説明した。今よりもっとやりがいが感じられる場所で、思う存分、力を発揮してみたいのだと。

もちろん、望めば誰もが本社行きを許されるわけではない。編集者としてずば抜けた能力をしめさなければ、認めてはもらえない。その点、入道は文句のつけようがなかった。単純に仕事の速さだけで競えば、入道はカッツンを上回っている。ヒガシさんと入道の二人さえいれば、新聞はつくれるのではないかと囁かれるほどだ。

洩れ聞こえてくる噂によると、本社の現場は大阪の遥か上を行く過酷さであるらしい。にもかかわらず、入道は挑戦してみたいという。日頃のふざけた態度の裏側で、仕事への情熱が燃え盛っていたなんて意外だった。熱い心意気には、素直に頭が下がった。

私は入道を見直す気になっていた。真相が判明したのは、ヒガシさんを除いた新聞班だけで集まり(徹底的にクールな彼は、私たちの集まりになど参加しない)、焼き鳥屋で送別会を開いていた最中だ。

「なんや、サトちゃん。こいつの出任せを真に受けてたんか?」

私の向かいに座っていたカッツンは、隣の入道を指さしていった。

「東京で腕を競いたいって、本気で入道が考えると思うんか?」

「違うんですか」

私は、コップ酒をすすっている入道に目をやった。

「こいつは歌舞伎町の店に移った女王様を追っかけるために、異動願いを出したんや」

「歌舞伎町? 女王様?」

「だからあ、こいつにはお気に入りの女王様がいるんや。そいつが東京に行ってもうたから、それで……」

「えっ、もしかして、蘭子様ですか? じゃあ、嘘ついたんですか?」

カッツンの言葉が飲みこめると、私は急きこんで入道に詰め寄った。

「それがすべてやない」

「ああ、でしょうね。少しはスケベ心もあるってだけなんでしょう?」

「まぁ、九割ぐらいかな」

「ふざけんな」

思わず怒鳴ると、横に座っていた牧人が「落ち着きなよ」と、私の肩に手を置いた。

「それと、一部訂正させてもらうわ。お気に入りという表現は当てはまらへん。崇拝しているといってくれ」

「どっちでもいいですよ」

入道の変態話になると、いつも脱力感に襲われる。風俗店に通いたいからといって、転勤を願い出る男など聞いたためしがない。隠し持った情熱なんて、誤解もいいところだった。それどころか、これ以上ないぐらい仕事を舐めている。

真相が発覚しても、入道は涼しい顔をしたままだ。変態男に少しでも感心した自分が呪わしくなった。

「まったく、俺たちを見捨てて女王様を選ぶっていうんやから、冷たい奴やんなあ」

カッツンは入道を睨みつける。

「サトちゃんも、もっといってやり。入道の仕事は、そっくりサトちゃんの分になるんやろ? 迷惑かけるなと責めてやれ」

「あ、そうですよ。どうしてくれるんですか」

私はテーブルを平手で叩いた。ヒガシさんにいい渡された予定では、エステ面を牧人に渡し、私はミナミ面など入道の担当分すべてを引き継ぐことになっていた。大雑把に見積もっても、仕事量は倍以上になる。

「サトちゃんなら、こなせるって」

「無責任な発言は止めてください」

「見てたらわかるって。入稿速度が上がったし、ノーチェックが許されやないか」

「……」

入道が真面目な話をするつもりだと悟り、私は目をしばたたいた。

そうなのだ。私は文章力が安定したと評価され、テキストのチェックを免除されていた。ヒガシさんに好きな時に入稿していいと告げられた時には、感激するほど嬉しかった。ノーチェックならば、アパートに戻ってからでも、パソコンからテキストをメールで入稿できる。無駄に会社に残らずに済むのだ。私は、むろん毎日ではないけれども、定時の八時に仕事を終えて帰れるようになっていた。

「サトちゃんは成長したわ。立派に俺の後を引き継げる」

私の目をしっかりと捉え、入道は力強くいった。声音にこもっているのは、揺るぎない信頼だ。後輩を想う気持ちが、しっかりと伝わってきた。

けれど、もう騙されない。

「持ち上げておいて、自分は逃げる気なんでしょう。今からでも遅くないから、異動願いを撤回してくださいよ」

「蘭子様に行くっていってもうたから」

「女王様との約束が最優先なんですか!」

私は、声を裏返らせて叫んだ。

変態も度が過ぎて、どうにも救いようがない。こんな男は、焼却した方が日本のためではないだろうか。

「大体な、こいつはイカれてるんや。アナルだけは嫌がってたくせに、M性感で開発してもらってからは豹変しやがってさ。今では、デリの女のコにペニスバンドを着けさせて、バッグから犯させてるんやからな」

カッツンが知りたくもない話をバラすと、入道は、聞き捨てならない、という顔をした。

「イカれているのはお前の方やないか。忘年会の席で全裸になって、編集長の顔に股間を押しつけたのは誰や?」

「ちょっと。泥仕合だよ、止めなって」

「なに? マッキーかて滅茶苦茶やろ。マンガ雑誌持って入社面接受ける奴なんて、聞いたことないわ」

「古い話だなあ」

「そうやな。あれから二年になるか。で、サトちゃんがもうすぐ一年、と」

 皆の視線が私に集まった。

「まさか、サトちゃんが生き残るとは思わんかったよな」

入道が腕組みをして感心した。ホンマや、とカッツンが同意する。辞めたくなったのは、主にあんたたちのせいだけどね、と私は心の中でいった。

まったく、変態が一人、職場から去るのは喜ばしいのだけれど、仕事が増えるのは嬉しくない。アンビヴァレンツな感情に、私は困った。

「やっぱり、サトちゃんも変わってるってことやんな」

「そうそう」

 そのやり取りに、私はぴくりと震えた。

「あんたたちにいわれる筋合いはない! 大体、初対面の時だって――」

それから、私たちは相手がいかに異常な人間であるかを証明するために、エピソードを引用し合った。送別会は暴露合戦の様相を呈し、馬鹿話はいつまでも尽きなかった。

別れの席だといっても、感慨にふける雰囲気には一向にならず、騒ぎはエスカレートしていった。飲み屋を移動するうちにカッツンと入道は冬だというのに服を脱ぎ、上半身を剥き出しにしていた。カッツンは突然「みなさん、地球を愛しましょう!」と叫んで、歩道にキスをした。入道が個人宅の塀によじ登って、ふらふらしながら踊り出したので、皆で引きずり下ろした。牧人はすれ違う女の子に親しげに声をかけるので、私はその尻を蹴飛ばした。

さらに私たちは店をはしごしたようだけれど、あまり記憶が定かではない。

その四日後には、入道は編集部の面々に別れを告げ、東京へと旅立っていった。



別れを済ませた後に、出会いが待っていた。

新人が入社するというニュースが飛びこんできたのは、入道が異動になって一週間ほどが経ってからだ。吉報を耳にして、私たちが喜んだのはいうまでもない。

新人は、いつだって私たちの希望の灯だ。人が増えさえすれば、ほんの少しでも息がつける。入ったばかりで、さほど役に立たない新米であっても、猫の手よりは遥かにましだ。編集者たちは、切ないまでの期待感を募らせた。

特に私の喜びは大きかった。入道が去ってからの私は、出だしから苦労を強いられていたからだ。

なんとかなるだろうと高を括っていた部分もあったが、甘かったといわざるを得ない。なにせ大阪府下全域の上に、ミナミが加わったから、店の数だけでも膨大なのだ。どの店が気難しくて、どの店が取材しやすいのか、そんなことはさっぱりわからず、それどころか担当者の電話番号すらも知らされなかった。入道は必要な情報をすべてケータイに登録して、データベースを更新してくれていなかったのだ。一から手探りしなければならないような状況で、私は今度こそ本当に入道を恨んだ。

そんな状態だったので、新たな人員補充の知らせは、私をほっとさせた。ただそう単純に嬉しがっているわけでもなくて、知らずに地獄へ飛びこんで来る不幸な者への同情心もあれば、犠牲者が増えるのを楽しむ湿った喜びも混じっていたようだ。

昼礼の場で、私は初めて新人の顔を知った。事前に情報は入っていたのだが、女の子だった。彼女は「倉橋彩香です、よろしくお願いします」と、そっけなく一礼した。

倉橋は黒い髪を肩に垂らし、銀のフレームの眼鏡をかけていた。目が細く吊り上っていて、かなり険がある。少なくとも、可愛いというタイプではなかった。

昼礼が終わると、倉橋は私の元へとやって来た。前日に、倉橋は私の下のつくのだとヒガシさんから説明を受けていた。入道の抜けた穴を私一人で埋めるのはさすがに厳しいため、配慮して補佐をつけるというのだ。ゆくゆくはミナミ面を、倉橋に任せたいそうだ。

「研修はもう終わったのよね?」

私が尋ねると、倉橋は細い目で私を見ながら、「はい」とうなずいた。

「じゃあ、今日は同行だけしてもらうから。とりあえず媒体を読んで、業種を覚えてくれるかな?」

「それぐらい、知ってますよ」

「え?」

 私は、倉橋をまじまじと見た。

「本当に?」

「ええ。基本的な勉強ぐらいしています」

眉を寄せて倉橋はいった。そうすると、生徒を叱る女性教師みたいな顔つきになった。

それならば、とデータ紙を打ち出すためのパソコンの操作方法を教えた。倉橋は自分からちゃんとメモを取り、後は放っておいても一人で黙々と仕事をこなしていた。なかなか優秀だ。私は嬉しくなった。

「よお、話があるんやけどな」

パソコンに向かっている倉橋の前の席から、カッツンが首を突き出していった。

「なんですか?」

「とっても大事な話やで。あだ名を決めなあかんねん」

「あだ名?」

倉橋は手を止めて、カッツンに視線を向けた。

「そう。ここでは、ニックネームで呼び合うのが決まりなんや。彼女はサトちゃんやし、俺はカッツン。君はどう呼べばええかな」

 カッツンはいつもと変わらない、軽い調子でいう。

「何でもいいですけど」

「名前は彩香やったやんな。アヤパンでいい?」

「それは嫌です」

 無表情に、倉橋は答えた。「だったら、アヤちゃんでいいんじゃない」と私がいうと、それでいいですと、やっぱり感情のない声で倉橋はいった。

「けどさ、アヤちゃんって、おっぱいないなぁ。何カップ?」

 カッツンは目尻に皺を寄せ、笑いながら尋ねる。さっそくのセクハラだ。本当にこいつは、相手が新人だろうとお構いなしだ。

倉橋は、ぎろりとカッツンを睨んだ。

「はあ? それがあなたと、何の関係があるんですか?」

 険悪な雰囲気になったため、私は急いで立ち上がる。

「アヤちゃん。そろそろ取材に出るから、一緒に来てくれる?」

私がそういうと、倉橋はうなずいてデータベースを閉じた。

私と倉橋は会社を出て、オデッセイでやってきたヒラさんに乗せてもらった。取材先はミナミにある『病院物語』というホテヘルだ。ミナミ担当になってからはあちこちの店に行ったけれど、この店にはまだ足を運んだことがない。私は、少しだけ楽しみにしていた。

駐車場に車を停めると、約束の時間まで待ってから、私たちはビルに入った。店の入口をくぐり、受付で名刺を渡す。ここは『病院物語』という店名がしめす通り、ナースのコスプレがウリの店だ。壁には、大きな注射器と店名が描かれたポスターが貼られていて、アニメ調のナースの絵も添えられていた。

店長が出て来て気さくに笑い、私たちを奥へと招く。通された待機部屋は、珍しい造りだった。通路を挟んで両側が膝丈分ぐらい高くなっており、それぞれ正方形に近いスペースが広がっている。そこで、女のコたちはお菓子を食べたり、テレビを観たりしていた。

店長によって左側にいた女のコは反対側へ移動させられ、私たちは空いた場所で撮影の用意に取りかかった。

倉橋は壁に布を張る私を手伝った後、器材を組み立てているヒラさんを観察していた。女のコがあらわれたのは、私が通路側に立ってプロフィール用紙を用意していた時だ。視界の端でなにかが動いたので顔を向けると、扉を開けた女のコが目に入った。こんにちはと挨拶すると、女のコは会釈をした。

端整な顔立ちでいわゆるキレイ系だけれど、目元はやわらかい。ファー付きのコートの下はチェック柄のワンピースで、黒ストッキングを穿いた脚が細くて綺麗だった。

風俗出版社の編集者なら、彼女のことは当然知っていなければならない。『病院物語』の看板娘であるヒカルだ。この店では一人勝ちといっていいほど人気が桁違いなので、風俗誌等で大きく扱う際には大体はヒカルの出番となる。今日の撮影もヒカルだということを、私は予め聞かされていた。

「今日はY出版さんなんですよね?」

 ヒカルは積極的に話しかけてきた。

「はい、そうです。よろしくお願いします」

「いつもの方はどうなさったんですか」

「宮下は東京に異動になりまして」

「え、本当に? 残念だな。あの人は面白くて、いつも笑わせてくれてたんですよ。でも、栄転なんですか? じゃあ、喜んであげないといけませんね」

穏やかな声でいって、ヒカルは微笑を浮かべる。この笑顔に、男たちは誰もがコロコロと参ってしまうという話だ。

ヒカルは美しいだけではなく、年齢に似合わない丁寧な接客で、特に中高年に絶大な人気を得ていた。彼女ほど良い子はいないというのが、専らの評判だ。ウチの編集部の連中にしても、誰一人としてヒカルの悪口はいわない。取材を終えると、ほとんどがヒカル信者になって舞い戻って来る。

以前、月刊誌に掲載されたヒカルのインタビュー記事を目にする機会があった。「私がお客様を癒してあげなければいけないのに、いつもお客様から大切なことを教えてもらうんです」「この仕事で長く働くコツは、自分を飾らないことだと思う。自分を偽ると、必ず辛くなるから」優等生的な回答の連発には、さすがに眉に唾をつけたくなったものだ。しかし、実際に会ってみると、決して演技ではない気立ての良さが感じられた。明らかに、他の女のコとは違う空気を醸している。どうやら、私も早速ヒカル信者の仲間入りを果たしたようだった。

「こちらの方も初めてですね」

ヒカルは倉橋に視線を移した。

「ええ、彼女は新人なんです」

「そうですか。今日はよろしくお願いします」

挨拶をするヒカルに、倉橋はいささかくどいぐらいの笑顔で礼を返していた。

ヒカルが更衣室で着替えを済ませると、撮影がスタートした。店の定番コスチュームであるナースではなく、白衣姿だ。女医が患者を攻める設定のM性感コースを店が新設したので、それを記事にするのが今回の目的だった。

ヒカルにポーズを取らせると、ヒラさんは快調にシャッターを切っていく。白衣の胸をはだけさせ、さらに下着姿にさせて写真を撮った。そんな様子を、倉橋は背を反らせた姿勢で腕を組み、見つめていた。

三十分ほどで撮影は終了し、私たちは店を出た。この後、近隣のホテヘルの取材が予定に入っている。少し間があるので、公園で時間を潰すことにした。

薄汚れた木製のベンチに、三人並んで腰を下ろす。倉橋は私とヒラさんに挟まれて、スポーツ飲料を口にしていた。

缶を呷り、喉を動かす度に倉橋の胸が上下する。カッツンが失礼なことをいっていたけれど、彼女のバストサイズは普通だった。少なくとも、私よりはありそうだ。こんなこと、昔は大して気にしなかったのに、女のコの容姿に価値を求める職場にいると、どうしても意識するようになってしまう。困ったものだ。

「──取材はどうだった?」

私は倉橋に感想を求めた。すると、「とても面白いです」と、彼女は吊り上がった目を緩ませた。

「それは良かった。でも、面白いばかりでは済まないわよ」

現実も少しは教えておいた方がいいだろうと考え、私はいった。しかし倉橋は動じない。

「仕事がきついって意味でしょう? 面接の時にも釘を刺されましたよ」

「あなたは体力には自信あるの?」

「私なら大丈夫です」

倉橋は迷わずいい切った。

「そう。それは心強いな」

この子は常に強気なのだろうと私は納得した。けれど、いくら熱意と能力を持っていても、大抵の新人は擦り切れていつの間にか消えていく。果たして倉橋はどうだろうか。

「いつも撮影ってこんな感じなんですか?」

缶コーヒーに口をつけているヒラさんに、倉橋は尋ねた。

「そうでもないよ。ヒカルちゃんが素直なコだから、今日は特別スムーズだった」

「なんだか、あの人嘘くさいですよね」

「嘘くさい?」

「そうじゃないですか。やたらと私たちに丁寧でしたけど、かえって嫌味ですよ」

 倉橋の口ぶりには悪意がこもっていた。

「あのコは、ああいうコなのよ」

私はヒカルの側に立っているから、当然弁護に努めた。すると、倉橋は笑い声を上げる。

「やだなあ。小椋さんって、すぐに人を信じちゃうんですか? あんなの演技に決まってるじゃないですか」

「そりゃあ、大方はそんなもんだろうけど」

戸惑いながら、私はいう。「でも、ヒカルちゃんは違うよ」

「何をいってんですか。だってアレ、風俗嬢ですよ」

汚らわしいとでもいうように倉橋が顔をしかめるので、私は唖然とした。


 3


 朝の九時から、私は人影のないオフィスでキーを叩いていた。一般の会社なら動き出しているのが普通なのだから、私が働いているのも当たり前といわなければならない。けれど、朝のうちはまだ眠ったままの我が社では珍しいことだ。

 明け方まで仕事をして昼近くに起きる、というサイクルは不健康の元凶そのものに思えて、どうにかしたいと私はずっと考えていた。幸い、時間がある程度自由に使える身分になったので、私はなるだけ早く帰り、眠っている牧人を置いて早朝に出社する方式に切り替えた。陽が昇って間もない頃に目覚めると、まともな人間に戻れた気がして気分も良い。心なしか、身体の調子も上向いたように感じた。

 生活の改善は結構なことに違いないのだけれど、ますます会社に適応していくようで、それが怖い。不自然な形の鋳型に、いつの間にか無理なく収まってしまっている。私はいつまでY出版にいるのだろうか。転職するまでと決めてはいるが、ではそれは、いつになるのか。結局、慣れてしまってずっとここに留まる結果になるのではないかと、私は危機感を覚えたりもするのだ。

 そろそろ結論を出さなきゃなあなどと考えつつ、私は文章をどんどん重ねていく。十時が過ぎ、十一時が過ぎた。出社時間の十二時が近くなると、倉橋と月刊誌班の椎名が、早めに職場にあらわれた。

二人が掃除をはじめたので、私は壁に貼られたローテーション表を確認した。たくさんの人の名前が手書きで挿入されては、辞めていったために×で消されている。わかりづらいが、彼らが本日の当番となっていた。

「私がごみを集めるから、椎名さんは掃除機をかけてください」

 ゴミ箱を抱えて、倉橋は有無をいわせず指示を出している。ゴミ袋も持って来させていた。後輩だというのに、倉橋は椎名を顎で使っている。椎名はおとなしい性格なので、命令されても逆らおうとはしなかった。

 入社から三週間が過ぎただけなのに、すでに倉橋は何年も勤務している古株のように、自信満々に振る舞っていた。

 私は倉橋のアクの強さに、とっくに胃もたれを起こしていた。倉橋は、一応常識は備えている。上司や先輩に対する礼儀も心得ている。しかし、本人も意識していない尊大な態度が、折に触れて顔を出した。会話していても常にひと言多く、カチンとくる。よく拗ねたりもするので、非常に扱いにくい後輩だった。

仕事の面でも、倉橋にはハラハラさせられた。いつでもどこでも傲慢な倉橋は、業者に対してもまともな応対ができないのだ。先日も掲載確認の際に、電話で偉そうな口をきいていた。注意をあたえると、本人もしばらくは意識して気をつけてはいる。しかし、忘れた頃に横柄な態度がまた鎌首をもたげるので、意味がないのだった。

脇で電話のやり取りを聞いているだけで、気が気ではなくなる。不愉快にさせられる程度なら我慢できても、業務に支障を来たすとなれば問題だった。

しかし、仮に倉橋をクビにしたとしても、代わりにもっとひどい新人が来ないとも限らない。まだ見込みはあるのだから、気長に教育していくしかないと私は覚悟した。

ところが、私の気持ちなど、倉橋には当然伝わっていない。

つい昨日のことだ。取材先に到着すると、倉橋は予め決意していたらしく、ツカツカと先を進んだ。そして私を差し置いて受付で名乗り、取材を牛耳ろうとしたのだ。

私は撮影が終わった後で、倉橋を喫茶店に連れこんで叱った。

「なにを考えているの? あなたは自分だけで仕事しているつもりなの?」

「いつまで私、同行しなければならないんですか?」

反対に倉橋は食ってかかって来た。

「もう取材ぐらい、一人でできますよ」

「そんな調子だから、任せられないんでしょう?」

「そうですか。それは、すみませんでした。でもデスクは大丈夫だって、いってくれてるんですから」

ヒガシさんは早く倉橋を独り立ちさせろと、うるさく急き立てる。ところが、私が応じないものだから、倉橋は不信感を募らせていたようだ。そこで、私に対するパフォーマンスを強行したわけだ。同行が不満ならそういえばいいのに、やり方が腹立たしい。

「私はもう少し時間をかけて、あなたが慣れてからと考えてるんだけど」 

「それだけですか? 新人はいつまでも、名鑑の掲載確認をやってろってことじゃないんですか?」

倉橋は唇の右側を歪めた。「毎日同じ電話ばかりで、うんざりです。しかも、月刊誌の分まで押しつけられて」

その掲載確認すら満足にできないくせに、何をいっているのかとまた腹が立った。

「そんなの、当たり前じゃない。初めのうちは、どうしたって雑用が主になるよ」

「とかいって、便利に使ってるだけじゃないんですか?」

 手が足りなければ、空いている手を使わざるをえない。担当を持って忙しくなれば、仕事を振られることもなくなる。しかし、今のままでは安心して任せられない。その辺の理屈を、倉橋は理解していなかった。

「まだ試用期間中じゃない。なにを焦ってんの?」

「焦ってなんかいません。でも私は雑用をするために、編集者になったんじゃないんです」

「そのうち、嫌でも仕事をしてもらうって」

不満ではちきれそうになっている倉橋は、まともに話を聞こうとしない。叱責は中途半端に終わった。

倉橋は長くはもたない、というのが私の正直な感想だ。本人が態度を改めない限り、この先いくらでも摩擦は生じる。もし度々業者と揉めるようなことでもあれば、クビにするほかない。その前に、こうも簡単に怒りを溜めこむようなら、まず倉橋が爆発して会社を飛び出すだろう。

どうしても仕事がしたいというなら、荒療治のつもりで、どんどん任せる手もあった。しかし、トラブルを起こされたら、監督責任を問われるのは私だ。他人のポカで責めを受けるのは、さすがに避けたかった。

倉橋の場合はとりあえず入稿作業などの内勤から、順を追って課していくのが無難なところだろう。これほど厄介な後輩に、最初は期待をかけていたのだから馬鹿みたいだ。入道が去って、ただでさえ苦しい状態だというのに、つくづくついていないなと思った。

 やたらとストレスが溜まっているところへ、余計な心労が積み重なっていく。持って行き場のないもやもやした気持ちは、私を腐らせた。それでつい職場で牧人に倉橋について話したのだが──それを、カッツンに聞かれてしまったために、話はややこしくなる。

「なんだ。アヤちゃんはそんなに生意気な口ばっかりきくのか」

「え? はあ」

「よくないな。どうもあいつは不遜な奴だと、前々から俺も思ってたんだ」

「何考えてんの、カッツン」

 牧人が苦笑しながら、尋ねる。私は嫌な予感を覚えて、顔をしかめた。

「まあ、見ておけ。俺がアヤちゃんにちょっくら、お仕置きしてやろう」

「ちょ、どうする気ですか」

私は慌てた。見れば、カッツンの目が爛々と輝いている。やっぱりだ、と私は激しい後悔に襲われた。

「まあまあ。期待して、待ってるがよい。やつの絶叫が、オフィスにこだまするだろうて」

「止めてくださいよ」

カッツンの行動はおおよそ予測できた。まず間違いなく、意味も効果もない。私は、悪ふざけの口実を与えたに過ぎなかった。

「いいから、安心しろ。ふははは」

高笑いを上げるカッツンは、もはや誰も止められそうになかった。

倉橋はゴミ箱を逆さに振って、中身を袋に出している。彼女から目を逸らした私は、可哀想に、と同情した。カッツンは勝手に段取りを決め、牧人と私も協力させられる手筈になっている。決行は今日の夜だ。

定時を過ぎると、カッツンとの打ち合わせ通りに、私は入稿を手伝わせる名目で倉橋に居残りを命じた。まだ締め切りには間があるので、残業の理由としてはおかしいのだが、進行を把握していない倉橋は気づかない。彼女は素直に従った。一人、また一人と帰っていき、ヒガシさんが消えると、残ったのは私と牧人、倉橋、カッツンの四人だけになった。

一時を過ぎたあたりで、カッツンはわざとらしく欠伸をした。

「いかん、滅茶苦茶眠い。なあアヤちゃん、俺は仮眠をとるからさ。一時間経ったら、起こしてくれへん?」

「はい、いいですよ」

倉橋はキーボードの上で指を忙しく運びながら、答えた。

カッツンは牧人に目配せしてから、窓際まで歩いていき、応接用のソファに寝転がった。そうすると、背もたれでカッツンの姿はこちら側からは窺えない。

肘掛に乗っていたカッツンの足が引っこむ。再び出て来た時には、靴下が消えていた。

待ち構えている運命には一切気づかず、倉橋はパソコンを相手に格闘している。

倉橋が記事をプリントして持ってくると、私はそ知らぬ顔をして赤ペンを持った。

実は、彼女の文章をちゃんと見るのは初めてだ。それは、昔の私とは比較にならないほど上々だった。文法の間違いは注意深く探してもまず見つからないし、たまに私が知らない慣用句を使ったりする。私は、誰でも簡単に読める文章を書くように、それから、スピードアップを心がけるようにと指示した。

用語の誤りをチェックし、不適切な表現に赤を入れて戻した。倉橋は、またパソコンに向かう。地味なやり取りを交わすうちに、一時間が経過した。

「そろそろじゃない?」

「え?」

「カッツンだよ。起こしてあげた方がいいんじゃないか?」

頃合いを見計らった牧人が注意を促した。倉橋は、あ、と呟いて立ち上がる。

長い黒髪が、微かに揺れながら遠ざかっていく。ソファの近くまで、彼女の足取りは変わらなかった。が──背中が凝固して、脚が止まった。

倉橋はじっとしている。動こうとしない彼女を、私は見つめた。しばらく同じ姿勢でいた倉橋は、小声で「勝本さん」といった。なにも起こらない。

「勝本さんっ」

 今度は大きな声を出した。しかし、やっぱり変化は生じない。倉橋は振り向いた。全裸の先輩を目の前にして、どうしたらいいかわからないのだろう。あらかじめ、カッツンが服を脱いでいたことに、彼女はまったく気づかなかったようだ。

いつもの芸のない悪ふざけが、カッツンの「お仕置き」だった。倉橋にとっては、初の体験だ。コンビの相方である入道を失ってから、カッツンは職場で脱がなくなっていたので、彼女は彼のすぐ裸になりたがる悪癖を知らないのだ。

こちらの方を睨みつけたのは、私たちがグルだと悟ったからに違いない。くだらないと笑うのか、それともあり得ないと怒り出すのか、私は倉橋の出方を見ていた。

どちらでもなかった。倉橋はカッツンに近づき、身をかがめた。逃げたら負けだと腹を括ったのかもしれない。カッツンの身体をつかんで、揺すっている様子だった。

「勝本さん! 起きてください!」

これで目覚めなければ、どうかしているというぐらいの大声を張り上げた。それでもしつこいカッツンは、まだ芝居を止めない。

「う~ん」

「ぎゃあっ!」

がたっ、と椅子を鳴らして私は立ち上がった。倉橋の姿が消え、押し潰されたような悲鳴が響いたのだ。カッツンの奴、倉橋を抱き寄せたに違いない。お前、そこまでやるか。

カッツンの手を振り解いた倉橋は、凄い勢いでオフィスを飛び出していった。これは、さすがにやりすぎだ。牧人はお腹を抱えて笑っているけれど、私は激しい怒りを覚えた。

カッツンは、倉橋の身体にべたべた触ったかもしれない。「お仕置き」だなんていっていたが、本当はおのれの欲望を満たしたかっただけではないのか。本当に、最低の屑野郎だ。そういえば私も昔、下着姿にさせられたっけ。

あの子、こんなことで辞めたりしなきゃいいんだけど、と私は心配した。

結果として、それは杞憂に終わった。倉橋は、そんな玉ではない。やられたら、十倍にも百倍にもして返す女だ。すぐにそれを、私は思い知った。

再び扉が開けられると、身体が凍りついた。倉橋が、清掃用のバケツを手にしている。普段よりさらに吊り上がった目が、怒りと復讐に燃え上がっていた。

「あっ、止めて!」

制止の叫びは虚しかった。倉橋は愚かにもまだ横たわっているカッツンに駆け寄り、バケツの水を思い切りぶちまけた。

「ぐわっ!」

勢いよく飛び跳ねたカッツンは、そのままソファから転げ落ちた。

「目が覚めましたか!」

倉橋は勝ち誇ったように叫ぶ。カッツンは、意味なく身体にかかった水を手で払う動作をしながら、ドタバタと駆け回っていた。

だらりとしたイチモツが右へ左へと揺れている。なぜこんなものを見なければならないのか、などと考えているうちに、私は阿呆らしさで我に返った。

あんな破廉恥な行為を企んでいることがわかっていたら、倉橋に居残りなんかさせなかったのに。私は後悔し、それから、いや、と思い直した。そもそも、カッツンが露出するつもりでいることは知っていたのだから、その時点で止めさせるべきだった。なのに協力するなんて、どうかしている。私は本当に、何をしているのだろう。

この職場の異常性に耐性がついて、判断をおかしくしてしまっているのだろうか。そうかもしれない。まったく、こんななところに染まりすぎるのも考えものだ。慣れると動くのが面倒になるかもしれないし、とっとと悪の巣窟からは抜け出さなければ。

そんなことを考えていると、カッツンがたてつづけに派手なくしゃみをした。慌てた様子でデイパックを開け、タオルを取り出している。私は思った。

もうお前は風邪を引いて、そのまま死んでしまえ。

 

 4


『ラブプロジェクト』の広告が復活するという話を、私は営業の人から聞かされた。

 そのため、二周年記念イベントの記事を紙面で大きく扱ってほしいという。幸い、メインが空いていたので、私は了承した。

あの店と関わるのは、久しぶりだ。私はちょっと緊張しながら、『ラブプロジェクト』に電話をかけた。するとあの仁科が出て、思いのほか気さくに、私のことをちゃんと覚えているといった。トラブルはあったけれど、牧人が綺麗に解決したので、どうやら好印象を持ってくれていたようだ。

取材の話自体は簡単に済み、その二日後に予定を組むことができた。

当日、倉橋とともにヒラさんのオデッセイに乗っていると、ふいにある考えが湧き上がった。

「今日の撮影は、あなたが仕切ってみる?」

隣に座っていた倉橋に向かって、私はいった。

思いつきを口にするのに、ためらいはなかった。カッツンの悪ふざけ以降、倉橋は言動を控えるようになっていたのだ。いままで傲慢に振舞っていた倉橋がおとなしくなると、今度は可哀想に思えてきた。私は方針を切り換え、そろそろ独り立ちさせようと心を決めていた。今の倉橋なら任せても大丈夫だろう。

倉橋は固い表情で前を見ていたが、ゆっくりと首を巡らし、笑みを浮かべた。

「はい」

「撮影内容は記事用の集合と、名鑑用の個人撮り。難しくはないから、やれるでしょ?」

「もちろん。女のコは何人ですか?」

「四人の予定なの。プロフィールの聞き取りは手伝うから」

「はい。お願いします」

軽く頭を下げた倉橋は、さっと喜びを顔から消して、またまっすぐ前を向いた。

それから程なくして、車は駐車場に停まった。昼間の明るい太陽の下では、くたびれた印象を与える繁華街を歩き、私たちは『ラブプロジェクト』が入っているビルに到着した。

今回は罪人扱いではないから、裏手の狭い階段ではなく、正面にある螺旋状の階段を堂々と上る。三階の扉を開けると、受付には仁科がいた。

「やっとおでましだな」

カウンターに両手を置いた仁科は、待ち構えていたようにいった。

「今日はよろしくお願いします」

「なにが、よろしくだ。今まで無視していたくせに」

「そんな。広告が落ちてたんだから、しょうがないじゃないですか」

私は愛想笑いを浮かべてみせた。

「そうか? だったら広告入れたんだから、わかっているよな?」

「えー、なんでしょうか」

「こいつ。記事だよ、記事」

そう来るだろうと思っていた。既に記事枠は確保しているが、状況を明かすわけにはいかない。いつ突発的な事態が生じて、調整が必要になるかわからないからだ。うっかり約束した後に、変更を余儀なくされたら大騒ぎになる。私は、とびきりの笑顔でごまかした。

ところでと話題を変え、撮影場所を確認する。前回案内されたほとんど何もない事務室とは違って、三階の方は、通路の両側にいくつもの小部屋が仕切られていた。以前は、ヘルスか何かだったのだろうが、これは撮影には狭すぎる。ただソファが置いてある、お客さん用の待合スペースが若干広い。仁科は、そこを使ってくれといった。

「二周年記念なんですってね、おめでとうございます」

 ヒラさんと倉橋が撮影の用意をしているのを横目に、私は仁科に話しかけた。

「営業から聞いたんですけど、女のコがたくさん入ったそうですね」

「ああ。主力がどさっと辞めて、苦戦してたんだがな。でも、もう大丈夫だ。これからは、攻勢をかけていくさ」

「それじゃあ、あの、杏奈さんは?」

「あいつも、辞めたな」

 仁科はそっけなくいう。と、倉橋が私の方をじっと見つめた。

「ん? どうかした?」

「いえ。二周年記念イベントの内容を確認したいんですが」

「あ、そうね」

 私は仁科から離れた。倉橋は彼からイベント割引の詳細について、聞いている。それが終わると、仁科がいったん出ていって女のコを連れて来た。

「……」

私は少し意表をつかれた。あらわれた四人全員が風俗慣れしていないような、普通っぽい雰囲気だったのだ。細身で髪をロングにしているコ、背が小さくておちょぼ口のコ、少し頬がふっくらとしたコ、艶やかなショートボブのコ、いずれもルックスはいい線をいっている。仁科が自信を覗かせたのも納得できた。スカウトで直接集めたのだろうか。

倉橋は四人の名前を順に尋ねて書き留めている。先に集合を撮る段取りとなり、女のコたち全員に下着になってもらった。小部屋から服を脱いだ四人が出て来ると、ヒラさんは並び方を指示した。

さすが、ヒラさんはわかっていた。最初に女のコを配置する際、ヒラさんは一番可愛いショートボブのコをソファの右端に座らせた。二カット撮影してから並び方を変えると、今度はショートボブのコを一番目立つ真ん中に導く。その後、周囲の配置は変えたが、ショートボブのコはずっと中央から動かさなかった。

倉橋はいいですよ、とか、もっと笑って、とか、しきりに声をかけている。初仕切りに張り切っているのがストレートに伝わってきて、私は口許を緩ませた。

集合を撮り終えると、次は個人撮りに移った。倉橋は手際よく仕事を片づけていく。下着姿で待機している女のコたちから、早速プロフィールの聞き書きをはじめた。仁科は時折茶々を入れながら、耳を傾けている。発言内容をチェックしているのだろう。趣味はホスト通いとか、読者の興味を削ぐような本音をいわれでもしたら困るからだ。

放っておいても倉橋は大丈夫だろうが、そろそろ私も手伝ってあげた方がいいだろう。ロングの女のコの撮影が終了したので、服を着終わるのを待って、私は近づいた。

「プロフィールを教えてもらいたいんだけど、いいですか?」

はい、と彼女は答える。私は立ったまま、年齢、スリーサイズ、星座……と毎度おなじみの質問を重ねていった。風俗暦を尋ねると、ここが初めてだという。勤めてから、まだ一週間に満たないそうだ。

「なんでまた、この店にしたの?」

好奇心を抑えきれなくて、私は仁科に聞こえないように、声を低めて聞いた。

「エステの募集広告を見て来たんです。でも、話を聞いたら、違うっていわれて。それで、店長に説得されて」

「ああー……」

なんじゃそりゃ、と私は呆れた。そんな反則技を使っていたのか。そういえば、偽の広告を使って女のコを集めるという手法は聞いたことがある。シロウトっぽいコばかりなのも当たり前、みんなこの業界は初めてなのだ。仁科なら、小娘を口説き落として風俗で働かせるぐらい、なんでもないことだろう。

こんなふうに普通の女の子が風俗に入って来るの見ると、私は何ともいえない気持ちになる。でも、だからといって、どうしようもない。納得した私は、それからは余計なことは聞かず、仕事に徹した。

問題なく取材は終わり、私たちは仁科に挨拶して店を出た。

「どうだった?」

「何がですか?」

「初取材の感想だよ」

 次の店に向かうためにオデッセイが走りはじめてから、私は倉橋に訊いた。

「別に」

 あれだけやりたがっていたのだから、素直な喜びのコメントが聞けるかと思ったら、無表情のまま、倉橋は答えた。可愛くないわね、と私は眉をひそめる。

「あなたも、もう一人前だもんね。そうだ、読者のハガキコーナーもあげようか?」

 会話が途切れそうだったので、私はそんなことをいった。

「いえ、それは里美先輩がやってください」

「え、嫌なの?」

「それは里美先輩が適任ですから」

 硬い声で、倉橋はいう。徹底して、突き放すような態度だ。私は、小さく肩をすくめた。やっぱりこの子は、口のきき方を知らないなあ。

 倉橋は、私と話したくないようだ。だったらもう無理して喋らなくてもよさそうなものだけれど、黙っているのも気詰まりなので、私は話題を探した。

「ねえ、どうしてウチに来たの?」

 尋ねると、倉橋は黙りこむ。静かな時間がつづき、ついに無視するのかと呆れた。

ううん、これはもう駄目だな。

 今度こそ私は匙を投げて、前を向く。しかし、長い間を開けてから、倉橋は口を開いた。

「昔から文字を書くのが好きで、それで、転職を考えた時に編集がいいかなって」

「あ、そうなの」

「里美先輩は、どうしてなんですか?」

「私も同じだよ。編集者になりたかったの」

「先輩は新卒だったんですよね? どうしてY出版なんですか?」

「他の出版社は面接で落ちちゃったのよ。でも、まだ諦めてないよ。ここでスキルを磨いて、いつか転職してやろうって思ってる」

 宿願を口にする時、私の口調はつい力強くなる。しかし、熱い想いは伝わらず、倉橋は眼鏡の奥の目をいっそう細くしただけだった。

「それなら、東京へ行くべきなんじゃないですか?」

「え?」

「大阪なんて、そもそも出版社がほとんどないじゃないですか。だからまずは、東京の風俗出版にでも勤めて、働きながら面接を受けたりした方がいいでしょ?」

 悔しいけれど正論だった。私が反論できないでいると、「里美先輩って、考えているようで、あまり考えていないんですね」と、私の神経を逆撫でするように追い討ちをかけた。さすがに、かあっと頭に血が上る。

ハリネズミを相手にしているような気がした。なんて攻撃的な子だろう。これでは、まともに話すこともできない。今まで仕事をさせなかったことの復讐だろうか。或いは先日のカッツンのセクハラが原因で、私に対しても恨みを含んでいるのかもしれない。

平和主義の私には向かない後輩だった。関わっていてもろくな目に遭わないし、もう早く仕事を渡して、独立させようと腹を決めた。

 けれど……と、私は倉橋の台詞を反芻する。東京に行くべきという、彼女の指摘は正しい。転職したいのなら、そろそろ私はY出版など辞めた方がいいのだろう。

 さて、どうしようか。私は倉橋との会話を打ち切って、一人思考に沈んだ。


 5


 倉橋の冷たい言葉にも、良い効果があった。Y出版を辞める方向に、私の気持ちを大きく傾かせてくれたのだ。

 東京へ行き、また風俗出版社に勤める。入道のように転勤は認められないだろうけれど、別の風俗出版ならすぐに採用されるだろうと思った。それから、ステップアップを目指せばいい。それが、目標に到達するための正しい道のりだった。

東京に行こうという考えは、ほぼ確定事項へと変わっていった。しかし、それを実行に移すとなると、ひとつ問題がある。牧人と別れなければならないのだ。副主任としての立場がある彼ならば、当然Y出版に残りたがるだろうと私は決めつけていた。

 けれど──試しに夜、アパートで二人きりの時に「私、東京で働こうと思うの」といってみたら、彼はしごく簡単にこう応じた。

「それなら、俺も一緒に行くよ」

「え?」

 私は目をしばたたいた。

「本気なの?」

「うん。だって、サトちゃんと別れたくないし」

「あ、そう……」

 私は、まさか牧人がそんな態度に出るとは考えていなかったので、大きな戸惑いを感じた。仕事を簡単に捨てられるほど、この人は私を愛していたのか。

「大阪に未練とか、ないの?」

「全然。俺、元々長崎出身だし」

「そう。でも……ヒモになるつもりじゃないでしょうね?」

「まさかぁ。水商売でもやるよ。俺って、接客業の方が向いてると思うんだよね」

「Y出版はどうするの? あんなに新聞班のために行動してたじゃない」

「そりゃ副主任だし、責任があるからね。でも、辞めた後のことまで心配する義理はないよ。なんとかするんじゃない? 今までもそうやってきたんだし」

 街なかでスカウトしたりするほど、人員の確保には熱心だったのに、案外ドライなんだなと私は驚いた。でもまぁ、そんなものかもしれない。

「そっか。じゃあ、行く時は一緒に来てくれる?」

「いいよ。楽しみだなぁ。東京って、一度行ってみたかったんだよね」

 浮き浮きした様子でそんなことをいう牧人を、私は拍子抜けした気分で見つめた。牧人が来てくれるなら、もう何も障害はない。人の手当もあるだろうし、早めに辞職の意志を伝えるべきではないかと私は考えた。


 目標が定まると、気分はとてもすっきりした。カッツンも倉橋もどうでもいい存在に変わり、私の視界から外れた。奴らにいくら迷惑をかけられようとも、どうせあと少しの付き合いだ。私の心は早くも、まだ見ぬ東京へと飛翔していた。

そんななか、ある日私はSM面の手伝いで、ヒラさんとともに『迎賓館』を訪れた。撮影の相手は、あの凛華だ。傲岸不遜な女王様に会うのは、メロンパン事件以来だった。

ヒラさんと並んで一階の待合室に座ると、私は新聞を広げて自分の担当面をチェックした。新聞発売日の週頭には、こうして早刷りが上がってくる。ざっと見たところ、ミスはなさそうで、とりあえず私は安堵した。

次に私は詳細を読む。メイン記事は、大手のお得意様だ。写真の中では女のコが女子校生のコスプレをして、プレゼントの箱を差し出していた。期間限定で、お客様に女のコの手作りお菓子をプレゼントするというイベントだ。ただし、手作りというのは嘘で、市販のクッキーやらチョコやらを、お店側が包装しただけなのだけれど。

「どうもー」

メイン下に移ろうとしたところで声が聞こえ、私は壁となっていた新聞を下にずらした。明るいオーラを振りまいて、ボンテージ姿の凛華が歩いて来る。悠々とした足取りは、まさに女王様だ。その頬には、自信満々の笑みが浮かんでいた。

 親しい間柄だといっていいと思うのだけれど、彼女の場合いつ豹変するか知れないので、私は下僕のごとく低姿勢になった。凛華は腕を振ってついて来いと指示し、彼女に従う形で私とヒラさんは二階の一室に入った。

「ネットのムービー、更新してましたね。迫力ありましたよ」

 ヒラさんが撮影の用意をしている間、私はお愛想をいった。このコはとにかく褒めておけばいいから、決して扱いやすくはないが、単純ではある。

「あ、そう? やっぱ私ってオーラがあるもんねえ」

 ソファの上であぐらをかいている凛華は、からからと高笑いを放った。

「で、今日はグラビア?」

「いえ、新聞の方です」

「あ、そう。ちゃんと撮ってよね。Y出版って、いっつも写真はいまいちなんだから」

「どうも、すみません」

 私は逆らわずに頭を下げた。

と、凛華の口元が微妙に緩んだ。なにか、大笑いするほどではないけれども、少しは面白味を感じられるものを見つけた、とでもいうような。

「そうそう。もう一度さぁ、謎解き頼まれちゃってくれない?」

「はぁ、今度は何ですか?」

 私は警戒しつつ、問い返した。また、事件が起きたのだろうか。謎解きは大歓迎なのだが、広告を落とすだのといった余計なプレッシャーは、勘弁してほしかった。

「違うのよ。処女懐胎……じゃないけどさ。セックスしてないのに、女のコが妊娠しちゃったの。もう、堕ろしちゃったけど」

「え?」

 どういうことだろう。私は俄然、興味をそそられた。

 詳しく聞くと、なんでもM女として働いているユキという女のコが、生理が来ないので不審に思い、同僚のコが妊娠検査薬を持っていたので冗談半分に試してみたところ、陽性反応が出たのだという。

「でもね、ユキはカレシいないし、もう一年ぐらいセックスはしていない、もちろん客ともヤッてないっていうの。どう思う?」

「それは……うーん、なんでだろ」

 よく奇妙なことが起きる店だなぁと呆れつつ、私は腕を組んだ。

「お客に睡眠薬を飲まされて、それで眠っている間にヤラれちゃったとか?」

「それは、私も考えたけどね。でも、プレイ中に眠ったことなんかないんだって」

「そうですか……」

 困った。全然、わからない。なんだか試されている気がして、私は本気で考えこんだ。

「じゃあ、夜寝ている時に、男が侵入して犯された?」

「それぐらいしか、ないわよねえ。でも、防犯はちゃんとしているマンションなのよ? それに、ユキは普段睡眠薬なんて飲まないから、気づいて起きるはずだし」  

「そうですか。では、精液がついたものを何か挿入した……でも、そんなことで妊娠する可能性は、限りなく0に近いですよね」

 駄目だ。お手上げだった。

 本当に、プライベートで男との接触がないのなら、妊娠させた相手は客しかいないということになる。だが、女のコに気づかれずにセックスする方法などあるだろうか。

「ごめんなさい。SMはあまり詳しくないんですけど、M女さんてどんなプレイをするんですか?」

「女のコによってできるプレイ内容は違うけど、ユキは普通よ。縛ったり、スパンキングしたり……鞭はバラ鞭までだったかな。蝋燭もOKね。あとは目隠ししたり、首輪をつけて犬になったり、大人の玩具を使ったり」

 そんなことを詳しく聞いても、私は答えを見つけられなかった。すると、凛華は「わからない? じゃあ、あの人に訊いてみてよ」という。あの人とは、牧人のことだろう。

 私は、心の奥底で反発を感じた。また牧人に頼るのか、という悔しさがどうしても湧き上がってくる。自分でも子供っぽい意地だとは思うが、私はこれ以上、牧人に推理をお願いするのは嫌だった。ちゃんと取り組むのであれば、今度こそ一人で解決したい。

ヒラさんが「用意できたよ」というので、凛華はベッドの方へ歩いて行く。私はもう撮影に集中できなくて、ひたすら頭を悩ませていた。


 6


 妊娠の謎については、宿題として持ち帰らせてもらうことにした。期限を切られたわけではないから、気楽な立場ではあるが、私はその日は夜遅くまで必死に脳味噌を絞った。が、皆目見当がつかない。

翌日、謎が解けないために、ずっともやもやした気分を抱えていた私は、取材に出る前に、ヒガシさんに呼び止められた。

「サトちゃん。悪いんだけど、取材一本、追加してくれるか?」

「え? 急ですね。どうしたんですか?」

尋ねると、ヒガシさんは説明した。なんでも「いい新人が入ったので夕方に撮影に来てほしい」と、デリヘル業者から電話があったそうだ。突然だけれど、こちらは広告を入れてもらっている弱い立場だ。断るわけにはいかなかった。

「マッキーは予定が詰まってるから、無理なんだ」

「そういうことですか。いいですよ」私は、そこで気づいた。「あ、でもヒラさんは、今日の夕方はNGじゃないかな」

「それは大丈夫だ。溝口さんを押さえたから」

溝口さん。私はその名前を聞いて、小さく首を傾げた。Y出版の編集者になってもうすぐ一年になるというのに、まだ一度も顔を合わせていないカメラマンだった。

溝口さんには、なにかと風評が多い。

変わり者でやりにくいというのが、一般的な評価だった。それだけならまだしも、取材先でもトラブルが尽きない。先日も、撮影中に身体を触られたと女のコがクレームをつけ、その店は出入禁止となった。では、エロカメラマンなのかというと、別にそういうわけでもないらしい。悪い男ではないとも聞く。なんだかよくわからなかった。

私が入社して間もない頃、要注意人物と聞かされた桐島というカメラマンがいた。酒乱気味で、酔って通行人に喧嘩をふっかけたりするような男だ。二日酔いで気分が悪いというだけで、編集者に三脚を投げつけたという信じられない話もある。取材中に編集者と口論をはじめて、業者を呆れさせることも度々だったそうだ。

一度、桐島と一緒に取材に行った時には、やたらと愚痴を聞かされて大変だった。自分は腕がいい。こんなところで燻ぶっていていい人間ではないのだ。君は知らないだろうが、カメラの世界はこんなものではない。風俗出版社のカメラマンなんて最低だ。そんな話を延々と恨みがましく垂れ流すのだ。暗い気分が伝染して、私までげんなりした。そして終いには、金銭面で苦しんでいるから取材を入れてくれ、と頭を下げ出した。

桐島は、もしかしたら本当に腕がいいのかもしれない。彼のいうカメラの世界も、きっと華やかな空気で満たされているのだろう。けれど、そんなことは私には関係がない。うんざりした私は以後、取材を入れなかった。編集者と衝突を繰り返して自ら仕事を減らした桐島は、いつの間にか姿を消していた。

桐島は特殊な性格だったけれど、彼が抱えていたような不満は程度の差こそあれ、どのカメラマンも持っているようだ。Y出版のギャラはお世辞にも高いとはいえず、苦情の声はあちこちから洩れ聞こえて来る。他にクライアントを抱えていればまだいいけれど、ウチの仕事にのみ頼っている場合は苦しいだろう。禁止されているにもかかわらず、こっそり他の風俗媒体の仕事を請け負っているカメラマンもいる。

あまりにギャラが安ければ、やる気が出るはずもなく、昔に比べれば雑誌のグラビアの質は目に見えて落ちてきているということだった。

さて、どうしよう。溝口さんが桐島と似たタイプのトラブルメーカーなら、はっきりいって避けたいけれど……。

「どうかしたか?」

 私が黙りこんだので、不思議そうな顔でヒガシさんが尋ねてきた。私は慌てて「いいえ」と首を振った。今回は、急な依頼なのだからどうしようもない。もし変な人だったら、二度と一緒に回らないようにしようと心に決め、私はOKした。

 

溝口さんとの待ち合わせ場所までは、ヒラさんがオデッセイで送ってくれた。彼には、いつも頼りっ放しだ。辞める前に、一度ぐらい何かお礼をしなきゃな、と私は考えた。

まだ顔も知らない男はすぐに見つかった。駅へとつづく階段の脇に、スタンドバッグとカメラバッグを傍らに置いた背の高い人が立っていたのだ。ブルーのダウンジャケットの背中を丸めて立ち、正面のビルを眺めている。私が足を速めて近寄ると、彼はうつろな視線を向けてきた。

「はじめまして、小椋です」

「ああ、どうも溝口です」

溝口さんは軽く頭を下げた。間近で見ると、彼の大きさが意識された。たぶん、百八十センチはあるだろう。ごつい四角い顔に、眠そうな目、広がった鼻翼。気の弱い子供なら、怯えて泣くかもしれない人相だ。気の強い子供なら、石を投げるかもしれない。

「すみませんでした。いきなり頼んじゃって」

「いや、大丈夫だよ」

外見にはそぐわない小さな声で、溝口さんは答えた。いかつい容姿が、いかにも申し訳ないといった感じだ。案外、性格は温厚なのかもしれない。

私は歩きながら、撮影内容を説明した。といっても、カエデという新人のコの名鑑を撮るだけだ。Y出版は撮影件数ではなく日当として給料を支払うので、仕事としてはオイシイといえる。私は、当然喜ぶだろうと思った。ところが、話して聞かせている間、溝口さんはいたって反応が鈍く、ちゃんと耳に入っているのかいないのかすら、よくわからない。鈍い人なのかな、と私は内心首を傾げた。

目的のマンションは駅のすぐ近くだ。到着すると、エレベーターで四階まで上がり、私は薄汚れたチャイムを押した。

すると、扉を細く開けて、髪を金色に染めた男が首を突き出した。

「どうも、Y出版です」

「おお、来たか。早かったな」

ちっとも歓迎していない顔つきだった。いきなり微妙な空気が漂う。まるで、早いとまずいというような口ぶりだ。私は、ある予想を持った。いいや、もうすぐ終わるから、と彼が付け加えたので、それでおおよその筋書きが読めてしまった。

廊下では、ミニチュアダックスフンドが忙しく尻尾を振っている。女のコを喜ばせるために、店が飼っているのだろう。私は、足元を駆け回る犬をまたぎ越した。そして、左手の和室を覗きこみ、先刻から気づいていたシャッター音とストロボ光の正体を確かめる。

「先客みたいですね」

「ああ。少し待っていてくれ」

「撮影しているのは、どちらの方ですか?」

男は、関西では業界一位の風俗出版社の名前をいった。

やってくれるではないか。撮影の予定が入ったものだから、ついでとばかりに私たちも呼ばれたのだろう。まとめて撮れば時間を節約できるので、店にとっては都合がいいわけだ。けれど、それだけのことで急に呼びつけられては、堪ったものではなかった。それに、軽い扱いを受けたとなれば、やっぱり面白くない。

男はすまなそうな態度一つ見せようとしない。クライアントだけに文句もいえず、私たちは大人しく順番が来るのを待つはめになった。

待機場所となったダイニングは、半分以上は事務室と化していた。やたらと物が多くて、息が詰まるほどだ。ファイルや風俗雑誌を並べたキャビネットの横には大きな机があり、男はすでにパソコンに向かってホームページをいじっている。溝口さんは廊下にしゃがみこんで、ぱたぱたと走り回る犬を眺めていた。

私は開け放たれた襖の向こう側を見つめた。壁に張られた布が畳まで覆って、白い空間を形づくっている。その中で、下着姿のカエデが膝立ちの姿勢をとっていた。ルックスは、可もなく不可もなくといったところだ。それでも顔出しOKの新人となれば、店としてはできるだけ押したいところだろう。

私のいる場所からはカメラマンは視界に入らず、ポーズをつける声だけが聞こえてきた。慣れた口調に乗せられ、女のコは笑顔で積極的に応じている。さすがに上手いな、と私は感心した。

ウチと業界一位のライバル社とは、敵愾心を燃やしたところで埋めようのない開きがある。実売が違う、広告数が違う、反響のレベルが違う、紙面の充実度が違う。なにもかも大差をつけられていた。まぁ、もうすぐ辞める私にはどうでもいいことだけれど。あ、そうだ。東京に行ったら、あっちの方に勤めるって手もあるな。その線で、考えてみようか。

撮影が終わると、単独で来ていたカメラマンは一人で器材を片づけはじめる。ようやく、こちらに出番が回って来て、私は仕事モードに入った。

「あ、ウチの撮影もあるんで、お願いしまーす」

畳んだ衣服に手をかけていたカエデは、私の声に振り返った。

「えー、マジ? そんなの聞いてないよ。店長―」

「稼ぐためだ。頑張れ」

ダイニングから気のない励ましの声が届く。

「はいはい、そうですか。――どこの人なの?」

「Y出版です」

「あー」

カエデはわざとらしく二度ほどうなずいた。どうやら新人とはいっても、ウチの実力のほどを知っているぐらいには、業界歴は長いらしい。

店長に見送られて帰っていくカメラマンを横目に、私たちは急いで準備を整えた。再び白布をバックにしてカエデに立ってもらう。溝口さんは「じゃあね……」と口を開いた。

撮影が進むにつれ、溝口さんの欠点が嫌でも目についた。

カメラマンとしての腕に関する事柄ではない。それは見ただけでは、私には判断できない。そういうことではなくて、ポーズをつけ、シャッターを切るまでの間、溝口さんはずっと仏頂面のままなのだ。

本人は難しい顔をしている意識はないのだろう。しかし、ごつい輪郭が災いして、どうしてもいかつく目に映る。これは、女のコを撮る者としてはかなりのマイナスだ。

私が接したカメラマンはまず例外なく、柔らかく女のコに接する。あるいは冗談を交える。でなければ表情が固くなり、いい笑顔が撮れない。特に業界入りしたばかりのコだったら、緊張しがちだから気遣いが必要だ。現場を盛り上げるのは編集者の役目ではあるけれど、どうせなら安心して任せられるカメラマンを選びたい。溝口さんが避けられるのは、これが理由なのかと思った。

「はい、笑って」

ぼそぼそとした声で溝口さんは指示を出す。カエデの表情は変らなかった。

「笑えない? じゃあ、イーと発音する感じで」

カエデは申し訳程度に口を開いた。どちらもやりにくそうだ。先ほどに比べて、室温が急激に低下したように感じた。慌てて横合いからカエデを褒めちぎってはみたものの、取ってつけたようであまり効果はなかった。

わざわざ駆けつけたというのに、とうとうカエデの笑顔は戻らず、白けた空気のまま撮影は終了した。

おまけで呼びつけられた二人組は、最後まで軽く扱われるらしい。玄関まで見送ってくれたのは、元気一杯のミニチュアダックスフンドだけだった。中途半端に終わったもやもやを抱えてマンションを出ると、溝口さんが口を開いた。

「お茶でも飲もうよ」

初対面なので、コミュニケーションを取るべきだと考えたのだろう。今日の取材はこれでお終いなので、私は同意した。

足が向いたのは客の姿がない、さびれた喫茶店だ。いかつい顔で溝口さんはチョコレートパフェを注文し、私はコーヒーを頼んだ。

「甘いもの、好きなんですか」

「そうなんだよ。東京にいた頃は、ケーキの美味しい店を探して、食べ歩きしてたんだ。よく気持ち悪いっていわれたけど」

「へえ、東京にいらっしゃったんですか?」

「うん。印刷会社の写真部で働いてたんだよ」

「じゃあ、なぜ大阪に?」

「母親が癌を患ってるもんでね。親父も亡くなっていないから、看病のためにね」

小揺るぎもしなかった溝口さんの顔が、初めて動いた。眉をひそめて、悲しげな表情になる。

「それは大変ですね」

「うん、君も健康には気をつけた方がいいよ」

「ありがとうございます。今のところは大丈夫です」

「そうかい? でも、君んところは人が足りないからきついだろ? 大体みんな、一年ぐらいで消えて行くんだよね」

「平気ですよ。あはは」

私はわざとらしい笑い声を上げた。すでに辞職を決意しているというのに、我ながら実に調子がいい。

倉橋が独り立ちして、かなり戦力になってきているので、もう二、三ヵ月ぐらい待ってから、辞めようと私は心を決めていた。去ってからの心配までする義理はないのだけれど、いっぺんに牧人と私の二人が抜けるのだから、後を濁すまねだけは慎もうと考えている。

辞めると決めたら、途端に気が楽になった。ひたすら酷使されてストレスが溜まっているから、まずは羽を伸ばそうと決めている。できれば牧人と温泉にでもいって、ゆっくりしたい。今はそういった妄想が、私の元気の源になっていた。

「でも疲れた顔してるよ。そうだなあ。もっと暖かくなったら、行者にんにくでも持ってきてあげるよ」

「ギョージャにんにく? なんです、それ」

苦いだけの不味いコーヒーをすすりながら私は尋ねた。

「山菜なんだけどね。昔、行者が元気をつけるために食べたんだ。で、にんにくの香りがするから、行者にんにくっていうんだよ。生でも食べられるけど、てんぷらにしても、おひたしにしても美味しいよ」

「それ、栽培してるんですか?」

「他にも色々あるよ。ごぼう、アスパラ、きゅうり、トマト、スイカ、大和芋、スナックえんどう、さとうきび、朝鮮人参……」

指を折る溝口さんの動作が一向に終わらないので、私は呆気にとられた。

「それから、ハバネロ」

「ハバネロ?」

「面白そうだなと思って。ぜひつくってみたくてさ。そんなに手間はかからないから」

頭がこんがらがった私は話を整理する必要性を感じた。なぜ、行者にんにくだのハバネロだのといった単語がカメラマンの口から出てくるのか、わからない。ましてや、ハバネロのどこが面白いのか。まったく、理解不能だ。

「えーと、溝口さんって農業と兼業なんですか?」

「兼業っていうか、実家に三百坪ほど畑があってさ。以前は米だの白菜だのつくってたんだよ。だけど親父はいないし、母親は農作業ができないから、俺が勝手に好きなものをこさえてるんだ」

「へえー」

河内長野に生まれ育った溝口さんは、少年の頃、親に買ってもらったカメラで花や風景の写真ばかり撮っていたそうだ。自然が好きで、写真学校の卒業制作では一週間車に寝泊りして、富士山を撮影したのだと溝口さんは懐かしそうに話した。

「じゃあ、風俗出版社のカメラマンをやってるのは不本意ですか?」

質問する私の頭には、桐島の憂鬱そうな顔が浮かんでいる。

「うん? それはないよ。普段は畑耕して、時々カメラの仕事して、空いた時間で好きな写真を撮って。考えようによっては優雅な生活だよ」

「そんなもんですか」

「畑仕事も大変だけどさ、楽しいよ。ウチでできる桃なんてさ、近所でも評判なんだ。『溝口さんのところの桃はものが違う』って」

「はあ」

「でも、気をつけないとね。縮葉病になったり、ハダニやアブラムシがついたりするからね。殺菌剤と殺虫剤を散布してやるんだ」

「へえ……」

「それから暖かくなるとモグラが出てくるからね。ナフタリンを撒いて追い払わないと」

「そうですか。モグラが」

溝口さんの周りには、敵がうじゃうじゃいるらしい。

なぜ、誰もが溝口さんを避けるのか、私はようやく理解に至った。これは相当ズレている。なにせ仕事が入らないというのに、なんら危機感を持たず、初めて会った編集者に農作業の講釈を聞かせるのだ。かなり、浮世離れしている。

桐島といい、溝口さんといい、どうしてY出版にはカメラマンまで変人ばかりが集まるのだろうか。しかし、桐島と違って溝口さんは好感の持てる人物だ。きっと溝口さんは、美味しい桃を育てる能力には長けているのだろう。そして、そんな男が女のコを撮るのが不器用なのも、当然なのかもしれない。

会社に戻ってから、溝口さんの写真についてヒガシさんに訊いてみた。

「そうだな。ほら、これを見てみろよ。溝口さんが撮ったグラビアのシートだけどさ。一応、色んなポーズを撮ってるけど、胸を強調したものが一枚もないだろう? 多分、見せ所というものを、ちっとも理解していないんだと思うよ。あの人、撮るのは早いけどね。そりゃうまくて早いんなら文句はないけど、ろくな写真が上がってこないのなら、手を抜いているとしか思えないな」

手を抜いているのではない。溝口さんはハバネロほどには、人に興味が持てないだけなのだ。



私は週のうち、半分は溝口さんと一緒に取材に駆け回るようになった。

今まではヒラさんをメインにして、それ以外は複数のカメラマンにまんべんなく依頼していたのだけれど、それを、ヒラさんにお願いする時以外は、すべて溝口さんに任せるという形に変えた。どうせもうすぐ辞める身なのだから、その前に少しぐらい、仕事に恵まれないカメラマンに協力してあげてもいいじゃないか。そんなふうに考えた結果だった。

慣れてくると、溝口さんはちょこちょこ冗談をいうようになった。よく知れば、全然悪い人ではない。ただ、撮影時の彼はむっつりしていて、とても印象が悪かった。そのため、溝口さんは、時々トラブルを引き起こした。

ある日、待ち合わせ場所に行くと、いつもよりひどい仏頂面が私を迎えた。聞けば、風俗店から女のコが触られたと苦情が入り、ヒガシさんにこっぴどく叱られたのだという。

「俺、触ったりなんか、してないんだけどな。不思議だなあ。なぜなんだろ。君だって知ってるでしょ?」

知っている。溝口さんは、その点に関しては注意を払っている。ついでにいえば、女のコに指示を出しながら、なれなれしく身体に手を置くカメラマンはいくらでもいる。けれど、他のカメラマンは苦情をいわれない。なぜか。溝口さんは女のコに嫌われるからだ。だからちょっと触れただけでも、意地の悪いコならクレームをつけてくる。そして相手がクライアントである以上、文句を言われたら負けなのだ。つけ入られる隙を見せた側が悪いのだ。それを溝口さんは理解していない。

はっきりいって周りが見えていない溝口さんと仕事をするのは疲れるし、やりにくいだけでメリットはない。それでも私は取材を入れつづけ、職場で溝口さんの話題が出れば、弁護の側に回った。私は、少し溝口さんに肩入れしすぎていた。その結果、ちょっとだけややこしい事態が生じた。

それは、取材から帰って撮影済のフィルムをチェックしていた時だった。私を呼ぶ声がしたので顔を上げると、ヒガシさんが手招きしていた。

「サトちゃん、スケジュールが一杯でマッキーが動けなくなったんだ。来週、〞BEST GIRL〟の撮影に行ってくれ」

〞BEST GIRL〟とは、新聞のグラビアページの名称だ。扱うのはルックスとスタイルを兼ね備えた女のコで、毎回、クライアントの風俗店から厳選される。読者の反応が多く見込めるので、店側や営業からの要望が多いページだ。これは以前月刊誌班にいて、グラビアには慣れている牧人が担当していた。

「ええと、私も結構きついんですけど……そうだ、アヤちゃんは?」

「あいつは、嫌だそうだ」

「え?」

「グラビアやりたがってたから、やらせてやろうと思ったんだがな。詳しい説明をしたら、拒否したんだよ」

「?」

 なぜなんだ。さっぱり、わからない。

「お店、どこなんですか?」

「『アメジスト』だ」

「……なんか、聞いたことがあるような」

「そりゃ大手だからな」

「いえ、そういうことではなくて……あっ」

思い出した。写真掲載で不手際があったために、牧人と『ラブプロジェクト』に謝罪に行った、あの時だ。最後に月刊誌の処理に向かった店が、確か『アメジスト』だった。

「あそこ、クライアントでしたっけ?」

「落ちていたが最近、復活した。で、営業が力を入れてくれといってるんだよ」

なるほど、それでグラビアか。私は理解した。

「行けるな? カメラマンは誰を押さえる?」

「では溝口さんを」

聞くなり、ヒガシさんは顔をしかめた。

「止めておけよ、溝口さんでグラビアは」

「なぜです? いいじゃないですか」

「失敗するぞ」

「そんな、決めつけないでくださいよ」

「心もとない腕前。わずかしかない引き出し。ひたすら寒い現場。どうすれば期待できる?」

冷静に手酷くこきおろされ、さすがに私は返す言葉に困った。

「カメラマンはいくらでも空いているんだ。他にしておけ」

「いえ、大丈夫ですよ。ちゃんと、ついてますから。いい写真撮ってきます」

力をこめて主張する私を、ヒガシさんは冷たい視線で射た。

「……そこまでいうなら任せるが、自分の言葉に責任を持てよ。失敗したら許さんからな」

「了解しましたっ」

元気よく敬礼し、席に戻った。しかし、後悔がはじまったのはそれからだ。

つい勢いで請け合ってしまったけれど、当然のことながら勝算はまるでなかった。調子に乗って無茶な約束をしたものだ。シャッターを切るのは他でもない、溝口さんなのだ。落ち着いて判断すれば、ヒガシさんの方が正しいとわかる。

つっぱる必要はないのに反発したのは、溝口さんへの同情があったせいだろう。けれど、私がいくら力んだところで写真の上がりが良くなるわけでもない。どう贔屓目に見ても、分のない勝負だった。

次の日、私は溝口さんに会うと、グラビア撮影の件を伝えた。すると、

「うわ、久しぶりだなあ。グラビアって定期的にやらせてくれないと、腕が鈍るんだよね。大丈夫かなあ。他の人でもいいんじゃないの?」

出て来るのは、こちらの頭が痛くなるような台詞ばかりだった。

ごめんなさい、間違っておりました。弱気になった私は、泣きを入れて許してもらおうかと考えた。しかし、あれほどはっきりいい切っておいて、すぐさま撤回するのは、いくらなんでもプライドが許さない。叱責を受けたくないから、尻尾を巻いて逃げ出すというのも情けない話だ。別に出来が悪かったところで、命までとられるわけではない。やるだけやってみればいいのではないか。

いっちょ、挑戦してやろうじゃないの。私はそう心に決めた。

本来、グラビアは編集者とカメラマンが話し合い、二人三脚で撮るものだ。手が出せない、口が出せないというものではない。まだ私には努力の余地は残されていた。

だが、いくら頭を悩ませても、恥ずかしいぐらいイメージは湧いて来なかった。

それはそうだ。入社してからというもの、忙しさに追われて、写真の勉強には手をつけていないのだから。月刊誌の手伝いでグラビア撮影には何度か立ち会ったものの、せいぜい事前にヌード写真集から何点かポーズを選んでおき、カメラマンに「これと同じものを」と頼むぐらい。素人とさほど変わらないレベルだった。

手はじめに、私は一眼レフカメラの基本的な説明を読んでみた。ところが、スタートして早々に音を上げた。F値だのEVだのといった記述のあたりで、頭が受けつけなくなったのだ。機械音痴の私はカメラの操作がどれほど複雑か、想像すらついていなかったのだった。我慢をして読み進めても難解になっていくばかりなので、ほとほと嫌になった。

私に機械の勉強を強いるのは、豚に空を飛べと命ずるのと同じだ。根本的に無理がある。本を閉じた私は開き直った。編集者がカメラの理論を知ったところで、ほとんど役に立ちはしない。やるだけ無駄というものだ。

次に、私はポートレートの撮影法に関する本に手をつけた。これはまだ理解が可能だった。逆光や順光の利用法、構図のつくり方などの記述は興味を持って読めた。読者として写真を眺めているだけではわからない、様々な技術が新鮮で面白い。

何冊か拾い読みし、付け焼き刃の知識を蓄えたところで、ロケハンに行こうと決意した。グラビア撮影には、なにより女のコが絵になる場所選びが重要だ。

撮影場所に関して、私は溝口さんに意見を求めた。

「そうだなあ。今は三月だけど、発売は四月なんだよね? やっぱり花をあしらうのがいいかな。ありがちだけど、大阪城公園はどう?」

「じゃあ、行ってみましょう」

「えっ、今から?」

私は、畑仕事があるからと帰りたがる溝口さんを引き連れて、地下鉄に乗った。溝口さんは、張り切っているんだねえ、と他人事のように感心していた。

森之宮駅で降り、階段を使って地上に出る。

さてどこから探そうか、と悩む間もなかった。中央大通りを貫く高速道路の大きな高架が目に入り、その向こうに、風に揺れている満開の木々を発見した。大阪城公園の南西端の入口側に当たる一角だ。

「すごい。もう桜が開花したんですねえ」

「……」

溝口さんは黙ったままだ。交差点を渡ると、私は自然と早足になった。白い花の群れの美しさが徐々に鮮明になる。足を止めた通行人が、ケータイで撮影をしている姿もあった。

私は幾重にも重なる花々の下に立ち、じっくりと観賞した。今年は記録的な暖冬で桜の開花も早まる、と報道されていたことを思い出す。思わぬ形で、天が味方をしたわけだ。

「きれいですね。桜の花をバックに撮れば、絶対いいグラビアになりますよ」

頬がほころぶのを自覚しながら、私はいった。あまりにも簡単にことが運ぶので、グラビアの成功も約束された気分になる。

しかし、溝口さんは首を横に振った。

「サトちゃん。ほら、足元」

「え?」

溝口さんは、地面から低く突き出ている簡素なプレートを指さしていた。そこには「ベニスモモ」という表示がなされている。

「モモ?」

「よく見てごらん。葉っぱが赤いだろ? だからベニスモモというんだ。確かに花弁は桜に似ているから、間違うのは無理ないけどね。いくら今年が暖冬でも、桜の開花はもうちょっと先だよ」

「……」

「でも背景をボカせば、桜っぽくなるだろうからね。ここでいいんじゃないかな」

「ああ、そうですよね」

「じゃあ、ロケハン終了だ。せっかくだから、花見をしようよ」

「え?」

「サトちゃんは、お酒は苦手かい?」

「いえ、嫌いではないですけど……」

 本当に、溝口さんはマイペースだ。私は呆れたけれど、まぁいいか、と納得した。たまには息抜きしないと、こんなひどい仕事、やっていられない。

 私と溝口さんは交差点に接しているコンビニで、ビールとつまみを買いこんだ。ベニスモモの咲く一帯を囲んでいる石垣の上に陣取り、少々気の早い花見とシャレこむ。大阪城公園に到着してから、まだ十分と経っていなかった。

私は歩き回り、ベニスモモがより美しく映えるアングルを探した。女のコが花に手を差し伸べたり、唇を寄せたりするポーズはありきたりだから、できるだけ避けたい。そんな絵作りよりも、花と女のコを構図の中でどう配するか、そこに狙いを置きたかった。

ちゃんと編集者らしいじゃないの。私は自分の姿に感動した。同時に、工夫を凝らすのは楽しいものだと知った。センスを発揮できるとなれば、やりがいもある。グラビア撮影には時間さえあれば、もっとのめりこみたいと思わせる魅力があった。

「ローアングルから撮るのも、いいですね。女のコにカメラを覗きこんでもらうポーズはどうでしょうか」

「どうかしちゃったのかい?」

「なにがですか?」

「いつもと違うよ。やる気に満ちてる」

しゃがみこんでいた私は、さきいかをくわえている溝口さんを見やった。

「なにをいってるんですか。才気溢れる編集者が、私の真の姿ですよ」

「そうかい? じゃあ、俺は才能豊かなカメラマンかな」

「虚しいから、止めましょうか」

「そうだよね」

立ち上がり、溝口さんの隣に腰を下ろした。

「実は心配してたんだよ。君は、なんとなく仕事に熱意がないみたいだったからさ。もしかしたら、辞める気なんじゃないかって」

「……」

あからさまに手を抜いたつもりはないのに見抜かれていたので、私は驚いた。普段はひどく鈍感なのに、たまには鋭い洞察力を発揮することもあるらしい。

「そうですね、近いうちには」

別に隠す必要はない。私は正直に答えた。

返事を聞いた溝口さんは目を見開き、そうかあ、と呟いた。

しばらく、間が開いた。溝口さんは一本目を空け、次のビール缶に手を伸ばした。

「辞めてどうするの?」

「東京に行きます」

「編集の仕事はつづけるの?」

「ええ。それが夢ですから」

溝口さんはまた、そうかあと呟き、顔を上げた。まねをしてみると、そこでも枝が伸びていて、視界が花で満たされる。溝口さんのぼそぼそとした声は撮影には不向きだけれど、しんみりした話にはよく似合うなと考えた。

「残念だけど、しょうがないよなあ。普通に考えても、この会社にはいられないもんなあ」

私は何度も首を縦に振る。

「でも、悪いことばかりでもないんだ。編集の勉強をするつもりなら、こんなにいいところもないよ」

「わかります。ペーペーからでも仕事をさせてもらえますからね」

とにかく戦力が足りないから、新兵であろうと即席で鍛え上げ、戦場に送り出さなければならないのが我が編集部の実情だ。だから辛くはある反面、やりがいを感じられる場面も多い。その代わり、扱いはひどいわけだけれど。

「うん。Y出版では、貴重な経験がたくさんできる。だから、ここを出発点にして飛び立つというのはごく自然なことだよ。寂しくはあるけどね」

 溝口さんの言葉に、私は入社してからの時間を振り返った。変な人ばかりだったし、殺人事件にも遭遇したし、とても濃い一年だった。たぶんY出版で過ごした日々は、忘れられない思い出になるだろう。

 そう、ここは思い出にするべき場所だ。長居をするところではない。溝口さんのいう通り、私は飛び立たなければならなかった。

「こんな酷いところで耐えたんだから、君はどこにいっても大丈夫だよ。頑張ってね」

「ありがとうございます」

 溝口さんが手を差し出してくるので、私は彼と握手を交わした。


 8


月刊誌班に入った新人が、出社時間の十二時を過ぎても姿をあらわさなかった。デスクがケータイに幾度も連絡を入れたが、留守電に切り替わるだけで一向に返信を寄越さないという。その日の夕方、本人から電話がかかって来て、退社の意思を告げたと聞かされた。

これでいったい、何人の脱落者を見て来ただろう。穴の開いたバケツに水を注ぐ虚しさと同じだ。それはそうだろうと思う。これほど酷い労働条件に耐えられる人間なんて、そうそういるはずもない。

私も見切りのつけ時だった。そろそろ用意しておこうと思い立ち、ネットで辞職届の書き方を調べた。五分もかけずに手早くパソコンで打ち、完成させる。これを編集長に突きつければ、この会社ともきれいさっぱりお別れだ。

社スタで撮影を終えてから、皆を送り出し、ソファに一人座って辞職のタイミングについて思考を巡らせていると、ひょっこりと倉橋が顔を出した。

「どうしたんです。サボりですか?」

倉橋はツカツカと歩いて、目の前を通り過ぎていった。壁際のポールに、撮影に使うためのコスチュームがずらりと吊られている。熱心になにかを探している背中を眺めているうちに、私は先日のヒガシさんの言葉を思い出した。

「ねえ、アヤちゃん。〞BEST GIRL〟断ったんだって? なんで?」

「ノーコメントです」

 とりつく島のない回答だった。

「グラビア、やりたくないの?」

「……」

 倉橋は沈黙を守っている。私は小首を傾げた。これだけ頑なに喋ろうとしないのには、きっと理由があるのだろう。しかし、それがさっぱりわからない。

さらに重ねて質問してみても、倉橋は一切答えようとしない。私はやむなく、話を変えることにした。

「私ね、会社辞めるつもりなの」

コスプレ用のセーラー服を引っ張り出した倉橋は振り返り、私を強い視線で見つめた。

「アヤちゃんのいう通り、東京に行くべきだと思ったから」

「そうですか」

「たぶん後が大変だろうけど、でも、あなたは辞めないでね。頑張って」

「心配は必要ないです」

平坦な声でいってから、倉橋はすっと視線を落とした。

「その決意は変わらないんですか?」

「え? うん」

「……そう」

なぜか、倉橋の表情が暗く沈む。私は不思議に思った。東京に行けといったのは、倉橋であるはずなのに。

仕事がきつくなるのが嫌なのだろうか。確かに本来新聞班は六人体制であるはずなのに、現状五人で、この上さらに抜けるのだから、これは厳しい。不安になるのも当然だった。私は、少し同情した。

しかし、この期に及んで迷いは禁物だ。たとえ今回思い止まったとしても、どうせいつかは辞めななければならない。同じ悩みを何度もいじくり回すぐらいなら、すっぱり決断を下した方がいいに決まっていた。

それから三日が過ぎて、〞BEST GIRL〟の撮影の時がやって来た。

ここまで力を入れたグラビア撮影は初めてなので、私はこの日を心待ちにしていた。ロケハンは済ませたし、どんな絵にするか入念に考えて完璧に用意を整えている。勝利は、確実に手に入るはずだった。

天気は予報通り朝から快晴で、まずは幸先がよかった。悪天候であれば、ホテル撮りだけでお茶を濁してもいい訳は立つけれど、そんな心配はいらない。

相手方とは現地で落ち合う段取りになっていた。私と溝口さんはまず京橋にあるホテヘル店に直行して、名鑑を撮影した。顔出しNGの人妻が一人だけなので、問題はない。あっさり終わって時間は充分に余った。それでも早めに準備をしておこうと、大阪城公園に向かった。到着したのは、約束の一時間以上も前だ。

そして、私は言葉を失った。状況が一変していたのだ。

花の美しさに変わりはなかった。変わっていたのは周りの光景だ。春めいた陽気と、満開のベニスモモに誘われた学生らしい若い集団が、そこここでビニールシートを広げ、のんびりと午後を過ごしている。

「……なにこれ」

 私は茫然と立ち尽くして呟いた。

「これは、とんだ伏兵がいたもんだねえ」

 溝口さんは頭に手を当てて、困った顔をしている。

衝撃から覚めた私はがっくりと項垂れた。最悪の事態だ。こんなに人で溢れ返っていては、まともな撮影はまず望めない。

「もう、こうなったら、今からでも他の場所を探して――」

「どこも同じじゃない?」

「……」

「いいさ。あそこで撮ろうよ」

彼が指差したのは、ベニスモモの咲く一帯の中央。そこには、私の背丈を少し越える高さに石を積んだ長大な直方体の建築物がある。その直方体の短い一辺の裏手に、人が通れるスペースがあった。溝口さんはそこで撮影しようというのだ。

そんな限られた場所では、たいした絵作りはできない。女のコの立ち姿の後方に花を配して、それでお終いだ。工夫を凝らす余地はどこにもない。

「撮影だからって、追い出せないだろ? 諦めようよ。この仕事は常に制限がつきまとうものさ。狭くたって、写真は撮れるんだから」

溝口さんが慰めるように、いう。その通りだ。最低限の写真は撮れるのだから、まだましといえる。仮に写真の出来が悪かったところで、それがどうしたというのか。ヒガシさんはそれ見たことかと、私を叱責するだろう。私は予定が狂っちゃってとかなんとか、いい訳を並べる。それだけのことではないか。

勇んでやって来たら足元をすくわれ、オチもついた。これで終わりだ。私は両手を挙げて、降参しようとした。

待って、それは違う。

怒りに似た感情がこみ上げ、私は両の拳を握った。表情を引きしめる。本当に状況が絶望的なら、やむを得ないだろう。しかし、まだどうにかなる可能性はあるはずだ。だったら、頑張ってみるべきではないか。今回は、挑戦すると決めたのだから。ここで止めるぐらいなら、最初から努力しなければよかったのだ。

たった一つ狂いが生じただけで、投げ出してはいけない。写真は発想力だ。アイディアさえあれば、良い写真は撮れる。

忘れてはいけない。私は編集の仕事がしたくて、この仕事がしたくてやっているのだ。

人の苦労も知らず、若者たちは誰もがくつろいだ姿勢で楽しげに談笑している。私は焦らないよう心を落ち着かせながら、彼らを見つめた。

散り落ちた花びらが、周囲に様々な白い模様を描いている。

ひとつの考えが閃いた。

「溝口さん、高速度撮影はできるんですか?」

「うん? どうしたの」

「花びらを女のコの手に乗せて、吹き飛ばしてもらうのはどうでしょうか。女のコの横顔と、青空に舞う花びら」

「ああ、いいんじゃない」

「できますか?」

「モータードライブを内蔵しているから、そりゃ可能だけどね。成功するかなあ」

「やるだけやってみましょうよ」

「で、花びらはどうすんの?」

「もちろん拾い集めるんです」

アイディアを実行に移すために、私はしゃがみこんだ。一枚ずつ花びらをつまみ上げては、手のひらに乗せていく。溝口さんはよくやるなあ、と呟きつつ、手伝ってくれた。

私たちは小一時間かけて花びらを集め、それを花見客に貰ったコンビニのビニール袋の中に落とし入れた。袋の底にぴったり張りついた花びらは、ひどく頼りない印象だ。無駄なあがきをしている気分になる。

やがて業者からケータイに、タクシーで到着したという連絡が入った。ついに、待ちに待った本番だ。私は交差点まで迎えに出向いた。歩道の上には、スーツをきっちりと着こなした一見営業マン風の店長と、黒のミニワンピを着た女のコが並んで立っていた。

彼女の源氏名は円香、細くて顔のつくりが小さいコだ。修正しているはずの広告写真と比べても、さほど遜色がない目鼻立ちだった。被写体としては文句なしだ。挨拶すると、円香は鼻にかかった甘ったるい声で応えた。

「わあ、すごい。桜が咲いてるやん」

撮影場所まで二人を案内する途中、ベニスモモを目にした円香は、喜んで手を打ち鳴らした。

「今年は暖冬だったからな」

したり顔で、店長が解説した。

「そっか、それって温暖化のせいなんかなあ。怖いねえ」

円香は弓なりの眉をぐっと寄せて、難しい顔つきになった。せっかく環境問題に目覚めた女のコに、水を差してはいけない。私は訂正せず、沈黙を守った。

「では、お願いします。いい写真撮ってくださいよ」

円香を私たちに預けた店長は、言葉と笑わない目でプレッシャーをかけてきた。『アメジスト』は、新聞、求人誌、月刊誌のすべてを合わせて一度に百万以上も広告料を払ってくれたという。これで効果がなければ、すぐに切られてしまうかもしれない。それを防ぐという意味でも、私は頑張らなければならなかった。

溝口さんは予定通り石造りの建築物の向こう側へ、円香を連れて行った。そして、私に持たせたレフ板の角度を調整し、円香にポーズをつけてはシャッターを切っていった。

人待ち顔で壁にもたれかかる。晴れ渡った空を見上げる。しゃがみこんで頬杖をつく。円香の動作の一つひとつを、溝口さんはフィルムに収めていった。指示を出さなくても、円香は唇をアヒル口にするなど、様々な表情をつくってくれる。自分の商品価値を知っていて、それを最大限に利用するすべを心得ていた。

一本撮り終えてフィルムの交換をしている間、私は円香に話しかけた。なんでも趣味はパチスロで、特技は目押しだそうだ。一度に四、五万円は突っこむという。この仕事は苦にならないのかと問うと、「全然。カレシにするのと、同じやし」と円香は返した。風俗嬢としては満点の答えなので、私には何もいうことはない。

ポーズを変えてさらに一本撮り終えてから、溝口さんがあれ、やろうかといった。

「円香さん、これを持ってもらえませんか?」

「えっ、なんですかあ」

円香に両手を出してもらい、袋からつまみ出した花びらをひらひらと落とした。多少、土で汚れていても、苦労して集めた大事な小道具だ。こぼさないようにして、慎重に渡す。

「これをね、ふっと息で飛ばしてもらいたいんですよ」

「吹けばええの? おっけえい」

明るく軽々と応じ、円香は小ぶりな横顔を見せてすっと立った。

「ヌケに枝が入るようにして、と。いいかい、一、二の三、で撮るからね」

溝口さんはカメラを構え、ファインダーを覗きこんだ。

「それじゃあ、いくよ。……一、二の三!」

「きゃっ!」

いきなり小さな悲鳴が上がり、私はのけぞった。息を吹きかけた途端、浮き上がった花びらが逆流して、まともに円香の顔を襲ったのだ。

「ああ、しまった。風向きを計算してなかった」

茫然として溝口さんが呟く。あまりにも間抜けな失敗に私は地団太を踏みそうになった。

これで終わり? あれだけ頑張って準備したのに、実に呆気ない最後だった。けれど、もっとも力を入れた撮影で、こんな恥ずかしい失敗を犯していたら、どうしようもない。基本的な注意点を忘れていたのだから、二人ともどうかしていた。初めての試みなのだから、一度実際にやってみるべきだったのに。花びらを用意できた時点で、満足してしまったのが敗因だ。

私は素早くビニール袋を覗きこみ、大きく息を吐いた。大丈夫だ。もう一回ぐらいなら、なんとかなる。

「すみません。こっちを向いてもらえますか」

円香を百八十度回転させ、石の壁と向かい合わせる。それから、ビニール袋を逆さに振って、花びらを落とした。さらに袋を裏返して、最後の一枚までこそぎ落とした。

溝口さんの後ろに戻り、指を組み合わせる。仕切り直しだ。今度こそ、うまくいくはず。

円香は軽く息を吸った。

「じゃあ、もう一度。……一、二の三!」

連続してシャッター音が鳴った。同時に、薄いピンク色の唇から息が放たれ、ふわりと白い花びらが飛び立った。

軽々と宙を踊る花片の群れは、風に散る桜を思わせる。時間にしてわずか数秒。花びらは短い乱舞の後、壁に行く手を阻まれては滑り落ちていった。

「すごい。飛んだ飛んだ」

円香ははしゃいで、胸の前で小さく手を叩いた。

成功を確信したのだろう。一仕事を終え、カメラを下ろした溝口さんは、ほっとした表情をしていた。花びらが舞う光景はまさにイメージ通りで、私も手を取り合って喜びを分かち合いたいところだ。

しかし、私は唇に歯をたて、棒のように突っ立っていた。

しっかりと、円香の姿が網膜に残っていた。手のひらに唇を寄せていった彼女の動きが、スローモーションで再生できる。そして、老婆のように丸まった窮屈そうな背中も。制止の声を発する前に、すべては終わっていた。

あれでは到底、使えない。再び花びらを拾い集める時間はない。

失敗だ。女のコの姿勢にまで頭が回らず、事前の指示ができなかった。配慮が足りなかった私のミスだ。

無能な編集者には似合いの敗北だった。けれど、仕方がない面もある。なぜか今日はやることなすこと、うまくいかない。失敗へとつづく路線が、確固として引かれていたのかもしれない。完全に、天に見放されているようだった。

そういえば私って、徹底的に運がないんだった……。

疲労感に蝕まれて項垂れる私に、きれいやったね、と円香は無邪気な笑顔を向ける。私はかろうじて、歪んだ笑みを返した。



大阪城公園での外撮りを終えた後、タクシーで最寄りのホテルへと移動した。風俗紙に読者が当然期待している「脱ぎ」の写真を撮るためで、こちらの方が大事といえば大事だった。ヌードがNGの円香には、下着姿でポーズをとってもらった。

この頃には、すでに気持は切り替えていた。私は冗談を飛ばして円香を笑わせ、ひたすら雰囲気づくりに努めた。立ち直りの早さは私の身上でもある。ことごとくチャレンジがはね返され、あまりにも見事に失敗したので、むしろさっぱりとしていた。

慣れないことはするものではない。その教訓を、私は思い知った。積み重ねもないまま、いきなり成果を求めても無理だということだ。風俗出版社の仕事といえども、そんなに甘くはない。失敗しても、それは当たり前ということだった。

結果には納得したけれど、ただモチベーションが低下したのは事実だ。ホテル内の撮影では私は口出しする気になれず、最後まで溝口さんに任せきりにしてしまった。

フィルムを十本使い切ったところで、二時間以上をかけた撮影は終了となった。屋外ではたいしてバリエーションが得られなかった分、ホテル撮りでは溝口さんはあれこれアイディアを出しながら、頑張ってくれた。編集者が熱意をしめしたのだから、自分もやらなければと奮起したようだ。これなら、出来は悪くないかもしれない。淡い期待が膨らみ、私は溝口さんに感謝した。

さらに一本取材をこなし、帰社してから入稿、さらには校正作業と間断なく作業をつづけた。いちいちこだわっている暇など、この仕事はあたえてくれない。私は、すぐに昼間の一件を忘れ去った。

翌日になり、現像が終わったポジを回収すると、私はライトボックスの前に座った。締め切りぎりぎりまでずれこんでいるので、急いでラフを仕上げなければならない。

まずは、屋外で撮ったシートにルーペを当てた。

立ちポーズはまずまずの出来だ。ローアングルで撮ったポジは、レフ板の当て方がよくなかったため、どれも露出がアンダーとなっていた。これは使えない。一部だけを先に現像してチェックする方法もあるのだけれど、今回は時間が少なすぎた。

手早くシートを見ていき、いよいよ残していた最後の分に取りかかった。問題の、花びらを用いた撮影だ。

ルーペを覗きこんだ私は、咄嗟に目を逸らしたくなった。花びらが、顔に点々と模様を描いている。それに猫背になった円香のショットが連なる。ひどいものだ。現像に出すだけ、無駄だったかもしれない。

期待を抱かず義務的に流し見ていた私は、ラストの一枚でルーペを止めた。

これは……?

いつこんな撮影をしたのかと、初めは戸惑った。目を凝らしつづけて、やっと気づいた。これは、息をかけ終わった直後を撮ったものだ。花びらはすべて吹き飛んでいて、一枚もない。ただそこには円香の横顔と、輪郭を曖昧にしたベニスモモの樹が写っていた。

目を心持ち細め、唇をほころばせた円香の表情はとても自然だった。名鑑やグラビアで見慣れた、つくられた笑みとはまったく異なるものだ。そのはずだ。彼女は舞い散る花びらに喜んで、心から笑っているのだから。

視線を引きつけずにはおかない笑顔だった。意図して撮った写真ではない。普通なら、絶対逃したに違いない一瞬だ。それだけに、なににも増して貴重な一枚に思えた。

右側の空間では、たくさんの陽光のかけらを咲かせたような、光り輝く枝が交差している。だから円香は満開の桜を目にして、笑っているように見えた。彼女の笑顔が、どこまでも広がる桜の木々を想像させるのだ。本当は、石壁が前方を塞いでいるだけだなんて、誰が信じるだろう。

そして晴れやかな笑みからは、花の美しさを前にした女の子の感動が伝わってくる。

奇跡が起きた一枚だった。

私はできる限り慎重にパーコレーションに鋏を入れ、ポジ袋に入れた。さらに数枚のポジを切り出し、下着姿のベストショットをメインに選んだ。円香の笑顔はサブメインだ。

ポジを一枚ずつルーペでチェックする間、ヒガシさんは一切コメントしなかった。ただ見終えてから一言、遅れているから早く済ませろと命じただけだ。私はすぐさまハイテンションな調子で答えた。「わかりました!」

通常なら、ポジをレイアウト班に渡して任せきりにするところを、私は細部にまでこだわってラフを引いた。すぐにゲラを出してもらい、勢いにまかせて入稿する。次の日には、色校が上がってきた。

私は色校を手に取って眺めた。あまりの素晴らしさに、自画自賛したくなる出来栄えだった。

いくら見ていても飽きない。もちろんこんな経験は初めてだ。人目をはばからず、にやにやと笑いたい衝動にかられた。いったん脇に置いて仕事にとりかかっても、気がつくと私は色校に目を奪われていた。

こんな大逆転があるだろうか。徹底して意地悪をされ、拗ねてむこうを向いたら、欲しかったプレゼントを渡されたみたいだ。もし神様がいるのであれば、もの凄いテクニシャンに違いない。その証拠に、私は完璧に参ってしまった。今まで私に運がなかったのは、もしかしたらこの時のためだったのかもしれないとすら思う。

なにをそんなに喜んでいるのかと自分でも可笑しくなるけれど、とにかく嬉しい。価値あるものを、自らの手でつくり出すこと。それが、こんなに感動を呼ぶとは知らなかった。手にした成果は、あらゆる不平不満を忘れさせてくれるほどの力があった。

たまたま撮れた写真に、大喜びするのはお笑い種かもしれない。編集者として、私が有能だったわけではないのだから。確かにアイディアを出したし、それを実現するために努力もした。けれど、望んだ絵は撮れなかった。奇跡は、あたえられるものであって実力とは違う。

切実といっていい感情が湧き上がった。

今回が奇跡なら、次こそ自らの手で結果を出したい。編集者として、きちんと仕事を仕上げたい。

私は、自分が間違っていたことを知った。何かをこの手でつくり上げたいという願いは、Y出版でも叶えることができるのだ。編集者の仕事は、ここで充分にできるのだ。

私の夢は、すでに叶っていたのだった。

きちんと努力していれば、それが実る時も来る。今回私は、それを知った。ポジファイルの整理をしながら、ふと顔を上げると、編集長が手を後ろに回して立ち、私の机に置いてある〞BEST GIRL〟の色校に見入っていた。歓喜がこみ上げ、私は小さくガッツポーズをつくった。

明日が下版というこの日は、深夜に至っても校正の作業が行われていた。新聞班は全員赤ペンを手に、机にかじりついていた。ようやくチェックが終わったのは朝の四時過ぎだ。

「里美先輩」

 ぎしぎしする肩を自分で揉んでいると、倉橋の陰鬱な声に呼ばれた。見ると、彼女は疲労の色が濃い顔をうつむかせていた。

「何?」

「ちょっと」

 倉橋は小さく手招きする。どうしたのだろう。もしかして、また性懲りもなくカッツンがセクハラしたのだろうか。あり得る話だ、と思った。あの社会不適合者め。あまりにひどいようなら、ヒガシさんに注意してもらわなきゃ。

嫌な想像にげんなりしながら私は彼女について歩き、廊下へと出た。

「どうしたの?」

「あの……」

倉橋は、何でもすぱっという彼女らしくもなく、少しの間曖昧な態度をとっていた。ますます、不快な予感が募る。

 けれど、出て来たのは意外な台詞だった。

「先輩、やっぱり辞めないでください」

「ええっ」

なんで? 急にどうした?

「……」

「あー、そっか。やっぱり後が不安?」

「いえ、そうじゃなくてですね」躊躇いを見せていた倉橋は、やがて顔を上げた。

「大体、私は先輩に憧れてY出版に入ったんです」

「へ?」

 想像もしなかった唐突な告白に、私の喉から変な声が飛び出した。倉橋は、今まで見せたことのない困ったような表情を浮かべている。ほんの少し、耳たぶを赤くしてもいるようだ。これは、照れだろうか。

展開がさっぱり読めなくて、仕方なく私は次の言葉を待つ。

「私、先輩のハガキコーナーがとても面白くて、毎回楽しみにしてたんです。だから、たくさんハガキ書いて送ったんですよ。すっごい細かい字で読みにくかったでしょうけど」

「細かい字?」

 その言葉は、私に閃きをあたえた。定期的に届いていたハガキ。送っているのは、てっきり風俗オタクだと思っていたのだけれど、そういえば最近は見ていなかった……。

「もしかして、住所も名前も書いてないやつ?」

「そう、それです」

「嘘。あれ、アヤちゃんが出してたの?」

「はい。お店の待機が長くて暇だったから、ついびっしりと書いちゃって。気持ち悪いかなとは思ったんですけど」

「お店って?」

「私……『アメジスト』で風俗嬢やっていて……」

「えええっ!」

 次から次へと明かされる事実に、私はのけぞりそうになった。

 聞けば倉橋は去年、それまで勤めていた会社を辞め、生活費に困って風俗で働きはじめたのだそうだ。で、店の待機室で、ウチの媒体を読むようになったらしい。

「あー、そういえば、よく女のコを紙面で紹介してくれみたいなこと書いてあったけど、あれって『アメジスト』のコだったっけ?」

「ええ、ついでに宣伝しちゃおうかと思って」

「でも一度、『ラブプロジェクト』の女のコについても書いてあったけど」

「杏奈ちゃんですね。あれはスタッフの元カノで、その男の子から話を聞いてたから」

はあ、そういうことだったのか。

「それで『アメジスト』の撮影は嫌だったんだ?」

「ええ。あの店には半年ぐらい、いました。でも私、顔も性格もきついから、なかなか指名がつかなくて。それで仕事を変えようと思った時、ここのことを思い出したんです」

「そうだったの」

 私は納得して、大きく息を吐いた。以前、倉橋は風俗嬢を侮蔑する発言をしていたが、それは自分が働いていて、実情を詳しく知っているせいだったのだろうか。いや、もしかしたらあれは、自己嫌悪の台詞だったのかもしれない。

「だから、辞めてほしくないんですよ。東京に行けなんていったのは、忘れてください」強い調子でいってから、すぐに倉橋は目を落とした。「といっても、駄目ですよね」

「そうだなあ」

 私は、悩んでいるように頬に指を当てる。でも、何をいうかはすでに決まっていた。

「ならアヤちゃんが、もっと人当りを柔らかくするようになったら、考え直してもいいよ」

「う、それは」

予想外だったのか、倉橋はしばらく固まっていた。「……性格って、なかなかな直らないんですけどねぇ」

 言外に、無理だといいたいようだ。それは、よくわかる。簡単に自分を変えられるなら、誰も苦労はしないだろう。でも、倉橋は……。

「そんなことないよ。アヤちゃんはお店の女のコの宣伝したり、優しいところもあるじゃない。私に対しても素直になってくれたし。それでいいんだよ」

「はあ、そうですか。わかりました、努力してみますけど」

 暗い表情に変わって、倉橋は答える。でも私が「じゃあ、これからもよろしく」というと、彼女は吊り上がった目を見開いた。

「えっ、それって……」

「うん、まだY出版に残るよ」

 私は満面の笑顔になって、いった。

Y出版に対しては、憎しみもあれば、愛情もある。憎しみを持った私が「本当にいいの?」と翻意を迫り、愛情を持っている方の私は、手放しで喜んでいた。

もしかしたら、また気が変わるかも知れない。けれど、今は踏み止まる覚悟を固めた。ようやく指先が届いただけで、編集の難しさも面白さも、私にとってはまだまだ未知の領域だ。しっかり掴み取ろうとあがいていれば、いつかはそれも手に入るかもしれない。

違う景色がまた見れたらいいな、と私は心から思った。


10


夜が明け、またいつもの仕事に追い立てられる一日がはじまった。

アパートで短い眠りを貪った私は、目覚まし時計に容赦なく起こされた。頬を叩いて頭をしゃんとさせてから、隣で寝ている牧人を揺する。牧人は不平を零しながらも、なんとか身体を起こした。彼にY出版に残る意思を伝えたのは、その時だ。戻ってきた返事は、「なんだ。東京に行きたかったのに」というものだった。

月曜日になって印刷所から新聞の早刷りが届くと、私は早速溝口さんに手渡した。眠そうな目で紙面を見つめてから、溝口さんは頬に笑みを上らせた。ちゃんと撮れていてよかった。いつものぼそぼそとした声で、彼はそういった。

私はそんな溝口さんに伝えた。もう少し、Y出版で頑張ってみます、と。

木曜日には新聞が発売された。この頃にはすでに、新聞班は次の号に向けて走り出している。この日の私は、取材を五件入れていた。タイトなスケジュールの中、ヒラさんのオデッセイで大阪中を駆け巡る。

凛華から電話を受けたのは、そんな移動の最中だった。

「はあい。今、話せる?」

 元気の塊みたいな彼女は、底抜けに明るかった。

「凛華さん、どうしたんですか?」

「うん。客が来なくて暇だからさ、前の宿題がどうなったか、聞こうと思って」

 ああ、と私は呟いた。例の、ユキというコがセックスした覚えがないのに、妊娠したという話だ。あれからだいぶ日が経っているが、その間、凛華はすっかり忘れていたらしい。

「あれなら、わかりましたよ」

「え、本当に?」

 私があっさり答えたせいか、凛華の声が驚きに裏返った。

「はい、以前風俗店に勤めていた女のコから聞いた話がありまして」

 昨日、倉橋と雑談していて、たまたま昔の仕事について聞かせてもらったのだ。ただ、私はもちろん彼女の名前は出さなかった。

「去年の夏ごろ、女のコが常連客に無理やりヤラれて中出しされたんですって。まぁレイプですよね。で、次にその客が来た時に捕まえたんですけど、女のコは大ごとにする気はないっていうし、店長も売り上げが落ちこんでたから、客に対してあまり強く出ずに、なあなあで済ましちゃったそうです」

「ふうん、それで?」

「その客は、風俗嬢に性病を伝染されたことがあるんですって。それで、復讐心に燃えていて、妊娠させるのが目的で強姦したんですよ」

「ちっ、とんでもない馬鹿ね。病気が嫌なら、風俗に行くなってのよ」

 忌々しそうに、凛華は舌打ちした。「でも、それが関係あるの?」

「私、本人に気づかれずにセックスする方法ばかり考えていたから、わからなかったんです。でも、妊娠させるのが目的なら話は違います。まず女のコに目隠しして、脚を思いっきり開いて縛るんです。それで、EDの人のためのペニスバンドを使うんですよ。擬似的だけれど、インポでも性行為ができるという内部が空洞になったシリコンのディルドです。その先端に穴を開けるんです」

「……」

「で、ディルドを使いながら、一方の手で自慰をする。そして射精の瞬間に、その中に男性器を突っこんで出すんです。女の子って、ペニスが痙攣すればイッたなって判断できるけど、それなしで精液を浴びる感覚だけあっても、まさか中出しされたとは思わないでしょう? で、溢れて垂れた分はさりげなく拭き取ればいい。こうすれば、気づかれずに妊娠させられます。タイミングが難しいから、失敗は多いでしょうけど、いくらでも女のコを変えて、トライできますからね」

「……なるほどねぇ。あんた、やるじゃない」

 凛華は感心した声を出して、唸った。賞賛を受けた私は、鼻を高くする。初めて、牧人に一切頼らずに謎を解くことができたのだ。なんだか、立ち塞がっていた壁をようやく越えたような気分だった。

「その客の特徴教えてくれない? 次来たら、きっちり落とし前つけさせなくちゃ」

「聞いておきます。どうぞ、お手柔らかに」

 凛華はひとしきり笑い、それから、私を勧誘しはじめた。

「あなた、頭いいわね。女王様に向いてるわよ。どう、ウチで働かない?」

 私は見えないのをいいことに、肩をすくめた。頭の良さと、SMは関係あるのだろうか。ただこの人は、機会があればこうして人を誘っているのではないか。牧人と同じだ。

 そういえば、と私の意識は過去へと遡っていく。あの日、面接の帰り道で牧人と出会わなければ、こんな仕事に就くなんて未来は絶対になかったただろう。後悔なんてまったくしていないが、本当に、人の運命ってわからないものだと思う。

「そうですね。給料は安いし、きついし、不整脈が出た先輩もいるし、絶対長くつづける仕事じゃないし、半年先自分が勤めてるかどうかもわからないですけど」

 私は大きく笑みをつくる。

「でも今のところ、私、この仕事が好きです」

 

                                   了

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風俗編集者の異常な日常 安藤 圭 @out

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