メロンパンは何処へ


 1


月刊誌のSM担当である椎名が風邪で倒れたのが、ことの発端だった。

熱が三十八度から下がらず、ずっと「ふらふらする」といっていたから、最初からまともに働ける状態ではなかったのだ。それでも彼は頑張っていたのだけれど、朝方に力尽き、倒れたところを出社してきた入道に発見された。それで、予定されていたSMグラビアの撮影がたまたま暇だった私に回されたのだった。

そのこと自体は、別にいい。問題なのは、カッツンが一緒であることだった。

「はあ、カッツンですか」

 初めて聞かされた時には、私の顔は思い切り歪んだ。あいつがからむと、ろくでもない展開になるのではないか。そんな疑惑がどうしても拭えない。しかし、女王様が奴隷を引きずり回す絵作りがあるために、どうしても男が一人必要だ。月刊誌班、新聞班ともに、スケジュールが空いている人間がいないので、これはどうしようもなかった。それに、こんな仕事はカッツンが適任だということで押しつけたのだから、他にやりたがる人がいるはずもない。

「あの……カッツン。今日は頼みますよ」

 出発前に頬をひきつらせながら声をかけると、彼は調子よくうなずいた。

「うん、任せといて」

 カッツンは勢いよく胸を叩く。その様子を見て、私の不安は余計に募った。

 そして、この不安は的中することになる。

 

 2


 オデッセイから降りた私はヒラさん、カッツンとともに、三階建てのビルの前に立った。

 ここは、建物まるごと一棟が一店舗となっている関西最大のSM店、『迎賓館』だ。私はSM担当ではないので来る機会はなかったが、話だけは聞いていて、一度は取材してみたいとかねがね思っていた。カッツンさえいなければ、私はもっと喜んでいただろう。

玄関扉をくぐり、数歩進んだところで、早速私は衝撃を受けた。ボンテージ姿の女王様が、首輪でつながれた全裸の男を引きつれて歩いている。白目を剥いた男のアレからは、精液の滴がぽたぽたと垂れていた。

私は異様な光景に縮み上がった。エレベーターに乗ろうとした女王様は「あ、乗りますかぁ?」と訊いてくる。私は無言のまま、忙しく首を振ることしかできなかった。

 気を取り直して、戻ってきたエレベーターに乗り、私たちは二階で降りた。カッツンは何度も取材してママと顔見知りなので、とりあえず彼に任せることにする。カッツンは何が楽しいのかスキップするように歩き、廊下の突き当たりの部屋の扉をノックした。

「どうぞ」

声が聞こえたので、中に入る。そして、私はまたびっくり仰天した。

臙脂色のカーペットが敷き詰められた部屋の内部は、様々なSMグッズで飾り立てられていた。棚の中には色々な形のバイブが置かれ、壁際には三角木馬が鎮座ましましている。さらに、ママが座っている椅子の後ろでは、巨大な十字架が威容を見せつけていた。

「いらっしゃい。Y出版さんね」

現役の頃は有名な女王様だったというママは、微笑んで迎えてくれた。

「今日はよろしくお願いします」

「ごめん。なんの撮影だったっけ?」

机の上で指を組みながら、ママはカッツンに尋ねた。

「月刊誌のグラビアです」

「ああ、そうだったわね。また、あなた縛られるの?」

「違いますね。今日は犬役です」

「首輪でつながれて? いつも大変ねえ」

気の毒がる調子でいってから、ママは大きな胸を突き出すように背を反らせて笑った。どうやらカッツンは彼女に気に入られているらしい。屑みたいな男だが、一応コミュニケーション能力はあるのか。

「凛華さん、撮影の方がいらっしゃったわよ」

 ママはケータイを使って、女のコを呼んでくれた。

五分ぐらい経ってから、扉が引き開けられる。そして、私は軽く目を見張った。

黒いボンテージを着て立っている女のコは、ロリータ好みの男がハマりそうな美少女だった。丸い瞳とこじんまりした唇が可愛く、十六、七歳といっても充分通じる。ボリュームのある茶色い髪が、艶やかにうねりながら両胸にかかっていた。女子高生のコスプレをさせたら、とても似合いそうなコだ。

何を隠そう、このコがSM界のアイドル、凛華様だった。業界入りするや、すぐさま愛らしいルックスで人気が沸騰し、今や雑誌やネットで引っ張りだこの女のコだ。私もグラビアで何度か見ていたので、彼女の存在は知っていた。しかし写真で見るより、彼女は数倍も可愛らしかった。こんなに幼顔なのに、二十一歳だというのだから恐れ入る。

「凛華さんと話があるから、あなたたち、外で待っててもらえる?」

 真っすぐ腕を伸ばし、ママが扉の方を指差すので、私たちはおとなしく外に出た。

「あのコ、女王様って感じじゃないですね」

 私は、扉越しに聞こえないように、声をひそめていった。ヒラさんに向かって喋りかけたのに、応えたのはカッツンだ。

「うん、珍しいかもな。だからこそ、注目されているわけやけど」

関西にもSM店は多いし、女王様も星の数ほどいる。そうすると、中には凛華みたいな可憐なタイプも出て来るわけだ。けれど、少数であることに変りはなく、正統派とのギャップに苦しんだりするコもいるようだ。

「俺、この間、あのコを撮ったわ」

ヒラさんが、ゆったりとした口調でいった。

「へえ、そうだったんですか。どんな感じでした?」

「大変だった、かな」

「えっ、どういう意味です?」

「それは……まあ、すぐにわかるわ」

 ヒラさんが曖昧に言葉を濁すので、私は首をひねった。彼がもったいぶるのは、ひどく珍しいことだ。あまり、撮影に協力してくれないコなのだろうか。しかし、そういうタイプなら、わざわざ隠すほどの話ではない。

 不思議がっていると、凛華が「お待たせ」といって、やって来た。

「さぁ、行きましょう」

「え、もしかして、そのまま行くんですか?」

 私は若干、慌てた。まだ八月の後半だから気温に関しては大丈夫だが、今日の撮影は屋外だ。ボンテージ姿のまま移動していたら、目立ってしょうがない。

「平気よ。どうせこの格好になるんだから同じじゃない」

凛華は、エナメルに包まれた胸を突き出しながらいった。確かに、それはその通りだ。本人が問題ないと主張するのであれば、こちらは口を閉じるほかない。

「さっ、行きましょうか」

恥ずかしがる気配もなく、凛華は先頭に立って歩き出した。あどけない顔をしていても、さすがは絶大な人気を集める女王様だけあって、立ち居振る舞いが堂に入っている。

私たちは駐車場に停めておいたオデッセイに乗りこんだ。ヒラさんが運転席で、カッツンは助手席、私と凛華は後部座席に並んでおさまるという配置だ。

車が滑り出すと、凛華はすぐさま身を乗り出した。

「で、どこに行くの?」

喜色を満面に湛えて、凛華は三人の顔を順番に見つめる。私は口を開いた。

「今回は『アフター5にMになるサラリーマン』がコンセプトなんです。なので、ビジネスパークで撮影する予定です」

「そうなの。ねえねえ、そんなのいいからさ、梅田の交差点に行こうよ」

人に説明させておいて、凛華はいきなり却下した。笑顔のまま、私は表情を凝固させた。

「……交差点でどうするんですか?」

「私が真ん中に立って、鞭を持って構えるのよ。格好いいと思わない? 一本鞭もちゃんと持ってきてるんだから」

 ええと、と呟きながら、私は言葉を探した。

「構想を練ってたんですか?」

「そうそう。ねえ、やろうよ」

「無理ですよ、それは」

えー、と凛華は高い声で不満を表明する。え? 何なの、このコ?

「どうして? すっごい良い絵が撮れるわよ。行き交う名もなき群衆を睥睨する女王、凛華。ね、見出しはこれでいこうよ。カメラマンさんもいいと思うでしょ?」

後ろから乱暴に肩を揺すられ、ヒラさんは首を揺らした。運転中でもお構いなしだ。

「どうやろ。往来の真ん中で撮影なんかしたら、警察が飛んで来るんやないかな」

「捕まりそうになったら、逃げればいいのよ」

あっけらかんと凛華はいってのける。どういうコなんだ、と私は呆れた。軽いスリルを楽しむぐらいの感覚なのだろうか。しかし、子供の悪戯レベルの意識で撮影に望まれては、非常に困る。

「本当に捕まったら、どうするんですか?」

尋ねた私に、凛華はぐっと顔を寄せてきた。

「ケツの穴が小さいのね。権力を怖れてたら、風俗なんかできないでしょうが。違う?」

「……」

沈黙で応じた。とんでもない大見得を切ってくれたものだ。凛華には覚悟があるのかもしれないが、こちらには危険を冒す理由がない。やりたきゃ一人でやってくれ、という言葉が喉まで出かかった。

「ねえ、行こうよ。腹くくってやれば、うまくいくもんよ。びびるから駄目なんだって」

喋りだしたら、凛華は止まらない。受けに回ったが最後、いくらでも攻めたててくる。女王様というよりは、わがままな女子高生を相手にしている気がした。好意的なものだった第一印象は、ものの見事に崩壊していく。

ヒラさんは、な? と同意を求める視線を送ってきた。確かにこれは大変だ。

騒ぐ凛華をなだめるのは、今回の担当である私の役目だ。私は間違っても女王様を怒らせないように、穏やかに説得した。凛華は身体を寄せてきて圧迫し、主張の正当性を並べ立てる。女王様という職業柄、語彙も豊富だ。これも言葉攻めの一種なのだろうか。彼女の客なら泣いて喜ぶのかもしれない。

自分でも、私はM体質だと思うのだけれど、仕事中に攻められてもちっとも嬉しくない。私は、椎名が倒れなければ良かったのにな、と考えても仕方のないことを思った。SMの撮影って、こんなに大変だったのか。いや、違うな。このコが異常なだけだ。

なんとか納得させたのも束の間、ビジネスパークに到着すると、凛華がまた騒ぎ出した。

「あっ、あの車、すごい!」

路肩に車が何台か連なっている中で、濃紺のオープンカーが存在感をしめしていた。視線を上げれば、ビル壁に読売テレビの文字がある。放送局の社屋の裏手なのだ。停めている場所が場所だけに、こんな高級車に乗っている人種はおのずと限定される。

「あれはジャガーのコンバーチブルやね」

三人の中では、一番車に詳しいヒラさんが教えてくれた。

「そうだ、あそこで撮ろうよ」

なに? と私たちは一斉に気色ばんだ。

「私とジャガーって、合うと思うな。ボンネットの上で、脚を組んでさ。いい感じでしょ?」

「持ち主が来たら、どうするんですか」

「もう。さっきから守りに入った発言ばっかり。ちょっと、車を停めてよ。停めて!」

女王様の怒声を浴びたヒラさんは、やむなく車を脇に寄せてブレーキを踏んだ。

「あのさあ。あんたたち、私の意見を聞こうともしないけど、撮られるのは私なわけ。だったら、私がどう撮られたいかが、一番重要でしょう?」

凛華は細く描いた眉を吊り上げていた。山ほどある反論を、口に出す者はもういない。

「いい? 私は決めたわ。あのジャガーと一緒に写真を撮るの。嫌なら終わりよ。店に戻ってちょうだい」

怒りに任せて宣言を下し、後は相談しろといわんばかりに凛華はふんぞり返った。

下駄を預けられた格好の私たちは、苦りきった顔を見合わせた。機嫌を損ねて帰らせては、仕事にならない。しかし凛華のいいなりになって、警察沙汰になったら目も当てられない。厳しすぎる二者択一だった。

「どうする? やってまうか」

「人通りは少ないですね」

「大丈夫やないかなあ。頑張って俺、ぱぱっと撮ってまうから」

天秤の梁は一方に傾いた。議論するまでもなく、仕事をやり遂げなければならない私たちの結論は出ていたのだ。誰かが見とがめて騒ぎ出すようなら、一目散に逃げる。相談はまとまり、意志の統一が確認された。

私たちは周りをうかがいながら、車外に足を下ろした。用意を整えてから、女王様にお出でを願う。三人の焦りをよそに凛華はゆっくりと歩き、ボンネットに腰を下ろした。さすがに、いきなり体重をかけるようなまねはしなかった。

時間との戦いがはじまった。カッツンはレフ板で太陽光を拾い、凛華から影を追い払った。私は関係者らしき人物が怒鳴りこんで来ないかどうか、チェックする見張り役だ。通行人の視線が凛華に集中するので気が気ではなく、冷や汗をかいた。

ヒラさんは凛華に手早く指示を出し、つづけざまにシャッターを切っていく。いつもはのんびりしているのに、今日の彼はてきぱきと機敏に動いていた。

「このジャガー、一千万円はするやろうな」

ヒラさんがぼそっと呟き、私は仰天した。一千万円。今の私には、手にすることなど夢また夢の金額だ。もし傷をつけたら、修理費はいくらになるだろう。急に怖ろしい行為に加担している実感が、胸に迫ってきた。

一方、凛華は恐怖などまったく感じていない余裕の表情だ。長いボンネットに、うつ伏せの姿勢で寝そべっていた。尻を突き出し、挑発的にカメラを睨む。楽しんでいるのが、手に取るようにわかった。スポーツカーの上で我が物顔にポーズを決め、すっかり悦に入っているのだ。なんて自分勝手な女のコなのだろう。

「わっ、止めてくれ。なにをするんや!」

凛華がボンネットにヒールを立てようとするので、ヒラさんが必死になって制止した。私も叫ぼうとしたが、あまりのことに舌がもつれてしまう。大騒ぎする三人をからかう目で眺め渡してから、凛華はゆっくりと脚を下ろした。

私は呪いの言葉を心の中でまき散らした。悪逆非道の女王様に、目眩を起こしそうだ。こんなに気を揉ませておきながら、まだ弄ぼうとするなんて、まともな神経ではない。なだめてもすかしても泣いてみせても怒りをぶつけても、凛華には通じないのだろう。最悪な女のコだ。厄介な撮影は過去にもあったけれど、これほど手こずらされた例はない。

ただのグラビア撮影で、なぜ身の細る思いをしなければならないのだろう。疑問を覚えながら、周囲と凛華の両方に神経を尖らせていた私は、ふいに動揺させられた。カッツンの両目に、異様な光がちらついていたのだ。

背筋に冷たい悪寒を覚えた。あの目は凶事の前兆だ。カッツンが、よからぬ企みを決意した証拠なのだ。きっとカッツンは、凛華の傍若無人な振る舞いに怒りがおさまらなくなったのだろう。考えてみれば、この組み合わせは最悪だ。二匹の猛獣を一つの檻に放てば、血が流れるに決まっているではないか。

どうか無事に終わらせてください。私は指を組み合わせ、普段は無視している神様にこの時ばかりは真摯に祈った。

一ロールを撮り終えるまでが、無限の長さに感じられた。終わると凛華をせかせて、脱兎のごとく逃げ出す。ようやく本来の撮影場所、ビジネスパークのビル群へと向かった。

凛華はジャガーと撮影できて、テンションが上がったようだ。三人のしもべを従えて、悠然と突き進んだ。見上げるばかりの高層ビルディングは、KDDIや富士通、住友生命など、超がつく有名な大企業ばかりだ。そんな中、ボンテージの女王様は明らかに場違いだった。すれ違うサラリーマンたちは、驚きの表情で誰もが振り返る。珍妙な一行を目で追いながら、ケータイで遭遇したハプニングを報告している男もいた。

注目の的だったが、だからといって怯む女王様ではない。むしろ顔を輝かせていた。足取りには強い自信が漲っている。上に何もはおらない理由を、やっと私は悟った。自己顕示欲の強い凛華は視線を浴びて、快感を得ているのだ。周辺の空気を変えているのが自分であることに、価値を見出しているのだ。そんな性格だから、あれほどまでに交差点での撮影に執着したのだろう。タレントを目指した方が良かったんじゃないのと私は考えた。

「えーと、そこに立ってもらえる?」

ヒラさんは聳え立つビルを背景にあしらい、凛華に鞭を構えさせた。ジャガーの写真は編集部内で問題になるだろうから、どうせ使えない。ここが、スタートだった。

鞭に舌を這わせる凛華を、あおりで撮る。髪をかき上げさせ、背中のラインを強調するポーズをつける。ヒラさんは、いつものゆったりしたペースに戻って撮影していた。丁寧に撮ってくれているのがわかるので、安心して見ていられる。女王様にかき乱されはしたけれど、ヒラさんはやる気を失って「やっつけ」で済ますようなことはなかった。

私はレフ板を持ちながら、雰囲気が落ち着いたことに、ひとまず喜んでいた。問題はカッツンだ。沈黙を守っているのが不気味だった。

「あんたは、S? それともM?」

撮影場所を移動する時に、凛華が私に尋ねてきた。

「どうでしょう。ウチの編集者はみんなMなんじゃないかって思いますけどね。ひどい扱いを受けても、喜んで働いてますから」

「SMは経験ないの?」

「全然ないですね。凛華さんはプライベートでも、SMプレイをするんですか?」

「ええ。何度かペットを飼ったこともあるわよ。もちろん人間ね」

凛華は誇らしげに胸を張る。こんな場合は、感心してあげるべきなのだろうか。

「私のために痛みに耐えているんだと思うとね、感動するの。SMって、心が深く結ばれるためのツールなのよ。一度、私が試してあげようか?」

お許しください。こうしてひどい目に遭うだけで、充分でございます。私は形だけ笑顔をつくり、機会があれば、と答えた。

凛華だけのシチュエーションを撮り終え、いよいよ奴隷役に登場を願う時がやって来た。出番を迎えたカッツンは人目があるにもかかわらず、その場で服を脱ぎ出す。この男も、見られて喜ぶタイプだ。二人がよく似ていることに、私は気づいた。性格が異常性を帯びているところまで、そっくり同じだ。変態同士、仲良くしてくれれば結構なのだけれど、そううまくはいかないらしい。

カッツンは用意していた白のワイシャツに着替え、ネクタイを締めた。ズボンは穿かない。首輪を嵌めて両腕を下ろすと、ボンテージの凛華とペアをなす非日常の姿となった。

そしてカッツンは、狂気の扉を押し開いた。

「う~、わおんっ!」

整然とした佇まいのビル街に、四つん這いになった男の遠吠えが響き渡る。カッツンは雄々しく首をもたげ、さらに吠えた。凛華とヒラさんはぎょっとしている。私は天を仰ぎ、願いを聞き届けなかった神様を恨んだ。

視線が集まるので、私はレフ板でカッツンを隠した。けれど無意味だった。犬に人間の気遣いなど伝わるはずがない。カッツンは力強く地を蹴って走り出した。鎖を握っていた凛華は引っぱられ、転びかける。二、三歩よろめいて、どうにかバランスを取り戻した。

「なっ、ふざけんじゃないわよ! 止めなさい!」

凛華は叫び、言葉だけでは止められないと判断したのか、鞭を振り上げた。しかし、カッツンが動き回るので、狙いを定められない。狂犬は走りに走って円を描き、凛華をきりきり舞いさせた。『奴隷を引きずる女王様』を撮るはずだったのに、立場が逆転している。

「あんたたち、こいつをどうにかしなさいよ!」

「すみません、彼は頭がイカれてまして。犬になりきっちゃう癖があるんです」

私は匙を投げて、いい加減な説明をした。右へ左へと振り回される凛華の姿は痛快だったので、もう放っておくことに決めた。なぜ鎖を離さないんだろうと思う。どんな場合であっても、逆らう者には背中を向けないのが、凛華のポリシーなのかもしれない。

カッツンは本当にブチ切れたのか、通りかかった二人組の女性に向かって駆けていこうとした。さすがに私は急いで回りこんで行く手を塞ぎ、方向を変えさせた。

「止まり、なさいって、いってんでしょ!」

凛華は切れ切れに罵声を放った。ひどく息を切らしている。振り回されたせいもあるだろうが、あまり体力はないのかもしれない。一方、カッツンは元気いっぱいだ。膝を擦りむいているのに、はた迷惑な暴走を一向に止めようとしない。

ついにカッツンは凛華を振りほどき、犬の姿勢のまま、駆けていった。

幾つかの花壇が設えられた一画がある。追いかけて見つけたカッツンは、鮮やかに色づいた花々とまるで戯れるかのように駆け回っていた。なんとも不思議な光景だ。ベンチに座っていたスーツ姿の女性が、足早に逃げ出していった。

私はゆっくりと首を振った。どう考えても、これはやりすぎだ。凛華への怒りからはじまった行為のはずなのに、もう目的を忘れたのだろうか。問題になった時に釈明できるように、錯乱した振りを通しているという解釈も可能だけれど、もしかしたら、案外本当に動物霊にでもとり憑かれたのかもしれない。

「なんなのよ、あれ」

凛華は腰に手を当てて、呆れている。

「阿呆らしい。撮影は中止でしょ? もう行くわよ」

いい捨てて、凛華はボンテージに包まれたお尻を振りながら去っていった。

女王様が退場なされたとあっては、終了するほかない。それよりいい加減にしないと、警察に通報される危険がある。お座りポーズで休んでいるカッツンに、私は歩み寄った。

「もういいですよ。凛華さんは行っちゃいましたから、止めてください」

カッツンは舌を出し、せわしなく喘いでいる。私は目を凝らした。ワイシャツの肩口に、黒いなにかがべったりと付着していた。

地面を転げ回った時に付いたのだろう。犬のフンだった。


 

 カッツンに「ウン」はついたけれど、私の運は最悪だ。車に戻ってから、私は凛華に散々謝るはめになった。

 しかし、怒った凛華は絶対に許さないという。私は困り果てた。ヒラさんは運転席で無言を貫いているし、カッツンはしれっとした顔で私に任せきりにしている。この男は後輩であり、女である私にケツを拭かせて平気なのだろうか。本当に、ぶん殴ってやりたい。

「ママに報告させてもらうわ。広告だって、きっと落ちるわよ。あんたたちとの付き合いは、これで終わりね」

「あの。そこを何とか。私にできることなら、何でもしますから」

 私はぺこぺこと頭を下げる。「何でも」だなんていったら、きっとただで広告を載せろって話になるだろうし、そうなると私の権限を越えてしまうけれど、とにかくこの場を収めなければならないという義務感で、私はつい口走っていた。

すると、凛華はなぜか黙りこんだ。顔を上げると、彼女は頬にひとさし指を当てて、何か考えこんでいる様子だ。

「凛華さん?」

「そうね……。じゃあ、あなた、今日食事に付き合ってよ。それで許してあげる」

 凛華は無表情のまま、いう。私は当惑を覚えた。あれだけ怒っていた割には、案外楽なペナルティだ。相手が男なら、まず下心を疑う場面だけれど。はて。なぜ女同士なのに、凛華は私を誘うのだろうか。

胸の片隅で、ちょろっと不快な感覚がうごめいたが、大事にならないようにするにはそれしかなさそうなので、私は渋々うなずいた。

 気がつけば、陽が沈みかけていた。今日は入稿の予定はないから、編集部に帰らなくても大丈夫だ。私は「トラブルが起きたので、謝罪してから直帰します」と会社に電話を入れ、お店に戻ってからカッツン、ヒラさんと別れた。

『迎賓館』の入口の脇で待たされた私は、その間、ずっと自らの運命を呪っていた。やがてキャミソールと超のつくミニスカートを着た凛華が出て来て、私たちは駐車場へと歩く。黒いボディの、なんだかごつい車が凛華の愛車だった。セルシオというらしい。

 そのまま、レストランにでも行くのかと思ったら、私は助手席に乗せられたまま、彼女のマンションへと連れて行かれた。

 マンションは十階建てで、外観は高級感に溢れている。私は顎を上げて見上げながら、呆気にとられていた。車も高価そうだし、住まいも私とは段違いだ。SMの女王様って、そんなに儲かるのだろうか。

 最上階にある彼女の部屋に入ってから、私はまたまた驚いた。広いリビングには大画面のテレビやら、ヨーロッパの貴族が使いそうなソファやらが置いてあって、まるで別世界だ。でも、何もかも派手な凛華に、相応しいリビングだと思う。一方、見た目も性格も地味な私は委縮してしまって、ソファに座ったものの、身体を小さくしていた。

「さあ、飲みましょう」

 凛華は笑顔で左手にグラス二つ、右手にずんぐりしたボトルを持ってやって来た。すでに彼女は、赤いシルクのドレスに着替えている。それはまた、凛華にとても似合っていた。

「あれ、食事は……?」

「そんなの、後でいいじゃない」

 楽しそうにいわれて、私は機械的にうなずいた。今は凛華に逆らうわけにはいかない。ただでさえアルコールには弱いのに、空きっ腹に酒を入れたら、きっとひどく酔うだろう。気をつけて、あまり飲まないようにしなければ。

 と、ボトルに書かれている文字に目をとめ、私はのけぞりそうになった。

「えっ、ドンペリ……?」

「そう。ピンドンね」

 げっ。ドンペリなんて、もちろん私は飲んだことがない。

「そんな。止めた方がいいですよ。私なんかに勿体ないですから」

「別に大したもんじゃないわよ。ただのお酒なんだから」

 嫣然と微笑みながら、凛華はグラスにピンドンを注いで、私に差し出す。乾杯をしてから、私はびびりつつひと口、飲んだ。ううん、美味しいことは美味しいけれど、普段ビールしか飲まない私には、味の良し悪しなど、はっきりいってわからない。

「ね、大したことないでしょう?」

「はあ。いや、美味しいですけど……」

 私は、ますます凛華の意図がわからなくなった。一編集者に過ぎない冴えない女に、こんな高い酒を飲ませて、どうする気なのだろう。

「ねえ。あんた、どうして風俗出版なんかで働いているの?」

 凛華はグラスを片手に尋ねてくる。我儘放題だった撮影時とは違って、今はごく普通の落ち着いた態度だ。童顔で私よりも年下なのに、今は大人っぽい雰囲気を漂わせている。

「それは、編集者に憧れていたので」

「なんで?」

「ええと、私はミステリーが好きで……」

 クライアントの質問に、仕方なく私は理由を答える。その後、「なぜ、女王様をやってるんですか?」と、私は尋ね返した。すると、凛華は微笑んだ。

「中学生の時にね、体育の着替えを覗いている男子がいたのね。それに気づいて私、その男子を思いっきり引っ叩いたの。それが、もの凄い快感でね。『ああ、私、Sなんだ』って気づいたのよ。それがきっかけかな」

 それから、私は凛華のSM遍歴を聞かされた。同じクラスの高校生の男子や、ネットで知り合った中年男をM奴隷にしていた話は、あまりに異様なので自然と聞き入ってしまった。耳を傾けながら私は何度もグラスを空け、気がつけば、したたかに酔っていた。

 一度トイレに立ち、戻ってからグラスに残っていたピンドンを喉に流しこんだ。やっぱり美味しいので、ついつい飲んでしまう。やばいなあと不安になるのだが、思考力がすでに低下していて、抑制しようという心の働きを私はほとんど失っていた。

「どうかした?」

 額に手を当てると、凛華が訊いてきた。

「なんだか、飲み過ぎたみたい」

「暑い?」

「はあ」

 今まで熱かった顔がさらに火照ってきた。急に体温が上昇したように感じる。身体の内側が燃え盛っているみたいだ。

ん? と私は異常に気づいた。何もしていないのに、下半身に潤いが広がっている……。

 これは……?

「凛華さんっ、お酒に何か入れましたかっ!」

 噛みつくようにいった。記事に書くために体験したので、この感覚はよく知っている。媚薬だ。私がトイレに行っている隙に、凛華はグラスに媚薬を仕込んだに違いない。

「やぁだ。誤解よ、そんなの」

 凛華は勝者の笑みを浮かべた。彼女の口ぶりから、絶対入れたな、と私は確信した。

混乱しているうちに凛華は立ち上がり、私の隣に腰を下ろす。そして、頬を両手で挟み、口の端に唇を押し当ててきた。

「な、何するんですか? 女同士なんですよっ!」

「そんなの関係ないわよ。あなた、可愛いもの」

 くそっ。こいつ、バイだったのか。その可能性は考えないでもなかったけれど、まさかとつい油断していた。当然といえば、当然だ。何の思惑もなしに、今日知り合ったばかりの女に高い酒を飲ませるはずがなかった。

女同士で、彼女はこれからどうする気なのだろう。ペニバンでも着けて、犯すつもりなのだろうか。それは……シャレにならない。間近まで迫った身の危険に、私は総毛だった。

「止めてくださいよ、私はストレートなんです!」

「じゃあ私よりも、小汚いオッサンの方がいいの?」

「……」

 そんなふうにいわれると、私は返答に困る。確かに加齢臭漂う醜い中年男と凛華を比べたら、彼女の方が数倍ましだろう。考えてみれば、どんな男でも相手にしなければならないのだから、風俗は大変な仕事だ。すごいですね、と素直に頭が下がる。

 余計な思考にかまけている間に、唇を吸われていた。凛華の舌が、口唇を割って侵入してくる。私の舌は彼女の唾液に濡れ、弄ばれた。おそらく媚薬のせいだろう、私はそれを、気持ちいいと強く感じた。

「どう? いいでしょう?」

「……そんなの、媚薬のせいでしょうが」

「嫌ねえ、だから濡れ衣だってば」

 明るく笑って、凛華は私をソファに押し倒した。それから、ポケットに手をつっこみ、何やら黒いものを取り出す。

「えっ。それ、なに?」

「警戒しないでよ。ただのアイマスクだってば」

 私の視界は、すぐに暗闇に閉ざされた。

「視覚がなくなると、他の感覚が鋭敏になるわよ」

 凛華が耳に息を吹きかけてくる。確かにただマスクをしただけなのに、こそばゆさと同時に、私は今までにない快感を覚えた。脚に触れるシルクの感触も、とても心地いい。

「レズが嫌なら、想像力を使えばいいわ。私のことをイケメンの男だと思えばいいのよ」

 囁きながら、凛華は下着の内側に指を潜りこませてくる。私ははっとした。

「今、何か塗った! また、媚薬使ったな!」

 起き上がろうとする私を、凛華は両手を使って押し留めた。

「大丈夫だって。副作用とか心配ないから」

 あっ、こいつ。ついに認めやがった。

 凛華は私の首筋に舌を上下させる。最後の一線が、目の前まで来ていた。駄目だ。このままでは、確実に凛華に犯されてしまう。

 私は腹を決め、アイマスクをむしり取って、渾身の力を込めて凛華を突き飛ばした。

ソファの上に仰向けになった凛華は、驚いた顔をしていた。

「何するのよ。乱暴ねえ」

「いい加減にしてよ。いい? これはレイプよ? 女同士だったら強姦罪は適用されないけど、でもやっぱりこれはレイプよ」

「いいじゃない。それで気持ちよければ」

「よくないわ。レイプなんて、女として絶対に許せない」

「そうお? でも、我慢できるかなあ?」

 凛華は妖しい目つきで微笑む。姿勢を変えて身体をくねらせる彼女はまさに小悪魔だ。編集者としての私の半身は、絵になるなあ、などと冷静に考えていた。

私は唇を歪めた。凛華のいう通り、身体の奥の潤いは増える一方だ。欲望の炎は、耐えがたいほどに燃え上がっていた。

 しかし、彼女に屈するわけにはいかない。

歯を食いしばり、私は震える手を突き出した。凛華は不思議そうな顔になる。

「何?」

「バイブあるでしょ? 貸してよ。それ使って、自分でやるから」

 

 4

  

 まったく、カッツンのせいで、散々な目に遭ったものだ。

 その後、何があったかはいいたくないが、とにかく色々あって、ひどく酔っぱらっていたせいもあり、私は凛華のソファで一晩を過ごした。

 私は脚を引きずるようにして、会社へと歩いた。ソファで眠ったせいで首が痛いし、疲労感が半端ない。仕事のせいで、ただでさえ疲れているのに、勘弁してほしかった。

 凛華は、よく平気であんなことができるな、と思う。私が強制猥褻の罪で訴えたら、どうするつもりだったのだろうか。いや、すぐに引いたから、一応罪に問われないよう気は遣っていたのか。それにしたって、犯罪すれすれだ。やっぱり、あいつはまともな神経を持っていないのだろう。

もしかしたら、凛華は私が犯された上で服従する、官能小説みたいな展開を望んでいたのかもしれない。では私を、ペットにでもする気だったのだろうか。うわあ。とんでもない話だ。毎日縛られたり、鞭で叩かれたりするなんて、想像するだけで身の毛がよだつ。そういう遊びは、お仲間同士でやってほしい。

 まぁ、とにかくこれで、広告は落とさずに済んだだろうけれど。

そんなふうに考え、社畜の精神が身に染みついた私は、一件落着に心から安堵していた。が──甘かった。話は、これだけでは終わらなかったのだ。

 次の日曜日のことだ。朝方まで入稿察業に追われていた私は、久方ぶりの休息を貪るように熟睡していた。ケータイの着信音で、薄目が開く。そのまま放っておいたが、着メロは止まなかった。目覚まし時計を見ると、十時五十分だ。私は唸りながら電話に出た。。

「ハロー」

 相手が誰だかわからず、私は「は?」と男みたいな低い声で応じてしまった。向こうは途端に不機嫌になり、「凛華よ」と名乗った。

「ああ。凛華さん」

 できれば、二度と関わりたくない相手だった。どうして、彼女が休日に電話をかけてくるのだろう。SMデートのお誘いか、私に野外露出でもさせたいのか、と皮肉っぽい疑問が次々に胸に湧いた。

「ええと、なぜ、この番号を知ってるんですか」

「あんたんとこの編集者に聞いたんだけど」

「え、カッツンですか?」

「違う。坊主刈りの男よ」

 では、入道だ。新たな登場人物が、唐突な困惑に輪をかけた。なぜ、あいつがここで出てくるのだろうか。

「もう、そんなことどうだっていいのよ。それどころじゃないの」

 凛華の声が切迫した響きを帯びる。私は寝間着のまま布団の上にあぐらをかき、横でいびきをかいて眠っている牧人をぼうっと眺めた。

「どうしたんですか」

「事件なのよ」

「え?」

 不穏な単語に、私の眠気がいっぺんに吹き飛んだ。事件。条件反射みたいに、私の身体にざわざわとした感覚が広がる。

「ママがかんかんでさあ。絶対、犯人を見つけるってきかなくて。あんた、ミステリーが好きなんでしょ? ちょっと店に来てさぁ、犯人捜してくれない?」

「何があったんですか」

 緊張を覚えながら、鋭く尋ねる。凛華が答えると、私は耳を疑った。

「メロンパンが盗まれたのよ」


 5


 とにかく早く来てくれという話だったので、私はまったく化粧をせずにアパートを飛び出した。電車に乗っている間以外は極力走り、『迎賓館』を目指した。

髪を乱してまで急ぎ、取材の際に入った店長室に到着すると、中には七人の男女がいた。ママ、凛華、ボンテージを身にまとった二人の女王様、黄色いTシャツにデニムスカート姿の女性、スーツをきっちりと隙なく着た男性。

 そして、もう一人は素っ裸の入道だった。

 小さめの男性自身を揺らし、入道は私に向き直る。できれば無関係を装いたいほどの恥ずべき同僚に、頭がくらくらした。今度は、こいつが何かやらかしたのだろうか。急速に、私の心臓は不快な音を立てはじめた。

胸元が大きく開いたワンピースを着たママは、椅子にふんぞり返り、憮然としている。なぜ入道が裸なのか訊く前に、「いったい、何があったんですか」と、私は彼女に恐る恐る声をかけた。

「いったでしょ。メロンパンが盗まれたの」

 ママの代わりに答えたのは、凛華だ。

「それは聞きましたけど……」

まだ私は困惑の中にいる。ママはそんな私に目を据え、口を開いた。

 彼女の説明はこうだ。

 ママは時折、店で働いている人たちとコミュニケーションをとるために、飲み会を開く。昨日もママは皆に声をかけ、ついてきたスタッフや女のコと、朝まで飲んでいた。そのせいでほとんど寝ていなかったママは、営業開始時間の九時に出勤はしたものの、仕事に集中できず、やむなく仮眠をとろうと背もたれに身体を預け、少しだけ眠った。

 そしてノックの音で目を覚ますと、昼食用にとコンビニで買っておいたメロンパンが、机の上から消えていたということだった。怒った彼女はすぐさま、ここにいる人たちを集め、厳しく問いただしたそうだ。で、このままでは長引きそうだと感じた凛華が、私を呼び出すことを提案したのだという。

「はあ、そうなんですか」

聞き終えた私は少しの間、言葉に迷う。「でも、こういっては何ですが、パンひとつですよね? 他に盗られたものはないんですよね?」

「だから、どうしたの? 何であろうと、盗みは絶対に許せないわ」ママの口調には、一片の迷いもない。「犯人は必ず見つけ、店を辞めてもらいます」

「と、こういうわけなの。あんた、実際に事件を解決した経験もあるっていってたじゃない。ちゃちゃっと犯人見つけてよ」

 凛華が、両の手のひらを上に向けていった。

 状況を把握すると、私は馬鹿馬鹿しさに肩を落とした。本当にパンが無くなったぐらいで、大騒ぎしていたのか。せっかくの休日にくだらない「事件」のせいで呼びつけられた私は、ただただ虚しかった。カッツンが起こした騒動は、騙し討ちの強制猥褻でチャラになっているはずだ。私が、こき使われなければならない理由はなかった、

 しかし、この場合、放置できない問題がひとつある。

「あのう、ウチの宮下がなぜいるんですか」

「彼は客としてプレイ中だったの」

「そうですか。では、邪魔ですし、帰ってもらいましょうか」

「そうはいかないわ。彼も容疑者の一人なのだから」

 ママは目を糸みたいにして、眼光を強くする。私は嫌な予感が、徐々に現実化していくような感覚に襲われた。

「えーと、でもプレイしてたんですよね?」

「それが放置プレイ中だったのよね。その間、私は別室にいたの。両腕は後ろ手に縛り上げてたけど、脚は自由だったし、盗むのは不可能じゃないのよ」

 はち切れんばかりの巨乳をボンテージで押さえつけている女王様が、横から説明してくれた。長い栗色の髪を中央で分けた彼女は、凄みのある美人だった。

存在を知ってはいても、会うのは初めてだった。『迎賓館』で一番人気を誇る女王様、蘭子。凛華ですら、彼女の圧倒的な指名数には敵わないという話で、関西ローカルの深夜番組に出演したりするほど、彼女は有名だった。

「じゃあその、もし宮下が犯人だった場合、どうなるんです?」

 訊くのは怖かったが、私は尋ねた。

「この店を出禁にします」

 ママは怒りを眉間に漂わせながら、断言した。

「広告が落ちるなんてことは……」

「それはないわよ。Y出版さんとは関係ない話だから」

 こちらを安堵させるためか、ママは表情を柔らかなものに変えて、そういった。けれど、私は疑惑を捨てきれなかった。会社に影響が出ると知ったら、私がまともに働くはずがないから、適当に騙そうとしているんじゃないだろうか。盗みに厳しいというのであれば、掌返しみたいな汚いまねはしないと思いたいけれど……。

「ねえ、さっさとしてくんない? 予約客をキャンセルまでして、この茶……盗難事件に付き合ってるんだから。一時間以内に犯人見つけて」

 今、茶番っていいかけたな。

私は軽い可笑しさを感じながら、表情を消している凛華を見つめた。きっと彼女も、この状況を馬鹿馬鹿しいと感じ、早く終わらせたいとじりじりしているのだろう。

顎に指を添え、私はどうするべきか思案した。謎解きは大好きだから、犯人捜しをすることはやぶさかではない。しかし、もし入道の仕業だと発覚した場合は、しらばっくれて隠し通すべきではないだろうか。見つからなくても、私にペナルティはないわけだし。

「ところで、あなたのところの勝本さん、この間の撮影、めちゃくちゃにしたそうね。話を聞いて、びっくりしたわ。あなたが犯人を見つけられなかったら、罰として、広告を落とさせてもらいますからね」

まるで私の思考を読んだみたいに、ママは先回りして逃げ道を塞いだ。駄目だ。私は観念して目を閉じた。理不尽だとは思うけれど、この必殺技には勝てない。仕方ない。ママの約束を信じて、たとえ入道が犯人であっても、私は正直に指摘するしかないようだ。

「わかりました。ではとりあえず、宮下には服を着させてあげてくれませんか。今のままじゃあんまりですから」

 別に本当に気の毒に思ったわけではない。無実なら、料金を払ってプレイしていたのに中断された入道は同情されるべきところだが、こいつにはそんな感情は湧かない。私はただ単に、こいつの裸を見たくなかったのだ。

「ああ、サトちゃん、俺のことは気にせんといて。別にこのままでええから」

 入道は手を振り、まるでそれが男らしい台詞であるかのように胸を張った。いや、あんたは露出したいだけでしょうが、と私の血管は早くも切れそうになった。

 入道にかかずらっていたら、時間がいくらあっても足りない。私は気を取り直し、聞き取りを開始することにした。

「じゃあまず犯行時間をはっきりさせましょうか。ママが眠っていたのはいつからいつまでですか?」

「レイナさんがここに顔を出したのって、何時だったっけ?」

 ママに声をかけられたのは、もう一人のボンテージを身にまとった女王様だ。黒髪をショートにした、ちょっとハーフっぽい顔立ちをした女のコだった。

「私は十時前です。予約は十一時からだったんですけど、早く着いてしまいまして」

「そう。その後だったから、眠ったのはたぶん十時過ぎね。で、起きたのは凛華さんとサヤカさんが来た時だから……十時半ごろ。ここの女のコは出勤したら、まずは私に挨拶するのが決まりなの」

 視線を宙に彷徨わせていたママは、最後は私の目を捉えて説明した。

「そうですか。レイナさんは、その間、どうしてました?」

 尋ねると、レイナはぬめぬめと光るエナメルに覆われた腰に手を当てた。その下は、黒いレースの下着にガーターベルトだ。透けて見える肌の色にどきりと胸が驚き、私は目のやり場に困った。

「二階の二○五号室で着替えて、客を待ってたわよ」

「つまり、アリバイはない?」

「まぁ、そうなるわね」

 レイナは悔しそうに、口先を尖らせた。自分が容疑の圏内にいることが、不本意だといいたいようだ。あるいは、そう装っているだけか。現時点では判断のしようがなく、私は頭の中で保留の判を捺して、蘭子に視線を移した。

「蘭子さんは、宮下とプレイをはじめたのは何時ですか? それから場所は?」

「九時半よ。三○二号室。それでたぶん、十時から放置プレイに入ったわ。だから、私もアリバイはないわね。隣の三○三号室で雑誌読んでたんだけど」

 いいながら、蘭子は私の目を見つめた。彼女は目力があるので、吸いこまれそうな瞳と対しているだけで、どぎまぎしてしまう。関西有数の女王様がパンなんて盗むはずがないとは思うが、意外性があるから、蘭子が犯人だったら面白いのにな、と私は本人が聞いたら激怒しそうなことを考えてしまった。

 お次は、私服姿の女性だ。ばっちりとメイクを施しているこの人は凛華と同じ可愛い系で、おっとりした雰囲気の女のコだった。

「あなたは、サヤカさんですね。犯行時間、あなたはどうしてました?」

「私は昨日はママと一緒に飲んで、今日は休む予定だったんです。けれど、お店から『女のコが少ないから、来てくれ』って電話があったんで、十時二十五分ごろ店に着いて、一階の待機室にバッグを置いて、部屋を出ようとしたところで、出勤してきた凛華さんと会いました」

「では、あなたもアリバイは」

「それは、ないです。……ああ、私が嘘をついていると疑ってるんですね」

「いえ、そんなことはないんですけどね」

私は、慌てて否定する。しかしその裏では、当然彼女がいったような嘘の可能性を検討していた。とても綺麗なコなので、彼女を犯人役にして映像化したら、見栄えは良さそうだ。強いて難点を挙げるとするなら、蘭子ほどには華がないことだろうか。

……なんか私、見方が歪んでいるなぁ。

ミステリーマニアの悪癖というべきだろうか。妄想を追い払い、私は質問を重ねた。

「あの、訊いてもいいでしょうか。それ、ファッションなんですか?」

 彼女の細い首には、白い首輪が巻きついていた。ここはSM店なのだから別に不思議ではないのだが、私服を着ているのに首輪だけ嵌めているのはちょっと変だった。

「これですか」サヤカは首輪に手を当て、苦笑する。「プライベートのご主人様の命令でつけてるんです。ですので、これは仕事とは関係ないです」

「へえ、じゃあ、あなたはM女さんなんですか」

「いえ、私は女王様専門です。Mだからこそ、同じMの男性の気持ちがわかるってこともあるんですよ。お蔭さまで私の評判、すごくいいんです」

「本当よ」

 横から、ママが口を挟んだ。「そのコ、まだ入店してから一ヵ月ぐらいの新人だけど、人気は凛華さんの次ぐらいなのよ」

「わあ、それはすごいですね」

 感心したが、これでは雑談に興じているようだ。あまり話が脇にそれても困る。どうも今日の私は集中力を欠いていて、思考が散漫になりがちだ。パンの盗難事件だから、気が乗らないのだろうか。あるいは寝不足のせいだろうか。とにかくこんな調子ではいけない。

私は咳ばらいをし、最後にスーツの男性に向き直った。

「あの、あなたは……」

「スタッフの皆川です」

 彼も茶番に付き合わされるのが不快なのか、唇を曲げていた。顎髭を蓄えているので三十台ぐらいに映ったが、よく見ると、もっと若そうだった。

「スタッフは私も含めて今三人いますが、犯行時間に単独行動をとったのは私だけなんです。それで、私も容疑者の中に入ってしまいました」

「単独行動、といいますと」

「私も昨日はママと飲んでいたんです。で、時折、眠気が襲ってくるので、その度に顔を洗っていたんですよ」

「それは具体的に何時でした?」

「レイナさんがスタッフルームに来るのと入れ違いだったから、十時前ですね。トイレで顔を洗ってから、廊下でたばこを吸ったので……その間は、十分ぐらいじゃないでしょうか。で、二○五号室にレイナさんが入るのは見ていましたので、部屋に行って、今日、何時まで仕事するのか訊きました」

「では、たばこを吸っていたというその時間に、犯行は可能ですね」

 疑っている気配を見せると怒るかもしれないので、なるべくさらりと私は尋ねた。

「そうですね。でも、私たちスタッフはママの性格をよく知ってますから、ものを盗んだりなんてことは絶対にしませんよ」

「はあ、パンひとつでもクビになることはわかっていた、と」

「ええ、そうです。それなのに、たかがメロンパンを盗む馬鹿がどこにいますか?」

 皆川の主張はしごくもっともだった。

「出勤中のコはここに全員揃ってるんですよね。今朝、出勤予定のコは他にいましたか?」

「二人いましたが、どちらも急に休むって連絡が入りました。だから、サヤカさんに来てもらったんです」

「他の女のコには電話しましたか?」

「したけど、断られましたね」

 質問を終えた私はうーん、と唸った。この場にいる人たちは、みなアリバイがない。凛華以外は全員、犯人である可能性があるということだ。……いや、待てよ。凛華の場合は、いったん盗んで外に出てから、何食わぬ顔をして戻ってきたのかもしれない。では、彼女だって容疑者の一人だ。

 私は思考を進め、もっと容疑者が増える可能性はあるかどうか、検討してみた。

 お腹が空いていた犯人は、店長室にパンがあったため、軽い気持ちで盗って食べたのだろう。となると、出勤予定になかった女のコが気まぐれにあらわれて、パンを見つけたから盗んで帰ったというケースもあり得る。だが、普通に働けばもっと稼げるのに、パン一個で満足するというのも変だ。やはり容疑者は、ここにいる六人だけに絞られるだろう。

 と、私の頭に明るい光が閃いた。

「そうだ。宮下は容疑者から除外できます。彼はメロンパンがあることを知らなかったんですから、プレイ中にわざわざ店長室を訪れたんだとしたら、何か目的がなければなりません。そんな時、パンなんて盗まないでしょう」

 私は自分の発見に興奮した。よし、と拳を握る。これで最悪に至る道筋を、ひとつ潰すことができた。

しかし、入道は指を振り、ちっちっと舌を鳴らす。

「それは違うわ。プレイに入る前に蘭子様と雑談した時、店長室にパンがあったことは聞いたから。だから、放置プレイ中に腹が減った俺が、軽い気持ちで盗んだなんてことはおおいにあり得るで」

 お前は容疑者のままでいたいのか。私は思わず入道に飛びかかりそうになった。


 6


 メロンパンを盗るつもりで店長室に侵入したとする。その場合、どうしてママが眠っていることを予測できたのか。その点を指摘すると、入道は、それは無理やなと認めた。悔しそうに、顔をしかめて。まるでできれば、犯人になりたいような態度だ。たぶん、面白がっているだけなのだろうが、少しはTPOをわきまえろよ、と思う。お前だって、この店を出禁になったら困るんじゃないのか。

 その後、スタッフルームへ行って、仕事中の二人に皆川の言葉が本当かどうか確かめた。ママは以前、机に置き忘れた小銭をくすねたスタッフを、クビにしたことがあるそうだ。その手のエピソードは、枚挙にいとまがないらしい。ではそれらの事実を知っているスタッフなら、つまらない危険は犯さないだろう。皆川は無実と考えてよさそうだった。

 これで二人は容疑から外れた、と私は断定し、ママも納得した。私は皆川に仕事に戻ってもらい、入道を強制的に帰らせた。彼はまだプレイの途中だったのにと渋ったが、いつまでも全裸でうろつかれたら、推理に集中できない。まったく、こんな阿呆らしいことで妨害を受ける探偵役など、私ぐらいのものだろう。

「で、次はどうするの?」

 あまり期待していないような目で、凛華が訊いてきた。

「そうですね、証拠が残ってないか、各部屋を探してみましょうか」

「早くしてよ。もう十五分経ったから、残り四十五分よ」

 えっ、と目を剥く。あの一時間以内というタイムリミットは、本当だったのか。冗談だとばかり思っていた。ただ働きさせておいて、その上そんな条件まで課せられたら堪ったもんじゃない。

「それは厳しすぎますよ」

「何いってんの。レイナも私も、本指、キャンセルしてんのよ。これ以上、時間を奪われるなんて許せないから。守れなかったら、広告、落とすからね」

 なんという非道な台詞。本当にひどい話だ。しかし考えてみると、すでに店には大きな損害が出ている。それなのに、ママは犯人捜しを強行しているのだから、彼女の覚悟は相当なものであるはずだ。「頑張ったけど見つかりませんでした」なんていい訳では、決して許してくれないだろう。

 焦りが生じ、私は急いで捜査を開始した。目的は、メロンパンが入っていた袋だ。パンそのものはすでに胃の中だろうが、ビニール袋は必ず残される。出来心で盗んだだけだろうから、証拠の隠滅を怠っている可能性はかなり高いと私は睨んでいた。

 荷物もチェックしなければならないから、女のコたちの許可が必要だ。私は四人についてきてもらい、連れだってぞろぞろと歩いた。まずは同じ二階にあるレイナが待機していた二○五号室へと向かう。

 赤く塗装された部屋のなかは、六畳ほどの広さだった。右端には簡素なベッドがあり、左側の壁にはX型の拘束具が設えられている。黒い革張りのソファの上には、バラ鞭やアナルパールが無造作に放り出されていた。

 私はベッドの下を覗いたり、レイナの同意を得て、ヴィトンのバッグを検めさせてもらったりした。その間、凛華は退屈そうだったが、蘭子やレイナもまた、くだらないという表情をしていた。サヤカは一人、興味深そうな目で私を眺めている。

「腹が立つわぁ。誰がパンなんか盗ったの。いい迷惑よ」

 細い脚で床にあったアナル用バイブを蹴とばし、凛華が吐き捨てるようにいった。

「お腹空いてたんですかね」

 サヤカは小さく首をかしげる。

「誰だか知らないけど、名乗りでなさいよ。たかがパンでしょうが」

 苛々した調子で声を放ったのは、レイナだ。それに、サヤカが応じた。

「クビになるとわかってたら、名乗りでないんじゃないですか? 怒らないからいいなさい、って騙せばよかったんですけどね」

「嘘はつきたくなかったんでしょうよ。あーもう、いいじゃない、クビでも。SM店なんて他にいくらでもあるんだから」

 レイナは怒りをこめて溜め息をつく。すると、腕を組んでいた蘭子が短い笑い声を洩らした。レイナは素早く蘭子に目をやった。

「……何よ、何がおかしいの」

「だってさ、この中に犯人がいるじゃない? なのに、周囲を欺くために懸命に演技してるわけでしょう? それを想像したら、もう可笑しくって」

「……」 

 レイナは、反応に困ってしまったようだ。曖昧な顔つきになって口を噤む。

そんなレイナを、蘭子が黒く縁取られた瞳で見つめた。

「ねえ、レイナさん。あなた、借金があるそうじゃない。それも少なくない金額の」

 唐突に与えられた情報は、私にとっても興味深いものだった。レイナははっとした表情に変わり、次いで、眉をつり上げた。

「はあ? 何がいいたいのよ」

「ホストに入れあげて、貢ぎまくってるんですってねぇ。もしかして、食うや食わずの生活なんじゃないの? 以前より、だいぶ痩せたみたいだし」

「だから、パンを盗んだっていうの? 馬鹿にすんじゃないわよ」

 気色ばんだレイナは蘭子につかつかと歩み寄った。それから、息がかかるほどの距離で蘭子を睨みつける。蘭子の方はといえば、面白そうな目でレイナの視線を受け止めていた。

 二人の対峙の横で、私はこっそり息を吐いた。ホストに狂って、風俗に沈む女のコはよくいる。金づるからはできるだけ搾り取るのが彼らの常識なのだから、お金を失うのは本当に簡単だ。もしそのせいでパンを盗んだのだとしたら、あまりにもレイナが哀れだった。

 相手がナンバー1だからといって、レイナは黙っている性格ではないらしい。彼女は反撃をはじめた。

「そんなこといったらあんただって、給料上げてくれないっていっつも愚痴ってるじゃない。もしかしたら、その恨みを晴らすためにママに報復したんじゃないの?」

「メロンパンを盗んで? ずいぶんみみっちい報復じゃない」

「すでにパン一個の問題じゃないじゃないの。現在、店は機能してないし。あんた、こうなるってわかってて盗んだんじゃないの?」

「あ」

 危険水位が徐々に近づくなか、サヤカが中途半端な声を洩らした。皆の注目を浴びた彼女は首をすくめた。

「何よ」

「いえ……その、そういえば、蘭子さん、店を辞めるみたいなことをおっしゃってたなあって。でも、勘違いかも」

「はあ? あんた、どうなのよ!」

 ここぞとばかりにサヤカは声を張り上げた。しかし、蘭子は動じない。

「プライベートに関することは、答えかねるわね」

「ほら、見なさい! あんたは辞める前に店を引っ掻き回したかったのよ。何が演技よ。芝居してるのは、あんたじゃない! あんたは、この馬鹿騒ぎを楽しんでるんでしょう!」

「何、勝手に決めつけてるのよ」

 蘭子の双眸が、初めて真剣な光を湛えた。今にもキャットファイトのゴングが鳴りそうな気配だ。そんなものを喜ぶ趣味はないので、私はげんなりした。

ちょっと、ちょっと。色々と情報が得られたのは良かったけれど、喧嘩はしないでほしい。これでは事件が解決しても、しこりが残ってしまうではないか。

「こぅら、里美ちゃんの気が散るでしょ。止めなさいって」

 さすがにまずいと感じたのか、珍しく凛華がまともなことをいって、レイナの腕を引っ張った。両肩を押さえられたレイナはまだ興奮している。が、その表情に微妙な変化が生じた。背後に立っていた凛華が、レイナの耳たぶを噛んだからだ。

「……何してんのよ」

「こうすれば、落ちつくでしょう?」

「いや、あんたはどさくさに紛れて、欲望を満足させたいだけなんじゃないの?」

 レイナの指摘は図星だった。。凛華はレイナの頬にねっとりと舌を這わせている。右手が動き、ボリュームのある乳房を下から持ち上げるように揉んだ。あんたは見境がないわね、とレイナは侮蔑を交えて呟いたが、抵抗はしなかった。さすが彼女も女王様だけあって、凛華の異常な行動に接しても無様に慌てたりはしない。調子に乗った凛華は、ホルターネックの胸元から右手をもぐりこませて、乳をまさぐりはじめた。

 あのう、そんなことされたら、喧嘩よりよっぽど気が散るんですけど。

「いいかげんにしなさいよ!」

 凛華が止めないので、そろそろ我慢の限界に達したのか、レイナは彼女を乱暴に突き飛ばした。それから、攻撃の矛先をサヤカに向ける。

「あんた! なに涼しい顔してんのよ! あんただって、動機ぐらいあるでしょう!」

「えっ、私ですか?」

突然、因縁をつけられ、サヤカは目を白黒させる。

「あたしたちだけ動機があって、あんたがないってのは不公平でしょうが」

「そうね。私の情報をさりげなく提供したのも、結構疑わしいわよね」

 レイナと蘭子の二人に責め立てられ、サヤカは泣きそうな顔で「そんなぁ」と呟いた。でも、口許はちょっとだけ緩んでいる。言葉責めを受けると、彼女は嬉しいようだ。本当にMなんだな、と私はびっくりした。

「ほら、いいなさいって」

 蘭子が口調をねちっこくすると、サヤカはますます唇をほころばせた。

「そうですねぇ。私、子供の頃、よくお母さんのつくった料理をつまみ食いしてましたよ」

「ふうん。じゃあ、盗み癖のあるあんたが、パンを盗んでもおかしくないわね」

「盗み癖ってそんな」

「違うっていうの? あんたは盗癖のある汚らしい豚なのよ」

「ああ……はい。私は汚らしい豚です」

「あんたが、盗んだのよね?」

「はい、私が盗みました」

「ほら、白状したわ」

 すかさず、蘭子はサヤカを指ししめす。私は呆れて、声もなかった。いや、それはあんたが誘導して、いわせただけでしょうが。

 なんだか、女王様たちのキャラが濃すぎるので、油断するとどんどんペースに巻きこまれてしまう。これ以上時間を浪費しないためにも、私は急いで手を動かした。

いくら部屋を漁っても何も出てこなかったので、次は蘭子が使っていたという三階の部屋を捜索することにする。

 三○三号室のなかは、二○五号室と比べてさほどの違いはなかった。大きく異なる点は壁に丸い鏡が掛けられていること、それとテレビがあることだった。私は先ほどと同様に念入りに部屋を捜し、一応隣の二○二号室も調べてみた。しかし、成果は得られない。

一階まで下りて、待機室も調べた。サヤカと凛華のバッグを覗き、ソファの隙間や下側を一つひとつチェックしていく。サヤカと凛華のスカートのポケットまで、ひっくり返してもらった。それでも何も出てこないので、私の焦りは、徐々に高まっていった。

 もしかして、捜し方が悪いのだろうか。私は、何か大事なことを見落としているんじゃないだろうか。

 タイムリミットが刻々と近づいてくる。私が額に汗を滲ませているのに対し、四人はとても暇そうだ。退屈が頂点に達したのか、今度は蘭子と凛華が絡み合いはじめた。

 初め、凛華はサヤカの腰に手を伸ばそうとしたのだが、敏感に気配を察したサヤカはさっと飛びのいた。それを見た蘭子が「ほら、嫌がられているじゃない」と笑い、凛華を引き寄せたのだ。蘭子はいきなり唇を奪い、凛華と舌を擦り合わせた。お遊びにしてはいささか過激で、女の私でも見ていてドキドキした。

「……下手くそ。よくそんなテクで、ナンバー1だなんて威張れるわね」

 唇を離した凛華は、挑戦的な目つきでいい放った。

「キスは指名数とは関係ないからね」

 蘭子は肩をすくめる。「そんなこといって、あんた、もう濡らしてるんじゃないの?」

 凛華のスカートの内側に、蘭子は手を滑りこませた。下着が露わになり、中心を刺激された凛華は一回、がくんと腰を痙攣させた。

「やったわね」

 お返しに、凛華は蘭子の股間に手を伸ばす。そのまたお返しに、蘭子は花柄のタンクトップをずり上げて、ストラップレスブラを外した。Dカップほどの乳房が弾んで姿をあらわす。私は「わー大きいなー」とやけくそで呟いた。

二人は懸命に相手の身体をまさぐる。これも、争いの一種なのだろうか。人前で、お金も貰えないのに、こんな絡み合いをはじめるなんて、やっぱりこの人たちは普通ではない。メロンパンの行方など、一瞬、どうでもよくなった。

龍虎相搏つ、なんて見出しが頭に浮かんだ。イメージとしては蘭子が龍で、凛華が虎だろうか。全然根拠はないけど。で、拮抗していた龍虎の戦いは段々龍の方が優勢になった。蘭子は凛華をソファの上に押し倒し、乳首を口に含んだ。右手はショーツの中に侵入し、激しく蠢いている。凛華が声を上げはじめたので、さすがに私は見ていられなくなった。

「ストーップ! それぐらいにして下さい!」

 結局、とても珍しいものが見られたけれど、本来の目的の方の成果はゼロだった。

 店長室に戻ってから、私は五人に囲まれながら結果を報告した。壁の時計を見やると、時間はもう二十分しか残されていなかった。

「あんた、何してたのよ」

 ママの冷たい非難が胸に突き刺さる。私は卑屈に腰を折り、低姿勢になった。

「いやぁ、パンが入っていた袋がどこかにあるんじゃないかと思ったんですけどねぇ。何も見つかりませんでした」

「……袋?」

 大きなテープカッターをペンでべしべし叩いていたママは、動きを止めた。

「袋ならあるわよ」

 まったく予想していなかった言葉を聞いて、私は目を見開く。ママは机の引き出しを開け、ぺちゃんこになったビニール袋を取り出した。

「え? どういうことです?」

「だから、これだけ残されてて、中身が消えていたのよ」

「……あのう、そういう話は最初にいってくれませんか」

 虚無感に包まれ、私はがっくりとうなだれた。こんな大事な情報を、説明し忘れるなんて信じられない。あら、ごめんなさいとママは謝罪したが、その口調はとても軽かった。

「ちなみに、一緒に買っていたパックの牛乳もそのままだったわよ」

「ああ、そうですか。他にいい忘れてることはないでしょうね」

 ない、という返答を得て、私は腕を組んだ。しかし、どういうことだろう。犯人は、わざわざ袋を破って中身だけ盗んだのか。証拠が残るのを嫌がったから? 衝動的な犯行のくせに、多少は頭を使ったのだろうか……?

 進展はあるにはあったが、その先には大きな壁が待っていた。もう他には、手がかりは出てきそうにない。困った私は室内をうろうろ歩いた。そんな私を射る視線が、みるみる凍てついていく。五人とも「こりゃ駄目だな」と考えているのが、はっきりと肌で感じられた。疑念しか与えていないようだったけれど、だからといって私にはどうしようもない。

 なにか、なにか突破口はないか? 袋に指紋が残っていれば決定的な証拠になるけれど、指紋を採取する道具なんてここにはない。となると、あとは論理だけで犯人を導き出さなければならないのか。しかし、そんなことが可能なのだろうか。

 牧人の存在が、ふと思い出される。私には無理でも、彼なら解決してくれただろうか。

と、うつむいていた私の目が異物を捉えた。普通なら、ゴミだと思って気にもかけないような小さな点だ。しかし、神経が研ぎ澄まされていたのか、すぐに私の頭脳は注意を促した。脚を止めて、私は臙脂色の絨毯の上でしゃがみこむ。ママの机から、一メートルほど離れた場所だった。

「ママ、ルーペ持ってませんか?」

「ん? あるけど」

 ママが引き出しから取り出したルーペを、サヤカが手渡してくれた。私は注意深くつまみ上げた黄色い粒をルーペで仔細に眺めた。

「この部屋の掃除は、いつするんですか?」

「毎朝、営業開始前にスタッフが清掃してるわよ」

「じゃあこれは、それ以降に落ちたことになりますね」

「何なの、それ」

「パンのかけらです。正確にいうと、メロンパンの皮」

私の言葉を聞いて、ママは眉をひそめる。私は黄色い粒を口に放りこみ、「甘いですね。やっぱり間違いないです」とうなずいた。

「嘘でしょ。皮が落ちてたってことは、ここで犯人はパンを食べたっていうの?」

「そうなりますね」

肯定はしたものの、私だって信じられない思いでいっぱいだった。盗んだパンを食べた? ここで? ママがいつ起きるかわからない状況で悠々とそんな行動をとるなんて尋常ではない。神経が図太いというか、はっきりいってまともではなかった。

私の頭に、犯人の顔として明確に入道が描かれた。そんなことをするのは、奴ぐらいのものじゃないだろうか。では、あいつを帰したのは、判断ミスだったのか。

 いや、と私は首を振る。ここの女王様たちだって、普通じゃない人たちばかりだ。先程の捜索中にも私はそれを散々思い知らされた。彼女たちなら、どんな無茶でも平気でやりそうに思える。見つかったらお金を払えばいいや、ぐらいの考えだったのかもしれないし。

 おぼろげながらも、犯人像が少し見えてきた。だが、ここまでだ。私は再び壁にぶつかった。今度は、おいそれと越えられそうにはない。私は、他に何かないかとまた室内をうろつきはじめた。

一度証拠を発見したので、もう私に向けられる視線に危ぶむ気配はない。ちょっとだけなら、時間を稼げそうだった。まったく、綱渡りをさせられている気分だ。

幸いなことに、私はそれ以上、神経をすり減らさずに済んだ。ノックの音が響き、救いの主があらわれたのだ。

「どうぞ」

 事務的な口調で、ママは応じた。それに素早く反応し、扉が開かれる。私は驚きに、ぽかんと口を開けた。

「すいませーん。Y出版でーす」

 声も足どりも軽く、頭を下げながら入ってきたのは牧人だった。


 7


 出かける時、私は牧人の枕元に書置きを残していた。「メロンパンが盗まれたそうなので、迎賓館に行ってきます」という文面に、牧人は首をひねったそうだが、それでもどうやら緊急事態だと悟り、すぐに彼は追って来てくれたのだった。

 地獄で仏に会ったように、私は彼の手を握りしめ、懸命に状況を説明した。ワトソン役へと降格になるのは、殺人事件の時につづいて二度目だけれど、そんなことは気にしていられない。私はなるべく要領よく、知り得たすべての事実を彼に話した。

レイナの金銭事情や、蘭子の抱えている不満などに関しては、極力声を落として周囲に洩れないように配慮した。牧人はにこやかに耳を傾け、聞き終えると、「なるほどね」とうなずいた。

「じゃあ、早く通常の営業に戻れるように、急いで終わらせましょうか」牧人は、凛華の方に顔を向けた。「凛華さん、サヤカさんと一緒に店長室に来た時、ノックしたのはあなたでしたか? それともサヤカさん?」

「私よ」

「結構、ではレイナさん。皆川さんが部屋に来た時、あなたは私服でしたか?」

「いいえ、ボンテージに着替えてたけど」

 なぜ、そんなことを訊くのかという顔で、レイナは答えた。

「そうですか。ちょっと確認してきますね」

 牧人は大股に歩いて部屋を出ていき、すぐに戻ってきた。

「確認、取れました。これで犯人は大体、わかりましたよ」

 あっさりとした牧人の発言は、私を仰天させるのに充分だった。いや、私だけでなく部屋にいた全員が、驚きの表情を浮かべていた。あの常に冷静な態度を崩さない蘭子までが、薄く唇を開いたまま固まっている。

 私は反射的に牧人に駆け寄り、小声で確かめた。

「そ、そんな大見得切っていいの? 格好つけてるだけじゃないでしょうね」

「あれ、信用ないなあ。大丈夫だよ」

「でも、どうして? 特定できる情報なんてないじゃない」

「いいや、サトちゃん。君は大きな間違いを犯しているんだ。パンのかけらを発見したのはお手柄だけど、そこから先がまずいんだよ」

 牧人は穏やかな笑みを浮かべて、ぽんぽんと私の二の腕を叩いた。

「どういうこと?」

 私の問いを無視して、牧人は両手を広げて声を張り上げた。

「皆さん、サトちゃんがここでメロンパンの皮を見つけた時、皆さんは犯人がここでパンを食べたって考えましたよね。でもそれは大胆すぎると思いませんか? 盗み食いが目的なら、誰だって安全な場所まで運んでから食べるでしょう。それが普通ですよ」

「えー、でもここの人たちはみんな普通じゃ……」

 いいかけて、私は慌てて口を閉ざした。それを見て、牧人は苦笑している。

「まぁ、女王様たちは性に関しては奔放かもしれないけどね。でも頭がイッちゃってるわけじゃないんだから、それ以外の時は合理的に行動するはずさ。でなきゃ、ママは厳しい人なんだから、とっくにクビにしてるよ」

「でも、じゃあどうして、メロンパンの皮があったの?」

 全員が持ったであろう疑問を、凛華が牧人にぶつけた。

「答えは簡単です。犯人は必要があって、パンを割ったんですよ」

 牧人は自信満々に答える。稲光が脳を直撃し、私はあっと声を上げた。

「そっか! 鞄を持ってなかったら、パンを隠して持ち出せない。でもパンを二つに割って、ポケットに入れれば、外からはわからない」

「うん、そういうケースが考えられるね。とにかく、犯人はパンを割って、ここから持ち去った。盗んでいるのだからその時、外側から見て犯人がパンを持っているか、わからない状態だった。これは間違いないでしょう」

 牧人は、まるで舞台上の演者のように、大仰に人差し指を立てた。観衆と化した五人は、彼の言葉を邪魔すまいと一言も喋らない。もはや私が探偵役だったことなど、誰も憶えていないようだ。

「では、一人一人考えていきましょう。蘭子さんの場合、プレイ中でボンテージを着ていた。これでは、パンを隠しようがない。鞄を持っていたなら、パンを割る必要がない。よって、除外されます」

 蘭子はふん、と鼻を鳴らす。そんなのは当たり前だ、といいたげだった。

「次にレイナさん。彼女も犯行時間にボンテージを着ていました。それは、皆川さんが確認しています。皆川さんが去った後に、なぜか私服に戻って、店長室を訪れたらママが眠っていたのでパンを盗んだ、なんてことはまず考えられませんからね。レイナさんも蘭子さんと同様、除外できます。となると、残るのは二人、凛華さんとサヤカさんです」

 牧人がそこまでいうと、凛華は顔をしかめた。彼女は、自分の立場を悟ったらしい。

「二人って何よ。もしかして、私を疑ってんの?」

「ええ、あなたの証言がすべて嘘という可能性もありますから。その場合、パンを盗んでからいったん外に出て、戻って来たってことになりますね」 

「ふざけんじゃないわよ。どうして、私がそんなことするの!」

 ずっと傍観者のつもりでいたら、理不尽にもいきなり容疑者にされた。そんな憤りを、凛華は露わにしていた。彼女は今にも噛みつきたいという形相で牧人に歩み寄った。

「動機ですか? こんなのはどうです? あなたはサトちゃんを襲ったけれど、拒絶されたでしょう? それが、あなたの癇に障った。あるいは、サトちゃんをどうしても自分のものにしたかった。だから事件を起こしてサトちゃんを呼びつけ、犯人を名指しできなかった場合は窮地に追いこみ、それをネタにもう一度襲おうとしたっていうのは?」

 牧人がいい終えるとすぐに凛華は腕を伸ばし、ボーダーTシャツの胸元を掴んだ。

「その口を閉じないと、容赦しないわよ」

 怒りのあまり、凛華の手は震えている。その拳を、牧人は右手で包みこんだ。

「落ち着いてください。たとえばの話ですよ。思い出してほしいんですが、ママはノックの音で目覚めたっていう話でしたよね? ノックしたのは、あなたでした」

「……ええ、そうよ」

「あなたは店長室を訪れる際、ちゃんとノックをするという常識を持っています。では、もしあなたがもっと早く店長室に来ていたんだとしたら、当然その時もノックしていたでしょう。その音で、ママは目覚めていたはずです。そうなると」

 凛華から離れ、牧人は一歩、二歩と前に進んだ。彼が歩み寄ったのは、あのコだ。

「残されるのは、サヤカさん。あなたです」

 牧人はびしりと人差し指をサヤカに向けて固定する。やりすぎなくらい、彼は探偵役を演じていた。サヤカは綺麗な瞳を丸くしている。

「そんな、おかしいですよ。誰が犯人か知らないですけど、ノックの音が小さくて、ママが目覚めなかっただけかもしれないじゃないですか」

 戸惑った声で、それでも精一杯サヤカは反論する。すると、牧人は素に戻り頭を掻いた。

「あ、気づいちゃいました? しまったなー。確かに、ノックは完璧な決め手とはいえないですよね」

「でしょう?」

 安心したように、サヤカは表情を緩める。

反対に、牧人は顔つきを引き締まったものに変えた。彼の目には、決意の色があった。

「……できれば、ここでギブアップしてもらいたかったんですが。仕方ないですね。では、身体検査させてもらえますか」

「え?」

「犯人は、ここからメロンパンを持ち出した。ということは、まだ持っている可能性があります。それが出てくれば、決定的な証拠になるでしょう?」

 それは無駄だ。サヤカのポケットは、すでに確認しているのだから。私はそういおうとした。けれど、寸前で思い留まった。サヤカの頬が、微かに引き攣ったからだ。

それはまるで、仮面に罅が入ったようだった。瞬間、蘭子の台詞が思い出される。周囲を欺くための犯人の懸命な演技。

それをつづけていたのは──サヤカだった。

「もちろん、サトちゃんにやってもらいますが。それとも、首輪を外す方がいいですか?」

その言葉の意味は、私にはわからなかった。けれど、サヤカには伝わったらしく、彼女はうつむき、目を閉じた。

「もう……何もかもバレてるってことですね」

 諦めをしめす深い溜め息が聞こえた。だらんと下がっていたサヤカの両腕が動く。彼女は手を、下からTシャツの中に入れた。

「……!」

ばりばりっと、何かが剥がれる音が響き、私は息を呑んだ。サヤカが取り出したものは、二つに割られたメロンパンだった。断面を上にして並んだメロンパンには、大量のセロテープが付着している。サヤカは、セロテープでメロンパンを身体に貼りつけていたのだ。

メロンパンが取り去られた後の胸は、まったくの平面だった。

「何……これ?」

「つまり、サヤカさんは男だってことだよ」

 私の問いに、牧人はあっさりと答える。皆は、まだ呆気にとられていた。

「俺の想像を語っていいですか、サヤカさん」

 訊かれると、無言でサヤカはうなずいた。了解を得て、牧人は喋りはじめる。

「動機は知りませんが、女性だと嘘をつき、サヤカさんはこの店で一ヵ月ほど前から働きはじめました。普通はすぐにバレそうなものですけど、彼の美しい容姿のために誰もが欺かれ、そして今日に至ったのです。しかし、ついに彼は失敗しました。寝不足のまま出勤したために、彼は詰め物をしたブラジャーをつけ忘れたんです。きっとサヤカさんは朦朧としていて、店長室の扉をノックすることも忘れていたんでしょう。しかし、彼は眠っているママの胸を見て、やっとおのれの過失に気づいたんです」

 私は、Y字型になっているママの谷間に目をやった。その時のサヤカの狼狽ぶりは、容易にイメージできた。

「サヤカさんは困りました。今まであった胸が急になくなったら、誰もが変に思うでしょう。着ているのがTシャツ一枚ですから、胸がないと一目瞭然です。たぶん彼はすぐに帰ろうと考えたでしょうが、しかし店を出るまでに誰かに出くわす危険性がある。何かで胸を隠せればよかったんですが、バッグは一階の待機室に置いてきてしまっていました。それで、咄嗟に目の前にあったメロンパンとセロテープを利用したんです」

「確かに……今日はいつもより、小さいなとは思ったけど」

 レイナが茫然とした顔つきで呟いた。

「作業を終えたサヤカさんは店長室を出て、待機室に戻りました。でもそこで運悪く出勤してきた凛華さんと鉢合わせしたんです。その後は、皆さんご存知の通りです」

 牧人が説明を終えると、部屋に沈黙が満ちる。想像もしなかった事実に、誰もいうべき言葉を持たなかった。

そんな中、凛華だけは平然と声を発した。

「へー、あんたオカマだったんだ。タマとか、サオもとってんの?」

 空気を読まない凛華の面目躍如というべきか、軽薄な口調で彼女は尋ねた。

「いえ、まだあります。性転換の手術費用を貯めたくて、私、働いているんです」

「そういや、あんたのボンテージってスカートだし、ハイネックで首まで覆うタイプだった……ん、首って、そっか」

 凛華はぱん、と音を立てて両手を合わせた。

「その首輪は、喉仏を隠すためのものだったんだ!」

 隠された意味に辿り着いたのがよほど嬉しかったのか、凛華は大きな声でいった。しかし、サヤカは首を横に振る。

「ご主人様の命令で、つけているのは本当です。でも……きっと彼は女になりたい私のためにわざと、そんな命令をしたんでしょうね。これは、彼の優しさなんです」

サヤカは目を閉じ、愛おしそうに首輪を右の指先で撫でた。その姿を見ながら、「よくわからないわね」と蘭子がいった。

「お金がほしいなら、オカマバーとか、いくらでも働ける場所があるでしょう。なんでここなのよ」

「私は、SMが好きなんです!」

 急に声を高くして、サヤカは叫んだ。「本当はM女がいいんですけど、それは無理だから。でも、女王様として働いて、お客様に喜んでいただいて、私、涙が出るほど嬉しかったんです。オカマ、オカマって子供の頃から馬鹿にされてた私が、初めて生きててよかったって実感できたんです!」

 涙を浮かべて、サヤカは一息に語る。二重に倒錯していて、なんだかよくわからない人だけれど、サヤカの告白は心に強く訴えた。私は彼女に同情し、胸を熱くした。

他の女王様たちも同じ気持ちだったらしい。僅かな躊躇いの後に、しめし合わせたように三人は歩を進めてサヤカを囲んだ。

「ま、SMが好きっていうあんたの気持ちはよくわかるわ」

 サヤカの肩に手を置いて、凛華が囁いた。「オカマなんていって、ごめんね」

「あたしなんかより、あんたはよっぽど立派な女王様よ」

 意外と感激家なのか、レイナは目に涙を滲ませていた。

「今日は迷惑かけられっぱなしだったけど、でも許してあげるわ」

 蘭子は慈愛に満ちた母のように、優しく笑んでいた。

 三人は一斉に、ママに視線を集める。代表して、レイナが声を上げた。

「ママ、サヤカさんをここで働かせてあげてください」

 それは、この場にいる人間の総意だっただろう。

レイナの訴えを聞いたママはにっこり笑った。一瞬、サヤカの瞳が希望に輝いた。

 しかし、ママはすぐに真顔になる。

「そんなの、できるわけないでしょう」


 性別を偽って男を店で働かせたりしたら、バレた時にとんでもない大騒ぎになる。マスコミは面白がって報道するだろうし、下手をしたら店は潰れるだろう。サヤカをクビにするのは、しごく当然のことだった。

 私はサヤカに、性転換手術を行った上で、堂々とニューハーフである事実を掲げて、SM店で働けばいいとアドバイスした。世の中にはもの好きが多いから、きっと客はつく。その時は、私が記事を書いてあげる。そういって、一生懸命に慰めた。サヤカは寂しそうに微笑み、ありがとうと応じた。

バッグを手にしたサヤカは悄然と去っていった。それを、私は牧人とともに見送った。 私の言葉は、気休めに過ぎなかっただろうかと考えながら。

「ねえ、最初からサヤカさんが男だって、牧人にはわかったの?」

 気になっていたことを、私は牧人に尋ねた。すると、彼は小さく首を振った。

「いや、外見上はわからなかったけどね。でも、あのあからさまな首輪を普段から嵌めてるっていうのはねぇ、私は変態ですって貼り紙つけて歩くようなものじゃないか。サトちゃんだって、奇妙に感じただろ? まぁ、それだけなら見過ごしたかもしれないけど、いくらお腹が空いてたって、普通は店長のパンを盗んだりしないしね。その二点を併せて考えると、答えが見えてきたかな」

 サヤカの背中を見つめながら、牧人は答える。そんな彼から、私はそっと視線を外した。結局、推理ではこの人には絶対勝てない。苦い敗北感が、私の胸をずっと締めつけていた。

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