エステ殺人事件

闇の中で、ベルが無慈悲に鳴り響いている。私は唸りながら開かない瞼を無理やり開き、腕を伸ばして目覚まし時計のボタンを叩いた。

 それから、隣の布団で寝ている牧人の肩を揺すぶる。

「起きてよ、牧人。会社行かなきゃ」

 牧人は寝起きがすこぶる悪い。いつも何回か大声を出さないと、布団から決して出て来ようとしなかった。

予想通り、牧人は幸せそうな顔をして目を閉じたままだ。それどころか、何か呟きながら私のパンツに手をかけるので、彼の頭を平手で叩いた。

「何するつもりよ」

「愛を確かめ合うんだよ」

「そんな暇あるかっ」

 こんな調子では、遅刻は確実だ。私は牧人を放っておくことにして、下着姿のまま台所へ行って顔を洗い、歯を磨いた。六畳一間にくっついている玩具みたいなキッチン。でもどうせここには眠るために帰るだけなので、さほど不都合は感じなかった。

 私たちがこんな関係になったのは、六月に入ってすぐの頃だ。

仕事が終わってから牧人に誘われ、二人きりで居酒屋で飲んだ。その後、気づいたら牧人の部屋にいて、そして私はそのまま居ついてしまったのだった。牧人の住むアパートは会社から歩いて五分程の距離にあり、通勤にはとても便利だ。この魅力に私は抗えなかった。一昨年、尼崎で起きた脱線事故のニュース映像が軽いトラウマになっているので、電車に乗らずに済むのも嬉しい。親には会社の近くに部屋を借りたとだけ、いってある。両親は極端な秘密主義になった娘に愛想を尽かしたのか、もう詳しく聞こうとはしなかった。

 成り行きで同棲する結果になったけれど、牧人が私をどう考えているのかは知らない。先ほどは愛がどうしたとかいっていたが、たぶん本気ではないだろう。かなりモテるようだし、私も複数いる女の一人に過ぎないのではないだろうか。

私の方は、和弘の苦い体験があるので、男に期待する気持ちはなくなっていた。結婚とか、どうでもいい。どうせ私は、家事はろくすっぽできないし、家庭におさまっている自分の姿など微塵も想像できない。案外、唐突に宗旨替えしてさっさと嫁いだりするのかもしれないが、今はまったくそんな気はなかった。

だから現在の状況も、家賃が浮くから良かった、ぐらいにしか考えていない。

 がらがらと、コップに入れた水で口をすすいでいると、牧人が後ろから被さってきた。そして、私の胸をまさぐりはじめる。

「止めろっていってんでしょうが」

「えー、いいじゃん。まだ間に合うって」

「そんなこといって、前も遅刻したでしょう?」

「大丈夫、四十秒で終わらせる」

「だったら、一人でやってろ!」

 牧人を蹴り飛ばし、私は地味な焦げ茶のワンピースを頭から被った。


 2


 手早く用意してアパートを出たので、時間的にかなり余裕を持って職場に到着した。今日の掃除当番は私と、月刊誌班に新しく入った椎名文也だ。やがて彼が来たので、私たちはあちこちに配されたゴミ箱のゴミをビニール袋に集め、掃除機をかけた。

 そのうちお昼になり、昼礼が十五分ぐらいで終わると、各編集者は席につく。私は、取材に行く準備をはじめた。

「サトちゃん。営業から依頼のあった、『乙女クラブ』はどうなった?」

 ヒガシさんが机越しに尋ねてくる。私はすかさず、「メインでいく予定です」と答えた。

 市村がクビになってから、新聞班はずっと五人体制をつづけている。新人はちょこちょこ入って来るのだが、月刊誌班の方がどんどん辞めていくので、向こうにばかり配属されるのだ。お蔭で私は、市村が担当していたエリアを丸々引き継ぐことになった。キタとミナミを除いた、大阪府全域だ。デリヘル面の半分は元の担当である牧人に戻されたけれど、私の仕事は一度に何倍にもなってしまった。

 けれど、追い詰められると人は変わる。窮地が、私を急激に成長させていた。

「入稿は一面一時間」という新聞班の標語がある。これは、ヒガシさんに教えられた。風俗媒体の文章は優れていなくても構わない。いくら上手い文章を書いても、女のコの裸や激安情報にばかり注意が向いている読者は誰も熱心に読んでくれない。文章は必要とされる情報を盛りこんで、間違いがなければいいのであって、とにかくスピードが大事なのだ。

だから一面にかける所要時間は一時間にしろ。それができないうちは半人前なのだから、つべこべ文句をいうな。とまぁ、そういうことだった。

初めの頃は無茶な要求だと、私は呆れて聞いていた。ところが、いつしか私は一時間のラインをクリアできるようになっていた。それは、文章力が安定してきたことが一番大きいだろう。以前のように、ヒガシさんに何度も突き返されるというようなことはなくなっていた。これで一応、一人前といってもいいかな、と私は密かに思っている。

「それじゃあ、行ってきます」

 取材道具一式を入れたトートバッグを持ち、私は立ち上がった。牧人が笑顔で「行ってらっしゃい」と応じる。けれど、二人の関係を周囲に悟られたくない私は、わざと無愛想な表情をまとった。

 その顔のまま、廊下へ出る。と、トイレに行っていたらしいカッツンと鉢合わせした。

「ああ、サトちゃん。もう取材に行くん?」

「ええ」

「あ、そうや」

 カッツンは唐突に、素っ頓狂な声を上げた。

「今度な、ホテヘルのマスコットキャラに名前をつけたら、六十分無料券進呈ってイベントがあんねん。見出しはどうしたらええやろ?」

 私は、数秒考えて答える。

「『名づけ親になれば、感〝無料〟』ってのはどうでしょう? 感無量にひっかけて」

「おお、さっすがサトちゃん。それ、貰うわ」

 悩まずに見出しが出来たので、上機嫌でカッツンは去っていった。私は苦笑して、それを見送る。いいように利用されているなと思うが、別にそれぐらいは構わない。そんなことより、先輩にアイディアを提供できるほど成長したという事実が、私のプライドを満足させていた。


 会社まで迎えに来てくれたヒラさんのオデッセイに乗りこみ、私は取材に出発した。

私の担当は大阪府下全域なので、取材場所はあちこちに散らばる。なので、必然的に何か足がないと効率的に回れないという状態に陥るのだ。それで、私はいつもヒラさんに頼んで同乗させてもらっていた。

 一軒目は谷町九丁目にある人妻系のホテヘルだった。人妻さんの撮影をし、プロフィールの聞き書きをしたところ、彼女は自分の性生活について、赤裸々に語った。なんでも、家ではよくAVを鑑賞しながらオナニーをしていて、昼間、客とプレイして疲れていても、夜は欠かさず夫とベッドを共にしているそうだ。私は、記事に書いてもらうためにわざと大げさに話しているのかな、と首をひねった。けれど、そういう雰囲気ではない。まぁ、性欲の強い女性が趣味と実益を兼ねて風俗で働くのは自然だし、こういう人もいるんだなと私は納得した。きっと彼女は、客とも本番行為をしているのだろう。

二軒目は堺東のホテヘルだ。撮影予定の女のコが遅刻したので、待っている間、私は店長と無駄話をしていた。彼は風俗の業界に入って八年が経つそうだが、毎日の睡眠は平均して約二時間。とうとう酒飲みでもないのに、肝臓を悪くしてしまったそうだ。なんとまあ、ウチも大概だけど、風俗店も悲惨だ。休みが一切取れない店もあると聞くし、やっぱり、この業界で働くのはとても大変であるらしい。

どんなに仕事が辛くても、店長は女のコが出勤すると「寝坊か? どうせ昨夜も遅うまで、イヤらしいことしとったんやろ」「ううん、それはちゃちゃっと終わらせたんやけど」などという会話を明るく交わしていた。ご苦労様です、店長。

三軒目は京橋。巨乳専門店だ。巨乳というと聞こえはいいが、要するにぽっちゃりな女のコばかりがいるお店だ。今日は、ハルカちゃんという新人のコの撮影だった。

ママによると、巨乳店には変態的な客が多く、「下腹が垂れて、陰毛まで覆っているコを頼む」とか「ペニスを巨体で踏んづけて欲しい」とか、とにかく注文がややこしいという。で、ある時電話で、乳輪の大きさがCDぐらいのコに来てほしいという依頼が入ったそうだ。なぜそこに拘るのかわからないが、とにかくママは困り、「乳輪がCDですか……」と呟いたきり言葉を探していると、ハルカちゃんはすかさず手を上げて叫んだ。「私なら、アルバムでも大丈夫です!」

うん……それだけ貪欲なら、きっとどんな世界でも成功するだろう。私は心の中で、彼女に声援を送った。

 そして、四軒目はキタにある「野薔薇」という中国系のエステ店だった。

 扉をくぐり、受付にいた、額がかなり後退している痩せた中年の男に取材の旨を告げると、彼はケータイでどこかに電話をかけた。すると間もなく扉を開けて、スーツを着た恰幅のいい男性があらわれた。どうやら、彼が店長らしい。

「いらっしゃい。副店長、ユナちゃんは接客中なんだよな? すみません。では、終わるまで待ってもらえますか」

 店長は流暢な日本語でいい、通路の左側に九つほど並ぶ小部屋の、一番奥に私たちを案内した。そこで、私とヒラさんは先に撮影の用意をして待った。

 カーテンが閉まっていたから、隣には客がいるのだろう。私たちは遠慮し、なるべく音を立てないようにして、ベッドの上でぼうっとしていた。

すると、壁を通してちゅっ、ちゅっという湿った音が聞こえてきた。

「あれ? ここ、エステやんな?」

ヒラさんが身体を傾け、小声で私の耳に囁いた。

「ええ。だから、あれはきっと、吸盤か何かで客の身体をマッサージする音ですよ」

 ああ、なるほど、といってヒラさんは元の姿勢に戻る。そのうち、女性の喘ぎ声が聞こえはじめた。「アナタ、大好キヨ」などと、囁く声もする。

そして、ベッドの軋みと、規則的に肉を打つ音が響きはじめた。

「あれ? もしかして、あれは本番……?」

「まさか。日本には売春防止法があるんですよ? あれはきっと、タオルで客の身体を叩くマッサージです。誤解してはいけません」

 私が澄ました顔でいうと、ヒラさんはまた、「なるほど」と応じた。

 やがて男が一声、呻いたり、ティッシュを引き抜く音が聞こえてきたりしたが、もちろんそれは、いかがわしい行為によるものではない。私は断言しよう。

 客を送り出す足音が聞こえた後、少ししてからカーテンが開かれ、丈の短い赤いドレスを着たユナちゃんがあらわれた。瞳の大きな、なかなか綺麗な女性だ。会話を交わして声を聞けば、彼女が隣室で接客していた女のコであることはすぐにわかった。

 この仕事をはじめてから三ヵ月になるが、本番を済ませた直後の女のコを取材するのは初めてだ。私はちょっと、どぎまぎした。ああ、しまった。本番っていっちゃったよ。

 下着になるのもNGだったので、ドレスを着たまま、ユナちゃんの撮影をする。すべてが終わると、私たちはすぐに店を出た。これで、今日の取材は終了だ。

 なかなか濃い一日だったな、と私は傾いた陽射しを浴びながら、背中を反らせて大きく身体を伸ばした。

 

 3


 その日、私はミナミにあるホテヘルへと向かった。体験マンガの取材なので、カメラマンに同行してもらう必要はない。私、一人だ。

体験マンガは「体験」というくらいだから、実際に編集者が女のコとプレイして、その内容を書くのだとばかり思っていた。ところが、そうではなかった。編集者の体験マンガは女のコにプレイの詳細をインタビューし、シナリオを書いてマンガ家に渡せば出来上がる。指一本触れずに済ましてしまうのだ。

以前は、実際にプレイを行っていたという話だ。ところが、本番を強要する馬鹿な編集者が続出したためにトラブルになり、今の形に落ち着いたらしい。やっぱり、ウチの編集はろくでもない奴らばかりなのだった。

私は店に入ると、受付の人にY出版社から来たことを告げた。すると、四十代ぐらいの仏頂面をした店長が出て来た。

「ああ、どうも」

 店長の声は、とても無愛想だ。私は、すぐに危険信号を察知した。初対面なのだから、私に悪感情を持っているはずはない。Y出版に悪感情を持っているのだ。たぶん、ウチの媒体の広告効果に疑問を持っていて、まともに相手をする気になれないのだろう。体験マンガの取材先は営業が指定するのだが、ここはもう広告が落ちる寸前なのかもしれない。

そもそも、この店は評判が悪い。「パネマジ」がひどいので、ネット上でも叩かれている札つきのお店だ。「パネマジ」とは、パネルマジックという造語の略である。フォトショップという魔法をえいってかければ、あら不思議、パネル写真がみんな美人になってしまうというわけだ。

おたくの店がはやらないのは、ウチのせいじゃないですよ。私は彼の背後で、舌を出す。すぐに澄ました表情をつくり、案内された事務室で女のコがやって来るのを待った。

十分ほど経っただろうか。扉を開けた女のコを見て、私は大きなショックを受けた。容姿に、とても難があるのだ。顔については同じ女としてあまりいいたくないが、巨乳専門店でもないのに、かなり太っている。このコを「今、一押しですよ」と、紙面で紹介しなければならないのか。これでは、ウチの媒体の信用にかかわる。

しかも、インタビューをはじめたら、やる気のない言葉ばかりが飛び出して来た。プレイでも、なるだけ早く終わらせることを心がけているそうだ。私は聞きながら、げんなりした。紹介する女のコのチョイスはお店に任せている。出してくるコがこれでは、やっぱり店側は広告効果になんら期待をしていないのだろう。こうなると、もはや嫌がらせだ。

本音はすぐにあらわれた。取材開始から五分も経たないうちに、店長に強制的に中止にされたのだ。私は唖然とした。彼は、客がついたんだという。「それなら、せめてあと五分」と頼んだけれど、取り合ってもらえなかった。

あまりに酷いやり方だった。取材中なのに、どうして客をつけるのだろう。では他の女のコで、とお願いしても、あっさりと断わられてしまった。

営業の意向があるから、紹介するお店を変えるわけにはいかない。こうなれば、内容をでっち上げるしかなかった。禁じ手であっても、こんな状況ではどうしようもない。私は、やむを得ないなといったんは諦めた。

しかし──帰り支度をはじめた時だ。女のコが戻ってきたので、私は目をしばたたいた。彼女の説明によると、仕事の約束を忘れていたといい残して、客が帰ったらしい。

店長が憮然としているので、ぴんときた。つまり客はパネルで選んではみたものの、実物との落差に驚いて逃げたのだ。女のコは可哀想だったが、お蔭で無事に取材は終了した。

帰社してから、デスクのヒガシさんにその話をしたら、彼は大笑いした。

「あの店は、本当に『パネマジ』がひどいからなぁ」

「やっぱり、人を欺いちゃいけないですよね」

「ああ、まったくだ」

 うなずいて、ヒガシさんはまた笑う。できれば店側にはこのことを教訓にしてもらいたいが、それは無理な相談だろう。私は、もうあの店とは関わりたくないなと思った。

会話を終え、私は席につこうとする。すると、営業の広田さんが大股で歩み寄って来るのが見えた。

「よお、サトちゃん。また頼むわ」

 彼はB5の紙を差し出してきた。エステの取材依頼書だ。広田さんは、主にエステ店を担当しているのだった。

「ぜひ、メインで扱ってや」

「メインですか……」

 広田さんは片手で拝む。しかし、大した割引でもないので、私は小さく首をひねった。

編集の仕事をする上で、いつも苦労させられることがある。紙面を営業が奪い合うので、調整しなければならないのだ。

営業と編集の力関係は、広告収入に頼っている風俗媒体の性質上、圧倒的に前者の方が強い。とはいえ、あくまでも編集権は私たちにある。クライアントを優先するあまり、紹介する店が偏ったり、つまらない割引情報ばかりを掲載していては、いずれは読者にそっぽを向かれるからだ。実売が落ちれば反響が出なくなるわけだから、結果的にはクライアントが離れていく。だから、編集がバランスをとる必要があった。

しかし、そうはいっても、やはり編集は営業の希望を極力、実現しなければならない。バランスは大切だが、目先の金も大事だ。営業にはノルマがあるから、彼らも目の色を変えている。「可愛いコが入店したから、ぜひグラビア候補にしてくれ」「広告が落ちそうだから、てこ入れをしたい」「お得意様だから、メインで大きく」次々と入る依頼をさばくだけでも大変だった。締め切り間際にねじこまれたりすると、悲鳴を上げたくなる。

ここで問題となるのは、私が携わっている新聞という媒体の形式が、紹介できる記事数を制限することだ。エリアや業種で分かれた記事面はメインとメイン下の合計二つ、二面なら四つだ。大きな枠はこれだけしかない。希望がこの数を上回れば、あぶれる者が出てくるのは自明だ。たとえば、媒体自体を週刊誌のような中綴じ本に変更すれば問題は簡単に解決するのだが、上層部が決断を下してくれない限り、私たちにはどうしようもない。

「まぁ、善処します」

「うん、頼むで」

 と、ヒガシさんが会話に割って入って来た。

「そういえば、『野薔薇』で殺人があったそうですね」

 えっ、と私は小さく声を上げた。

「ああ、そうそう。月曜日の真っ昼間に、ユナちゃんってコが殺されたんや。……そういえば、サトちゃんに撮影に行ってもろたな」

「ええ、最近ですよ」

 私は、胸がどきどきしてきた。二人が、茶飲み話でもするみたいに平然としていることにまず驚く。だって、殺人事件なのに。この人たちはカッツンや入道などと比べたら、まだ常識人の方だと思っていたのだけれど、やっぱり少し普通とは違うのだろうか。

殺人。私は、声に出さずにその言葉を繰り返す。そんな怖ろしいことが、まさか身近で起きるなんて信じられなかった。

「お店の中で殺されたんですか?」

「そうや。客に首を絞められたらしい。犯人はまだ捕まっとらん」

「なんで、そんなことに?」

「詳しくは知らんけど、あの女、借金があるいうて、客に金貢がせとったらしいな。それが原因やろ」

「そうなんですか……」

 目を閉じれば、私はユナちゃんの顔を容易に思い描くことができる。整った鼻筋に、大きな瞳。確かにあのコが泣きついてきたら、男は簡単に金を出すかもしれない。

「でも、防犯カメラの記録が残っていれば、すぐに捕まるでしょ?」

「いや、しょっぼい店やからな。つけとらんのや」

「あらら、今時珍しいですね」

「せやな」短く同意して、広田さんは腕時計に目を落とす。

「ま、悪いことはできんっちゅうこっちゃ」

 大雑把にまとめて、広田さんは去っていった。私は自席に座り、仕事をする振りをしながら、まだ騒いでいる胸を押さえた。

今の話を、頭の中で反芻する。

 私は昔からミステリーが好きで、クリスティ、カー、クイーンなどの古典から、新本格の作品まで、幅広く読んでいる。編集者になりたいという志を持ちはじめたのも、そもそもは自分ではミステリーが書けないから、せめて作品をつくり出す側の人間になりたい、と考えたからだ。

そんな私でも、実際に殺人事件に接するのは初めてだ。顔を知り、言葉を交わした人間が殺されたという事実は、なんだか奇妙な感覚をもたらした。彼女がもうこの世界にいないと思うだけで、何か心に黒い風穴が空いたような、不気味な感じがする。得体の知れない暗闇が、足元から忍び寄ってくるようだった。

広田さんによれば、容疑者は客らしい。貢いでいたというのなら、何度か店に通っていただろうし、それなら店員が顔を憶えているだろう。逮捕は時間の問題かもしれない。

……風俗店での殺人かあ。編集者の知識を活かして、犯人を捕まえられないかな。

ふと私は我に返り、自分の思考に驚いてすぐさま打ち消した。なにを馬鹿な。素人が犯人捜しをしようなんて。ミステリーが好きだと、こんなことを考えてしまうのか。しかし、現実をミステリー小説と混同するのは、不謹慎ではないだろうか。大体、毎日のように締め切りに追われている私にそんな時間などあるはずがない。

そうよ、無理無理。できるわけがない。

私はもう殺人の件は頭から追い払い、ワードを起動して記事を書きはじめた。



「あれは、大国町が一斉摘発を受けた頃ですわ。一見して、目つきが普通でない男が入ってきましたんや。ほしたら、いきなり呼び捨てや。『沢見、来たったでぇ』刑事やがな。それからが大変や。すったもんだの押し問答があって、わしはつい『パクりたかったら、令状持って来んかい!』と叫んでもうたんや。

あれは忘れもせえへん。わしが天丼を食い終わった直後やった。どかどかっとポリの集団がやって来よって、その先頭にはあの刑事や。勝ち誇って紙を広げて『お前が欲しがってたモン、持って来たったでぇ』ホンマに、そういいよりましたんやで。わし、もう力が入らんようになってもうて。両手を差し出して、いいましたわ。『どうぞ、ご自由に』て」

女のコの撮影後、私とヒラさんは京橋にある『人妻天国』というホテヘルで、店長の話を聞いていた。沢見店長は関西人らしく陽気な人で、いつも面白い話を聞かせてくれる。ただ、少し話が長いのが玉に瑕だった。

そろそろ行かなければならない時間になり、では、と私たちは腰を上げた。店を出て、エレベーターで一階へと下りながら、私は店長が語ってくれた逮捕の話から、『野薔薇』での殺人事件を連想していた。

 あれから、ニュースをこまめにチェックしているけれど、容疑者はまだ捕まっていなかった。意外と、捜査は難航しているのかもしれない。

となると、私の中の名探偵願望が、むくむくと頭をもたげてくる。

実は今日、『野薔薇』の取材を予定に入れてある。これは営業の要望ではなく、私から店に持ちかけたのだった。もし先ほどのように店の人との雑談の機会があれば、何か情報が得られるかもしれない。くだらないことは止めておけ、と内なる良心が囁くのだが、一方で、私は好奇心を抑えきれなかった。話を聞くだけだから、と私は良心に向かって弁明しつつ、何とか手掛かりを引き出してやろうと、強く意気ごんでいる。

京橋でもう一軒、ホテヘルの取材をし、私たちはオデッセイでキタへと走った。いよいよ『野薔薇』へ行く時がきて、私は緊張した。

自動扉を抜けて店に入ると、前に見た人とは違う、細身の若い男が受付にいた。今回はさほど待つこともなく、前回と同じ一番奥の個室で撮影をはじめた。

女のコの源氏名はサリー、ルックスはまあまあで、プロフィール上の年齢は十九歳だった。実際、見た目も幼い感じなので、サバを読んでいるわけではないだろう。

はじめ、サリーは表情が固かったが、ヒラさんののんびりした声に乗せられたのか、段々と笑顔がよくなっていった。客受けの良さそうな童顔だし、大きく扱えば人気が出るかもしれない。『野薔薇』はこの間、記事を載せたばかりだから、メインなどはしばらく無理だけれど、どこか小さい枠を使って、サリーを紹介してあげようと私は考えた。

フィルム一本を使用して撮影が終わると、立ち上がりかけたサリーに、私は自然な調子を装って話しかけた。

「ねえ。この店、前に殺人があったんでしょ?」

 尋ねると、途端にサリーは悲しげな表情に変わった。

「ソウダヨ。殺サレタヨ。姚明トハ、私、友達ダッタノニ」

「姚明? それがユナちゃんの本名なの?」

「ソウ。林姚明ダヨ」

 私はサリーから詳しく話を聞いた。サリーと姚明は留学生として、日本に滞在している。いや、姚明の場合は過去形か。とにかく二人は同じ大学に通っていたので仲良くなり、卒業しても日本で暮らしたいね、と語り合っていたそうだ。

「デモ、姚明、オ金大好キダッタヨ。オ客サン騙シテ、オ金貰ッテタ。ソレデ殺サレタヨ」

「容疑者の男の顔は知ってる?」

 サリーは首を横に振った。直接、見たことはないらしい。

「殺害現場は見た?」

「見テナイ。デモ、話ハ聞イタ」

「どんな感じだったの?」

「姚明、革手錠ヲサレテ、口ヲガムテープデ塞ガレテタソウダヨ。ソレデ、首ヲ締メラレタンダッテ」

 ガムテープ……声を出せない状態だったのか。だから、周りは気づかなかった……。

「その時、店には誰がいたの?」

「店番ダケダヨ。他ニオ客サン、イナカッタ」

「店番は誰?」

「李勇。今、受付シテル」

「ふうん」

 あの男が現場にいたのか。では、できれば後で話を聞いてみよう。

「女のコは普段、どこにいるの?」

「二階ニ、待機室ガアルヨ」

 なるほど。状況は大体わかったし、報道だけでは知ることのできない情報も得ることができた。サリーから聞き出せる話は、これぐらいだろうか。

「他に、何か気になることはない?」

「他……」

 サリーは頬に指を当て、律儀に考えはじめた。やがて、目を見開く。

「ア、ソウソウ。死ヌ前に姚明イッテタヨ。『私、豚ノ男ニ殺サレルカモシレナイ』ッテ」

「豚?」

 どきりとした。豚、つまり太った男か。私の頭に、腹の肉をだぶつかせた顔の見えない男の姿が浮かんだ。

姚明は、客に脅されていたのだろうか。それで死の予感に、彼女は怯えていたわけか。

「ドウシテ、姚明ノコト、訊ク?」

 ふいに、サリーが不思議そうに尋ねてきた。当然の疑問だが、私は少しまごついた。

「えっと、前に彼女を取材したことがあるから、それで気になっちゃって」

「ソウ……」

 暗い声でいい、サリーはマスカラを塗った睫毛を上下させる。同情していると思われただろうか。けれど、私の中には不純な動機も混じっているので、少し心が痛んだ。

「姚明、可哀想ダヨ。犯人、捕マッテ欲シイヨ」

「うん」

彼女の様子が不憫だったので、私はつい、余計なことをいってしまった。

「あのね、編集者っていうのは、いっぱい情報が入るの。だから、もしかしたら犯人を見つけられるかもしれないよ」

「ホント?」

 効果は絶大で、サリーはぱっと顔を輝かせた。

「頼ムヨ。オ願イスルヨ」

 サリーの細い指で、両手が包まれる。私は、少し面映ゆくなった。あまり期待されても困るのだけれど、頼られるのは素直に嬉しい。

私は、何かわかったら教えるから、サリーのケータイの番号を教えてほしいといった。彼女は喜び、私たちは番号の交換をした。

 これでまた、訊きたいことがあれば、サリーに電話することができる。

 得られた成果にほくそ笑みながら、私は二人とともに個室を出た。サリーは扉を開けて、待機室へと戻っていく。それを見送ってから、李勇に話しかけた。

「あのう、殺人があった日、あなたが店にいたんですって?」

「ああ、その通りだが」

 勇の日本語は完璧だった。

「犯人は一人で、個室から出て来たんでしょう? 普通は女のコがお見送りするのに。不自然には思わなかったんですか?」

 サリーが協力的だったのに気をよくして、私はまったく無警戒だった。

しかし勇は、すぐさま表情を険しくした。

「……何なんだ、お前ら。サツでもないのに、そんなことを訊いてどうする?」

「え、あの」

「面白半分なのか? ふざけんじゃねえぞ、こら」

 いきなり、声のトーンが跳ね上がる。私は怖くなり、何度も頭を下げて謝った。

「終わったんなら、とっとと帰れ。馬鹿野郎」

 罵声を浴びせられ、私とヒラさんは急いで店を飛び出した。路上に出てから、動悸が激しくなった胸を右手で押さえる。

ヒラさんが、サトちゃんは変なところに興味を持つんやなぁ、と呆れたようにいった。


 5


勇からはまったく話が聞けなかったけれど、私はめげなかった。翌日、サリーに電話をかけて、代わりに勇の情報を引き出してくれるよう頼み、それは成功した。

 まず、容疑者が一人で個室を出てきた件だが、勇は客に、「激しくヤッたから、ユナちゃんは疲れて横になっているよ」と説明され、それで納得したそうだ。ただし、店で本番を行っているのがバレてはいけないので、警察には適当な理由をいってごまかしたという。

 犯人については、よく見ていないし、元から人の顔を憶えるのが苦手だから、あまりわからないらしい。二十代ぐらいの太った男、というのが、勇が憶えている容疑者の特徴のすべてだった。

 結局、犯人につながる情報はほとんどなかった。お店から手に入る材料は今のところ、これだけだ。さて、次の段階として、私にできることは何かあるだろうか。

 腹案は、あるにはあった。けれどそれは、成果をほとんど期待できない方法だ。やらないよりまし、という程度だった。

 しかし、とりあえずやってみよう、と私は考えた。初めてやった探偵の真似事は、とても熱く血を滾らせてくれる。もうスピードが充分に乗って、おいそれとは停まれない、という気分だった。こうなったら、自力で行けるところまでは行きたい。

 私は新聞の小さな枠で、毎回読者の様々な質問に答えている。そこでは、私は「里香」という名前のナイスバディの編集者という設定だ。私は、それを利用するつもりだった。

 まず、読者のハガキをでっちあげる。「エステで殺人事件があったそうですね。里香さんは何か知っていますか?」というものだ。それに対して、「里香は何も知らないけど、ミステリーは大好きなの。だから、とっても興味あるんだ。みんなも、もし何か知っていたら、里香に教えてね。事件に関する重要な情報をくれた方には、里香のエッチな生写真、プレゼントしちゃうよ❤」と、回答する。こんなものに釣られる人はいないように思うけれど、私にできることはこれぐらいだった。

 ところが、テキストをヒガシさんに見せたら、すぐさま却下された。

「えー、何でですか?」

 予想外の出来事だったので、私は、高く声を上げた。

「当たり前だろ。殺人事件なんて、風俗のイメージダウンにしかならんだろうが。そんな話を紙面でするな」

 ヒガシさんは険しい目で、叱声を浴びせてくる。正論だったので、私は言葉に詰まった。

他に手段がないので、うつむいて、立ち尽くす。その様子を見て、ヒガシさんは怪訝な顔をした。

「何なんだよ。あの事件にそんなに興味があるのか?」

「はい」

「どうせ、面白半分なんだろ?」

「え? えーと……」

 皮肉っぽく尋ねられ、私は考えこんだ。

ミステリーが好きだから。これが動機の発端で、面白半分といわれれば否定はできない。けれど、全部がそうだとはいい切れなかった。何といっても人が死んでいるのだから、殺された姚明のためにも私は犯人を捕まえたい。サリーにお願いされた、ということもある。

「いえ、正義感です」

 私が答えると、ヒガシさんは露骨に疑わしそうな表情になった。

「ウチには、そんな真っ当な人間はいないはずだけどな」

「あんな屑どもと一緒にしないでください」

 私は、腹を立てて声を荒げた。それはそうだな、とヒガシさんは納得したようにいう。

 しばらく頭の後ろで手を組んでいたヒガシさんは、やがて両手を下ろした。

「読者の質問を『里香さんの趣味は何ですか?』に変えろよ」

「え?」

「で、その回答を修正して使えばいい。ただし、殺人事件には一切触れるな。譲歩できるのは、ここまでだな」

「あ、ありがとうございます」

 一転して光明が見えたので、私は喜び、勢いよく頭を下げた。


 6


 それから、約一ヵ月が過ぎた。

 情報提供を呼びかける文面を新聞に載せてから、私は毎日、読者からのハガキをチェックした。けれど、どうでもいい内容のものをちらほら見かけるぐらいで、殺人事件に関するものは一枚も届かなかった。

当然といえば、当然ではある。紙面では殺人の話ができず、ただ「ミステリーが好きだから、なんでもいいから事件の話を教えて」としか書けなかったのだから。まぁ仮に書けたとしても、犯人の情報を握っている人間が、ウチの新聞を読んでいるなんて偶然が、そう都合よく起きるはずもない。元々、無理な話なのだった。

「でも、期待してたんだけどな……」

 私は一枚のハガキを手にしながら、頬杖をついた。持っているのは、常連さんのハガキだ。細かい字で、びっしりとウチの媒体の感想が綴られている。そして最後は、いつも自分が遊んだらしい女のコを褒める文章で締めくくられていた。今回は『ラブプロジェクト』の杏奈──以前、タトゥーの消し忘れでトラブッた女のコだ。いいコだから、ぜひ紙面で紹介してくれと書いてある。けれど、残念ながら『ラブプロジェクト』の広告は落ちたので、ウチではもう扱ってはいなかった。

「しっかし、小さい字。すごい情熱だなぁ」

 気持ち悪いけど、と私は微かに笑う。風俗オタク、とでもいうのだろうか。住所も名前も書いてないから、読者プレゼントが欲しいわけではないらしい。ただ、思いの丈をぶちまけたいのだろうか。ウチの媒体を熱心に読んでくれるのは有難い限りなのだが、お近づきになるのは正直遠慮したいところだ。

「サトちゃん、サトちゃん」

 声をかけられて、私は顔を上げた。見ると、カッツンが嬉しそうに手招きしている。瞬間的に、全身に不快な感覚が走り抜けた。

「何ですか?」

 周りを見渡してみると、すでに他には誰もいない。時刻は、夜中の四時前だ。私はおかしいな、と首をひねった。確かもう一人、入道がいたはずなのに。

「早く。こっち来て」

 カッツンは手を動かすのを止めない。これはもう十中八九、くだらない悪戯だろう。私は確信した。さすがにこれだけ長く一緒にいれば、こいつらの行動パターンは洞察できる。

「来てぇな、サトちゃん」

 わかっていても、とりあえず乗ってやらなければ、終わらせてくれないようだ。私は、やれやれと呟いて机に両手をついた。

「何なんですか」

 溜め息まじりにいうと、カッツンは答えずに歩きはじめる。彼は、窓際の応接セットの方へと私を誘った。

「……」

 義務的についていってそれを見た瞬間、私はこれ以上ないくらい、顔をしかめた。入道がケチャップか何かで顔面を真っ赤に染め、テーブルとソファの間に転がっていたのだ。

しかも、全裸で。

「わっ、サトちゃん、殺人事件やで!」

 カッツンが両手を頬にあてて、わざとらしく叫んだ。

馬鹿にしとんのか、と腕が震えた。こいつら、私が「ミステリーが好き」と新聞に書いたものだから、それをネタにからかってやがる。本当に、ムカつく連中だ。

 女のコの裸は毎日のように見ていても、男の裸を見せられるとやはり動揺してしまう。しかも横たわっているのは、醜く太った脂肪の塊だ。できれば目を逸らしたかったが、そうすると負けのような気がして、私は入道を睨みつづけた。

「サトちゃん、犯人は誰やろうなぁ」

 問いかけられて、私は数秒、考えこんだ。

そして、にやりと笑う。

「そうですね。じゃあ、死体を調べましょうか」

 そういうなり、私は右脚を使って寝転がっている入道の脚を開かせ、股間を踏みつけた。

「おおっ、サトちゃん。それは、えげつないで」

「いえいえ、調べてるだけですから」

 私は脚に力を入れてぐりぐりと踏む。堪らなくなったのか、入道が声を上げた。

 ほらほら。どうしたの、苦しいの? 人を弄んでばかりいるから、こんなふうに痛い目を見るのよ。少しは、思い知りなさい。

 スニーカーの裏で動く肉の感覚が気持ち悪くても、それを上回る復讐の快感があった。ようやく、一矢報いた気分だ。私は楽しくなってきた。

「サトちゃんって、結構ドSやったんやな」

「まさか。違いますよ」

「ほいで、入道はドMやからなぁ。相性はバッチリちゃうか」

「え?」

「ほら、ちゃんと見てみ? 喜んどるやろ」

 私は弾かれたように、脚を戻した。

吐き気を催しそうな光景が、眼前にあった。腹の脂肪が落ちていく先では、勢いを得た短い棒が屹立している。入道が、股間を勃起させているのだ。

私は、あんぐりと口を開けた。

「さあ、サトちゃん。もっとや。もっと踏んでやって」

 カッツンが私の肩に手を置いて、いう。こいつらには、ダメージは与えられないのだろうか。もはやくだらなすぎて、私は何もいう気がしなかった。


 あやかというソープ嬢からプロフィールを聞いている最中に、彼女のケータイが鳴ったので、話はいったん措いて電話に出てもらった。

「えっ。そう……、やられてしもたんか。それやったら、シャワーあるやろ? うん……外して、突っこんで……そう。そうしたら洗えるから。うん」

耳に入ってくる会話があまりに過激なので私は驚き、電話を終えたあやかに説明を求めずにはいられなかった。

なんでも、彼女の友達のソープ嬢が、客に途中でゴムを外されて中出しされたという。それで、どうすればいいか相談の電話をかけてきたのだった。そういう場合はシャワーヘッドをねじって外し、局部に突っこんで洗うのだそうだ。

「ビデだと、奥まで届かへんやろ。その点、シャワーは勢いが違うから」

あやかはカレシとホテルに入っても、シャワーヘッドが外せるタイプかどうか、必ず調べるらしい。カレシが膣外射精に失敗した時のためだ。私はそんなことをするのかと、開いた口が塞がらなかった。

あやかは他にも、毛ジラミはダニアースをふりかければ一発で治ると、知りたくもない情報を教えてくれた。あんなところにダニアース……と、私は目が眩みそうになる。月刊誌の手伝いで初めて福原に来たのだが、なんだかやたらと話が濃い。やはり本番行為が伴うせいだろうか。これはやれといわれても絶対にできないな、と私はしみじみ思った。

 取材を終えて、ヒラさんと店を出た。せっかく福原に来たのだから、その辺を見物してみたかったけれど、私は常に時間に追われているので無理だ。きらびやかな電飾に飾られた桜筋の巨大なゲートを抜け、私たちは駐車場へと歩いていった。

 私のケータイが鳴ったのは、オデッセイの助手席に乗った直後だった。

「──もしもし」

「まいどー。サトちゃあん、俺や俺」

 軽薄そのものといった感じのカッツンの声が耳に響く。それがあまりに不快だったので、私は即座に切ってやった。

 すぐに、また着信音が鳴り出す。私は軽く息をついて電話に出た。

「ちょっ、切るって何やねんな。サトちゃん、最近きっついなぁ」

「そうですか?」

 私は冷たく応じる。

「なんやねんな。せっかくいいこと教えてあげよ思たのに」

「どうせ、つまらない話でしょう?」

「ちゃうちゃう」

「じゃあ、何ですか?」

「何やと思う?」

「……」

 イラッとして、私は唇の端をつり上げた。運転しているヒラさんが、訝しむ目でちらりと視線を送ってくる。

「あの、面倒くさいんですけど。止めてもらえません?」

「ええやん。これも会話のキャッチボールやないか」

 お前には、頭部にデッドボールをお見舞いしてやりたいのだが。

「何なんですか。もったいぶらずに教えてくださいよ」

 この調子では、いつまで経っても話がはじまらないだろう。やむなく、私は下手に出た。それで、カッツンは嬉しそうな声になる。

「知りたい?」

「はい、とっても」

「そやったら、十回クイズに答えてからな。おま×こって、十回いって」

「てめえっ! セクハラもいい加減にしろっ!」

 堪忍袋の緒が切れて、私はケータイに噛みつく勢いで怒鳴った。

「冗談やないの。サトちゃん、ノリ悪いなあ」

「いいから、とっとと教えろ!」

 私が怒りを静めないので、カッツンはやっと話す気になったようだった。

「ハガキが来たんや。殺人事件のこと知ってるって読者から。サトちゃん待ってたんやろ」

「え……」

 確かにそれは、望んでいた知らせだ。けれど私は、にわかには信じられなかった。これも、カッツンの悪質な冗談ではないだろうか。

「嘘じゃないんですか?」

「ホンマやって。帰ってくれば、わかるわ」

 話を終えて電話を切り、私は思考に沈んだ。もう諦めかけていたのに、情報提供のハガキが来たなんて。本当だろうか。

 本当だとしたら……あれが功を奏したのだろう。Y出版のサイトのコミュニティでは編集者がブログを載せることができる。そこは好き勝手に書けるので、殺人事件について情報を求めてみたのだ。きっと、それを見てくれたに違いない。

 私の胸に、徐々に喜びが這い上がってきた。まだどんな情報かわからないのに、期待がどんどん膨らんでいく。新たな展開がない膠着状態から、これで脱出できるかもしれない。このまま、一挙に解決へと辿り着く可能性だってある。

 私にも、やっと運が巡ってきたのかも。そんなふうに思った。

オデッセイが会社につくと、私は走って、玄関ドアをくぐった。

 カッツンは編集部で、ハガキを脇に置いて仕事をしていた。確かに、嘘ではなかった。私は立ったまま、カッツンから受け取ったハガキを読んだ。

〝里香さん、こんにちは。サイトのブログ拝見しました。情報提供はハガキで、ということですので、書かせていただきました。

 ユナちゃんが殺された日、お店に行ったのは僕の知人です。でも、彼は絶対に殺していないといいます。僕は、それを信じています。

 里香さんは、自分には情報がたくさん入るから、きっと犯人を捕まえられる、といっていましたね。お願いです。真犯人を見つけてもらえませんか。警察は信じられないので、知人は行きたくないといっています。僕も、その方がいいと思うんです〟

 一読して、私は眉をひそめた。容疑者である姚明の客を直接知っているということも驚きだけれど、なんと彼は殺していないという。では、犯人は別にいるというのか。

 とにかく、一度会って話してみよう。私はハガキの下に書いてあった連絡先に、すぐに電話をかけた。

 

 7


 その週の日曜日、私はぼろぼろの身体に鞭打って出かけた。ハガキを送ってくれた相模幹也、その知人である上原忠志の二人と会うためだ。疲労が溜まっているし、一日中寝ていたいという気持ちもあるのだけれど、事件の話が聞けるので、私は高揚していた。

 指定された梅田の喫茶店で待っていると、対照的な二人の男が入って来た。痩せた男と太った男。私が約束通り、テーブルにウチの月刊誌を置いていたので、彼らはすぐに気づいたようだ。二人は私に挨拶し、向かいに腰を下ろした。頬骨を尖らせている方が幹也で、頬肉を膨らませている方が忠志だった。

 私はサリーから聞いた言葉を思い出した。『私、豚ノ男ニ殺サレルカモシレナイ』姚明が、死ぬ前にいっていたという台詞だ。目の前の忠志は、充分に太っているけれど……。

「今日は来ていただいて、ありがとうございました」

 二人が揃って頭を下げるので、私は首を振った。

「いいえ、情報提供を求めたのは私ですから」そういってから、早速本題に入った。「で、忠志さんがユナちゃんのお客さんだったんですね?」

「そうなんです。こいつ、大学のサークルの後輩なんですけど、女馴れしてなくて、すぐ入れこんじゃうんですよね。わからなくもないんですが」

 幹也は忠志を親指でさしながら、いう。多少先輩風を吹かしているが、後輩を心配しているのは本心なのだろうということは察せられた。

「ユナちゃんに貢いでいたんですか?」

 尋ねると、忠志は暗い表情でたるんだ顎を引いた。

「結婚の約束をしていて……でも、借金があるっていうものだから。最初は五万とか、十万だったんですけど、どんどん金額が上っていって、こっちも、もしかしたらカモにされているのかなとは思ったんですけど……」

「でも、殺してはいないんですね?」

「ええ、もちろん」

「では、当日の状況を話してくれませんか?」

「はあ……日曜日に、ユナちゃんからまた借金を返さなければいけないって電話がありまして。で、金額を聞いたら、百万だっていうんです。あまりに大きいから、さすがに躊躇したんですけど、そうしたら彼女、これで最後だからって泣くんですよね。しかも急ぐって。それで根負けしちゃって、翌日有給を取って、銀行でお金下ろして店に行ったんです」

 私は時折相槌を打ちながら、耳を傾けた。忠志を急かせたのは、たぶん思考する時間を与えたくなかったからだろう。なかなか、手なれている。

「個室に入ってから封筒に入れたお金を渡したら、彼女、喜んでました。で、それからプレイして」

「それは、本番ということですね」

 私の問いに口ごもった忠志は、やがて、「はい」といった。

「それから?」

「時間が来て、ユナちゃんに見送られて帰りました。その後、ニュースで彼女が殺されたって聞いてびっくりして。で、週刊誌などで続報を追っていたんですが、なんか時間的に僕が帰った後すぐに殺されたみたいだし、それに警察が客の行方を捜しているとか書いてあるから、また驚いたんです。僕が帰る時にユナちゃんが生きていたことは、店員が見て知っているはずですから。だから、店員が嘘をついているのかなと思って、冤罪で捕まったらシャレにならないと怖くなったから、ずっと黙ってたんですよ」

「警察って信用できないですからね」

 幹也が唇の端を曲げ、腕を組む。私は、笑顔でうなずいておいた。そこまで疑うのはどうかと思うけれど、冤罪が疑われる事件が多数存在するのは確かだし、警察に対する不信のお蔭で私のところに来てくれたわけだから、反論する気はない。

「受付にいた店員は一人でしたか?」

「はい」

「二十代ぐらいの細身の男でした?」

「ええ、そうです」

 勇だ。私は顎に指を当てて沈思した。忠志の言葉を信じるなら、現場にいたのは彼だけだ。となれば、必然的に犯人は勇ということになりはしないか。

 私はさらに思考を進めた。勇が犯人なら、動機は何だろう。やはり、金か。忠志が渡した百万を偶然見てしまい、それを奪うために咄嗟に犯行に及んだのか。そして警察には、客が犯人だということにして嫌疑を逃れた。そうすると、犯人の顔を憶えていないというのは、嘘か。忠志が警察に真実を話したら、自分が疑われるから……。

 勇はすぐカッとなる性格みたいだし、私の推理は、たぶん当たっているのではないだろうか。いいぞ。ついに真犯人を射程に捉え、私は興奮した。

「里香さん。犯人、捕まりますかね? あの店員が怪しいとは思うんですが……今のままだと不安なんですよ」

 忠志の声に、私は我に返った。見れば、彼は心配そうな面持ちだ。私は忠志を安心させるために、任せてと胸に手を置いた。

「大丈夫。私がなんとかしてあげる」

 請け合うと、二人はほっとした表情で顔を見合わせた。

「でも、あなたはユナちゃんに騙されていたわけですよね? 正直、ざまあみろって気持ちはあるんじゃないですか?」

 忠志の話を疑っているわけではないものの、彼には立派な動機がある。なので、姚明に対する気持ちを確かめておこうと考え、私は尋ねた。

「そうですね。でも、殺されるまでのことじゃないと思いますから」

「ああ……」

「人間って、いったん金を渡すと前の金を無駄にしたくないって気持ちが働いて、ずるずる渡しちゃうんですよね。そんな心理、初めて知りました。もうお金は戻って来ないでしょうけど、勉強料だったと思うことにします」

「なるほどね」

 私は納得し、質問を変えた。

「他に何か、気づいたことはないですか?」

「他、ですか」

「現場には、あなたと店員以外は誰もいなかったんですよね?」

「ああ、いや」

 忠志は眉間に皺をよせて、記憶を探る目を宙に据えた。

「確か……隣の小部屋のカーテンも閉まっていたと思います」

「え?」

「そうです! 思い出しました。隣にもう一人、客がいたんですよ。ということは女も!」

 興奮した忠志は、辺りを憚らない大声を出す。私は、急展開に口を半開きにした。

それでは、容疑者は三人に増えるということか。

 

アパートに帰る途中も帰ってからも、私はひたすら脳を活動させた。状況は、いささか複雑だ。では、容疑者が三人と仮定して、もう一人の客、もしくは女のコが犯人の可能性はあるだろうか。

 それは、なさそうに思えた。どちらかが犯人なら、もう一方が気づくだろうし、仮に客と女のコがグルだったとしても、勇にわからないようにして殺人を行えるはずがない。それよりも、勇が隣室の二人にバレないようにして、姚明を殺したと考える方が自然だ。隣に客がいるからこそ、ガムテープで口を塞いだのだろうし、たとえ少々暴れても、「あちらさんは激しいな」と思うぐらいで、特に訝しんだりはしないのではないだろうか。

 やはり、犯人は勇だ。私の中の天秤は大きく傾いた。しかし、特定するためにはできればもう少し、補強する材料がほしい。

それで、私はサリーに電話をかけてみた。

「勇ノコト?」

 ケータイ越しのサリーの声は、微妙に戸惑っていた。

「そう。彼ってさ、金遣いが荒いとか、ない?」

「アア、勇ハ競馬トパチンコ好キダヨ。ギャンブル、大好キ」

 おお、ドンピシャだ。望み通りの証言が得られ、私は嬉しくなってきた。

「じゃあ、普段からお金に困ってたのね?」

「ウン、店長カラモ給料前借リシテタヨ。ソレハ、誰デモ知ッテル」

 私は胸の中でよし、と叫ぶ。これでほぼ百パーセント、勇で決まりだろう。

 ただ、勇は痩せている。姚明が死ぬ前に遺した言葉とは一致しないわけだが、彼女は「殺されるかもしれない」といっただけで、別にあれはダイイングメッセージというわけではない。無視しても構わないだろうと思った。

「あと、姚明に関して、何か知っていることはない?」

 収穫は充分だったが、せっかくなので、さらに私は質問を重ねた。

「エエト……」

しかしサリーは急に口ごもり、沈黙した。

私は、「ん?」と眉をひそめた。彼女の口調は、答えを探しているというより、いっていいかどうか、迷っているふうに聞こえた。

「マア、イイノカナ。姚明ネ、店長ノ女ダッタヨ」

「えっ、そうなの?」

 これは、予想外の情報だ。私は興奮して、ケータイを強く握った。

「ウン。姚明、ヤッパリオ金、大好キダッタヨ。ダカラ、店長トモタクサン寝テ、オ金貰ッテタ」

「へえ……」

「私モ店長ト一回寝タカラ、人ノコト、イエナイケド」

「あ、そうなんだ」

「デモ、オ尻叩カレテ痛カッタヨ。モウ、嫌ダ」

「お尻? ああ、スパンキングね」

 私は苦笑した。店長は、女の子への加虐の趣味があるらしい。その辺の心理は、風俗出版の編集をしている私にも、全然わからなかった。別に、知りたくもないけど。

「ソレニ、店長ハ蛇頭ニ友達ガイルッテイウカラ怖イヨ」

「蛇頭って何?」

「中国人ノ暴力団ミタイナモノヨ」

「へえ、なるほどね」

 うなずいてから、私は新たな情報について考えた。店長と姚明は金によって繋がっていたという。それならば、痴情のもつれが動機で店長が殺した、という線は考えられないだろうか。彼は身体が大きいから、「豚の男」という表現にも当てはまる。

 いや、状況からして、店長が殺人を犯せる可能性はない。やはり、それはないだろう。私は、勇が犯人であることを確信した。


 8


 私はついに結論を出した。けれど残念ながら、確たる証拠はない。忠志が警察に行って事情を話してくれれば簡単なのだけれど、彼は怯えているから絶対にそんなことはしないだろう。私も警察には彼の話はしないと約束したので、他の動かぬ証拠を見つけださなければならない。そのためには、何をすればいいのだろう。

 これは、悩んでも答えが見つからなかった。忠志たちに大見得を切った手前もあるし、なんとか自力で解決したいのだが、行き詰まりを打開する方策がない。私は困った。

そんな日々の中、私は牧人と取材に出かけることになった。

 新聞に連載されている体験レポートのためで、今回の取材先はストリップ劇場だった。最初は、牧人一人で行くと決まっていたのに、私が「一度、見てみたい」といったので、一緒に行こうという話になったのだ。

「牧人はストリップ、見たことあるの?」

 十三へと向かう電車の中で、吊り革につかまりながら私は牧人に訊いた。

「うん、あるよ」

「どんな感じ?」

「なんか特殊な雰囲気だよなぁ。俺には面白さがいまいちわからないけど」

「ふうん」

 相槌を打ちながら、私はふと、事件について彼に相談したらどうだろうと考えた。

 愛ちゃんの身体が消えていた時も、牧人はすぐに状況を把握して、市村を見つけ出した。彼は、探偵向きの頭脳を持っているようだ。牧人なら、勇が犯人である証拠を発見できるかもしれない。

 でも……私はできれば独力で解決したかった。殺人事件なんて、もうこの先一生巡りあえないだろうし、ここまでせっかく一人で辿り着いたのだから、という思いもある。だから、私はいったん開きかけた口を、閉じてしまった。

どっちにしようかと考えているうちに、電車は十三駅に到着した。

 改札を出ると、勝手を知っている牧人は迷わずどんどん歩いていく。そして、商店街のアーケードを抜けた先に、路肩に停まっている車を見つけた。ストリップ劇場の送迎車であるワンボックスだ。私たちが乗りこむのを待って、送迎車は出発した。

さほどの距離を走ることなく、ストリップ劇場に到着した。受付の前には、顔の下半分を髭で覆った中年の男が立っていた。

「いらっしゃいませ。割引券はございますか」

私たちは店のホームページからプリントアウトした割引券とともに料金を支払った。男は笑顔で受け取り、受付の窓口に腕を差し入れる。その際、彼は奇妙なことをいった。

「当たりじゃねえかな……」

「……?」

「おっ、やっぱり。おめでとうございます。ハッピーカードです」

「はあ?」

初めてのストリップ劇場で、いきなりハッピーときた。なんの話やらさっぱりで、男が寄越したカードを手に牧人は首をひねっていた。

「何ですか? これ」

「それは、後のお楽しみですよ」

笑顔でかわされ、わけがわからないまま、扉を開けた。

劇場内に入ると、アップテンポの中国語の歌が耳を襲った。グリーンやイエローのライトが輝く中で、チャイナドレスを着たストリッパーが手にした扇を翻している。私たちは左側へ移動し、三列に並べられた椅子の中央の列に座った。

客の数はざっと二十人というところだった。なにぶん斜陽もいいところのストリップなので、もっと閑散とした光景を想像していたが、意外と盛況だ。白けているようでも、熱がこもっているようでもなかった。幾つもの静かな視線が、舞台の上で交差していた。

あちこちに目立つのは、パジャマ着姿の女のコだ。様々な姿勢で、椅子に腰掛けている客に抱きついていた。背面座位の形で腰を動かしているコもいて、卑猥だ。そのうち、牧人が説明を加えてきた。この店ではチケットを買えば、密着サービスが受けられるんだ。女のコのコスチュームって、日替わりなんだよ。その詳しさに私は驚いた。さすが風俗出版社の編集者。一般的には、知っていたらむしろ馬鹿にされる知識だけれど。

ぼんやりと視線をさ迷わせてみた。黒一色に塗られた壁。カラフルな蛍光灯。大小のミラーボール。客と女のコが連れ立って歩いている。二人はそのまま、場内の隅にある黒いカーテンで仕切られた個室へと入っていった。たぶん密着サービスより上のものを求めた場合は、あそこへ導かれるのだろう。

ストリッパーは相変わらず扇を開いたり閉じたりしながら、ゆったりと踊っている。

私はそれを眺めながら、欠伸を噛み殺した。慢性的な寝不足である私は、油断をするとすぐに眠気に襲われる。ストリップは見てみたかったのだが、このままだと熟睡してしまいそうだった。もっと激しく、ガンガン踊ってくれないと。

じっとしているうちに、瞼が下がって来た。一方、牧人は熱い眼差しを舞台に送っている。あれ、自分には面白さがわからないって、いってなかったっけ? やっぱりこの人は、女の裸であれば何でもいいのか。

ストリッパーは舞台袖にある螺旋階段の手すりにもたれて、チャイナドレスを脱いでいる。Tバック一枚になると、幻想的な音楽に乗って前へと進んでいった。

「丸いステージがあるだろ。あれがね」

「盆でしょ」

先回りして答えると、牧人は目を丸くした。

「知ってるの? すごいじゃないか」

なにも驚くほどのことではない。風俗出版社に半年近く勤めているのだ。その程度の知識を持っていたからといって、自慢にもならない。

「じゃあ、ストリッパーが三回踊るステージをそれぞれ、なんという?」

「ダンス、ベット、オープンね」

「やるう。成長したんだなぁ。さすが、俺が見こんだだけのことはあるよ」

しきりに感心するので、私は苦笑した。お褒めの言葉を頂いて恐縮だけれど、ちっとも嬉しくない。いくら牧人に認められたところで、所詮は世間に顔向けできない風俗出版社の編集だ。まったく、こんな生活からは早くオサラバしないと。

私たちが話している間にストリッパーはTバックを脱ぎ捨て、回転する盆の上に寝そべっていた。下から当てられたブルーのライトが裸体を美しく染めている。ブリッジの姿勢からストリッパーが立ち上がると、場内から拍手が湧き起こった。

牧人は通りかかった従業員を呼び止め、チケットを購入している。

「次はオープンだよ。サトちゃんもチケット買いなよ」

浮かれた牧人は満面の笑みだ。目一杯楽しんでいるようなので、私は呆れた。あんた、気取って面白くないとかいってたんだから、少しは隠しなさいよ。そんなんじゃあ、百年の恋だって冷めるわよ?

放っておいたら、定番グッズのタンバリンでも叩き出すのではないだろうか。そんな疑いを持ってしまうほどのはしゃぎっぷりだ。本当にそういう事態になったら、他人の振りをしようと私は誓った。

ストリッパーが去ったステージでは、多くの客が先を争うようにチケットを突き立てている。あっという間にステージはチケットで囲まれた。中には器用にチケットを折って、一輪の花の形に組み上げてあるのもあった。

牧人も同じくチケットを突き立て、目を輝かせて待っている。

「サヤカちゃんのオープンショーでございます。登場の際は暖かい声援、よろしくお願いいたします」

 アナウンスが流れて、サヤカが舞台に走り出て来た。今度はチャイナドレスではなく、バドワイザーのタンクトップだ。下半身には、なにも着けていない。局部をご開帳するオープンのはじまりだった。

サヤカはチケットを立てた客と握手をしてから、その客の前で脚を開いた。片脚ずつ上げたり、浮かせた腰を振ったりと目まぐるしく動く。局部を指で広げてみせるのも忘れない。一通り終わると、また客と握手をして次へと向かった。

ステージを巡りつつ、テンポよくサヤカは客を一人ずつこなしていく。ついに牧人の番がやって来た。脚をM字型に広げたサヤカの中心部が、私の席からでも確認できる。でも、他人のものを見せられてもなぁ。だからどうしたっていうしかないよなぁ。

舞台からチケットが一つ残らず消えると、サヤカも消えた。これで彼女の出番は終了だ。牧人が私をつつくのでなにかと思ったら、「すごかったよ。アソコがひくひく動いてた」と興奮した声でいった。

あんた、なぜそれを同棲している私に嬉しそうに報告するの? どんだけ馬鹿なの?

呆れていると、耳慣れたポップスが響き渡り、アナウンスがマミという名前を告げた。きらびやかなドレスをまとったマミが登場する。これからもう一度、同じ内容のショーが繰り返されるわけだ。

段々と、退屈が膨れ上がってきた。この程度のステージならば、一回見れば充分だ。なのに、男たちは飽きもせず座っている。そうかぁ。あんたたちはこんなんでいつまでも喜べるんだね。単純で羨ましいよ。

嫌になってきて、軽く瞼を閉じた時だ。人が近づく気配がした。目を開けると、従業員が牧人に顔を近づけ、こそこそ話しはじめるところだった。私のところまでは、内容は聞こえて来ない。

不思議に思い、男が去ってから、牧人に「何だったの?」と訊いた。

「ああ、君がカノジョかって訊かれた」

「?」

 なぜそんな質問をするのだろう。私は首を傾げた。

「面倒くさそうだったから、職場の同僚だって答えておいたけど」

「で?」

「そうしたら『よかった。次はハッピータイムですので、このままお待ちください』って、いってたな」

「それ、受付でもいってたよね。何?」

「いや、教えてくれなかったよ」

未だ、「ハッピータイム」は秘密のベールに覆われたままだ。えらくもったいぶるではないか。しかしとりあえず、カノジョの前ではまずいようなイベントであることは、これではっきりした。

私は腕を組んで考えた。舞台で本番を行う、まな板ショーみたいなものだろうか。いやいや、警察の目が光っているし、今時そこまで過激なサービスはできないだろう。

やはり隠されれば、どうしても気になるものだ。お蔭で、私はストリップへの興味を持続することができた。舞台上ではダンス、ベットと進み、オープンショーの順番となっている。ミラーボールの反射光が破片の帯となって、勢いよく周囲を流れ出す。マミの衣装はミニスカポリスだ。彼女は立てた片膝を軽く叩いてリズムを取りながら、大事な部分をお披露目していた。

マミはストリップ劇場には勿体ないほど、踊りが上手い。しかも長身でスタイルが素晴らしいので、コスプレが見事に決まっていた。制帽を客に被せて、頬にキスする動作もさまになっている。一人だけ特別待遇を受けたお爺さんは、顔中に皺を寄せて笑っていた。

長い脚を弾ませて舞台を駆け巡っていたマミは、やがて奥へと引っこんだ。場内が明るくなる。

「お待たせしました。それでは、ハッピータイムの時間です」

突然、アナウンスが鳴り響いた。ようやく秘密が明かされる時が来たのだ。私は、これだけ引っ張ったのだから、期待外れだったら嫌味の一つでもいってやろうと身構えていた。

「今夜の幸運なお客さまはあちらの方です!」

従業員がマイクに向かって叫んだ直後、私は目を疑った。白い裸体の奔流だった。Tバック一枚のみ身につけた十数人の女のコが、扉から一団となって飛び出して来たのだ。

彼女たちが狙いをつけたのは、牧人だ。一直線にやって来て、周りを取り囲んだ。

「はーい、それではハッピータイムスタート!」

奇妙な節をつけてハッピーハッピーと女のコたちは歌い、牧人をもみくちゃにした。手をとって胸に当て、太ももに跨って腰をすりつける。乳が、尻が、激しく揺れ動いていた。ステージの上の踊りとは違って、目の前で繰り広げられるハッピータイムはすごい迫力だ。肉の乱舞の中で牧人は呆気にとられているようだった。

牧人のハッピータイムが終了し、勢いがついたのか、彼女たちはついでにやってしまえとばかりに私を次の標的に据えた。

「おねーさんもどうぞー」

カラスが餌に群がるように、女のコたちは一斉に私を包囲した。「うわっ」とうろたえる私を、いくつもの笑顔が取り囲む。「ハッピーハッピー」というかけ声の合間に、自然に洩れた私の悲鳴とも嬌声ともつかぬ叫び声が響き渡った。

ようやく嵐が過ぎ去ると、女のコたちに囲まれたまま、私は従業員に感想を求められた。まだ混乱していたので、「はい、あの、気持よかったです」と、私は差し出されたマイクにわけのわからないことを答えてしまった。

「あれ、びっくりしたね。ジェットコースターみたいだった」

劇場を出てから、私は笑った。

「まだこびりついているよ。『ハッピーハッピー』ってさ」

 牧人は、両方の耳に人差し指を差し入れて擦っている。私の耳にも残響、目には丸い物体が揺れる残像がいまだに居座っていた。

 ストリップにはさほど心を惹かれなかったけれど、最後に面白いものが見られて良かった。きっと、いい記事に仕上がるだろう。別に仕込んだわけではないから、私たちは運がいい。これは牧人の運か、それとも自分の運か、どちらかなと私は考えた。

「ああ、そっか。牧人の方だ」

「ん? 何の話?」

「とてもラッキーだったから、私と牧人のどちらの運かなって思ったの。でも、考えるまでもなかった。私って、ものすごく運が悪いから」

「そんなことないだろう」

「ううん。あるんだよ」

 大通りの方へ歩きながら、私は就活の大事な時期に、ピラフにあたって寝こんだ人生最大の不幸話を牧人に聞かせてあげた。

「そんなことがあったのか」

「そう。それで、就職活動ができなかったの。まぁ、前半に出版社しか受けなかった私も悪いんだけどさ」

「ふうん。サトちゃんはよっぽど編集者になりたいんだな。なんで?」

「それは、元々ミステリーが好きだったから……」

 いっている途中で、私は喋るのを止めた。すっかり忘れていた、エステの事件を思い起こしたのだ。

牧人の意見も聞いてみようか。私はそんなふうに思った。ストリップ劇場に行く前と、今では気分が違っている。ハッピータイム効果で陽気になり、独力解決へのこだわりなどどうでも良くなっていた。うん、そうしよう。丁度、今日は時間もあることだし。

「あのさ、話は変わるんだけど、聞いてもらえる?」

「なに?」

 私は、『野薔薇』で起きた殺人事件について語りはじめた。

私がこの事件に傾倒していることを知らなかった牧人は、驚いた顔つきだった。彼は真面目に耳を傾け、時折、質問を投げかけてきた。そのお蔭で、私は知っている事実をほぼすべて、詳細に話すことができた。

駅前に到着しても話が終わらなかったので、植えこみを取り巻く石囲いの上に二人で腰を下ろし、私は説明をつづけた。

「なるほどね」

 二十分ほどかけてようやく聞き終えた牧人は、頬に手を当てた。

「勇が殺したっていう確実な証拠があれば、警察にいえるんだけど、忠志さんのことは秘密にする約束だし、どうしたもんかなと思って」

「そうか……よし。それじゃあ、『野薔薇』に行こう」

 牧人は勢いよく立ち上がって、いう。まるで、今から牛丼屋で飯でも食おうというような気軽さだ。私は、すぐには反応できなかった。

「──な、なんで?」

 尋ねると、牧人は嬉しそうな表情に変わる。

「それは、向こうで説明するよ」

「……」

 びっくりして、私は言葉を失った。これではまるで、名探偵の台詞ではないか。ということは、牧人には勝算があるのか。勇を告発できる確実な証拠があるというのだろうか。

牧人はこちらに背を向けてさっさと歩き出す。私は、うろたえて彼の手を掴んだ。

「ちょっと。ハッピータイムじゃないんだから、もったいぶらないでよ」

「なら、ヒントをあげるよ」牧人は振り向いて、綺麗に並んだ歯を覗かせた。

「前、『野薔薇』のスタッフと飲みに行ったことがあるんだ。その時に齢を聞いたんだよ。店長は今年、四十二歳、副店長は三十六歳、勇さんは二十五歳なんだ」

 副店長? ああ、初めて撮影に行った時に店番をしていた人か。で、年齢? それが、何の関係があるの?

 牧人は「ミステリーが好きなら、あとは考えてみて」などと、憎らしいことをいう。腹が立ってきて、それからは私はひと言も口をきかずに一生懸命脳味噌を絞ってみた。けれど、牧人のヒントにどんな意味が隠されているのか、さっぱりわからない。

私は、一挙にワトスンの地位にまで格下げになったようだった。

 

 9

 

これから、何が待っているのだろうか。私は期待半分、緊張半分といった心境だった。牧人の能天気な表情を見ていると、彼が解決してくれるとはとても思えないのだが、見方によっては自信たっぷりにも映る。私は、先の展開がまったく予想できなかった。

『野薔薇』の玄関をくぐると、受付には知らない男がいた。牧人は腰を低くして挨拶し、店長はどこかと訊いた。すると、事務所にいるはずだと男は答えた。同じビルの三階にあるという。会いたいなら行けばいいと彼がいうので、私たちはエレベーターに乗った。

事務所の前に立ち、牧人がノックする。少し間を置いて、扉は開かれた。そこに立っていたのは、勇だ。

「どうもぉ、Y出版でぇす」

「あ? なんの用だ」

 牧人の軽薄な挨拶に苛立ったのか、勇はすぐに剣呑な目つきに変わった。

「すみません。実は、店長にお話がありまして」

 牧人は勇の態度に頓着せず、愛想よくいう。勇は眉間に皺を寄せたけれど無言のまま、私たちを中に入れてくれた。

 室内は意外と広かった。奥にでんと大きな応接セットが置かれ、スペースをとっている。手前には右側に二つ、左側に一つ机があり、それぞれが薄汚れたパソコンを載せていた。店長と、最初にお店に取材に来た時に受付にいた副店長は右側に座っている。副店長はカップ麺をすすっていた。

「丁度良かった。店長も副店長もお揃いですね」

 牧人は爽やかな笑顔を振りまいた。「お揃い」といういい回しに、私は敏感に反応する。ということはつまり、これで関係者が全員揃ったと牧人はいいたいのだろうか。

では牧人は、この場で、本気で謎解きをするつもりなのか……。

「どうしたんだよ? 今日は撮影の予定はないだろう?」

 応じた店長の声は柔らかかった。私の前のエステ担当は牧人だ。どうやら彼は、牧人に対して親しみを感じているらしい。

店長に問われた牧人は、大きく両手を広げて答えた。

「ええ、そうです。今日はこの間起きた殺人事件の犯人を指摘するために来ました」

 牧人の返事で、弛緩していた雰囲気ががらりと変わった。今まで冗談を許していたけれど、これからは違うというような。敵意の壁に隔てられたような。そんな感じだった。

「……は?」

 副店長は、箸を動かす手を止めた。「何いってんだ、お前。ふざけてんのか?」

「そこまで、命知らずじゃないですよ」

「お前はただの風俗出版の編集だろ? そんな大風呂敷を広げていいのか?」

「はい、たぶん大丈夫です」

「おいおい」店長が頬を歪めて、笑う。「Y出版が探偵の真似事をするなんて、聞いたことないぞ」

「ええ、これは副業みたいなもんでして」

「本気なのかよ。へえ。だったら、聞かせてもらうよ」

 脚を前に投げ出して、店長はいった。その表情に真剣味はない。面白い座興を見物するような態度だ。しかし両眼には、くだらないオチだったら、それなりの対応が待っているぞ、という凄味があった。

乗りこんで来ていきなり、殺人事件の犯人を指摘するなどといい出した前代未聞の編集者は、舞台に立った役者のように生き生きと喋りはじめる。

「まずですね。このサトちゃんが、犯人と思われているユナちゃんの客と話をしたんですよ。彼によると、ユナちゃんを殺してはいないそうです。そして当日、隣の個室のカーテンが閉まっていたことも証言してくれました」

「その男が嘘をついているのかもしれない」

 すかさず店長が口を挟むと、牧人はうなずいた。

「ええ。でも、その客はわざわざ自分からサトちゃんに接触してきたんですから、その可能性は低いでしょう。では、彼が真実を話しているとすれば、犯人は誰なのか? 容疑者は勇さんか、カーテンの奥に隠れていた誰か、ですよね? でも、勇さんには動機がない」

 牧人がとんでもないことをいい出したので、私は仰天した。

「えっ、何で?」

 私が大きな声を上げると、牧人はこちらを向いた。

「だって、百万円は封筒に入っていたんだろう? 君は勇さんがそれを見て突発的に犯行に及んだと考えたけれど、勇さんが百万を見る機会はないよ」

「どうして? 封筒から出して、数えているところに遭遇したのかもしれないじゃない」

「君は勇さんがカッとなりやすい性格だって、いってたじゃないか。初対面の人間でもわかることなら、当然ユナちゃんも勇さんの性格を把握していただろう。それに勇さんが普段から金に困っていることも、皆知ってたんだろ? だったら用心するはずさ」

「でも、忠志さんが貢いでいることは知っていただろうし、前々から狙っていたのかも」

「それなら、お店のような目立つ場所で殺すはずがない」

「てめえら、何勝手なこといってんだ!」

 突然、横に立っていた勇が怒声を放ち、迫ってきた。私は、びっくりして息を飲む。

店長が勇を制してくれたので、何事もなかったが、彼は私を睨みつけたままだった。怖い。震え上がった私は、嫌というほど歯を噛み合わせた。気をつけて喋らないと、この身が危なくなる。もう不用意な発言は、絶対、止めておこう。

「それで、どうなるんだ?」

 店長は、変わらない悠然とした態度で尋ねる。

「勇さんはユナちゃんを殺していない。でも現場にいたんだから、彼は犯人を知っている。ということは、勇さんに口止めできる立場の人間、店長か、もしくは副店長が犯人です。どちらかが、隣の個室にいたんでしょう。だから、勇さんはそのことを警察にいわなかったわけです」

「えっ。隣にいたのは、客じゃないの?」

「二人しか客がいないなら、個室を離して使うだろう。わざわざ隣にするのは変だよ」

 私は、あっと声を洩らした。

 この牧人の指摘は、爆弾のような衝撃をあたえた。室内の空気が、ぴんと張り詰める。勇がまだ凄まじい形相で睨みつけてくるので、私は怖ろしくて目を合わせられなかった。

「ほう、面白いな」

 店長が、にやっと唇の両端をつり上げる。悪魔みたいだ、と私は思った。たとえ人を殺しても、何とも思わない悪魔。唐突に、私は怖ろしい事実に気づいた。

この人が犯人かもしれない? だとすると、迂闊に真相を暴いたら、私たち殺される可能性もあるんじゃないの?

 にわかに、自分たちがとても危険な行為をしている実感に襲われた。けれど、牧人は余裕の表情だ。この人は、何を考えているのだろう。

「店長、あなたは死体を少しいじりましたね?」

 牧人が尋ねると、店長は意外そうな顔になった。

「ん、どういうことだ」

「革手錠とガムテープですよ。この店では本番行為がおこなわれている。しかし、それが警察にバレるのはまずい。死体を調べれば、客と性交したことが発覚すると考えたあなたは、ユナちゃんが無理やり犯されたように見せかけた。そうじゃないですか?」

 少し、沈黙がつづいた。やがて、店長はゆっくりと顎を引いた。

「そうだな、認めよう。あれをやったのは、私だ」

「あなたは勇さんから連絡を受けて、店にやって来た時、咄嗟に店にあったガムテープを使い、持っていた革手錠をユナちゃんの両手にかけた。店長はSMが趣味でしたものね」

「うむ」

「ということは、店長は犯人ではない」

「え。ちょ、ちょっと」私の恐怖は最高レベルにまで達していたが、いわずにはいられなかった。「どうして? 店長が嘘をついているかもしれないじゃない」

「それはないんだ」

「だから、どうして?」

「君も知ってるだろ? 店長は蛇頭とのつながりがあるんだよ。彼らに頼めば、死体をきれいに片づけてくれるんだ。店長が犯人なら、そもそも死体が出て来ない」

「……」

 私は、何もいえなくなった。

「ああ、その通りだ」店長は頬に笑みを刻んでから、真顔に戻った。「姚明の死体を始末しなかったのは、警察に犯人を捕まえてほしかったからさ」

「そうなると、必然的に犯人は一人ということになります」

 牧人の言葉を受けて、店長は隣に座っている副店長に顔を向けた。途端に、副店長の両目が泳ぎはじめる。

「私が? なぜだ? なぜ姚明を殺さなければならない。なぜ現場にいたっていうんだ?」

「そんなの理由は決まってるでしょう」牧人は平然という。「盗み聞きですよ」

 副店長の視線が、牧人の上で固まった。

「あなたは、他人のセックスを盗み聞きするのが趣味だった。時々、店長の目を盗んでやっていたんでしょうね。だから、あなたの権限で、防犯カメラも設置させてないんでしょう? そんなものがあったら、あなたの趣味がバレてしまいますから」

 不気味に、副店長は沈黙している。

「あの日も、勇さんとお店にいたあなたは、ユナちゃんが接客をはじめると、いつものように隣の個室に入った。そして、興奮したあなたは客が帰った後、ユナちゃんに金を渡して、その場で彼女とセックスした。ゴムはもちろん、彼女が常備してるでしょうしね」

「……」

「その際、あなたは興奮しすぎて、ユナちゃんの首を絞めた。きっとあなたの性癖なんでしょうね。で、我を忘れて絞め殺してしまった、と」

「そんな、見て来たようなことを……」

「そうですね、あなた以外に犯人がいないというところから、推測しているだけですが、でも当たってるでしょ? いくら頭に血が上っても、お店で殺すなんて普通はないですよ。となると、意図しない事故と考える方が自然じゃないですか。ユナちゃんは『豚の男に殺されるかもしれない』といっていたそうですし」

「豚の男?」

 副店長は眉根を寄せた。

「そう。日本では今年、2007年は亥年ですが、中国では豚年なんですよね? 副店長は今年三十六歳、あなたの干支だ。ユナちゃんは普段からあなたに首を絞められていて、これではいつか殺されるかも、と考えていた。で、今年が豚年だから、そんな表現を使ったんでしょうね。性格判断に使ったり、中国人は干支をかなり気にするって聞きますし」

「……」

「うっかり殺してしまって、あなたは慌てた。急いで現場を離れなければならない。ただ隣で聞いていたから、ユナちゃんが金を受け取ったことは知っていた。それで、百万は奪ったんですよね? ああ、それから指紋が取られないように、死体の首に残った扼痕を消す作業をしたのかな?」

「ふざけるな!」

 カップ麺の容器が床に叩きつけられ、茶色い汁が飛び散った。私は悲鳴を上げる。副店長は椅子を蹴り、猛然と駆け寄ってきた。同時に、店長が中国語で何かを叫ぶ。勇が私たちの前に飛び出し、副店長を抱き止めた。

「……」

 私は、必死になって牧人にすがりついていた。呼吸すら忘れていた。

「──全部、この男のいう通りなんだな?」店長が静かに問う。「いっておくが、しらばっくれても無駄だ。勇に聞けばわかることだからな」

 副店長は唇を歪め、荒い息を吐いていた。しかし、勇が離れると、目線を落とす。犯人が観念した瞬間だった。ミステリーを読んでいて、「やった」と快哉を叫ぶシーン。

でも私は、ことの成り行きに茫然としていて、とてもそんな気分ではなかった。

「……すみません、店長」

「やったんだな、お前が」

「はい」

「警察の捜査が迫って来たら、どうする気だったんだ?」

「その時は、逃げるつもりでした」

「すぐに、客が見つかるとは思わなかったのか?」

「いつでも切れるように、姚明はカモにしている客は、宇春からケータイを借りて連絡を取っていましたから。なので、宇春に口止めをして、後は客が名乗り出てこなければ、乗り切れるかな、と」

「百万はどうした?」

「十万は勇に、五万は宇春に渡しました」

「じゃあ、八十五万は残っているんだな」

「はい」

「では明日、それを持って来い。それで許してやろう」

 副店長は、はっとした様子で店長の方を振り返った。

「本当ですか?」

 店長は、腹の上でゆっくりと指を組んだ。

「金よりも得難いのは、人だ。お前のような人間と、姚明を交換することはできない。これからは、以前よりもっと勤勉に働いてくれればそれでいい」

「……ありがとうございます」

 副店長は深く頭を垂れる。そして、私の方はといえば、呆れるばかりだった。

待っていたのは、犯人が許される急展開だ。しかし、これでいいのか。まさか。人一人死んでいるのに、こんな大団円でいいはずがない。これでは、殺された姚明が浮かばれないではないか。

けれど……この状況下で私に発言権など、あるはずがない。私は、白けた気持ちを胸の内で無理やり押し殺した。

「聞いての通りだ。君たちも、この件は黙っていてもらいたいんだが」

 少しだけ穏やかな空気が戻り、店長は余裕の微笑を浮かべながらいった。

「ええ、もちろんです。クライアントは絶対ですから」

 調子よく牧人が媚を売るので、私は目を見開く。

そんな。これで、いいの? それじゃあ、何のためにここまで来たのよ?

 私の疑問に対する答えは、すぐに出た。

「ただ、こちらもただ働きっていうのは」

「ああ、そうか。副業だったんだな」膝を叩いて哄笑してから、店長は黒革の財布を取り出し、数枚の万札を無造作に取り出した。牧人は歩み寄ってそれを受け取る。

「ありがとうございました。あと、できれば広告の方も」

「わかった。増やさせてもらうよ」

 すみません、と頭を下げてから、なんと牧人は部屋を出ていく。

え? これで終わり? 牧人は、お金が目的だったの? それってひどくない?

私は全然納得がいかなかったけれど、まさか一人で騒ぎ立てるわけにもいかない。そんなまねをしたら、すぐさま命がなくなるだろう。牧人に従うしかなかった。

 不承不承、エレベーターに乗り、ビルの外へと出た。すると、疲労感がどっと肩にのしかかる。かつて体験したことがない恐怖に、私の神経は極限まで磨り減らされていた。

夜道を歩きながら、私は思いきり大きく息を吐いた。

「はぁ、もうびっくりした。謎解きするんだったら、事前に説明してよね」

「だって、ああいうの好きなんでしょ。ネタばらしされたら、その方が腹立つんじゃない?」

「えー?」

 私は片眉を上げた。そりゃあ関係者が一堂に会しての謎解きなんて、どんなに長生きしたって、まず出会えないだろうという経験ではあった。けれど、やっぱり心臓に悪いじゃないの。なんといっても私は女の子なのだから、あんな危険な場所に連れて行くのは勘弁してほしい。牧人は、そういう気遣いが足りない。

「もう、終わったからいいけどさ」

 私は星の無い昏い空を見上げる。「でもさぁ、これじゃあ姚明は殺され損じゃない? すっごい消化不良なんだけど。忠志さんにも説明できないし」

「これで済むわけないよ」

「え?」

 見ると、牧人は表情を消していた。

「店長がいってたろ? 犯人を捕まえるために、ユナちゃんの死体を始末せずに警察に捜査させたって。それだけ入れこんでたんだよ。大体、あの店長が自分の女を殺されて、報復しないはずがない。金を出させたら、副店長は殺すだろうね。その後は蛇頭の出番だ。死体は一斗缶に小分けされて、コンクリ詰めにされて、淀川に捨てられて終わりだよ」

 私はびっくりして黙りこんだ。心を凍りつかせるような言葉を平然と吐く牧人が、急に怖くなる。一歩間違えば殺されるかもしれない場所に普通に乗りこんでいくし、この人は、意外と危ない人なのかもしれない。

「やだなぁ、サトちゃん。そんな目で見ないでよ」

 突然、牧人は笑みを広げ、私の肩を抱いた。私は苦労して、微笑を返す。

「でも、サトちゃんはミステリーが好きっていう割には、抜けてるよね。結局、わからなかったんでしょ?」

「はあ? そんなのヒントが悪いのよ。中国の干支は亥じゃなくて豚だとか、そんなの知らないし。なんで牧人は知ってたのよ」

「新聞のコラムを書くために、雑学の本とか読んでるからね」

「そんなのずるい。もっと、論理的に推理できるヒントを頂戴よ」

 私はプライドを守るために、怒りながらそういった。牧人は、それは悪かったと謝る。

「まぁ、犯人に報いがあるなら、姚明も納得してくれるかな……うーん、でも事故だったのに、命までとられるのは、副店長が可哀想かも」

「たとえ事故でも殺したんだから、自らの命で贖うべきさ」牧人は真面目な顔でいってから、口調を変えた。「ああ、でもあのコ、美人だったよな。まだ若かったし、死ぬのは勿体ないよ。一回寝たけど、腰使いも凄かったんだよなあ」

「あ?」

 私は、肩に乗っていた牧人の手を払いのけた。

「寝たの? 姚明と?」

「うん。取材した時に俺のこと、気に入ったらしくてさ。俺だったら、金はいらないっていってくれて」

 私はすぐさま右脚を上げて、牧人の尻に蹴りを入れた。「痛っ」と、彼が声を上げる。私はそれを無視して、早足で歩きはじめた。

「おいっ、なんだよ。昔のことじゃないかっ」

 後ろから、情けない声が追ってくる。馬鹿。過去の女の話を得々と私に喋ること自体、どうかしているだろう。あんたには、神経というものがないのか。

 やっぱりウチの編集部には、まともな人間は一人もいないらしい。

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