風俗編集者の異常な日常

安藤 圭

周りはみんな屑ばかり


 1


 そろそろ取材に出ようとして、聴診器を用意していないことに私は気づいた。

 今日の取材は、デリヘルのコスプレイベントだった。で、ただのセーラー服やナースなどではありきたりだと考えた私は、女医のコスプレをしてもらおうと決めたのだ。見出しは「レッツ エン女医!」今回は、我ながら素晴らしいアイディアだと思う。

 風俗新聞の写真は、読者が見てぱっと瞬間的に理解できるわかりやすいものでなければいけない。女医のイメージを伝えたいのであれば、聴診器はどうしても必要だ。もし忘れたまま取材に臨んでいたら、予定を変更して、私は別のコスプレ写真を撮らなければならなかっただろう。危ないところだった。

 私は、廊下に出てエレベーターに乗り、一階上にある社スタへ向かった。そこには、絵作り用の小道具が山と積んである。なかには、聴診器もあるはずだった。

 エレベーターを出て、右へと歩き、私はドアノブを引いた。

 そして社スタに一歩、足を踏み入れたところで、硬直する。

 引き出された巨大なバックペーパーの上で、首だけになった愛ちゃんが虚ろな瞳を天井に向けていたのだ。

 

 話は、約半年前にさかのぼる。


 冷たさを増した秋風の吹く頃、私は痛くなった脚と心を意識しないようにしながら、ミナミの繁華街を歩いていた。

 会社面接を受けた帰り道だったのだが、結果は後日の連絡を待つまでもなかった。「何で、今ごろ来たの?」という面接官のひと言で、私はろくに喋れなくなったのだ。圧迫面接だ、と頭では理解していても、顔にかっと血が上って、うまい切り返しが全然浮かばなかった。すでに何十社と受けているのに、この進歩のなさはどうだろう。できれば、もうベッドに潜りこんで、春まで出て来たくなかった。

 こういう気持ちに負けて、人は引きこもりになったりするのかな。そんなことを考えていると、不意に横から声が飛んできた。

「ねーねー、君、就活中?」

 私は反射的に動きを止めた。見ると、二十代前半、つまり私と同い年ぐらいの男が無邪気な笑みで私の視線を受け止めている。なぜ就活だとわかったんだ、と驚いたけれど、そりゃいかにもな黒のリクルートスーツで判断できるよね、とすぐに思い直した。

ええ、そうですよ。私は就職活動中、しかも四十連敗中ですよ。悪かったな。

 ささくれだっていた心は、すぐに男に対する敵意で武装した。

普段、私は絶対にナンパに応じたりはしない。声をかけられても、ひと言も口をきかないようにして通り過ぎる。少しでも隙を見せたら、奴らはしつこくつきまとってくるということを、経験的に知っているからだ。まったく、親から陰気だといわれてばかりいる私にすらちょっかいをかけてくるのだから、こいつらは女だったら誰でもいいに違いない。そんな男に、誰がついていくというのか。

 だから、ナンパ男と口をきくという行為は、私のポリシーに反する。けれど今回は、面接で生じた不快感が私の行動を逸脱させていた。

「だったら何? 仕事でも世話してくれんの?」

 私は刺々しい言葉を返した。ついでに、睨みつけてやる。ほら、こっちは機嫌が悪いのよ。わかったでしょ? あんたについてくわけないんだから、とっとと離れて。

しかし男は、私の冷たい態度など歯牙にもかけていないようだった。「うん」と、子供みたいな返事をする。私は目を細めた。

私はナンパ男をまじまじと見た。長めの髪を茶色に染めた、あっさりした顔立ちだ。若い男の子のアイドルグループにでもいそうな気がする。つまり、かなりのイケメンだった。

ああ、なるほど。これはいかがわしい仕事の勧誘なのか。

腑に落ちた私は、心の中でひとつうなずいた。冗談じゃない。いくら就職が決まらないからといって、いきなり女を売る職業に就いたりするものか。そこまで、落ちぶれてないぞ。少なくとも、今は。

「何よ、風俗で働けっての?」

「うーん、まぁ当たらずといえども遠からず、かな」

「さよなら」

 つい相手をしてしまった過ちを悔やみながら、私は再び歩きはじめた。しかし、ナンパ男はぴったりと歩幅を合わせてくる。

「ねえ、待ってよ。別に変な仕事じゃないって」

 男は、名刺を差し出してくる。私は苦々しい気分で、でもほんの少しの好奇心に負けて、それを受け取った。

 名刺には、聞き慣れないY出版という文字が印刷されていた。男の名前は菅井牧人で、副主任の肩書がついている。

「風俗情報関係の出版社なんだよ。俺はそこの編集者」

 びくりと反応して、私はまた脚を止めた。

 編集……?

 それは、私を磁石のように引き寄せる魔法の言葉だった。

R大学文学部に在籍する私は、出版関係に勤めるのが夢だった。それで大阪から東京に遠征して、大手出版社の面接を受けまくったのだが、三流私大の学生に門戸が開かれるはずもなく、結果は全敗。当然ではあるが冷厳な現実を、私は突きつけられたのだった。ようやく目が覚めて、業種を絞らずに就職活動をするようになったのは七月の初旬だ。ところがその矢先、喫茶店で食べたピラフのせいで食あたりを起こし、これが意外と重症で、しばらく動けない状態に陥った。私は貴重な時間を無駄にしてしまったのだ。で、十月になっても、私は未だにアポを取っては面接を受けるということを繰り返しているのだった。

 心を惹かれた私は、慌てて自分を取り戻した。馬鹿馬鹿しい。いくら編集とはいっても、風俗情報誌ではないか。どうせブラックな会社だろうし、はした金で散々こき使われるのが関の山だ。新卒で、そんなところで働く阿呆はいない。しかも、私は女だ。

「ねえ、話だけでも聞いてよ。なんか奢るから」

 牧人は、チャラチャラした女の子には効果がありそうな、爽やかな笑顔で私を誘おうとする。私は、少々迷った。奢る、という言葉に心を動かされたわけではないが、ナンパでないのならば、別にいいかとも思う。どうせ今日はもう面接の予定はないし、まったく接点のない業界だから、少しは面白い話が聞けるだろう。これも社会勉強だ。

「わかった。いいよ」

 私は横柄に顎を上げていった。牧人は笑みを深くし、私を近くの喫茶店へ連れていった。

 わりと広い店内は、八割ぐらい客で埋まっていた。席につくと、牧人は何を頼んでもいいという。けれど、私はコーヒーだけにしておいた。まだピラフの恐怖が胸に残っているので、喫茶店ではできるだけ食べ物は口にしたくない。

ウェイトレスが去ってから、牧人は身を乗り出してきた。名前を聞かれたので、小椋里美だと私は答えた。

「君、可愛いよね」

「は?」

 突然、妙なことをいい出すので、私は眉をひそめた。

「でも、黒縁眼鏡は止めた方がいいかもね。そうすれば、もっと可愛くなるよ」

「あの……仕事の勧誘ではなかったの?」

「ああ、そっか。ごめんごめん。つい、くせでさ」

 牧人は左手を頭に当てて笑い、右手を振った。何だこいつ。見かけ通りのチャラさに、私の不快感は募った。

「いやぁ、ウチは慢性の人手不足でさ。それで時間が空いたら、こうやって声をかけたりしてるんだ。このあいだも編集者が一人、飛んじゃってさ」

「飛ぶって何? 自殺?」

「五階から。いいや、違うよ。それは誤解だ」

「……ふっ、なかなか上手いじゃない」

 悔しいが、少し笑ってしまった。私も面接で、これぐらい当意即妙の返しが出来れば良かったのだが。もう、後の祭りだけれど。

「ありがと。飛ぶというのは、挨拶なしに突然辞めちゃうことだよ。風俗関係では、よくある話だけど。どう? 働いてみる気はない?」

「なんで、女の私に声をかけたの? そういうことなら、男の方がいいんじゃない?」

「えー。だって男に声かけても、つまらんじゃん」

 牧人は拗ねたようにいって、口先を突き出す。私は呆れて言葉をなくした。どうやら、さほど真面目に勧誘しているわけではないらしい。なんだ、遊び半分だったのか。

「でも、女の子も編集者やってるよ。女性の方が真面目だし、ちゃんと働いてくれるんだよね。編集って面白いし、やりがいはあると思うよ」

「具体的に、どんな仕事をするんですか?」

 真面目な話になりそうなので、私は丁寧な言葉を使いはじめた。

「色々あるんだけどさ、でも簡単だよ。風俗店の取材して、記事書いて、校正するんだ」

 牧人は実に軽い口調で説明する。私は、胸の中で苦笑した。彼は簡単だというが、編集の仕事がそんなに甘っちょろいものであるはずがない。こいつ、私が何も知らないと思って、適当に喋ってるな。

「お給料は、いくらです?」

「ああ、最初は十八万ぐらいかな」

「安いですね」

「その代わり、いいことがあるよ」

「何ですか?」

 尋ねると、牧人は右手の人差し指を立てた。

「毎日、下着や裸のおねーちゃんに会える」

「……」

 私は、しばし氷のような沈黙で目の前の馬鹿に報いた。

「それ、女の私に意味があると思いますか?」

「だ、だよねー」

 軽薄に笑って、牧人は頭をかく。私は、段々と阿呆らしくなってきた。やっぱり、ついてくるべきではなかったかもしれない。

「まぁ、男の方が良かったら、ホスト雑誌もウチは出してるけどね」

 私は首を横に振った。ホストみたいな女を食い物にしている連中は、大っ嫌いだ。

「君、編集の仕事には興味ないの?」

「ありますよ。だから、ついて来たんです」

「やっぱり? なんか、そんな気がしたんだよね」

 虚仮にされた気がして、私はむっとした。それは私が眼鏡をかけた、地味でカビが生えてそうな女だから? 喧嘩売ってんの?

「だったらさ、ウチで修行して、別のまっとうな出版社に転職するって手もあるよ」

苛々している最中に、衝撃的な言葉が耳に飛びこんできた。丁度、運ばれてきたコーヒーカップを持ち上げたところだった。

静かに、カップをソーサーに置く。私の心臓は、激しく脈打っていた。

「……そんなことが、できるんですか?」

「できる、できる。実際そういう人、いるよ。そりゃあ当然、能力が必要だけどさ」

 私は唇に曲げた人差し指を当てて、考えこんだ。

そのような手段は、想像もしなかった。出版社の面接を受けることは止めてしまったけれど、だからといって未練を断ち切ったわけではない。もし本当に転職ができるのであれば、一年や二年、風俗出版で我慢するぐらい何でもなかった。

希望の灯が明るくともる。もしかしたら、私は夢を諦めなくていいのかもしれない。

「どう?」

 気がつくと、牧人が頬を緩ませてこちらを見つめている。私は、急いで心にブレーキをかけた。危ない、危ない。うっかり乗せられるところだった。考えてみれば、牧人が真実を語っているという保証はない。それに、なんといっても風俗だ。いくら私が直接客にサービスするわけではないといっても、風俗出版の編集が外聞を憚る職業であることは間違いない。いったい私は、親にどんな顔をして説明すればいいのか。

「考えさせてください」

 私は澄ました表情をつくり、逃げ口上を使った。内心、この男と会うことはもうないだろうなと思いながら。


 2


 疲れた気分で家に戻ると、キッチンから母が飛び出してきた。

「お帰り。面接、どうだった?」

 母は、心配そうに眉を下げている。私は、何と返すべきか悩んだ。けれど、嘘をつくわけにもいかない。

「たぶん、駄目だよ」

 正直に告げると、母は落胆した表情に変わった。

「まだ、わからないんじゃないの?」

「ううん、全然まともに喋れなかったから」

「何て会社?」

 私が答えると、母は今度は呆れた顔つきになった。

「そんな大企業に、あんたが入れるわけないじゃないの」

「だって、面接受けさせてくれるっていうからさぁ」

「あんた、選り好みしすぎなんじゃないの? 最初は編集になるっていって、きかなかったし。もう、どこでもいいから早く内定貰いなさいよ」

「……」

 私は返事を見つけられず、うつむいて母の横をすり抜け、階段を上って自室に入った。スーツを脱いで部屋着に着替え、ベッドに腰を下ろす。

 一気に力が抜けたので、仰向けに倒れた。半ば目を閉じるようにして、天井を見上げる。

母のいう通りだな、と思った。すでに私は、土俵際まで追い詰められている。今のままでは行く先がどこにも決まらないまま、卒業を迎えることになるだろう。それだけは、避けなければならない。もう役に立たないプライドなんか捨てて、一刻も早く就職を決めないと、家事手伝いという名のニート一直線だ。

 思えば、大学入試の時に躓いたのが、ケチのつきはじめだった。風邪をひいて力を発揮できず、第一志望に入ることができなかったのだが、父が浪人させる金はないというので、やむを得ず今の大学に進学したのだ。もっと上に行ける実力は充分にあったのに。

そして、今だってそうだ。そりゃあ出版社の面接ばかり受けたのは、愚かしい行為だったけれど、ピラフにあたったりしなければ、いくらなんでも夏には就職を決めていたはずだ。どうも私は、ここぞという時に不運に見舞われるようだ。

 私は、不幸になりやすい人間なのだろうか。だとしたら、どうしようもない。生きていれば、運勢が上向く時も来るだろう。先の幸運を信じて、今は妥協するしかない。

 私はむっくりと身体を起こし、立ち上がって、壁にかけたスーツのポケットを探った。

 牧人から貰った名刺に目を落とす。そして、頬を歪めた。

 でも、だからといって、これは妥協しすぎだけどね。


リビングへと下りて行くまでに、私の中でいくらかの葛藤が生じた。

 観たいテレビドラマがある。けれど、私の部屋にテレビはない。となると、リビングに行かなければドラマは観られない。しかし、リビングには父がいる。それが問題だった。

 顔を合わせれば、きっと就職が決まらないことに小言をいわれるだろう。それはもう、容易に想像がつく。であれば、できるだけ接触は避けた方がいいに決まっていた。

 しかし、それでも私はドラマが観たかった。やむを得ない。なるべく軽くかわせばいいじゃないかと自分に都合のいい結論を弾き出し、私は階段を下りていった。

 父はソファの上で、黄色いカバーの新書を読んでいる。私はそろそろと歩き、ソファの端に座って、ロウテーブルの上のリモコンを取り、テレビを点けた。

 チャンネルを合わせ、父の沈黙に安堵しながら、ソファに背中を預ける。その瞬間、父がこちらの方を向く気配を感じた。

「お前、まだ就職できないらしいな」

 硬く低い声が、頬をひっぱたくようだ。私は急いで姿勢を正した。ひたすら厳しい父に、私は少なくとも表向きは、決して逆らうことができない。

「うん、世間って甘くないよね」

「お前が甘すぎるだけじゃないのか?」

 なかなか、的確につっこんでくる。私は、反論せざるを得なかった。

「そんなことないよ。全部、ピラフが悪いんだよ」

「全部じゃないだろう。その前に、大手出版社ばかり受けていたのは誰だ?」

 私は言葉に詰まった。やっぱり、予想通りの展開だ。ドラマがはじまったけれど、もう観ることはできない。

「そんなもの、受かるはずがないのに。お前はもしかして、自分や周りがちゃんと見えていないのか?」

「そうじゃないけどさぁ。いいじゃない、挑戦してみたかったんだよ」

「だったら、早めにどこかで内定を貰って、それから挑戦すれば良かっただろう」

 隙のない反論に、私はぐうの音も出ない。

「お前はいつもそうだ。自分では頭がいいつもりかもしれないが、実際は穴だらけだ。自己評価が高すぎて、すぐにすっころぶんだ」

 いいたい放題だ。ボクシングなら、もう足腰がたたなくなっている。お父さん、タオルです。タオル、投げ入れます。

「それとも、結婚するつもりか?」

「え、そんなの考えてないよ」

 私は、びっくりして少しのけぞる。「まだ若すぎるし」

「それが、甘いというんだ。時間なんて、あっという間にすぎるぞ。行き遅れるのは、簡単なことなんだ。晩婚化なんて風潮に惑わされて、のんびりしていたら痛い目を見るぞ」

「……」

 何もいえなくて、私はどこかに白旗が落ちていないかな、と探した。

「三年だ」

 唐突に、父が指を三本立てて突き出してくる。私は戸惑った。

「え?」

「就職しないのなら、三年以内に結婚しろ。それができないなら、きちんと就職しろ。どちらかを選ぶんだ」

 こうやって、父は期限を切るのが好きだ。きっと仕事も、彼はこうしててきぱきとこなしているのだろう。しかし、そのやり方を結婚にまで適用するとは思わなかった。いや、そんな大事なことを拙速に決めたら、失敗する可能性が高くなるんじゃないの?

「わかったよ。今月以内に必ず就職決めるから。テレビ、観させてよ」

 怒りをしめすために、私は声を大きくする。言質をとった父はそれで満足したのか、再び新書に目を落とした。

 ようやく解放されたけれど、私はもう、全然ドラマに集中できなかった。


 3


翌日、私は居酒屋で増岡和弘と向かい合っていた。

 あまりに気分が滅入るので、酒でも飲もうと私が誘ったのだった。和弘は、私のいうことに滅多に逆らわない。今回も彼は二つ返事でOKし、時間に遅れることもなく待ち合わせ場所にあらわれた。

 和弘と知り合ったのは一回生の時だ。ミステリー研究会で同じ新入生として出会い、付き合いはじめた。推理作家を輩出している京大のミス研に比べたらゴミみたいなサークルで、ろくにミステリーを読まずに部室で麻雀を打っているような人たちばかりだったため、すぐに辞めたけれど、その前に私はちゃっかりカレシだけはゲットしたわけだ。和弘は性格は少し優柔不断だけれど、優しいし、わりとルックスはいい方なので特に不満はない。

 和弘の方はすでに化学メーカーに就職が決まっていた。それは嬉しいのだけれど、同時に悔しい思いもある。なので、私の口から出て来るのは、愚痴ばかりだった。

「ねえ、なんで私は就職決まらないの? 礼儀がなってないから? 面接の受け答えが下手だから? 美人じゃないから?」

 ビールのジョッキを握り、私は心もち前のめりになって、早口でまくしたてた。和弘は穏やかな笑みを頬に湛えている。

「そんなことはないよ。里美はちゃんとしてるし、喋るのも上手いし、可愛いよ」

「じゃあ、なんで受からないのよ。眼鏡か。眼鏡が駄目なのか」

 私は眼鏡のつるを握って、テーブルに乱暴に叩きつけた。こらこら、と和弘が諌める。

「はぁ、もうヤダぁ」

 私は両手で顔を覆い、涙声で嘆いた。触ると、顔の皮膚が熱を持っているのがわかる。すでに私は、結構酔っているようだ。

 手を外すと、和弘の顔が優しく笑っている。それを見ると、荒れた気分が少し休まった。

ずっと愚痴を聞かされても、和弘は面白くないだろう。私は、話題を変えようと決めた。

「和弘ってさぁ、風俗に行ったことある?」

 ビールを飲もうとしていた和弘はジョッキを置いて、少し下がり気味の目を私に向けた。

「なんで、そんなこと訊くの?」

「ん? んー、別に意味はないけど」

 適当にごまかして、私は眼鏡をかけ直す。「風俗出版社の人間に誘われたから、気になったの」と正直に話しても良かったのだが、なんとなくいいたくなかった。安く値踏みされたように感じているからかもしれない。

「風俗ねぇ。うん、あるよ」

 えっ?

 私はビールを吹き出しそうになった。我慢して飲みこみ、肺を絞るような咳をする。落ち着いてから、目尻に滲んだ涙を指先で拭った。

まさか、という驚愕が大きかった。尋ねてはみたものの、本当にあるとは露とも思っていなかったのだ。興味ないよ、と笑ってくれるものとばかり考えていたのに。

「ヘルスなんだけど、すごい恥ずかしがり屋の風俗嬢がいてさ。部屋を暗くして、身体を隠しながら服を脱ぐんだよね。それが可愛くて、気に入ってよく遊んでたよ」

 訊いたのは私だけれど、不快感が膨れ上がった。つまりこいつは、私がいながら、風俗に通っていたわけだ。あんた、それは隠しなさいよ。せめて一回行ってみた、ぐらいにしておきなさい。それに「可愛くて」って、何? めちゃくちゃハマッてるじゃないの。

「ふうん、そうなんだ。やっぱり風俗嬢だと、フェラのテクもすごいの?」

「いや、それは普通だった」

「ごめんねぇ。私、下手だもんねぇ」

「え、そんな」

 和弘は私の機嫌を損ねたことに気づき、慌てた様子で手を振った。遅いよ。

私は「カノジョがいるのに風俗行くってことは、不満があるってことだよねぇ」などといって、さらにねちねちと追及した。和弘は困ったように黙りこむ。その姿を見ていたら可哀想になってきたので、私は自制して、嫌味をいうのは止めた。

「じゃあさ、風俗の情報誌は見たことある?」

「あー、それはないなあ。今はネットが主流だし。お店のホームページを見れば、最新の情報が手に入るわけだからね。紙だと、どうしても遅くなるから」

「ふうん。じゃあ情報誌はいずれなくなるのかな」

「どうだろうね。みんながみんな、パソコンを持っているわけでもないだろうから、それはないんじゃない? パソコンを扱えない年配の人たちは、スポーツ新聞とか情報紙を利用する機会が多いんじゃないかな」

 でも、先の望みはあまりなさそうだ。まぁ私の場合、仮に就職するとしても、長く勤めるわけではないから、そんな心配までしなくてもいいんだけど。

 と、和弘がなんともいえない目で私を見つめていた。

「まさか、里美……就職が決まらないからって風俗に……」

「はあっ? よしてよ。そんなの、あるわけないじゃない」

 私は眉をつり上げた。風俗嬢にもそれぞれ事情があるのだろうが、やはりあんなところで働くのは最終手段だと思う。簡単に風俗に飛びこんでいくような人たちとは、一緒にされたくなかった。

安心した、といって和弘は酢だこを口に放りこんだ。

 それから、少し沈黙がつづいた。私は、チーズスティックを咥えてみる。和弘は否定したけれど、やっぱり私はフェラが下手なんだろうなと思った。でなければ、わざわざ金を払って、風俗になんか行かないだろう。嫌いだから、たまにしかやってあげないし。

 どうやれば気持ちいいのかな。知識がないので、さっぱりわからない。何か、喉の奥まで入れるやり方があるというのは聞いた覚えがあるけど。確か、ディープなんとかって。

ネットで検索して調べてみようか、などと考えていると、和弘がおもむろに口を開いた。

「あのさぁ、里美」

「なに?」

「俺、好きな人ができたんだ」

 内容にそぐわぬ、のんびりした声だった。和弘はどんな時でも、マイペースを崩さない。私は眉根を寄せて、チーズスティックを唇から離した。

「……どういうこと?」

「会社の懇親会で、内定者の女の子と知り合ったんだ。で、すごい意気投合しちゃってさ。彼女と付き合いたいんだよ」

 私は、一気に心拍数が跳ね上がるのを感じた。今度は、風俗通いの告白どころではない。顔が、さらにかっかと熱くなった。

なんだこれは。和弘は急に、何をいい出すのだろう。

「つまり、別れたいってわけ?」

「うん、ごめん」

 和弘はすまなそうな顔になる。衝撃から覚めると、私の怒りのボルテージは上がった。

 ふざけるな。

 付き合いたいなんていっているけれど、実はもうすでに付き合っているのだろう。和弘は新しいカノジョが出来てから、ずっと別れ話を切り出すタイミングを窺っていたのだ。だから、風俗通いの話も堂々と打ち明けたわけだ。もう私に気を遣う必要がないから。

けれど、どうして今なのだろう。せめて場所を選びなさいよ。居酒屋なんかでするな。こっちは完全に気を緩ませていたから、全然受け入れ体勢が取れないじゃないの。

 私は和弘の顔を見つめた。悪びれてはいるけれど、どうせ演技に違いない。なんでこいつは、自他ともに陰気と認める私と付き合っていたのだろう。手軽にセックスできる相手が欲しかったのだろうか。そうかもしれない。彼は大学生活の間遊べる、すぐに捨てられる適当な女を必要としていただけなのかもしれない。

 私の目には、急に和弘が得体の知れない男に映りはじめた。私はこの男のことを、本当は何も知らなかったのだろう。

 そうかそうか。気持ちがないなら、もういい。こっちから願い下げだ。

「あ、そう。いいよ。別れてあげる」

 怒りは、すでに憎悪のレベルにまで進化していた。これ以上、和弘の顔を見ているのも不愉快だ。私は「さよなら」といって、彼を見下ろす。財布を出すべきかと少しだけ悩んだが、やめておいた。この居酒屋の代金ぐらい、和弘に払わせてもバチは当らないはずだ。

 音高く扉を閉め、店を出た。それから、小さく悪態をつきながら、どんどん速度を上げて歩く。たぶん、私の目は据わっていただろう。煮えくり返るお腹を抑えながら、私は和弘の恋人について考えた。

そいつは仕事と男と、両方をいっぺんに手に入れたわけだ。いいじゃない。理想的だ。それに比べて私は職もないし、カレシも失った。この差は何なのだろう。

 人は時に、自暴自棄になる。後から激しく悔やむことになっても、それは冷静な頭を取り戻しているからであって、熱くなっている間は思考がいびつに曲がる。この時の私が、まさにそうだった。

 腹立ちを堪え、にたあと笑った。

 所詮、私はその程度の女だというんだな。OK、わかった。だったらせめて、職には就いてやろう。幸い、こちらには奥の手がある。他人には到底話せない仕事であっても、転職するまでの短い間なのだから問題はないだろう。

 たとえ風俗出版社であろうが、別に構うものか。

 

 4


とても簡単に話は進んだ。

牧人と連絡を取ると、私は大阪市西部にある薄汚れたビルに呼び出され、編集長とデスクの二人から面接を受けた。十五分程度の簡単なやり取りだけで、手応えもなにもなかったが、次の日になると合格の知らせが電話で届いた。

今までの苦労を思えば嘘みたいなあっけなさだけれど、仕事を考えたらまぁ当然の結果だ。そう、大変なのはこれから。私は、早く編集のスキルを身につけ、まともな出版社へ転職しなければならない。そのためには人一倍、頑張らなければ。

でも、「風俗」だと思うだけで、やる気はあっけなく消えていく。四月が来て、Y出版に出社したけれど、その時点でも私はまだ風俗店の種類すら把握していなかった。

とにかく、社会人としての私の闘いははじまった。まずは一週間の研修を受け、それが終わると、私は正式に編集部に配属になった。Y出版は、月刊誌、隔週の風俗新聞、ホスト情報を満載した女性向け求人誌の三媒体を発行しており、さらにインターネットのサイトも運営している。私が所属するのは、新聞班だった。

クライアントが夜の仕事であるから、それに合わせて風俗出版社は始業時間が遅く、編集は昼の十二時からとなっていた。いよいよ編集者生活をスタートする初日、私は早めに出社して空いているらしい机に鞄を置いた。

椅子に座って辺りを見回す。目に映るくすんだ壁に区切られたオフィスは、いかにも風俗出版社らしい印象だ。どの机も資料や雑誌で埋められ、床にはゴミが散っている。ゴミ箱はあちこちで溢れ返り、灰皿の吸殻も片づけられていない。汚いけれど、不快感はなかった。こういう雑然とした雰囲気こそが、編集部には似つかわしいと思う。

私は椅子をくるくる回し、つかの間、編集者気分を楽しんだ。ところが突然扉を開けて、裸の男が入ってきたものだから、私は仰天した。

男は格子柄のトランクスだけ、身につけていた。かなり痩せていて、肋骨がくっきりと浮き出ている。櫛を入れていないらしく、長髪が乱れて逆立っていた。

頬の肉が削げ落ちた顔は、ひと言であらわすなら貧乏臭いサルだ。と、赤く血走った目がこちらに据えられた。狂気を感じた私は、瞬間的に逃げ出そうかと考えたほどだ。パン一が飛び跳ねながら寄って来るので、私は身体を縮こまらせた。

「君が新入り?」

パン一は甲高い声でいう。どうやら彼は会社の人間、それも編集部員らしい。しかし、あまりの不気味さに反応が遅れた。

「はい、そうですけど」

「新卒の女の子が入って来るって、話題になってたんやけど、本当なん?」

「え、ええ」

「へえ、珍しい子やなあ」

 そういって、パン一がこちらを凝視するので私は閉口した。いや、あんたの方がよっぽど珍しいんですけど。何なの?

パン一は、俺は勝本雅夫だと自己紹介をした。あだ名はカッツンだから、そう呼んでくれという。やむなく私も、自分の名前をいって頭を下げた。

「なんで、こんなところに来たん?」

「それは……私は編集に憧れていて……」

「ふうん、そうなんや」

「できれば、ここでスキルを磨いて、転職できればな、と」

「ほうほう」

 カッツンは口先を突き出して、いい加減な相槌を打つ。馬鹿にされている気がして、私は腹立ちを覚えた。

「でも君、マッキーに勧誘されて、入ったんやろ?」

「ああ、はい」

 牧人はマッキーと呼ばれているのか。そんなことを考えながら私が答えると、カッツンはにやにやと笑った。

「何? もしかして、できてんの?」

「はあっ? 違いますよ」

 私は、憤然として否定した。何を根拠にいっているのか、わからない。初対面なのに、どうしていきなり、そんな失礼な口がきけるのだろう。

「そう? ならええけど、あいつは女たらしやから、気ぃつけえや」

「はあ」

「この間まではデリヘルの彼女がおったはずやけど、あれはもう別れたんやったかな」

「デリヘル? 何ですか、それ?」

尋ねると、カッツンは頭を後ろに反らせて、オーバーにのけぞった。

「そんなの常識やないか。デリヘルはデリバリーヘルスを略した言葉。自宅やホテルに風俗嬢を送り届けるんや」

「そうなんですか」

「うーん。別にええけど、でもこれから仕事するんやから、勉強せなアカンで」

不勉強な新入りは、話す価値なしと見做されたようだ。カッツンは薄い胸をぴしゃぴしゃと叩きながら、立ち去っていく。私は、とうとうパン一の理由を聞き損なった。

風俗の勉強か。やっぱりなんだか、ひどく馬鹿らしい。けれどカッツンのいう通り、仕事なのだから四の五のいっていられない。それに私には転職という、大きな目的がある。嫌でも、やらざるを得なかった。

試しに、私は机に置いてあった月刊誌をめくってみた。目次の横に業種の説明が書いてある。話に出たデリヘルも載っている。ホテルの部屋でサービスを行う、ホテルヘルスという業種もあった。デリヘルと同じ派遣型の風俗店だが、受付が存在する点が異なる。だからデリヘルと違い、ホテヘルではパネルで風俗嬢を選べるという利点があるらしい。

お店でサービスを行うファッションヘルスを店舗型風俗というのに対し、デリヘルやホテヘルを無店舗型風俗というそうだ。知ってみると、結構奥が深い。この程度で感心してはいけないのかもしれないが。

SMやソープはさすがに知っている。他にもマッサージとハンドサービスのエステ、ボックス席でフェラチオをするサロンなどがある。風俗の中でも、射精が伴う業種をヌキ系、キャバクラやセクキャバなどは飲み系と分けているようだ。大体は理解できた。

十二時になると、朝礼……いや、お昼だから昼礼か、とにかくフロアに社員全員が集まっての会合が開かれた。名前を呼ばれた私は短く挨拶を終え、後は役職者たちのつまらない話をひたすら聞き流した。

昼礼が終わると、私は巨漢の枡本編集長に連れられ、編集部の一人ひとりに挨拶して回った。新聞班はデスクの東原に牧人、カッツンと宮下、ほんの二週間前に入社したばかりの市村、という五人の構成だ。ここに私が加わって六人となる。

市村は疲れた顔をした地味な印象がすべての男で、私がよろしくお願いしますというと、ぼそぼそと、はっきりしない言葉を返した。

宮下は頭を坊主刈りにした三十男だった。編集長よりも一回り小さいが、丸々としている。あだ名は「入道」だと自ら告げた。東原、通称ヒガシさんは、逆に一見ひ弱そうなやさ男で、デスクという役職がついているわりにはまだ若く、二十五歳だということだ。

牧人は私を見ると、嬉しそうに笑った。彼はデリヘル担当及び新聞班の副主任で、私の指導係も兼ねているそうだ。

「いらっしゃい、やっと来たね」

私を隣の席に座らせて、牧人はいう。

「いつまでも、ここにいるつもりはありませんけどね。勉強して、必ずちゃんとした出版社に転職します」

「いいね、その意気だ」

牧人は小さく手を叩いた。それから表情をあらため、会社内の基本的な規則や、新聞が出来るまでの流れ、表記に関する注意事項などを説明した。

一通り教え終わると、牧人は私に名鑑づくりを指示した。

彼は風俗新聞を広げて、ずらりと風俗嬢の写真が並ぶページをしめした。見開きで五十名近くの女のコが紙面を埋めている光景は、目に鮮やかだ。これが風俗出版物でいう名鑑で、この手の媒体では定番だという。読者はカタログのように並ぶ女のコをチェックして、どのコと遊ぶか決めるわけだ。付け加えておくと、女の子の「子」はカタカナ表記にするのが、ここでの決まりらしい。

まずは、女のコのデータをパソコンから打ち出す。データの打ち出し方は、操作方法を覚えれば簡単だった。

何十人かの女のコのデータ紙が揃うと、すかさず牧人は掲載確認を指示した。業者に連絡を取って、女のコの写真を載せる件について了解を得るとのことだ。これは基本的な作業で、なにをするにもついて回る、煩雑ではあるけれども決しておろそかにしてはならない仕事なんだと、牧人は初対面の時には見せなかった真面目さを覗かせていった。

私はデータ紙に載っている番号に、電話をかけはじめた。ところが、なかなか業者は掴まらない。つながっても、忙しいから後にしろと怒られたりする。何度も電話をかけているうちに、いつしか陽は沈みかけていた。

いったん掲載確認は中断し、了解が得られた分からポジ切りの作業にかかった。業種別に分かれたファイルから女のコのシートを取り出し、なるべく可愛く撮れているポジを選んで切り出す。髪の毛で目が隠れていたり、笑いすぎて歯茎が覗いていたりするようなものはNGだ。また、服よりも下着、下着よりも裸といったように、より露出が多い写真を使用すべきであるだの、巨乳のコなら胸を強調したものを使ってくれだの、牧人はやたらと注文をつける。けれど、いざライトボックスの上にシートを広げてみると、みな同じに見えて違いがわからないのだ。どれが良いとも決められず、私は小さく息を吐いた。

時間はどんどん過ぎていく。

ルーペを置いて、首を動かした。単調な作業は、私がもっとも不得意とする分野だ。集中力が限界を超えると、能率は急カーブを描いて落ちていく。こうなると仕事にはならない。なにか、気分転換が必要だ。

コーヒーでも飲もうと、腰を上げかけた時だった。オフィスに、奇声が響き渡った。

ぎょっとして振り向く。声の主はカッツンだった。着ていたはずのシャツとズボンを脱ぎ、またパン一に戻っている。そして、入道までがなぜか上半身を裸にしていた。

「そうら、エリマキトカゲやでぇ!」

二人はシャツを広げて、ドタバタと走り回った。入道は無表情のまま、カッツンは皺だらけの笑顔だ。私は呆気にとられた。誰も彼らに注意せず、無視して仕事に没頭している。編集長だけが「古いんだよ、お前ら」と、鬱陶しそうに声を放っていた。

私は鋏を握りしめたまま、茫然と二人が駆け回るさまを眺めていた。



しばらく会社に通い、主に求人誌担当の女の子たちから話を聞いているうちに、自分の居る場所の正体が次第に掴めてきた。

ろくでもない人間の集まるろくでもないところ――それが私の職場だ。カッツンと入道の奇行には驚かされたけれど、別に二人が特別というわけでもないらしい。風俗出版社はその特殊性のために、募集をかけてもまともな人材が集まらないようなのだ。過去には頭が弱すぎてろくに仕事ができない男や、「人を殺して、なぜいけないんですか」とうそぶく危ない奴もいたそうだ。

そういう連中に較べれば、あの二人はまだ仕事ができるから許されているのだ。入道はあだ名がしめす通り寺の住職の息子で、ああ見えてちゃんと仏教系の大学を卒業している。カッツンはY出版に勤める前はパチンコ雑誌の制作に携わっていたので、元々編集職には慣れていたようだ。

極楽コンビと呼ばれる二人は奇妙な連帯感で結ばれていて、いつも仲良く職場に泊まりこんでいるという。私が驚愕した初遭遇の時も、カッツンは寝起きだったのだ。だからといってパンツ一枚で会社内をうろつく理由にはならないのだが、あの二人は揃いも揃って露出癖があり、放っておくとすぐに裸になるらしい。

本当に、ろくでもない。はっきりいって、Y出版は奇人変人の巣窟だ。それだけならまだしも、編集は下手をすればろくに家に帰れないほどの激務らしい。だから人が居つかず、次々と辞めていくのだった。前の編集長ですら、「のんびりしたい」とひと言残して去っていったという。今は有馬の温泉街にある旅館で、元気に働いているそうだ。

牧人がなぜナンパまがいのことまでして私を誘ったのか、ようやく理解できた。こんな職場では、すぐ人手が足りなくなるのも当然だ。お世辞にも〞クリエイティヴ〟だなどといえる代物ではない。しかも、台所事情はかなり苦しいらしい。以前は羽振りが良かったらしいが、今は後発のフリーペーパーに追い上げられて、広告量が激減しているそうだ。

化粧を剥ぎ取ったスッピンは、二目と見られない顔という現実。牧人に騙されたようなもので、ここまで酷いと呆れるばかりだった。なにが編集かと、もはや笑うしかない。そうとわかれば、早々に逃げ去るのが得策だった。

それでも、私は辞めなかった。風俗出版社がろくでもないことは、ある程度は想定済みだ。私の目的は、ここで経験を積んで転職すること。それを達成するまでは、逃げ出すわけにはいかなかった。

編集部に配属されてしばらくは、私は牧人に同行して取材を重ねていた。広告を掲載している店がイベントを行えば紙面で紹介し、新人が入ったと連絡を受ければ飛んで行って撮影を行う。つまりはクライアントの提灯記事なのだが、それでも編集者らしい仕事に私は喜んだ。なんだかまがい物で満足しているようだけれど、こうしてこつこつ頑張ったその先には、きっと私が望んでいるものが待っているはずだと信じている。

「サトちゃあーん」

 キーボードの上で忙しく指を動かしていた私は、声をかけられて首を向けた。すると、カッツンが笑いながら歩み寄って来るところだった。

「今日は、取材に行かへんの?」

「はい。いっぺん記事書いてみろって菅井さんにいわれて。デリヘル面のメイン下を」

「それで残ったんか。どう? 難しい?」

「そうですね。内容があまりないのに、字数が多いですから。でも、なんとかします」

 と、カッツンはちっちっと指を振った。

「でもさぁ、風俗の編集者ってのは日中は取材に駆け回って、記事書くんは陽が沈んでから、やるもんやで。昼日中からパソコンの前に座っとったらアカン」

「はあ……」

「というわけで、俺の取材手伝ってや。今から、社スタで撮影やねん。ええやろ?」

「ええ、いいですけど」

 できる限り遠ざけたい人間であっても、仕事であれば仕方ない。私は腰を上げた。

オフィスの一階上に、スタジオ用に借りている一室があった。業者に足を運んでもらえる場合は、ここで撮影を行う。社スタと呼ばれるその部屋へ向かうため、私たちは編集部を出た。

「でも、手伝いって何するんですか?」

「ん? まぁ、絵作りを、な」

 その返事に、私は首を傾げた。絵作りとは、記事内容に相応しい写真を構成することだ。そのためには、主に編集者が参加する必要があった。たとえばフェラをしている写真が欲しければ、女のコの顔に股間を寄せる。騎乗位スマタの写真が撮りたいのなら、横になって女のコに乗ってもらう。もちろん実際にやるわけではない。ちなみに、スマタというのは擬似本番行為をさす。ペニスを入れるのではなく、局部で擦って(大抵は手も使う)気持よくするテクニックだ。

 けれど、絵作りは男の編集者がやるべきもので、女の私には関係ない。いったい、何をしろというのだろう。

 気になって詳細を尋ねてみても、カッツンは返事を濁して答えようとしない。そのうち、社スタまで来てしまった。

カッツンに指示されて、私はバックペーパーの用意をする。すると、カメラマンのヒラさんが飄々とした足取りであらわれた。彼とはすでに何度か顔を合わせ、親しく言葉を交わす間柄となっている。

「やあ、サトちゃんやないか」

ヒラさんはソファに座っているカッツンに挨拶してから、私の方を向いた。京都出身のヒラさんは、地元に事務所を構えているカメラマンだ。本名は平井という。Y出版は社員のカメラマンは一人しか抱えておらず、仕事のほとんどを外注に頼っていた。

「今日は、マッキーと一緒とちゃうん?」

「はい。今回だけ、カッツンのお手伝いを」

「へえ、そうなんや」

 ヒラさんはうなずくと、バックペーパーを敷くのを手伝ってくれた。カッツンは仕事をしようとせず、ソファでマンガ雑誌を読んでいる。私は、雑用をやらせるために呼ばれたのかな、と思った。いや、でも、絵作りっていってたし……。

「──で、入道とホテヘルの人妻店に行ったんやけど、奥様方が面白がって、よってたかってあいつのパンツを脱がすんや。ほいで、入道も喜んですぐ全裸になってまうからさあ。俺、あいつのケツの穴まで撮らされてもうたわ」

 機材のセッティングをしながら、ヒラさんはくだらない話を披露した。以前の私ならどん引きするような内容だけれど、風俗出版社の編集者たるもの、これぐらいで怯んでいてはいけない。私は「それは災難でしたねぇ」と、微笑んだ。ヒラさんは「ホンマやでー」といって、顔をしかめながら笑っていた。

ヒラさんと無駄話をしていると、やがてノックの音が響いた。

私は扉へと歩いていって、業者を出迎えた。いかつい空気を漂わせて入って来たのは、角刈りの男だ。その後ろにいるのは、胸の辺りまで伸ばした髪を茶色に染めた、とても綺麗な女のコだった。

 何度か写真を見ているので、私はその女のコを知っていた。お店でナンバー1の人気を誇り、出勤すればすぐに予約でいっぱいになるという愛ちゃんだ。ルックスがとにかく群を抜いているので、月刊誌のグラビアなどにもよく登場している。風俗嬢には批判的な私でも、このコの可愛さだけは認めざるを得なかった。

 カッツンは顔見知りなのか、角刈りと親しげに話をしている。その間に私は愛ちゃんを着替えのためのスペースに案内した。すぐに彼女は、下着だけになって出て来た。

 ヒラさんは早速、名鑑用の撮影をはじめる。愛ちゃんに色々とポーズを指示しては、その姿を着実にフィルムに収めていった。

 フィルム一本を使い切ると、次は記事用の撮影に入った。カッツンはさっさと服を脱ぎ、玩具のペニスがついたパンツを履いた。そして、下着姿の愛ちゃんに覆いかぶさる。

ヒラさんが出す指示を受けて、カッツンはポーズをとった。愛ちゃんの突き出た胸の膨らみに手を近づける。脚を広げた愛ちゃんの股間のあたりで舌を泳がせる。四つん這いになった愛ちゃんを後ろから突くふりをする。もう私は牧人の絵作りを見て慣れっこになっていたので、二人の恥ずかしい姿を目の当たりにしても何とも思わなかった。

ヒラさんが終了を告げ、カッツンは立ち上がる。私は、これですべて終わりだと思った。しかし、そうではなかった。ヒラさんに待ってくれるよう頼み、ペニスパンツを履いたまま、カッツンが私に近づいてくる。そして、次はサトちゃんの番ね、といった。

「え、私?」

「そう。服脱いで、下着だけになって」

 カッツンはごく普通の表情でいう。私は仰天した。

「はあ? なんで私が!」

「レズプレイコースの記事用なんや。だから、もう一人必要やねん」

 いやいやいや。だったら業者に、女のコを二人連れて来てもらえばいいだろう。なぜ私が、下着姿にならなければいけないのだろうか。話がおかしい。

「嫌ですよ。無理です」

 私が断固として首を振ると、とん、と両肩に骨ばった手が置かれた。

「あんなぁ、サトちゃん」カッツンは、噛んで含めるような口調だ。「郷に入りては郷に従えって、いうやろ? ここは、そういう異常なことが普通の世界なんや。俺なんか、入社一週間目でアナルにバイブつっこまれたんやで?」

「……」

「だから、考え方を根本的に変えんと。サトちゃんは、ここで勉強して別の出版社に転職したいんやろ?」

「……ええ」

「だったら、これぐらいでへこたれたらアカン。根性出してみぃな」

え? 根性とか、そういう問題ではないんじゃないの?

「ほら、時間がないで。業者さんが待ってるがな」

 ちらりと視線を移すと、角刈りが怖い顔でこちらを見ている。とても苛々している様子だ。あれ? もしかして、私、追い詰められている?

 どうしようと焦った。心の準備が出来ていないのに、いきなり皆の前で脱げといわれても無理だ。でも私がやらないと、どうやら撮影が終わらないらしい。

カッツンは私が逃げ出すといけないから、ぎりぎりまで黙っていたのだろう。私は頬を引きつらせた。ここは、脱がないといけないのだろうか。

理不尽だ、と呆れた。でも確かに、ここは異常なことが普通の世界だ。入社してから、私はその事実を思い知らされてきた。下着姿になるぐらい、ここでは当たり前なのかもしれない。考えてみれば下着のモデルだって、人前で平気であんな格好しているんだし。

 まともな出版社で編集職に就くのが、私の夢だ。そのためなら、どんなことでもする覚悟はある。やるか、と私は腹を決めた。

「顔にモザイクはかけてくれるんでしょうね?」

「もちろん」

「わかりました。じゃあ、やります」

 私は更衣用のスペースに入り、着ていた黒いシャツとベージュのチノパンを脱いだ。鏡に映っている下着はまあまあ綺麗で、恥ずかしくはないレベルだ。それで私はほっとする。

眼鏡を外し、少し前屈みになりながら出て行くと、ぼんやりした視界の中でヒラさんが目を丸くしていた。カッツンは嬉しそうに笑っている。私は、ものすごい恥ずかしさで頬を熱くした。

「次は、あんたと写真撮るん?」

 横座りになっていた愛ちゃんは私を見て、明るく尋ねてくる。私は、はいとか細い声で答えた。

「ええと。ほな、まずサトちゃんが上になってくれるかな」

 ヒラさんの指示に従い、私は寝転んだ愛ちゃんの上でポーズをとった。

  

撮影が終わると、疲労感が尋常ではなかった。緊張が一度に解けて、私はぐったりしてしまった。編集部に戻っても、仕事をする気力がなかった。

やはり人前で肌を晒すという行為には、途轍もない心理的抵抗がつきまとう。もう一度やれといわれたら、私は今度こそ逃げ出しそうだった。けれど、これも慣れなのだろうか。何度か繰り返せば、私は平気で下着姿になれるのだろうか。

再びキーを叩きはじめたが、どうしても気分が乗らず、溜め息を繰り返す。そのうち、牧人が取材から戻って来た。

「よっ、記事完成した?」

 牧人は能天気な声で訊いてくる。私は、弱々しく首を左右に振った。

「どうしたの? 元気ないみたいだけど」

「はあ」

 私は事情を説明した。

しかし……すべてをいい終わらないうちから、牧人は背中を折り曲げて笑いはじめた。私は目を点にする。

「馬鹿だなあ。女の子に絵作りさせるわけないだろ」

「え?」

「カッツンに騙されたんだよ。あの店に、レズプレイコースなんてないし」

「騙……された……?」

 頭を漂白されたように感じた。次いではっと我に返り、私はパソコンに向かっているカッツンを睨みつけた。勢いよく駆け寄り、右手でシャツの襟を掴む。

「おい、お前。どういうつもりだ?」

 私の声は、地の底から響くようだった。自分の声ではないみたいだ。

「おや、サトちゃん。先輩にそんな口をきいちゃ、アカンなぁ」

「やかましいわ! さっさとフィルムを寄越せ!」

「えー、せっかく撮ったのにぃ」

「お前、殺されたいのか……?」

 目を剥いて凄むと、カッツンはようやく諦め、ポケットから円筒形のフィルムケースを取り出した。私は、素早くそれを奪い取る。

「ごめんなー、悪気のないジョークやから。でも、本当に脱ぐとは思わんかったわ。サトちゃん、詐欺とかに引っ掛かりやすいから気ぃつけてな」

 ふざけた台詞を吐き、カッツンはからからと笑う。

私は、こいつだけは許さない、と憤怒に震えた。


 6


 ゴミのような職場だけれど、そのことはかえって私の闘志を燃やした。私は結構、負けず嫌いだ。カッツンみたいな屑のために、夢を諦めるようなことは絶対にしたくなかった。

 表向き、騙されて下着姿を撮影された件は忘れたようにして、私は日々を送った。でも、カッツンを要注意人物として胸に刻み、彼とは常に心に壁をめぐらせて接した。それが伝わったのか、それともさすがに悪いと思ったのか、もう二度とカッツンが悪戯を仕掛けてくることはなかった。その点については、私はほっとした。

 しかし残念ながら、注意すべきなのは、彼一人ではなかった。

すでに入社してから、一ヵ月が経過していた。試用期間が終了し、私は大量の仕事をこなすようになっていた。

まずは、牧人担当のエステ面とデリヘル面の半分が私に課せられた。その上、体験マンガのテキストも任されるようになった。これだけでも大変なのに、名鑑が二面ある。新人にとってはかなりきつい仕事量だ。他にも読者のハガキ欄でコメントしたり、プレゼントを発送したりなどといった、細々とした記事や雑務がやたらと多くあった。もちろん日中は取材に駆け回らなければならないから、これらのデスクワークは帰社してから、やらなければならない。

編集は、無限に繰り返されるサイクルにひたすら耐える作業だ。取材をし、ラフを引き、ゲラが上がれば入稿し、初校再校に赤を入れ、色校をチェックする。これが延々とつづく。一つ片づけて一息つけば、次の仕事が待っている。毎日が締め切りの連続だ。

自分では文才はある方だと思っていたのだが、デスクのヒガシさんによるチェックは厳しい。私は、何度も修正を強いられた。そのため、日常的に最後の一人となるまで居残るはめになった。

「はっはっは、サトちゃん。苦労しているねえ」

素早くキーを叩きながらカッツンがにかっと笑っても、返す言葉も気力もない。極楽コンビはいい加減に見えても、私との力の差は歴然としていた。実は、あの二人にできるのなら楽勝だ、と私は舐めきっていたのだけれど、それは大きな間違いだったようだ。

記事一つの本文が平均三百ワード。これが、私にとって大変な重荷だ。いくら書いても、ヒガシさんに突き返されるのだ。

「駄目だな」

 ヒガシさんは静かな声でいって、原稿を平手でぱんと叩く。

「ここ、体言止め、おかしい。ここ、文章長すぎて文法が狂ってる。君、大学出てるんだろ。もう少し期待していたんだが、俺が間違っていたのか?」

精密機械のようなヒガシさんは、どんな誤りも見逃さない。再校、色校の時にはすべての面をチェックし、ミスを一人で未然に防いでいた。話を校正に限れば、カッツンや入道、牧人もヒガシさんには及ばず、新聞班のチェック機構として、彼は完璧に機能していた。

 私は直しを入れたテキストをヒガシさんに見せる。すると、彼は修正で真っ赤に染め、突き返してくる。私はまたパソコンと向き合う。この繰り返しだった。懸命に文章に手を入れ、これで大丈夫だと思っても、やっぱりやり直しを命じられる。何度やっても同じことだった。ゴールのないマラソンを走らされている気分になる。

やっと入稿が許可される頃には、終電の時間はとっくに過ぎている。私は、しょっちゅう職場に泊まりこむようになった。編集部に隣接した小さな倉庫に毛布を敷いて寝るのだ。こんな事態は、想像の埒外だった。一人、暗闇の中で横たわっていると、何をやっているんだろうと惨めな気分になるが、しかし、これは自らが選んだ道だった。いつの日か、望みが叶うと信じて、今は頑張りつづけるしかない。

その日の夜も、私は遅くまで記事を書いていた。編集の面々はほとんど帰宅し、残っているのは、私と極楽コンビと市村の四人だけだった。

「サトちゃん、一緒に飲もうや」

 仕事に飽きたらしいカッツンが、冷蔵庫からビールの缶を取り出して掲げた。けれど、私は気のない視線を向けて、何もいわずに首を振る。飲んだらもう、仕事にならないではないか。締め切りは明日だから、今日のうちにできるだけ仕上げておきたい。なるだけ、話しかけないでほしかった。

 でも、カッツンはちょっかいをかけてくるのをやめない。ネットを見ながら、「あっ、サトちゃん! あのアイドル、破局したんやて!」などと叫び声を上げる。それに対して私は、「知ってますよ」と可能な限り冷たい声で返す。いい加減、鬱陶しがっていることに気づけよ、と思う。

 もう記事は完成したのかな。だったら、早く帰ればいいのに。

 私は苛々しはじめた。これでは駄目だ。いったん手を止めて、気分転換をした方がいい。

私は、だるい身体に鞭打って廊下に足を踏み出した。

トイレに入り、鏡を覗きこんでみる。くっきりとした隈をつくった、疲労の色が濃い顔が目の前にあった。これが自分なのかと、不思議な感覚に陥る。

用を足してから、編集部には戻らずにエレベーターに乗った。目指したのは一階。フロアに出ると、すでに正面玄関には頑丈な鉄のシャッターが下りている。通用口の扉を開けた私は、まだ暗い歩道へと進み出た。

 ストレスで苦しくなった胸を、夜の冷気で満たす。明かりを放つ自動販売機が目に止まり、吸い寄せられるように歩いた。缶コーヒーを買い、自販機にもたれてひと口、飲んだ。

 ほっと息を吐く。果てしのない作業の連続に、私は心身ともに疲れきっていた。風俗出版社の編集とは、かくも辛いものだったのか。この調子では、いつまでもつかわからない。いつかぷつんと糸が切れて、「飛んで」しまうかもしれなかった。

 もし辞めたら、どうなるのだろう。私は想像した。編集の夢を失った私は、もう仕事などどうでもよくなるだろう。フリーターになって、適当なバイトで日銭を稼ぐことになるのではないか。それはそれで、気楽な生活かもしれないけれど。

 いや、でも、と私は思い直した。本当に、それでいいのか。逃げ出したら、たぶん後悔するのではないか。残りの人生を、何の夢も目標もないまま、ただ生きていくことに私は耐えられるだろうか。

 それは、どうしても嫌だった。人が生きるのに理由など必要ないのかもしれないが、私は夢のない人生など欲しくなかった。編集という仕事によって、私は、何かを形として残したい。確固とした存在を、この手でつくりだしたいのだ。

 まだ手にしている一縷の望み。私は、それを手放したくなかった。

 やはり、辞めるわけにはいかない。黒い背景の中に屹立するビルを見上げながら、私はそう結論を出した。萎えかけた心を、一生懸命に奮い立たせる。

とりあえず、気合いを入れ直そう。

 私は両手で頬を叩いてから、歩いて編集部に戻った。さあもう一度だ、と扉を開け──すぐに異変に気づいた。

カッツンたちの姿がどこにも見えない。あたりには人影がなく、がらんとした寂しい光景が広がっていた。

 周囲を見回すと、衝立で間仕切りされたブースから、何やら音が響いてくる。そういえば、いつもは編集長の席の後ろに置いてあるテレビとDVDプレイヤーがない。三人は、それらをブースに運びこんで何か観ているらしい。

 何をやっているんだか。ほっとこうと思ったけれど、一応、確認だけはしておこうかと考え、私は近づいた。

甲高い女性の声が聞こえる。これは……喘ぎ声だ。なんだか嫌な予感がしたけれど、私は脚を止めなかった。

ブースを覗きこみ、そして私は小さく呻いた。

 カッツンと入道、市村はエロDVDを鑑賞していた。それはいい。そんなことは、彼らの勝手だ。私が仰天したのは、三人が下半身を剥き出しにしていたためだ。彼らはズボンとパンツをテーブルに放り出し、固くなったモノをしごいている。

 なんと三馬鹿どもは、職場でマスターベーションをしているのだった。

「わ、わ……」

 他人のオナニーなんて、もちろん私は見たことがない。衝撃にくらくらしていると、三人の視線が一斉にこちらに集中した。入口近くにいた、入道が立ち上がる。

「やあ、サトちゃん」

 彼の行動は、私の常識を凌駕していた。入道はこちらへと歩きながら、まだイチモツを擦りつづけていた。

なぜ! なぜ、止めないの!

「いやぁっ!」 

 私は後ずさりし、腰を机にぶつけて、ひっくり返った。そんな私を見ながら、入道は無表情のまま、徐々に近寄ってくる。これでは、もはやホラーだ。

「息抜きに、三人でセンズリこいてたんや。皆には黙っといてな」

 私は、唇をふるふると痙攣させた。

「て、手……」

「何?」

「手を動かすのを止めなさいよっ!」

「そんなこというたって、途中やし……」

 いい終らないうちに、イチモツの先端からびゅっと白い液が噴出した。すごい勢いだ。精液は長い距離を飛び、途上にあった私のスニーカーにも付着した。

「いやああああっ!」

 深夜のオフィスに、これ以上ない私の絶叫が響き渡った。


地獄だった。

 私がいるのは、人間の屑ばかりが集う魔境だ。編集部でオナニーをするだけでも有り得ないのに、私は精液をぶっかけられたのだ。もはやこれは、裁判をしても余裕で勝てるレベルではないか。とんでもなかった。人には、我慢できることとできないことがある。ここまでくれば、簡単に許容範囲を超えていた。

怖ろしい変態どもがいる職場になど、私はもう通いたくなかった。夢だとか目標だとか、そんなことをいっている場合ではない。私は真剣に、退職を考えるようになった。

「いやあ、そんなこといわずにさ。もう少し頑張ろうよ」

 思い余って牧人に相談すると、彼は私を会社の近隣にあるお好み焼き屋に誘い、慰留に努めた。私は、そんな彼の顔を冷たい視線で射る。

「何いってんですか。頑張ろうと思ってたのに、精液をかけられたんですっ。職場でそんな目に遭う人いますか? 世界中探したって、私だけですよ」

 喋っているうちに興奮した私はコテで鉄板を叩いた。

「そうだなぁ。それはひどいな」

 牧人はものわかりのよい顔で、何度もうなずく。

私は身を乗り出し、首を突き出した。

「でしょう? 菅井さんからも、注意してくださいよ」

「うん。ちゃんといっておくから」

 牧人は胸に手を置いて、請け合った。私は、まだ納得したわけではなかったけれど、他人に話を聞いてもらえたので少し胸がすっとした。

「まぁ、食べてよ。ここは奢るから」

「ああ、はい」

 いわれて私は、鉄板の上で焼けているお好み焼きをコテで切った。

「あいつらには、きつく注意しておく。だから、辞めるのはやめてよ。月刊誌班も一人辞めちゃったところだし」

 私は、すぐには反応せず、お好み焼きを咀嚼した。月刊誌班の窮状は直接見ているので、私も承知している。しかしそれは、私には何の関係もないことだ。

「でも私、親にもいってないんですよ。小さい出版社に勤めてるって説明しただけで」

 父親に事実を告げたら、私は勘当されかねない。だから、私の仕事は絶対に隠さなければならなかった。

「まぁ、そりゃいいにくいよね」

「ええ。でも、いつかはバレるかもしれないし、その前に辞めた方がいいんじゃないかと思うんですよ。なんだか風俗嬢みたいな悩みですけど」

「いや、でも、サトちゃんはまっとうな出版社で編集やりたいんでしょ?」

「……」

 それをいわれると、私は反論しにくい。

「だったらさ、辞めるのはもったいないよ。カッツンや入道だって、いつまでもウチに勤めてないだろうしさ」

「そうなんですか?」

「ウチの職場は、まず何年もつづかないからね。カッツンなんか、しょっちゅう飛んでは舞い戻って来てるし」

「ふうん、そんな酷い職場に私を誘ったんですね」

 目を細めて睨むと、牧人は「いやあ」とごまかして笑った。

 私は長めの吐息を洩らす。鬱積していた感情をぶちまけたので、多少腹立ちは紛れたけれど、この先も同じことの繰り返しのような気がする。だったらまだ被害が少ないうちに、辞めた方がいいのではないだろうか。

 私は、ちらりと牧人を見た。それに応じて、彼は綺麗な顔に微笑を浮かべ、「お願いだよ、サトちゃん」と頭を下げた。こいつは、人の心に取り入るのが上手だ。結局、私は少し結論を先送りすることに同意した。

 



面接の際、編集長に新聞と月刊誌のどちらを希望するか、と選択を求められた。月一回の発行だから月刊誌の方が楽なのかなと思ったけれど、私は新聞を選んだ。「新聞」って言葉の響きの方が、なんだかマスコミっぽいと感じたからだ。うん、馬鹿みたいな理由だな。

でも結果的には、月刊誌班に行かなくて正解だったかもしれない。そう考えたのは、会社に入ってからだ。月刊誌の仕事量が途轍もなく多いのは、傍目からでもすぐ見て取れた。テキストを外注のライターに任せるにしても限界がある。仕事がきついから次々と人が辞めていき、戦力が整わないからまたきつくなるという悪循環が持病のようになっていた。

慢性的に手が足りない月刊誌班をカヴァーするのも、新聞班の役目だ。私は名鑑作りを一部、補佐していた。

ある夜のことだ。私は入稿作業に追われて、必死になって文章をつづっていた。雑然としたオフィスに電話が鳴り響き、牧人が受話器を取り上げた。

牧人のはい、はい、と繰り返す返答が緊張を帯びている。業者の苦情だろうな、と私は悟った。いくら注意を払おうとも、校正をすり抜ける紙面上のミスはどうしても出て来る。そのために業者の怒りを買えば、少々面倒だ。

月刊誌で一度、キャバクラの店紹介でしくじり、まったく事実無根の内容を載せたことがあるそうだ。で、たまたまそこがヤクザの経営だったため、大騒ぎになったという。間違って記事を書いた担当編集者は数時間にわたって正座させられ、罵倒された。編集長は足繁く謝罪に赴き、広告料は返金され、以後幾度となく記事での紹介を要求された。一つのミスが、大変な命取りになり得るのだ。もっとも、わざと因縁をつけ、ただで広告を載せようとする悪質な業者もいるので、どうしようもない場合もあるのだけれど。

電話は編集長に回された。かなり長いやり取りの末、ようやく受話器は置かれた。

編集長は月刊誌班デスクの岡部と牧人を呼び寄せ、深刻な顔つきで相談を交わした後、私の名を呼んだ。

「おい。ホテヘルの名鑑は、お前がつくったのか」

編集長が厳しい声で問う。

「私ですけど。なにか、あったんですか?」

「まずいな」

岡部は表情を固くして、発売されたばかりの月刊誌を開いた。名鑑のページに並ぶ女のコの中から、下着姿で腰をくねらせている一人を指ししめす。源氏名は杏奈だ。

杏奈は鼻から唇にかけて、握りしめた右の拳で覆い隠していた。

「このコがどうしたんですか?」

「ウエストのところや」

私は写真に目を凝らした。うっと身体が固まる。ほんの小さな黒い影が肋骨のあたりから、細くくびれていく途中に張りついていた。

「タトゥーですか?」

「そうや。この子はタトゥーNGなんや」

苦情電話はホテヘルの『ラブプロジェクト』からで、営業が持ちこんだ月刊誌を見て、驚いた本人が訴えたのだという。

女のコが顔を隠したり、傷やタトゥーを掲載NGにしたりする理由は、大きく二つある。一つは客ウケを心配、もしくは計算するためだ。目鼻立ちに自信がなければ、手で覆えばいい、リスカ痕で驚かせるのが嫌なら、消せばいいというわけだ。今までさかんに脱いでいた風俗嬢がヌードNGとなったので、理由を尋ねると「最近、乳首が黒ずんできてさあ。こんなんやったら、出さん方がええと思て」という答えが返ってきたこともあった。

そしてもう一つはもちろん親やカレシなど、知られたくない人にバレるのを怖れるためだ。タトゥーなどが掲載不可となった場合は、パソコンを使って消去する作業が行われる。

「でも、こんなに小さいんですよ?」

「それでも、女のコは大騒ぎしとるんや」

岡部が怒りを滲ませていう。私は眉をひそめ、もう一度写真を眺めた。うっかり見落とすのも無理もない、小さな染みぐらいの影。これが、そんな大きなトラブルに発展する代物だろうか。

「本当でしょうか。わざと騒いでるだけなんじゃないですか?」

「あのな」

編集長は眉間に立て皺を寄せた。

「大きさは問題じゃない。これはウチのミスなんだ。もしこれが原因で揉めて、広告が落ちたらどうする。何十万の損失だぞ。お前が穴埋めできんのか」

私は返事ができず、唇を引きしめた。

「とにかく、今すぐ店に来いということなんだが……」

「ああ、それじゃ俺が行きますよ」

 牧人が小さく手を上げて、いった。皆の視線が彼に集まる。

「大丈夫なのか?」

 編集長の問いに、牧人は頼もしげに応じた。

「はい。こういうの、得意ですから」

 二人はそれで納得したようだった。どうやら、牧人はこういう場面では絶大な信頼を得ているらしい。私は、ちょっとびっくりした。

「サトちゃん、一緒に来て」

 牧人は軽い調子で私に声をかけた。ミスを犯したのは私だから、自分で謝罪するのは当然だ。仕事は山積しているが、どうしようもない。私は弱々しい足取りで机に戻ってから、テキストを保存し、パソコンの電源を落とした。カッツンは「ご愁傷様―」と笑い、入道は般若心経を唱える。私は怨念をこめて、二人を睨みつけてやった。

営業車を借りて、慌ただしく会社を出た。運転しながら、牧人は気にするな、と慰めてくれる。でも、私の落ちこみようは半端ではなかった。ミスをする度に、営業の人からとても怒られるので、精神的に辛いのだ。

私はぼうっと窓外の景色を見ながら、唇の裏側にできた口内炎を舌先でいじった。疲労に睡眠不足、偏った食事などのせいで、最近は体調を崩しがちだ。だからといって、許してもらえるはずもなく、仕事はハードになる一方だった。こうして手を止められたのが運の尽き、今夜は一睡もできないだろう。先のことを考えるだけで、気が滅入った。

キャバクラが建ち並ぶ一角にある駐車場に車を停め、私たちは繁華街の中心へと歩いた。仕事を終えて一杯やっているサラリーマンの群れや、たむろする若者たちが目に入る。いくつものネオンの中に、『ラブプロジェクト』の系列店であるセクキャバの突出看板があった。先を進む牧人はそのビルへと歩いた。

裏口を使えという指示があったため、牧人は細い路地に入って錆びついた扉を開けた。すぐに狭く薄暗い階段が延びていた。壁の貼り紙には「走るな! ミュールは危険」と書いてある。ミュールではないが、足を踏み外さないよう気をつけながら階段を上った。

三階に達したところで、牧人はすいません、と奥に向かって声をかけた。あらわれた従業員は、さらに一階上の事務室へと私たちを案内した。

だだっ広いだけで、殺風景な部屋だった。中央にぽつんと応接セットが置かれ、隅には事務机が一つある。奥のテーブルに設置された二台のテレビは、それぞれセクキャバの監視カメラの映像と、NHKのニュースを映し出していた。

私たちは無言のまま、ソファに腰掛けていた。しかし十分が過ぎ、二十分が経っても、誰も姿を見せない。すぐに来いと命じておきながら、放ったらかしだった。ミスを犯した編集者は、ぞんざいな扱いを受けて当然ということか。私は背後から響くアナウンサーの声に耳を傾けながら、うつむいて座っていた。謝罪のために呼び出されるのは初めてなので、とても緊張する。相手はいったい、どんな態度に出て来るのだろうか。

小一時間が経過して、やっと長身の男が室内に入って来た。肩まで伸ばした茶髪に金のメッシュを入れ、鼻にはピアスをしている。男は低く通る声で、店長の仁科だと名乗った。

浅黒い肌の仁科は精悍な顔立ちだった。風俗嬢に働いている理由を尋ねると、たまに「店長が格好いいから」という答えが返ってくることがある。たぶんこの仁科も、女のコから大きな人気を得ているだろう。

「この度は申し訳ありませんでした」

牧人は名刺を渡して自己紹介し、隣でかしこまっている私を名鑑の担当者だと説明した。私も丁重に名刺を差し出したが、仁科は目線もくれず無造作に受け取った。

「で?」

仁科が口から発したのは、平仮名でたったの一文字だ。それから脚を組み、顎を反らせる。絵に描いたような横柄な態度に私は驚いた。けれど牧人は頓着せず、ミスが起きた経緯を説明し、再度謝罪を口にした。

牧人の話が終わると、黙って耳を傾けていた仁科は鼻から息を洩らした。身体を起こし、指を組み合わせる。なんだか、いちいちポーズを決めたがる奴だ。前職はホストに違いないと私は確信した。

仁科は杏奈について語った。なんでも親バレを極度に怖れていた杏奈は、タトゥーの消去を条件に目出しを了承したそうだ。それぐらいなら、たとえ写真を怪しまれても、ごまかせると踏んだわけだ。ところが、掲載誌を開いて見てみたら、タトゥーが残っていた。私には問題とは思えない小さな影でも、杏奈にとっては動かない証拠なのだ。元々情緒不安定なコで、かなり取り乱しているという。

「あんたら、どういうやり方で仕事してんだ。杏奈は泣いてるぞ」

「申し訳ありません」

「常識ってものはあるのか? 写真でタトゥーを消すのは、当たり前だろう。ウチはSM店じゃないんだ」

「はい……」

「これであのコが辞めたら、どうしてくれる? ウチは計り知れない損失だ。あんたら、補償できるのか? どうなんだ? ウチを潰す気か?」

どれだけ責められようとも、平身低頭して謝るしかない。

「とにかく、こちらとしては本をすべて回収してほしいんだがな」

散々怒りを吐き出してから、仁科は声の調子を元に戻していった。

「それは無理ですよ。不可能です」

牧人はすまなそうな顔をしながらも、断固として断った。

「なぜだ? 前例はあるだろう?」

「ないですよ。媒体を完全に回収するなんて、有り得ません。広告用に撮った顔出しの写真を誤って紙面に掲載した時でも、社員全員で手分けして回って、女のコの顔をマジックで塗り潰しました。この手なら使えますけど、でもその場合は時間がかかりますよ?」

「ふん、平行線か。だったら帰って出直した方がいいんじゃないか? あんたらはどうか知らんが、俺には無駄な時間を過ごす暇はないんだ」

ソファに背を預け、仁科は優雅に手を振った。どうも、動作の一つひとつが癇にさわる。格好いい男性は私も好きだけれど、仁科にはげんなりするばかりだ。

けれど唯一、記事や広告を要求してこない点に関しては、好感を持てる。仁科は欲得ずくで難癖をつけているのではない。あくまで女のコのために、月刊誌の回収を求めている。一本、筋が通っているのだ。

だからこそ厄介でもある。本の回収は彼の頑とした要求であり、代案は飲まないだろう。大体、風俗店の店長ともなると、一筋縄ではいかないタイプが多い。仁科のような男がいったん口に出したら、最終的にはこちらが折れざるを得ないのは目に見えていた。

「杏奈さんの実家はどこなんですか?」

牧人は普段の口調で問う。

「天王寺だが、それを聞いてどうする?」

「要するに家族の目に触れなければいいんでしょう? それなら、家の近くから月刊誌を撤去すればいいんじゃないですか?」

「……ふむ」

 仁科はわざとらしく顎を撫でた。

「それで、杏奈が納得すればだが……できるのか?」

「大丈夫です」

 自信満々の様子で、牧人はうなずいた。そうだ。うちの媒体を置いてくれる店舗がそう多くないことが、この場合幸いする。たいした労力ではないはずだった。牧人は初めから、落としどころを決めていたのだろう。

仁科はケータイで杏奈と話し、OKだともったいぶって告げた。牧人は販売課に電話して、杏奈の住んでいる天王寺近辺で月刊誌を置いている本屋とコンビニを調べてもらった。

「わかりました。コンビニだけで、あわせて六軒ほどです。今晩中に回収できますよ」

「そうか。じゃあ、後は任せるよ」

仁科は素早く立ち上がる。無駄にした時間を早く取り戻したい、そういわんばかりの態度だった。しかし早く終わらせたいのは、こちらも同じだ。私たちはぺこぺこ頭を下げてから、さっさと部屋を後にした。

再び狭い階段を下りて、駐車場に戻った。車で国道に出ると、牧人はアクセルを踏んで速度を上げる。これから、六軒のコンビニを回らなければならないわけだが、牧人は聞いた店舗をすべて頭に入れたのか、迷う様子もなく運転していた。

「あっさり片づきましたね」

「うん。広告を要求されたら、長引いてたろうけどね」

私は難なくことを収めた牧人の手腕に感心した。チャラくていい加減に見える男だが、トーク力は高く、取材先でも業者をよく笑わせている。なので、交渉事には向いているようだ。私は、しんどいだけの風俗出版の編集なんか辞めて、営業職に就けばいいのにと思った。その方が、よっぽど能力を活かせるだろう。

コンビニ近くの路肩に車を停めると、牧人と私は下りて、店内の雑誌コーナーへと歩いた。そして、ライバル誌と並んで平積みにされている月刊誌を、根こそぎ抱えてレジへと運ぶ。同じ雑誌を大量に購入する客を、店員はさぞ不思議に思ったことだろう。私たちは平然とした表情をつくり、ずっしりと重いビニール袋を受け取って手に提げた。

大量の月刊誌を後部座席に置き、再び走り出す。この作業を、私たちは繰り返した。

最終となる六軒目のコンビニの自動扉が開き、表に出ると、私は盛大に息を吐いた。車に戻り、えいやっとビニール袋を月刊誌の山の上へ放り投げる。これで、回収は終了だ。

会社へ向かう車の中で、私はぐったりした。余計なことに時間を取られたものだ。昨日も一昨日も、ろくに眠っていないのに。しかし、これでやっと終わった。もう一度気力を奮い起こして入稿作業に取り掛かる前に、少しでも休息が取りたいところだった。

赤信号で停止した牧人はケータイを取り出し、ボタンを操作した。報告のために、『ラブプロジェクト』に電話するのだろう。

「店長ですか? ええ。今、終わりました……ええ、えっ? はい……」

牧人の口調に異変を感じ、私は首を動かした。

「そうですか。はい……そうですね。なんとかします」

軽く息をついて電話を切った牧人は、おもむろに口を開いた。

「杏奈の元カレが、難波の『アメジスト』っていうホテヘルで働いているんだってさ」

何をいい出すのだろうと、私は牧人の横顔を見つめた。ただ胸の奥には、すでに禍々しい予感が立ちこめていた。この雰囲気から察する限り、先に待っているのは、ろくでもない話以外にない。

「その元カレにも、杏奈は写真を見られたくないんだって」

「どうしてですか。別れてるなら、関係ないでしょう」

「元カレは、杏奈のお兄さんの友達なんだそうだ。元カレの口から、お兄さんに伝わるのを怖れているんだね」

きりがないじゃないの。そう私は大声で叫びたかった。一件落着したと安心したら、すぐさま問題が発生する。次はいとこだの、義理の姉だのが登場するんじゃないの?

「どうすればいいんですか。その男の自宅周辺も回れと?」

「違うよ。そいつは自分で風俗情報誌を買ったりはしないんだ。そんなことをしなくても、待合室にあるからね」

指摘を受けて、私は黙りこんだ。牧人のいう通りだ。風俗店には担当している営業が媒体を配っている。だからこそ杏奈が写真を見つけて、この騒ぎがはじまったのだ。元カレがいるという風俗店の待合室にも、すでに月刊誌が置かれているだろう。

「そんな、無理ですよ。まさか店から月刊誌は持ち出せないし」

茫然とするほかない。なぜ、こうも難題を押しつけてくるのだろう。すべてを投げ出したいのを堪え、私は懸命に脳味噌を絞った。なにか、抜け道はないのだろうか。

「大丈夫だよ」

「え?」

「考えがあるんだ。俺がなんとかする」

私はびっくりして、息をつめた。そんなすぐに、方策を思いついたというのか。いったい、どうするつもりなのだろう。

牧人は難波のホテル街で車を停めた。彼は一人で下り、隣接するけばけばしいラブホテルとは対照的な、築年数の古そうな雑居ビルに入っていく。私は、待つしかなかった。

十五分ほど経過しただろうか。牧人が戻ってきた。そして、私のもの問いたげな視線に気づいて苦笑した。

「どうしたんですか?」

「ああ、客として店に入ってから、月刊誌を持ってトイレに行って、杏奈の写真のページだけ破り取ったんだ。で、細かくちぎってトイレに流した。あとは、緊急の用事ができたっていって、料金を返してもらえばいいわけさ」

 私はあっと声を上げそうになった。なるほど、その手があったか。

 たやすくトラブルを解決した牧人は、再びハンドルを握って走り出した。『ラブプロジェクト』に電話をかけ、トイレで処理したことを説明すると、仁科が大笑いしたのか、牧人はうるさそうにケータイを耳から離していた。

「はい、これで終了」

 電話を切り、ケータイをしまうと、牧人は私に向かって笑ってみせる。私も、思わず笑顔になった。

 私は、驚くと同時に感動していた。牧人はトークが上手いだけでなく、頭脳も切れるようだ。これは、かなりポイントが高い。仁科のような上辺だけの男よりも、遥かに格好よかった。職場の他の人間が皆ろくでなしなので、いっそう牧人が素晴らしく目に映った。

 仕事ができる男には、無条件で好感を持てる。この人がいるのならば、もう少しY出版で働いてもいいかな、と私は考えた。


 8


 そして、話は冒頭へと戻る。


 異様な光景を前にして混乱の極致に達した私は、無意識のうちに愛ちゃんの首の傍に落ちていた黒いバッグを拾い上げた。それはサーフボード用で、中を覗くとアニメのコスプレが無造作につっこまれている。バッグを置き、私は必死になって頭を回転させた。

 なぜこんなことになったのかは見当もつかないけれど、とにかく常軌を逸した状況であることは確かだ。私は、この事態を収拾しなければならないと強く感じた。いつの間にか、私にも愛社精神が芽生えていたのだろう。会社のために、トラブルはできるだけ回避しなければならない。たとえ、それが犯罪であっても。

しかし、さすがにこの状況は手に余る。焦った今の私には、とてもではないが、不可能だった。

 と、私は以前『ラブプロジェクト』から苦情を持ちこまれた際に、あっさりと解決した牧人の手腕を思い出した。そうか、彼なら収拾の方策を立てられるかもしれない。

 急いでケータイを取り出し、私は牧人の名前にカーソルを移動させ、ボタンを押した。

「サトちゃん? どうしたの?」

彼が電話に出ると、私は勢いこんで喋った。

「あっ、あの! 社スタに愛ちゃんの首が! どうしましょう! 私、どうしたらいいのか、わからなくて!」

「何があったの? 落ち着きなよ」事態の深刻さを理解していない牧人は、あくまでも明るかった。「社スタにいるんだね? なら、今行くよ。もう会社の近くまで来てるから」

 穏やかにいってくれたので、私の動揺は少し収まった。ケータイをしまうと、視線は自然と転がっている首の方に吸い寄せられる。頭の中に、バラバラ殺人を扱ったミステリーが次々浮かんだ。しかし、この場合に参考になりそうなものは見つからなかった。というより、テンパりすぎて、トリックも何も思い出せない。

あの小説は……なぜ首を持ち去ったんだっけ。ああでも、これは身体がないんだから、関係ないか。え、身体がないパターンってどれだ? 駄目だ。頭が働かない。

じりじりと焦燥に身を焼かれていると、牧人が扉を開けて入って来た。私は、すぐさま駆け寄った。

「うわっ、これは……」

 愛ちゃんの首を目の当たりにして、さすがの牧人も動揺を隠せなかった。私は、すがりつくような目で彼を見る。

「なんで、こうなっちゃったんでしょう?」

 私の疑問に、牧人は踵を返しながら答えた。

「簡単だよ」

 早足で歩き出した牧人に、私はついていった。

「どういうことですか?」

「首があって、身体がない。ということは、犯人は身体が必要だったんだ」

「身体を? どうするんですか?」

「単純に考えなよ。目的なんて、ひとつじゃないか」

 牧人は男子トイレに入っていった。数秒躊躇ってから、私は彼の背中を追う。

 目につくところに人の姿はなく、奥の個室の扉がひとつだけ閉まっている。牧人は身軽に跳ね上がり、扉の上部にしがみついて、懸垂の要領で身体を持ち上げた。

「こらあっ! 何をしている!」

 牧人は個室に飛びこみ、内側から鍵を外した。

扉が開かれ、私は両手を唇に当てる。

「こういうことだ」

 牧人の隣では、ジーパンとパンツをずり下ろした市村が、首のない裸体を抱えてバックから挿入していた。


 愛ちゃんは──デリヘルで使われているドール、要するにダッチワイフだ。ただの人形だろ、ぐらいにしか思わない人は、五十万や六十万などという価格を聞けば、驚くのではないだろうか。私も、初めてその存在を知った時には目を丸くしたものだ。

「彼女」は、月刊誌用の取材のために社スタに運ばれたという。ちなみに、ドールの撮影は結構大変で、関節が思うように曲がらなかったり、動かす度にいちいち髪を梳かさなければならなかったりするのだけれど、それはいい。とにかく、撮影が終わった後、編集者は最近出来た近くのラーメン屋に業者を連れていったらしい。なのでその間、社スタにドールが置かれたままだったのだ。

 市村はたまたま社スタにあるドールを発見し、今ならバレないのではないかと考え、トイレに持ちこんで、ことに及んだという。わざわざ首を外したのは、その「首が外れるから」というのが理由だ。和式便器の中にうっかり落っことして、汚したら困るからだった。

 私がドールの名前を知っていたのは、以前、デリヘル面の記事で愛ちゃんについて書いたからだ。このお店は、ドールすべてに色々なアニメのコスプレをさせている。あのドールは「機動戦隊ぷりてぃメロン」というアニメの主人公で、一度調べたから覚えていたのだった。銀髪のツインテールなので、首だけでも簡単に区別が可能だ。

 牧人はすぐさま市村に命じ、ドールの局部を石鹸で洗わせた。それから、コスプレ用の服を着せて、ドールの持ち運びに使われているサーフボードバッグに戻した。もちろん、戻って来た業者に対しては素知らぬ顔をして沈黙を守る。それでなんとかバレずに済んだけれど、即日、市村は会社をクビになった。当然だ。

 本当に、ウチの会社の人間は屑ばかりなのだった。

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