14.
病学院ラヴ・リヴィン・ナナイ。
レッドキャッスル近郊に位置する、異常魔術者を隔離し研究・治療・更生を目的とした民間施設である。だが、その実態はもっと悪辣なものだ。その経営は多くを寄付金により賄われているが、善意からの寄付はその総額の1割にも満たない。8割以上は、収容されている有用な魔術者の非公式な貸し出しという見返りを前提とした寄付である。もとは掲げている通りの理念を目指していたのかもしれないが、いまとなっては見る影もない。
そして、高額寄付者の常連には〈風の噂〉の名もあった。
「本日も多額の寄付金を納入いただき感謝いたします」
岡島を案内する不健康そうな白衣の女は看護師かなにかか。貼りついたような薄い笑みを浮かべる彼女には感情というものを見い出せない。何度か足を運んでいるにもかかわらず、岡島は彼女の名すら知らなかった。できることなら一秒でも長居はしたくない。そんな悪夢にでも迷い込んだような重く不快な冷たい空気に、院内は満たされていた。
「本日のご用件は?」
「ケインベル・ハスター」
「かしこまりました」
受付の女は棚から頭をすっぽり覆う白いキャップを取り出し、岡島に差し出した。
「髪の毛はキャップで隠してください」
「彼の好みは髪の長い女性だけじゃなかったのか?」
「病状が悪化したのです。今では長かろうが短かろうが、老若男女お構いなく」
それは彼を治療してきたのではなく、道具のように利用してきたことを意味する。
廊下を歩き、階段を登る。冷たい石畳に足音を響かせながら。耳を澄ませずともいつもどこからか呻き声が聞こえた。あるいは唐突に奇声が響く。それはかろうじて人間の声だと識別できた。ここでは日常だが心臓に悪い。さらには鎖を引きずるような音に壁や床を小刻みに叩く音。静かであるがゆえに耳障りな音がよく響いた。
目当ての彼の病室は202号室。髪をこよなく愛する異常者であり、髪を通した共感魔術で呪殺を行う。ただ、それはあくまで髪を愛でる行為の結果にすぎない。悪意なきがゆえに罪に問い難く、しかし決して野放しにはできない危険人物。この病学院における典型的な患者の姿だ。
「ケインさん、お客様です」
女は格子のついた鉄製の扉をノックする。印象としては病室というよりは独房だった。
「岡島さん、どうぞ」
前を通され、格子を覗く。獣かと見紛うような、痩せ細った男の姿があった。
「これだ」岡島は髪の入った袋を格子越しに差し出す。
「髪ぃぃぃ!」
彼は勢いよく飛びつき、すぐにその髪にむしゃぶりついた。その狂気からは魔力が滲み出るかの幻視を覚えた。
「うっ」なにか喉にでも詰まらせたかの病状の急変。「うげぇぇ?! ぎぇ? ぐぇあぁぁ?!」
奇声を上げ、彼は苦しそうにのたうち回った。髪を食し、愛でたことで、呪殺が発動したのだろう。そして、その髪の持ち主に逆走魔術で反撃を受けた。想定通りの展開だ。
しかし、彼は狂人である。その程度で寵愛を緩めはしない。溺愛する。愛玩する。拒絶された程度で諦める程度の異常者ならこんなところに収容などされてはいない。反撃を受け、苦しみながらも、彼は笑っていた。涙を流し、嘔吐し、暴れ回りながらも、笑っていたのだ。今ごろきっと、同様の苦しみが相手にも届いているだろう。
「さて、今回のご利用もご満足いただけたでしょうか」
向き直り、変わらぬ表情のまま女は問うた。患者の容体を意に介する素振りも見せない。
「いや、まだだ」
他にも同様の偏執的呪殺者がこの病学院には収容されている。岡島は使えるものはなんでも使うつもりでいた。
「リトゥ・リードゥを。血と右腕がある」
彼は死を連想するものを愛する。ケインと似た症例の患者だ。206号室にて同様に、彼の望むものを差し出す。
「最後にもう一人。お手製の人形まで用意したからな」
岡島が徹夜で作り上げた、エオスを象った人形。404号室の呪殺師は人形をもとに類感魔術を行う。先の二人と異なり自発的な呪殺師だ。だからといって理性があるわけではない。彼は呪殺そのものに憑りつかれているのだ。その意味では先の二人より質が悪い。ゆえに、彼もまた逆走魔術で反撃されたからといって手を緩めるような正常な判断力は持ち合わせていない。
もはやただの犯罪者だが、彼の魔術は呪殺以外にも幅広い応用が利いた。呪殺は対象を死に至らしめるだけでなく――そして死に至らしめない場合でも――独特の魔力波を放出させ、その居場所を知らしめる効果もあった。つまり追跡魔術の一種としても使えるのだ。それゆえに、犯罪者ではなく便利な道具として、この病学院が保有し続けることを黙認されているのが現状だ。移送に手間取るほど危険な存在であることもまたその要因の一つにはなっている。
病学院は今日も、三人の元気な悲鳴が木霊した。
***
エオスは一人、逃亡を続けていた。
逃げ続け、走り続け、砦から約50kmは離れた。だが、逃げたおおよそ方位はバレてしまっている。どこまで逃げても安心はできない。
逃げ続ける必要がある。まだ遠くへ、より遠くへ逃げる必要がある。しかし、彼には休息と食事が必要だった。髪は乱れ、顔も衣服もボロボロに薄汚れていた。腕を断たれ、首を刎ねられ、騎士団からは背中を何度も斬られた。身体中血だらけで、骨も内臓もあちこちが痛む。この程度で死にはしない、死にはしないが、あまりにも損傷が激しすぎた。あまりに血を失いすぎた。息を整えなければならない。水を飲まねばならない。食べなければならない。人間よりは遥かに保つとはいえ、その基本は変わらない。失ったものは補わなければならない。
そうして辿り着いたのは深い森だった。逃げ続け、走り続けてどれだけの時間が経ったか。少なくとも夜は明けているはずだ。その時間感覚を狂わせるほどに、高い木々が天を覆う、薄暗い森だった。
人はいない。だが、虫や鳥の鳴き声、獣の呻き、安らぎとは無縁の騒がしい森。そのなかで一際目立つ唸り声が近づいてくる。理性を失い、狂気に侵された獣――魔物だ。
でかい。もとは猪かなにかだろう。長く大きな牙を持ち、全身は厚い毛皮と脂肪に覆われている。低い唸りを上げ、森の侵入者に対し殺意を向けた。
今のエオスには、こんな魔物ですら相手にするのが億劫だった。
肉も食えたものではない。だが、どうせ殺すなら食っておくべきだ。選り好みはしていられない。今はなんでもいいから血肉を補充する必要があった。
戦闘態勢をとる。そのとき、唐突に、身体の奥底から燃え広がるような激痛が走った。
「ぐぁ……?! が、ぁぁ……ぎ、ぎぎぃ……っ!」
呪詛か。あのときの戦いでは血を流し、身体を欠損した。それを足掛かりに呪殺魔術を仕掛けてきたのだろう。だが、当然対策はしてある。そんなことをすれば、逆走魔術の反撃で仕掛けた本人が命を落とすことになる。エオスにとっては想定内の、他愛のない攻撃に過ぎない。
「な……? ぐ……あ、ぎぃ、ぇ?!」
呪いは弱まる気配がない。ますます強くなる。さらには異なる呪詛までさらに重ね掛けされてくる。
悶え苦しむエオスは隙だらけだった。巨大な猪の魔物はエオスに突進し、その全質量をぶつけた。
森の中を、あちこちに身体をぶつけながら20m以上エオスは宙を舞う。受け身も取れず地面に投げ出され、一方で呪詛攻撃も止むことがない。骨が軋むような痛み。脳が膨張するような痛み。内臓を掻き乱されるような痛み。激痛に次ぐ激痛がエオスを襲った。
追い打ちをかけるように猪がエオスの落下地点へ近づき、騒ぎを聞きつけ他の魔物まで現れた。剣虎、大梟、肉食鼠の群れ。エオスは呪詛攻撃への対応に追われ、そのことを意に介している余裕がなかった。呪詛は複数人の同時攻撃。重なる激痛に集中力を乱されながらも、まずは一つずつ逆走魔術による無力化を試みる。だが、そのたびにタイミングを計ったかのように魔物が妨害した。剣虎の爪が肉を引き裂き、大梟が飛び掛かる。足元がふらつく。鼠が足首の腱を齧っていた。
呼吸を整える。優先順位を変更。まずは魔物の排除が先だ。呪いの痛みに苛まされながらも、向かってくる魔物を始末する。だが、斃せば斃すほど魔物の数が増えているように思えた。次々に魔物が群がってきているのだ。この森に人が寄りつかない理由はこれか。エオスはようやく理解する。
そして二時間にわたり呪いの激痛と無限のように湧き続ける魔物との戦いは続き、ついに決着がつく。エオスは身も心も疲れ果てていた。死体の山を枕に眠ろう。身体の力を抜き倒れこもうとするが、彼にはそれすらも許されなかった。
「いたぞ!」
今度は人だ。おそらく呪殺魔術の波動を感知したのだろう。こうまで接近に気づくのが遅れたのは、エオスには掌眼による索敵の余裕もなかったからだ。森中の魔物を引き寄せ相手をしたのも、彼らに安全な経路を与える結果になった。数は一個中隊ほどか。統率された動きでエオスを包囲していくが、構成は兵士や衛士を中心とした雑兵ばかり。普段なら問題にもならない相手だ。
だが、彼らは〈銃〉を装備していた。魔術主義の根強い皇国では長年忌避されてきた〈銃〉だ。共業党の政策により近年ようやく軍でも普及が進みつつある。魔術によらず火薬の力で鉛玉を射出する武器で、魔術低能者でも一定以上の火力が発揮されることで知られている。
いくら消耗していても、エオスがそんな彼らを全滅させることは造作もない。だが、それがなんだというのか。さらに消耗するのに変わりはないし、時間をかければ騎士が増援に駆けつけるだろう。
ゆえに、逃げるしかない。ただ一目散に逃げるしかない。
エオスはただ動く的と化し、幾度もその背を打ち抜かれた。
それでもエオスは逃げ続ける。
ただ、逃げ惑う。
***
ヴァンデミ州リブロ基地軍病院。
国内では最高峰の治癒魔術師が集う病院の一つである。功績の大きさと症状の重さから、リミヤはすぐにこの病院へ搬送された。複数の魔術師による集中治癒と、抉られた腹部も輸肉施術を済ませ、容体は安定しあとは自然治癒による回復を待つだけとなった。しばらくは安静に入院生活は続くが、幸いにも後遺症はなく完治するだろうと診断された。
「リミヤ。なんだかんだ大丈夫そうだな」
「おと……室長」
見舞いに訪れた岡島は、ベッドに横たわるリミヤの隣に椅子を運び、腰を掛けた。
「今日はどちらでもいい。今のお前は職務中ではないからな」
「……はい」だが、どちらで呼ぶかは決めかねているようだった。
どんな顔を向けていいのかわからず、リミヤは岡島から顔を逸らした。
「心配するな。お前はよくやった。エオスは我々が必ず捕まえる。だからお前は、休んでいていいんだ」
その言葉は、傷つき動けずにいる自らを責めるリミヤに向けたものだった。だが、あいかわらずこちらを向いてはくれない。リミヤにしては珍しく落ち込んでいるようだ。岡島はふっ、と軽く笑って、袋から見舞い品を取り出した。
「リンゴだ。皮を剥いてやる。レッドキャッスル産だ。驚くほど甘いぞ」
そういわれると、リミヤは興味から顔を向けざるを得ない。元気そうな姿を見て、岡島は頬を緩めた。
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