5.
ヴァンデミ州皇都デグランディ・皇立ホーキンス大学。
国内最大規模の名門校であり、幅広い学部を擁し多く著名な学者・魔術師を輩出していることで知られる。
その日、中央キャンパス第三講義室ではウィズ・ジェローム教授による「基礎ラグトル学」の講義が行われていた。80名ほどの生徒が講義を受けるなか、その奥には壁を背に立ち聞きするサルヴァドール岡島の姿があった。
「ラグトルとはなにか。この講義のテーマは大雑把にいえばそれだ。さて、そこの君。わかるか」
教授は目の前の男子生徒を指名した。
「え? いや~、あれじゃないですか。鉱物だか結晶だか、魔術的に有用な資源……みたいな」
「ふむ。間違ってはいないな。次」
今度は少し奥の女子生徒を指名する。
「えっと、地殻下で液体みたいに流動してるって、なにかで読みましたけど」
「それも正しい。叡海と呼ばれるものだな」
想定された答えが得られて満足した教授は黒板に向かい、図を描きながら話を続ける。
「要するに、ラグトルには複数の状態がある。最初に答えてもらったのは、いわば固体のラグトル。歴史的にまず最初に発見され、ラグトルと名づけられたのはこの状態だ。これは魔力を供給する資源であり、恒久的な術式維持に利用されることが多い。ラグトル鉱、ラグトル結晶、あるいは魔鉱と呼ばれる」
一度話をやめ、再び黒板に向かう。円を描き、その内側に一回り小さな円を。すなわちドーナツのような図を描き、中心の穴以外を塗りつぶした。
「次に、いわば液体のラグトル。これは叡海とも呼ばれる。この叡海という言葉自体はかつて高位の魔術師が幻視したものに由来するといわれている。世界各地で発生する噴煌災害によって液状のラグトルが地表から噴出することから、地殻下をまんべんなく液状のラグトルが流動していると考えられている。近年まで実際にその様子が目にされたことはなかったが、永続海底研究都市の叡海深度地下ラグトル調査坑によってはじめて肉眼で観測された。そして最後に――」
黒板に向かうが、手を止める。
「これは図で表すのは難しいな。いわば気体のラグトル。我々がこうしている間にもそこら中に漂っている。さて、ここで注意してほしいのは、固体・液体・気体としたのはあくまで喩えでしかない、ということだ。長い間ラグトルの三態は物質の三態と同一視されてきた経緯があるため古い文献を読む際には注意してほしい。ここでいう気体のラグトルは通常の物質とは干渉しない。魔鉱や叡海には触れられるが、気体のそれには触れられない。“気体だから”、ではない。空気であれ風という形で触れることはできる。そういった干渉がない、ということだ。最近ではラグトロンという名称で区別されている。
ちなみに魔素と呼ばれるものは別物だ。これは魔術を使用した結果生じる燃えカスのような――と、いうのも語弊があるな。いうなれば魔鉱の微粒子が舞っている状態だ。魔術の痕跡として、これはある程度の魔術師なら感知することができる。
さて――」
ここで教授は姿勢を変える。
「ラグトルとはなにか。結論からいえば、まだ正確なことはわかってはいない。わかっているのは大まかに分けて三つ。まず一つ目は、先に話したように少なくとも三態があること。そして二つ目。ラグトルの正体を語るうえで欠くことができないのが、二層生命起源仮説だ」
教授は黒板に向かい、要点を箇条書きにしながら続ける。
「これは、まったく異なる二つの生命起源が存在するという説だ。二つはそれぞれ旧成生物、新成生物と呼ばれる。
後者の新成生物がすなわち我々だ。人類を含む、植物、虫、獣、魚などなど。およそ一般に生物と呼ばれるものはこちらに分類される。ああ、神獣は微妙なところだが、この話はまた後の講義に回すとしよう。
そして、前者の旧成生物。これがラグトルだ。ラグトルは我々の起源よりはるか以前に発生し、永い知性活動を続けていたとされる。その期間は数十億年以上に及ぶだろうというのが現在の定説だ。
ラグトルは生物であり知性を有するとは考えられてはいるが、ラグトルは我々とはまったく異質の存在だ。知性を有するといっても、我々人類のように思考していたり自我や意思を持っていたりするかはまるでわからん。ラグトル知性説が明確なものになったのは叡海深度地下ラグトル調査抗での観測結果によるものだが、そこでラグトルはなんらかの計算活動を続けているのがわかっている。その計算活動によってラグトルは局所的に物理法則を書き換え、膨大な――それこそ無尽蔵ともいえるエネルギーを蓄えている。この計算活動によって生み出される無尽蔵のエネルギー源を夢葬炉と呼ぶ。
そしてこの夢葬炉こそが、ふだん我々が使っている、いや、我々の知るすべての魔術現象の源になる」
教授は箇条書きの内容に加筆する。
「ラグトルについてわかっていること。三つめは、魔術に深い関わりがあるらしい――それどころか、魔術の根源そのものであるらしい、ということだ。
つまりこれは、我々が普段使用している魔術はラグトルの力を借りているに過ぎない、ということを意味する。逆にいえば、この地上に存在するすべての魔術現象はラグトルが生み出している、ということだ。この説は魔術学をも巻き込んだ大きな論争となった。これまで魔術は人間の内なる力と信じられてきたからな。しかし実態は、魔術師の能力の差とは“どれだけラグトルから力を貸し出せるか”という差にすぎない、というわけだ。
この力を貸し出す原理について、詳しい内容は後半の講義内容になるわけだが、簡単にいえば先に挙げたラグトロンを介して叡海に伝達され、夢葬炉から力が引き出されている。厳密にいえば叡海だけではなく、魔鉱やラグトロンも含む。
つまり、ラグトル学的には魔術とはこう表現できる。ラグトル場を介した夢葬炉の利用。それが魔術だ」
一通りの話が終わる。教授が黒板に箇条書きした内容をまとめると以下の通りだ。
①三態があること
・ラグトル鉱(結晶)、魔鉱
・叡海(地殻下を流動)
・ラグトロン(あらゆる場所に偏在)
②二層生命起源仮説における旧成生物
・生物であり知性を有する
・計算活動による無尽蔵のエネルギー源、夢葬炉を持つ
③魔術の源である
・我々の魔術はラグトルから力を借りているだけ(ラグトロンによって伝達)
・魔術とはラグトル場を介した夢葬炉の利用
「さて、これでラグトルがどれほど巨大な存在であるか理解できたと思う。これからの講義は、まず三態それぞれの詳しい性質について。夢葬炉におけるラグトルの計算活動について。それから、魔術の発動原理について――」
***
「あのな、岡島お前な。昨日の今日でな」
講義を終えたジェローム教授に、岡島はその研究室で面会した。教授は苛立たしげだが、岡島はそれを気にする様子はない。
「さて、さっそくですが例の研究記録についてご意見をいただけないでしょうか」
「ああ、わかってる。こちとらあれのせいで昨日から寝てないんだよ。で、なにから聞きたい」
教授は億劫そうにぼりぼりと頭を掻く。
「彼はなんの研究をしていたのですか」
「なんの研究か、だと? 大雑把にもほどがある。結論からいえば、ラグトルの全的支配。それだ。わかるよな? 馬鹿げてる。どうかしてるよ」
ラグトルの全的支配。ヌフからも同じ言葉を聞いた。その意味はあまりにも大きすぎ、想像すら憚れるほどだ。国家転覆など目ではなく、世界支配も同義――いや、「世界」を人類社会に限定するなら、それ以上の企てだ。ただの下らぬ空想に過ぎないのではという思いは、まだ心のどこかにあった。
「それは可能なのですか」
「知らん。私の講義では“貸し出している”と表現したが、一方で“魔術とはラグトルの部分支配である”とする学派もいる。何兆分の一だか何京分の一だか知らんがな。ま、単に表現の違いにすぎん。彼はどちらかといえば後者の立場だ。彼の仮説が正しければ可能性はあるだろう。少なくとも、こいつはすでに信じがたい不可能を成し遂げている」
「と、いいますと?」
「ラグトル暗室って知ってるか?」
「ラグトロンを隔絶した仮説上の空間のことですね」
「そうだ。優秀な生徒だな。ラグトロンはあらゆる場所に偏在し、どんな壁でもすり抜ける。密室だろうが海のなかだろうが、どこでもだ。他の粒子と相互作用を起こさず知性をもって原子と原子の隙間を潜り抜けるからな。理論的にいって、ラグトル暗室を生み出すにはラグトル暗室が必要になる。ラグトル場の不安定な挙動を予測し制御するには夢葬炉からもたらされるノイズを遮断しなければならないからだ」
「いわゆるニューデカー・パラドクスですね」
「よく勉強してるじゃないか。彼が成し遂げた不可能というのがそれだ。こいつはラグトル暗室を完成させたんだよ。ラグトル暗室の作成はこれまで多くの研究者によって幾度も試みられてきたが、尽く失敗している。机上の空論だ、と結論つけられていたはずなんだがね」
「……では、いったいどうやって」
「地道にだ。ランダムに膨大な演算を繰り返し進化論的な計算手法でじょじょに解に接近していく。ほとんど手作業でな。百年以上もかけて地道に、ほとんどたった一人でだ。正確には132年。当時は計算機も存在しないうえ、現状において人間以上のラグトル場の測定装置は存在しない。92冊に及ぶ計算記録はそれだよ。超人的な集中力のなせる業だ。……それにしても、ずいぶん長生きみたいだな」
「では、なんのためにラグトル暗室を? ラグトル暗室によって、なにができるようになるというのですか」
「なんだ、そこまでは知らんか。魔鉱も含め、すべてのラグトルはラグトル場によって繋がっている。それを隔絶した空間をつくるとどうなるか。ラグトルを分裂させられるんだよ。そして、分裂したラグトルであれば魔術師によって完全に支配することができる。彼はラグトル純結晶を複数保有していた。一つは暗室内での演算装置に、もう一つは自らの心臓に。彼はこの二つを用いて自らの心臓にある純結晶にある術式を組み込もうとしていた。違法出力のラグトル演算装置を30年以上稼働させ続けてな。それは自己増殖し支配権を拡大する人工ウイルスだ。これを叡海深度地下ラグトル調査坑より直接……すなわち彼自身が叡海に身を投げることで、計画は完成する――はずだった」
「計画が中断されたのはその段階だった、と」
「そういうことだ」
「もしその計画が成功していた場合は……」
「ラグトルの全的支配。そういっただろ。すべての魔術が彼自身のものになる。魔術に依存しきった現代社会は大混乱だろうな。まあ、それどころの話じゃないか。どんな事態になるか想像もつかない。共業党の主張もあるいは一理あるのかもしれん」
「ちなみに、この計画は記録に基づいて再現可能ですか」
教授は少し考える。
「……無理だな。ラグトル暗室の時点で無理だ。場所や時間に依存したもので汎用性は低い。この記録も公開や一般化を目的としたものじゃない。まだ厳密に精査したわけではないが、手法のうちに、特に終盤にかけて不可解な定位観測が随所にみられる。どうにも他に協力者がいたようだな」
秘密裏に進められてきたおそるべき計画。結果としてそれは未然に防がれた。
だが、それはなにものかの意思によるものなのか。単なる事故だったのか。こればかりは残された文書をいくら読み解いたところで答えの片鱗すら見えない。
「あー、ところであれ。あれはなんだ。お前がいきなり地下倉庫に送ってきたあれだ。あれのせいで彼は死んだんだったか? ラグトル暗室も破壊されたと。空から突然降ってきたとか。我々はあれを隕石、あるいは隕鉄と名づけたわけだが……鉱物学やら魔術学やらの連中にも協力してもらって分析中だ」
「なにかわかりましたか」
「表面を削って試料分析しても鉄の塊ってことしかわからんとのことだ。音響分析から内部も同様。正確には鉄とニッケルの合金だな。魔術学の方でも、はるか上空に鉄塊を浮かべたり運んだり、あるいは生成したりで墜落させるというようなものは覚えがないそうだ。そもそも――気球に乗って試したことがあるそうだが――上空での魔術の発動は極めて困難で非効率であることがわかっている。〈場所〉として認識しようがないからな。仮に魔術で似たようなことを再現しようとする場合には、いずれにせよ大規模な術式が必要になる。必ずどこかに痕跡が見つかるはずだというのが見解として一致している」
「私も同じ意見です」
内部犯罪調査室は空間歪師レグナを擁している。岡島はレグナの空間接続魔術で再現できないかと考えたこともあったが、すぐに不可能だとわかった。レグナが空間を繋げられるのはかつて一度でも自身の足で踏んだことのある〈場所〉か、あるいは目視できるくらいの範囲内にある〈場所〉にかぎられる。つまり、レグナは上空を踏んだことはない。上空を〈場所〉と認識することもできない。さらに決定的なのが、レグナの開く穴は最大で直径1mに限定されるということだ。
術式による空間転移であれば大きさの問題はクリアできる。しかし、この場合は転移先にも術式を用意する必要がある。その場に術者も必要だ。上空に術式を描くことはできない。そもそも、レックの話を聞くかぎりでは途方もない上空から落ちてきている。気球などでは到底届かないほどに。それはおそらく、人類の未だ到達していない高さだ。
隕鉄。この謎ばかりは、依然として解ける兆しが見えない。
***
同日。
内部犯罪調査室の会議室では、その構成員が一堂に会していた。
室長サルヴァドール岡島。
空間歪師レグナ。
推定獅士リミヤ。
そして、新入りの元海賊レック。
前に立つのは資料の整理分析を担当するヌフシャペラだ。
「あれ? ディアスは?」
「あいつはまだ連絡の取れる状態じゃない。また今度でいい」岡島が答える。
「そっか。さて、文書の整理はだいたい終わったから一から説明するね。まー、最新の分は欠けてるみたいなんだけど。ていうか、やっぱあれなの? ボロボロになっててとてもじゃないけど読めないやつ」
「たぶんな。創死者デュメジルのものと思われる死体の下から見つかった。死の直前まで懐にでも入れていたのだと考えられる」
「それなんとかならない?」
「考えはある。話を続けてくれ」
「わかった。えーっと、なんだっけ。デュメジルの計画そのものは本人の死によってもう失敗に終わったとみていい。だけど問題は残ってる。それが7体の
「まずは軍について聞かせてくれ」
「おっけー。で、えっと。昨日は陸軍にも海軍にも潜りこんでる、っていったっけ? これ少し訂正ね。間違ってはいないけど、なんていうか、二回なんだよね。あとレックの持ってた文書から、軍役にはまだ就いてるけど、現在は別の機関に転属していることがわかった」
「別の機関?」
「
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