第二章 闇中の矜持-10

「私がやります。」

 クリネが低く言った。冷静な中にもわずかに幼さを残すその眼は、鋭く青白い光を湛えていた。返事をまつことなく、すでに腰に差した刀の鯉口を切っている。シトリーは、気圧されたように首肯するしかなかった。意識せず、助けを求めるようにシュリを見た。シュリは、無言で真っ直ぐクリネを見つめていた。険しい目だが、咎めるようなものは感じられない。

 シトリーたちの反応を確かめると、クリネは相手へ向き直り、刀を抜いた。刃はいつも以上に獰猛に見え、尋常ならざる気合が漂っているように見える。しかし、四肢は強張りなく自然に従っているようだ。

 その姿を見るや、フラロウスも躊躇なく剣を抜いた。侮るような貌は、いまやまったく見られない。相手の剣は、幅の狭い両刃剣で、このような型には珍しく、叩き切るよりも切り裂くものに見えた。相手が青眼に構えた。が、一瞬早くクリネが間合いを詰め、鋭く小手を打った。相手も剣を合わせて躱し、抑えきれず少し足をずらした。その後も二人はめまぐるしく位置を変えながら数合打ち合った。実力は伯仲しているようだが、わずかに相手が押しているようにも見える。

 しばらくの間、中庭に打ち合う金属の音と両者の短い気合の声が響いていた。体力はフラロウスのほうがあるのだろう。打ち合いが続くにしたがって、クリネの息は上がり、すべて躱しているつもりでも衣服の端が裂かれる。そして、僅かな切り傷が増えていった。

 一瞬、間合いを開けるとフラロウスが低く唸った。

「どうした。息が上がっているようじゃないか。」

 クリネは、答えることなくわずかに半身を引いた。それを見るフラロウスはこれで決めるつもりなのであろう、構えを上段に変えた。気合が響き、電のような踏み込みがクリネに迫る。その時、動いた相手の体に微塵の隙を見出したのだろう、クリネが鋭く体を寄せ、短い気合が響いた。クリネは、ためらいなく相手を切り込んでいた。深々と胸を切られたフラロウスがどうと仰向けに倒れこんだ。


 抜き身を抱え、大きく息をついているクリネへ、マルバスが重く口を開いた。

「フラロウスに、とどめを刺してくれないか。苦しませたくない。」

 クリネの顔が、電気が走ったようにゆがんだ。シュリを振り向くが、ゆっくりと首を振った。傷が深すぎる。いかに魔法といえども、どうこうできる限度を超えていた。

 クリネは、激しく息をつきながらもゆっくりとフラロウスへと近づき、膝をついた。その横に、マルバスも並び、膝をつく。クリネと肩が触れるほどの距離だが、誰も咎めることはなかった。

「フラロウス。今まで…ご苦労だった。」

 そのいたわりの眼は、ただまっすぐフラロウスへと向けられた。フラロウスは、何をか言おうとしたが、息の漏れる音が聞こえるだけだった。しかし、その表情は穏やかに、満足気になった。

 クリネは、剣を引き上げると、とどめを刺した。その表情は、今にも泣きだしそうに、しかしそれを必死にこらえているようだった。穏やかに目を瞑った好敵手の顔が、一気に戦いの熱を奪ったようだった。


「強いでしょう、あの子。」


 ゆっくりと立ち上がるクリネを見据えたまま、シュリがつぶやいた。ややあって、シトリーはそれが放心している自身へ向けられたものだと気づいた。

「えぇ、とても鋭く、激しい。」

「初めて見た人は、あの子の剣を攻撃的な剣だと言います。引けば攻め、寄れば攻める、果断無い攻め手の中に活を見出す剣だと。でも、それは違うわ。あの子の剣は、眼の剣です。」

「眼の剣…ですか?」

「えぇ、あの子にはね、私たちでは見えないものが見えているの。それは、相手の目線や重心、息遣い、筋肉のこわばりまで、あの子は見透かすわ。そして、相手の動く方へ置いてくるように切る。先の先を取る剣よ。」

 一息つき、続ける。

「そして、剣だけではない。心も、いつの間にかいっぱしの戦士になっていたようね。」

 シトリーには、シュリの説明など半分も入ってこなかった。それよりも、クリネがアクマにとどめを刺した光景が目に焼き付いていた。クリネは、アクマであるフラロウスに対してヒトと同じように、マルバスの望みを聞きいれ、作法通り最期の情けをかけたのだ。それは、ヒトもアクマも関係なく、剣士として対峙した相手への敬意だったのかもしれない。



 クリネが何とか立ち上がると、マルバスも続き、シトリー達と距離を取って対峙した。マルバスは、先ほどよりも少しだけ鋭さを増した目でクリネを見据える。

「フラロウスは、できた部下だった。」

「えぇ。ヒトもアクマも関係なく、尊敬に足る人物です。月並みですが、違う形で出会えたら、お互い切磋するよき相手になれたでしょう。」

「その言葉だけで、十分です。さぁ、私たちも始めましょう。」

 シュリは、そっとクリネをかばう位置に立つ。シトリーもそれに倣った。

「クリネ、あなたは疲れているでしょう。今は私たちに任せて休んでいなさい。あなたは、本当によくやったわ。」

「はい…そうさせてもらいます。悔しいですが、満足に剣を握ることすらできません。」


 三人は、中庭の中央で対峙した。マルバスは、フラロウスの亡骸へ一瞥を向けると、未練を立ち切るように、一息に細剣を抜き放った。彼は、右手で剣を握り、無造作にぶら下げている。

 シトリーの隣で、シュリが短剣を抜いた。正面に構えているが、いつになく、握りに力がこもっているように見える。彼女を見やって、シトリーも杖を構えた。

 ふと、マルバスの周囲に風が吹き込むような感覚がした。

「気を付けてください、何かするつもりのようですよ。」

 注意を促すと、シュリは目線だけで答えた。マルバスが左手を振り上げると、その影が勢いよく泡立ちはじめ、黒い塊が沸き上がった。そして、その塊は徐々に巨大な鳥と狼の形を取りマルバスに従った。

「あれは・・・。」

「どうやら、魔法で獣を形作っているようです。一度に二体も形を操るとは、これだけでもとてつもない力を感じますね。」

 マルバスが、さっと腕を振り下ろした。それを合図にヒトの腰下まであろうかという黒い狼が、シュリのもとへと駆け出し、一息に飛びかかった。立派な体躯を持つにもかかわらず、見た目に重さを感じさせることのない、燕でも飛び立つかのような跳躍だった。シュリは、咄嗟に一歩身を引くと何とかという風に短剣を合わせる。切っ先が狼の鼻先へと吸い込まれ、捉えた。刃が当たるその瞬間、金属を打つような音が響いた。はじかれたシュリは重さを殺しきれずたたらを踏み、短剣を取り落としかけた。おそらく、狼は魔法的な力で体を保護しているのだろう。その身には、傷一つついていない。油断ならない相手だった。狼は、シュリと一定の距離を取り、周囲をゆっくりと回っている。その外で、黒い鳥が、一つ、翼で空を打った。その姿が、くっと上昇する。シュリは慌てた風もなく胸の前に短剣を構えると、一言唱えた。

“アラスク”

 魔法だ。シトリーには、刃の周囲に空気が吸い込まれるような感覚がした。刃はわずかに青白い光を湛えて見え、鋭さが、一層増したように感じられる。黒い鳥が、放たれた矢のようにシュリへと向かう。黒い影が交差する瞬間、シュリはすっと足を引くと、半身をひねりながら鳥の眼前へ刃をたたきつけた。鳥は、刃が当たる瞬間くっと体をひねったようだが、腹を浅く切られたようで黒が散った。と、わずかに時間差をつけ狼が殺到する。シュリは鳥が通過するやいなや狼へ目をやると、飛びかかる狼の鼻先へ、最初の会合と同じく刃を振りぬいた。何かを感じ取り、今度は狼が首を振って回避する。耳の下に刃が届き、傷口から黒い霧が散った。地に着いた狼が、首を捻って残心をとるシュリを見やった。その眼には、わずかに困惑と恐れが揺れる。

 先ほどの魔法で、シュリの剣は驚くほどにその切れを増したようだった。

 ―シュリさんは、きっと心配いらないだろう。

 シトリーは改めて、マルバスへと向き直った。マルバスもしばらくはシュリの戦いぶりを眺めていたようだが、ゆっくり、挑むような目つきでシトリーを向いた。シトリーは、杖を握りなおした。その眼に射抜かれ、じっと手に汗がにじむ。マルバスは、細剣一振りかまえただけである。しかし、微動もしない青眼の構えにはすさまじい迫力がある。

 動いたのは、シトリーだった。握った杖が光り、雷光が走った。真っ直ぐにマルバスへと走った光は、しかし、短い気合とともに細剣にはじかれた。

 ―これは、強い。

 シトリーは、たちまち口が乾くのを感じた。フラロウスほどのアクマが付き従っていることからも感じられるが、実際に剣を魔法を交えてみると、並々ならぬ圧力を感じる。

「なかなか鋭い魔法を使う。少し焦った。」

「何を言いますか。軽くいなして見せたくせに。」

「あなたも、あの程度の魔法は小手調べなのでしょう。さぁ、まだまだ行きますよ。」

 マルバスが剣を振りぬくと、その切っ先から黒い炎のようなものが噴き出し、大熱量をもってシトリーへと迫った。シトリーが地面に杖を突くと、黒い炎の眼前に土壁がせりあがる。炎は土影に当たりかき消えた。と、その陰からマルバスが躍り出し、シトリーの胸をめがけて剣を振るう。シトリーは、胸の前に杖を構え寸でのところで防ぐが、その重さに一瞬腰が落ちた。その隙を逃さずマルバスが二の太刀を振るう。今度は首を狙う、凶暴な剣だった。シトリーはしゃがみこんで躱すと、地面に触れた。マルバスの足元がせりあがり、体勢を崩すと、後ろへと飛び退いた。その着地を狙って雷光が走る。その光は、胸に構えた剣にはじかれた。数合のやり取りの間に、二人とも激しく喘いでいた。それでも、マルバスの足は地に吸い付いたようにしっかりとした重みを感じる。

 二者が激しい打ち合いを繰り広げる傍らで、シュリは舞うように黒い塊と戦いを続けていた。黒い狼と鳥は、その体中から黒い霧を垂れ流している。その動きも鈍くなっているようだ。しかし、シュリもその衣服はボロのようにあちこち千切れ、致命傷こそ受けていないものの肩で息をしていた。

 狼が一声、短く吠えるとじっと正面からシュリを見据えた。その四肢に、残りの力すべてをみなぎらせているようだ。鳥が、ひときわ強く空を打つ。次の打ち合いが、決着だろう。

 シュリは、ずいぶんと重たく感じる腕を胸の前に引き上げ、一言唱えた。

“サキスク”

 体が、軽く感じる。シュリの眼が鋭さを増し、空気の流れすら読み取らんとするように輝く。狼の四肢が、地を沈み込まさんばかりに蹴り、シュリへと飛び出す。時を同じくして鳥が大きく翼をはためかせた。大気が押しつぶされ、黒い風と貸した鳥がシュリへと殺到した。先ほどの魔法のせいで、シュリにはその一挙手一投足がつぶさに、見て取れた。その目は鋭く、すべての感覚が冴えわたっている。二つの黒が襲い掛かる。さながら、二枚の壁が迫ってくるような威圧を感じる。その塊が交差する瞬間、シュリは、一歩狼の方へ体を寄せると鼻先へ刃を当てて身体を躱した。続いて寄せてくる鳥の胸元へ、すれ違いざまに一太刀を浴びせた。落ちる鳥に目もくれず振り返り、飛びかからんとする狼のわき腹を深々切り裂いた。狼は、どっと音を立てて倒れ、黒い霧となり散った。鳥は、しばらく羽を動かしていたが、切り付けられた傷から黒い霧を噴出し、しばらくして自身も雲散したのだった。それを確認すると、シュリは体を引きずるように歩き、クリネの隣へと倒れこむように腰を下ろした。はた目にも、もう剣を握ることすらままならないことは明らかだった。

 霧の塊が倒されると、一度は空中へと散ったそれは、吸い込まれるようにマルバスの周囲に現れ、その影の中へと戻っていった。

「あなたの仲間たちは、ほんとにお強い方ばかりですね。」

 激しく息をつきながら、マルバスが話しかける。

「それをあなたは影だけであしらっていたのですよ。シュリさんはもう戦えません。相討ちのようなものでしょう。」

 シトリーが答える。

「それでも、ヒトの身でありながらよく戦いました。さぁ、私たちもそろそろ終わりにしましょう。」

 そう言って、マルバスが何事かつぶやくと、その陰から薄墨を垂らしたような霧が広がった。霧で視界がかすむ中、両者はゆったりと距離を取る。霧は益々濃厚になり、相手の輪郭すら不明瞭になった。すぐに何も見えなくなるだろう。

「…これはまずい。」

 眼も鼻も覆うような濃厚な暗闇の中、シトリーは全身に汗が吹くのを感じる。気を抜けば、意識すら手放しそうな空間の中で、必死に感覚を手繰り寄せようとしていた。霧は一向に晴れず、その濃さを増す。その霧の中から、かすかな物音が聞こえてきた。その物音は、少しずつ高くなりながら近づいてくる。そしてついに耳を打つ音となった。そう思った時、音の眼前へと土柱を突き出した。

“ルドラ”

 マルバスは足を取られ、たたらを踏む。

“ルド・グラム”

 すかさず距離を取り、渾身の力を込めてマルバスの周囲に土壁を展開、一気に押しつぶした。

 ―立つな。もう、小石一つ動かせない。

 辺りに土煙が立ち込める中、潮が引くように霧がおさまっていった。それは、術者、つまりマルバスが魔法を維持できなくなったことを表していた。

 

 シトリーは、倒れたマルバスを見下ろした。杖を握る手に力が入る。生気も魔力も弱弱しく、今まさに灯が消えんとしている。シトリーが杖を掲げると、中庭の扉が勢いよく開き、マモと呼ばれたあのアクマが駆け出してきた。

「来るな。来てはならん。」

 響いた大音声にはっと下を見ると、マルバスが苦しそうに、残りの力を振り絞ってマモを制したようだった。その声に構わず、マモはシトリーとマルバスの間に割って入った。その眼には、とどめを刺さんとするシトリーを射殺すような鬼気迫るものを感じる。それが、これほどの娘にはあまりにも不釣り合いで、気の毒だった。

「どけ。どくのだ。どうせ私は助からん。…頼む、どいてくれ。」

 マルバスが弱弱しい声でそう懇願すると、マモはしばらくうつむいたが、ふっと肩の力が抜けると、ぎこちなく脇へ動いた。

「すまぬ。…お前たちは、本当によく仕えてくれた。お前たちは後で、ゆっくり来い。」

 そう聞こえるや、マモの肩が不規則に震えた。顔はよく見えないが、決して、なにも零すまいと口を引き結んでいる様子があまりにも痛々しかった。その姿を見ることができただろうか、マルバスは、息を引き取っていた。


 シトリーは、シュリとクリネの元へと戻った。

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