第13章 エッジ(25)

 

 

 涼香が高熱を出し、寝込んだ。

 

 現代に比べて粗末で栄養の少ない食事、そして薄く保温性のない布団。きびしい冷え込みのなか、暖房はろくにない。体調を崩す要因はいくらでもある。しかし礼韻は思う。これは明らかに、精神から来るものだ。

 

 現代から、医薬品はかなり持ち込んでいた。風邪に対する栄養補助剤もあるし、解熱剤もある。過去に行くことで最も怖いことは、医療の未発達なのだ。手当てができず、現代に戻っても後遺症が残るということは避けたかった。だから当座数日間の物資は、ほぼ完璧に網羅していた。

 

 しかし礼韻と優丸は一抹の不安を感じた。気持ちの落ち込みからくる体調の崩れに、果たして薬が効くのだろうか、と。

 

 いちばんの特効薬は、現代に帰る、ということだった。現代に帰れば、おそらくは一瞬のうちに治ってしまうだろう。しかしそれはできなかった。そうする術を、礼韻も優丸も知らないのだ。

 

 礼韻は、自分の心の中を正直に見つめ、次元断層に嵌ってしまったところで絶望感に包まれることはないと言いきれた。元より、家族への思いは強くない。構われた記憶もなければ、評価されたこともない。何故なのかは分からないが、疎まれ、まるで居候かなにかのように扱われてきた。これまで生きた十数年、心から慕ったのは祖父の願坐韻ただ一人だった。願坐韻は、礼韻の持つ才能を介在してだろうが、構い、評価してくれた。家族的な、無私の愛情も感じていた。

 

 だから、帰れないとなっても、涼香のような絶望感はなかった。客観的に自分の心を探ってみると、不思議にも、高揚感があった。この、命を賭すことが日常の戦国の世でこそ、自分の才が活かされるのではないかと、嘘偽りなく言えば、帰れなくてショックを受けてる反面、ワクワクもしていた。現代であればせいぜいが高名な学者になる程度だ。どんなに伸びても、文系の一分野の大御所止まりだ。待っているのはなんだ。権威の座か。勲章か。そんなものがなんだというのだ。

 

 『退屈な一生から解放される』。格好つけすぎだろうが、自分の気持ちを言えば、こうなる。この世界で生きてやろうじゃないかと、気持ちを完全に切り替えていた。

 

 拈華微笑で人の本心までは読めないが、礼韻の見たところ、優丸にもその気配を感じた。礼韻は優丸から家族に関する話を聞いたことがない。だから礼韻のように、家族に対する冷めた思いがあるのかどうか分からない。しかし優丸も、次元断層に嵌っていると分かってから、より生き生きとしている風に映る。礼韻と同じように、やりがいや手ごたえを感じているようだった。

 

 ところが涼香はちがう。もっともこれは当然のことだ。礼韻の方が異色なのだ。人は一般的に、家族とは離れ離れになりたくない。涼香の体調の崩れは普遍的なもので、起こるべくして起こったことなのだ。礼韻は自身のことを思うに、もし現在の世で願坐韻が亡くなっていなければ、もう少し帰りたい欲求が強かったにちがいないはずだった。

 

 礼韻はひた隠しにしていたが、願坐韻の他にもう一人、家族的なつながりを感じている人間がいた。それが涼香だった。家族的な気持ちというのは、1秒の何分の1かの刹那の時間で脳にわき起こる感情だ。涼香に何かが起これば心配し、絶えず彼女が得をするように振舞い、空気のように、傍にいてもなんら気にならない。この感情を人為で止めるのは不可能だった。

 

 その涼香が、倒れてしまった。礼韻は涼香の気持ちを察するたびに、カッと胸が熱くなった。我がことのように、涼香の絶望感が身を焼いた。なんとかして涼香を現代に帰してあげたいという思いがわき起こる。涼香を家族と会わせてあげたいと。そのためには自分が犠牲になってもいいとも思う。かわいそうな涼香を、守りたかった。大事だ。手放しで、大事な存在なのだ。

 

 その家族的な気持ちを、寝込む涼香の横でひたすら持ち続けた。しかし家族的な気持ちというのは、必ずや残酷な一面も含む。もし涼香がいなければどれだけ気楽に動けただろうか。そんな気持ちが心の片隅にポッと灯っていた。礼韻は思うたびに打ち消すが、それはけっして排除されることはない。その暗い一面も、家族的な気持ちに含まれる普遍的なものなのだ。

 

 


 


 

 

 

 




 

 

 

 

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