第12章 寸刻の決着(6)
家康は、でっぷりした体格からは似つかわしくないほどフットワークが軽い。とにかく行動が早く、それで危機を脱したことがたびたびある。その機敏性を持っているからか、戦では城攻めより野戦を好んだ。
本来であれば得意な形の戦いのはずなのに、現在、大苦戦に陥っている。敵に包囲され、逃げ道はない。これは西軍が意図したわけではない。図抜けた頭脳を持つ家康のこと、もし西軍が企んで包囲したのであれば、その動きを嗅ぎつけ、もっと早い段階で対策をとったことだろう。この挟撃形は、本来、ないはずだった。ところが小早川秀秋がどういうわけか横死し、小早川軍に勢いが付き、雪崩のように東軍が不利に陥り、吉川広家が裏切った。この一連の動きは一瞬ともいえることで、家康には読めもしないし対応も取れなかった。
包囲される形は、野戦において最も避けなければならないことだった。奇策も速攻も遁走も効かない。野戦の強みが生かされないのだ。そしてまた、大所帯の三河軍も狭い場所では威力が半減する。味方同士が邪魔をし合うことになってしまうのだ。すべてが、悪い方へ悪い方へと向かっていく。
「戸田重政、明石全登、蒲生郷舎、舞兵庫、松野重元、吉川広家、長宗我部盛親……」
「なに?」
急に武将名を並べだした優丸に、涼香は聞き返す。
「家康本陣を取り囲んでいる武将だ」
もはや三河軍は抑えることができない。三河軍包囲網を掻いくぐった名将たちが、本陣を囲む。
それにしても、優丸はどうして誰が誰だか分かるのだろうと涼香は不思議だった。現代に残る肖像しか見ていないはずなのだ。もしかしたら当てずっぽうを言っているのだろうか。涼香は小さく首をひねった。
「井伊直政、黒田長政、浅野行長……」
さらに優丸が言う。こちらの方は本陣を守る東軍の武将だろうと、涼香は察しがついた。それにしても少ない。細川忠興も田中吉政も池田輝政も、どこに行ってしまったのだろう。
涼香は礼韻を見た。小早川秀秋が撃たれてからというもの、言葉も発せずじっと見つめているだけだ。涼香は礼韻を長年見てきただけあり、頭脳の明晰な者には2つのタイプがあるということを知っていた。1つはどんな状況でも的確に対処できる者。そしてもう1つは、とんでもないことが起こったときに思考も行動も停止してしまう者。
考えたくはないが、どうも礼韻は後者のタイプなのではないか。涼香はじっと見つめる。
今の礼韻には、いつも発している強烈な「気」が感じられなかった。同じ人間だというのに礼韻にいつも圧されているのは、あの、言葉では説明できない「気」があるからだった。あれに包まれ、涼香はいつも礼韻のペースに巻き込まれてしまう。
涼香は一度、礼韻を誘ったことがあった。自ら服を脱いで迫ったのだ。涼香としては、とにかく礼韻の感情を乱れさせたかった。普段と違う表情を見たかった。その一心でのことだった。
しかし礼韻は困惑の表情一つ浮かべず、いつものようにスッと目を細めると、涼香の細い腰に左腕を巻いた。ベッドの上に静かに倒され、涼香は礼韻の顔を上に見た。
いったん離れた礼韻は、落ち着いた動作で服を脱いでいく。均整のとれた体があらわれていく。ほとんど礼韻と行動を共にしている涼香は、礼韻が、これが初めてだということをほとんど確信していた。自分の眼の離した隙に他の女と寝るなど、絶対にない。しかし、礼韻に初めての緊張など見えなかった。指先に至るまで震えなどいっさいなく、慌てた素振りもない。ゆっくりとトランクスを脱ぎ捨て、上半身を折って、今度は涼香の首に左手を巻いてきた。
涼香もまた初めてだったが、礼韻への思いからではなく、反発からのあら捜しが目的だった。とにかく、一般人がいだくような感情を、表面に浮き立たせたかった。礼韻が少しでも動揺する様を見たかった。見て、一矢報いたと自分を納得させたかった。しかし礼韻は最後まで、特段の感情をあらわさなかった。むしろ礼韻の「気」にまとわりつかれ、そして内部に入り込まれ、涼香はひとり昂った。充足感があったことで、より悔しさが募った。
その礼韻が、今、明らかに変調だった。状況に困惑している。たしかに、困惑して当然ではある。しかし礼韻が、という思いがあった。礼韻は特別なのだという意識が、あの一夜以降根付いてしまっていた。
これは自分にとって、最大のピンチになるだろう。礼韻を見て、涼香は思った。
「つぶれたな」
達観したような、優丸の言葉があった。
急いで望遠鏡を取ると、その丸いレンズの向こうに、ぐちゃぐちゃに入り乱れた家康本陣があった。西軍も東軍も分からない状態だった。
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