第11章 裏切り(14)

 

 それにしても、あの程度の口の開きで、本当に読唇術などできるのだろうか。涼香は訝し気に優丸を見やった。

 

「できるさ」

 

 礼韻が涼香の方を向いて、薄笑いを浮かべながら言う。

 

 ――礼韻に考えを読まれた!!

 

 涼香の表情が凍りつく。他人に頭の中を見透かされることへの原初的な恐怖が涼香の体を硬直させた。

 

「いや、すず、今のは頭の中を読んだのではない。安心しろ」

 

「じゃあ、なんで……」

 

「分かったのかって。すず、お前の優丸に向けた表情を見れば、ある程度頭のまわる奴だったら簡単に分かるはずだよ。実際おれもすずと同じように、優丸の読唇術には目を丸くしている。だからすずの疑いの気持ちは分かるんだよ」

 

 礼韻の説明に、涼香はホッとした。いや、説明だけでない。その礼韻の口調もまた、安心感を持たせるものだった。涼香は合戦が始まったあたりから、礼韻の声を気持ちの拠り所にしていた。いつもの礼韻に比べて、ゆっくりと、言い含めるように話す。突き放した感がなかった。それが、この超現実にいる奇怪さ、怖さを、和らげてくれていた。

 

「吉川殿も……、うーん……」

 

 望遠鏡で松尾山を見ながら、優丸が、口ごもる小早川秀秋の真似をする。言葉を濁しても、3人にはその先に続く言葉が分かっていた。吉川広家も自分と同じように家康に内応し、戦況を見ているのだろう。小早川秀秋はそう言いたいのだ。しかし安全な自陣とはいえ、内応や内通といった言葉を吐き出すことにはためらいがあるはずだった。

 

「吉川殿が動かないのは分かるが、なぜ三河軍は動かん!?」

 

 平岡勝頼に向き直り、小早川秀秋が言う。この寒空だというのに、首筋の汗を拭っている。自律神経がおかしくなっているのだ。

 

「いろいろ考えられますな」

 

「いろいろ、とは。いろいろとはなんじゃ?」

 

 小早川秀秋がせっつくように言う。

 

「おそらく家康殿は、この日は負けるつもりなのではないでしょうか」

 

「負ける?」

 

「はい」

 

「なぜそのようなことを……」

 

「今、前線で苦戦しているのは、急造で寝返った豊臣恩顧の武将たちです。福島も、藤堂も、細川も。この日の不甲斐ない戦いで、家康殿は、その後の彼らの発言力を抑えることができます」

 

「なるほど、一理あるな。いかにも内府(家康)のやりそうなことじゃ」

 

「その後、自身の軍が主導して勝利すれば、寝返り組をおとなしくさせられます。徳川四天王の本多(忠勝)殿も井伊(直政)殿も、今は前線に出ておりません。そしてまた、秀忠軍に付く榊原(康政)殿も不在です」

 

 秀忠の遅刻は、すでに西軍に知れ渡っていた。なにしろ遅刻をさせているのが、西軍の真田なのだ。地の利を生かして伝令を関ヶ原に飛ばし、秀忠3万の軍を上田城でくぎ付けにしていると連絡を入れていた。

 

「家康殿としては役者がそろった段であらためて……」

 

 言葉の途中で小早川秀秋は振り返って、遥か家康のいる方をあごを上げて見つめた。

 

「うーん……」

 

 そして振り返り、

 

「しかしあまりに危険すぎるのではないか、緒戦を落とすというのは?」

 

 と、今や頼り切っている平岡頼勝に、唇を震わせながら聞いた。

 

「ですので、家康殿は2つの途を考えているのではないでしょうか。この日の勝利は、当然望んでいるでしょう。しかし勝利を念頭に入れながらも、それが叶わなかった場合、負けを最大限利用できるように計算していると思われます」

 

「つまり、この日の勝ちも求めているということか?」

 

「それは当然のことでしょう。戦なのですから」

 

 頼り切っている秀秋の弱みを感じ、平岡頼勝が少し強く出る。

 

「しかし、現実には圧されているな、西軍に」

 

「我々が動けば、東軍勝利は間違いございません」

 

 じっと目を見つめ、平岡頼勝が、ゆっくりと言葉を発した。受けて、小早川秀秋の体が固まった。その言葉の裏の意味が、さすがにこの能力の劣った男にも通じたからだ。

 

「家康殿は、我々小早川軍が約束どおりに西軍を見限らないことも念頭に入れておられる。三河軍を動かさないのは、じっと殿の動向を見ているという意味でもありましょう」

 

 口を半開きにした小早川秀秋が苦しそうに胸に手を当てる。頼り切っている頼勝の言葉は、すでに東軍からの目線のものだ。家康に従ってこそ、本筋なのか。もう、そう決まっているのか。どっちつかずの態度で己をごまかしていた秀秋には、立ち位置が決められていると告げられ、華奢な体を不規則にくねくね動かし続けている。息も荒く、額から汗が伝う。もう、体を支えていることすらやっとという感じだった。望遠鏡越しに見る涼香は、この一瞬ばかりは小早川秀秋に同情した。

 

「殿、もし家康殿を違約したとしたら……」

 

 平岡頼勝の言葉を、優丸が真似て伝える。しかし18歳の若い声帯では、頼勝の重い低音はとても出せない。出せないが、その張りのある声でさえ、内容の重みが十分に伝わってきた。

 


 



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