第11章 裏切り(15)

 

 平岡頼勝の言葉の数秒後、小早川秀秋が崩れた。

 

 腰が抜けたように、2、3歩よろめいてストンと座り込んだ。両の手をうしろに、顔を上げて苦し気に荒い息を吐いている。

 

 平岡頼勝の言った意味が、全身に広がっているのだ。

 

 このまま戦闘に参加せずに態度を留保することは、家康にとっては裏切りとなる。それはつまり、西軍として戦闘に参加することと、なんら変わらない。家康に加担する意思表示をするのであれば、小早川秀秋の場合、吉川広家のような傍観は許されない。兵を動かして西軍に襲いかかり、万人に知らしめなければならない。

 

 そうしなければ、徳川政権になった途端に死を迎えることとなる。いや、この一戦の間でも、東軍が優勢となって余裕が出れば、小早川軍を叩きに来るだろう。

 

 だから、秀秋は一言吐き出すことが必要だった。「訳あって東軍に加担する」、と。

 

 その一言で、お家も、自身も、救われる。

 

 だが、どうしてもその一言が出ない。

 

 決断のできない男だった。

 

 未来から来た涼香は、関ヶ原の後を知っている。小早川秀秋の一言で、本当に歴史がひっくり返るのだ。だからあれほどまでに取り乱すのもよく分かる。しかしやはり、みっともない姿だなと感じていた。この時代の武将が取る態度ではない。

 

 涼香は望遠鏡から目を外し、礼韻に目を向ける。やはり、礼韻は薄ら笑いを浮かべていた。

 

「すず、小早川秀秋はどうだ、魅力的か。まさに歴史の渦中にいる男だぞ?」

 

 そして涼香に向き、再び笑った。目を細めたその笑いは、涼香の背にスッと電気を流させた。この表情から離れられずに、こんな超現実の場所にまで来てしまったのだ。

 

「それにしても不思議なのが、2人の監視役の姿が見えないことだな」

 

 また望遠鏡で松尾山を見やりながら、礼韻が呟くように言った。

 

「てっきり、まとわりつくようにしているのかと思った。これに関しては、意外だったな」

 

 あの家康が、重要な約束をしながら相手を放っておくはずがない。必ず履行させるための策を、なにかしら講じる。

 

 この小早川秀秋の内応に関しては、家康は2人の武将を送り込んだ。

 

 奥平貞治と大久保猪之助だ。前者は家康の旗本、後者は黒田長政の家臣。

 

 彼らは、現代に例えれば、関連会社に出向いた出向役員のようなものだ。親会社の意向を伝え、意のままに動かすのが使命となる。

 

 礼韻は、その重要な役目から、奥平と大久保の2人がもっと頻繁に小早川秀秋の元へ足を運ぶものと思っていた。家康の構想のままに動いてもらうよう、しつこく圧迫をかけるものと。しかしこれまでのところ、2人は一度として姿を見せていない。

 

 ずっと引っ込んだままで、監視役の役割が全うできるのだろうか。家康から送り出された男ということであれば、愚直に見えるほどの行動を取っているものと、漠然と思っていた。

 

 あるいは、あぁまで平常心を失ってしまった人間には、圧力は逆効果と判断してのことなのだろうか。変に強くせっつかず、頼りきっている平岡頼勝ひとりに一任させた方が効果的と読んだのだろうか。それも充分に考えられる。見たところ、華奢な小早川秀秋に横幅のある平岡頼勝の組み合わせは、親子のようにも感じられる。鈍重にも見えてしまう平岡頼勝が、秀秋の精神安定剤になっているのかもしれない。

 

 また、いかに対面していたとしても、小早川秀秋を脅すことができない。虚栄心の膨らんだ秀秋は、パニック状態になっていることも含め、相手の言葉を頑なに拒否することが考えられた。だからといって、斬ってしまうこともできない。どうしても小早川秀秋の口から、東軍に加担する旨の指示を出してもらわなければならないからだ。でなければ、1万5600の兵が動いてくれない。

 

 諸々を考え、監視役の2人は敢えて秀秋に近づかないようにしているのかもしれない。

 

 それでも、不自然さは残る。

 

「監視役の2人、まったく姿を見せないもんなんだな。これに関しては、まったく予想と外れていた」

 

 その礼韻の言葉に、優丸が視線を合わせた。涼香は、笑いもなくスッと目を細めたその表情に、何故かは分からないものの、気持ちがざわざわと騒いだ。

 

 


 

 


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