第8章 帷面権現(20)

 

 涼香が礼韻を見る。どんな表情をしているのか、だ。これは長くやっていることで、もう体に染みついた行為なのだ。ここまで切羽詰まった状況でとは思うが、体が反射的に動いてしまうのでどうしようもない。


 さすがの礼韻が、表情を強張らせていた。それほどまでに意表を突いたトラブルなのだ。しかも瞬時に打開策を打ち出さないと、たちまち骨だけにされてしまう。


「軍隊蟻なんて、日本にいるの?」


「いや、アフリカや南米の未開の地だけの生き物だ。だけど現実に向かってきている」


 部屋のなかは至るところ蟻だらけだった。足踏みを絶やさない涼香だったが、それをかいくぐって上ってきた蟻に肌を刺され、痛みが走った。


「そうだな。それがいい」


 優丸が脈絡なく言う。礼韻と頭の中で話し合っていたのだ。


「なに、なんなの?」


 涼香が礼韻に訊く。


「走って突破する。木や屋根に登ろうがダメだろうから、逃げるしかない」


 優丸が言う。


「涼香、全部服を脱げ。そして靴だけ履いて、紐をきつく結べ。すぐにだ」


 次に礼韻が強い口調で言う。


「どうして服を……」


「いいから早くしろ。説明はあとだ」


 すでに男2人は全裸になっている。仕方なく涼香もあとに続いた。


 優丸はそれぞれの着ていた物をコンビニのビニールに入れた。そして各自に手渡す。


 礼韻がドアを蹴破った。


 3人が息を呑んだ。バンッと空いたドアの先は一面の黒だったからだ。


 まるで黒い絨毯が敷かれていくかのように、部屋に蟻の大軍が一気に入り込む。ほんとうならすぐさま走り出さなければならないのに、礼韻が後ずさりした。


「行くぞ!」


 うしろにいた優丸は礼韻より蟻と距離があった分、冷静だった。2人の肩を叩いて自ら走り出した。


「こっちだ!」


 優丸が叫ぶ。涼香が続き、礼韻が殿を持った。


 肉食獣から逃げるわけではないので、全力疾走は必要なかった。その代り、黒一色で地面が分からない。石や枝が出っ張ってても分からないのだ。


「慎重に。転ぶなよ」


 うしろから礼韻が叫ぶ。涼香はここにきてようやく服を脱いだ意味が分かった。小さな蟻相手では服はなんの防護もせず、むしろ入り込まれる場所を作ることになる。


 それでも顔にまで上がってくる蟻がいて、涼香は手で払う。そこに神経が行き、足下への注意がおろそかになり涼香は転んだ。


 脇腹と右腕に痛みが走る。それより先に蟻の気持ち悪さが強く立った。礼韻の引き上げもあり、すぐ立ち上がると再び駆け出した。痛がることも泣くことも生きていればこそだ。蟻に食い散らかされてしまったら叶わないことだった。


 涼香は顔を払い、唾を吐きながら優丸のあとを追った。


 

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