第4章 火蓋
第4章 火蓋 (1)
発砲の音が、白く淡い関ヶ原の盆地に鳴り響いた。
それも複数。山の原に反射する音は
「いよいよだ」
真横の涼香など頭にないような独り言だった。
流れているとはいえ、まだ
見つめる礼韻の頬と首筋に汗が流れている。水滴ではない。赤く染まる顔からの汗だ。やはり『気』を受けているのは本当なのだ。涼香はその伝う汗をじっと見つめる。
間を置き、また複数の発砲音。そして止み、さらなる発砲音。
「
礼韻が望遠鏡に目を当てる
「靄でよく見えない」
「まったくなぁ」
短い言葉のやり取りが、どちらも
「午後に起こる小早川秀秋の裏切り劇を見るにはここに陣取るしかなく、戦いの火蓋が切られる瞬間が見えないのは受け入れなければならない。残念ではあるが……」
自分に納得させるように、礼韻が顔をしかめて言う。時を渡る前の綿密な話し合いで、開戦の天満山に遠いことは確認済みだった。激戦地に近く危険で、なにより靄が立ち込めてよく見えない時間帯だった。開戦の状況を見られないことは受け入れよう。なにもかも見るというのは無理だ。そう、礼韻自身が言っていた。しかし歴史学へ人生をのめり込ませている礼韻にとっては、その現場に来れば当然あきらめきれない思いが勝った。
ほら貝の音が、唸るような響きをもって下から頭上へと突き抜ける。気持ちをざわざわと落ち着かなくさせる、開戦を知らせる不気味な重低音。続いて男たちの喚き声が盆地に響く。局地的な小競り合いから、いよいよ総攻撃へとなる瞬間だった。
「井伊の赤備え、あるいは福島隊が、西軍の宇喜田陣に近付き、鉄砲を撃たれ、それを撃ち返し、合戦が始まる。家康も三成も鉄砲の応酬を聞いて、半信半疑ながらも全軍に戦闘態勢に入るよう指示を送り、それぞれの隊が動き出す」
福島、宇喜田の大部隊同士がやりあう北側で、北国街道に陣取る西軍の将石田三成へと、東軍の有力武将、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、筒井定次、田中吉政が襲いかかろうと向かっていく。総勢2万兵余り。対する西軍は三成の前に島左近、蒲生郷舎、島津義久、小西行長が隊を敷く。合わせて1万と東軍の半分だが、宇喜田隊が福島隊6千の3倍に近い兵力のため、総数ではほぼ互角だ。
一方福島隊の南側はさほどの活気を見せない。東軍の藤堂高虎、京極高次両名は武力一辺倒という大名ではなく、松尾山の小早川秀秋も東軍への寝返りを思慮しているところなのだ。小早川の前に並ぶ脇坂、朽木などの小隊も、寝返りの意志を秘めている。この南側にいる隊は西軍の大谷吉継を除き、全精力を傾けられない理由を抱えていた。
礼韻は右に視線を送る。徳川3万大隊の左うしろに毛利軍がいるからだ。遠く南宮山の山頂を越えた東側は、数々の隊がいるというのに静かだった。前列の吉川軍が、小早川同様に寝返りを決めているからだ。兵を動かさないと、家康に約束していた。吉川の大軍が動かないのであれば、他の隊も動けない。吉川を越して進軍すれば、受ける池田、浅野など東軍と、背後の吉川から挟み撃ちを食らうことになる。安国寺も長束も留まらざるを得ない。
だから響く怒声は、ほぼ北国街道方面のみと言ってよかった。関ヶ原一帯に各武将の隊が散らばってはいても、それぞれの思惑、状況で動かない者と動けない者が多くいるのだ。
靄が流れて遠くに鉄砲の小さな火が瞬く。涼香はスポーツ競技の歴史的一瞬をおさめるフラッシュを連想した。
「三成……」
涼香の真横で、礼韻が掠れた声で呟く。
「君の生も、あと一週間ばかりとなったな」
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