第3章 三成を愛した男(5)
風で空気が動き、靄が薄まる。
視界がゼロだったのが、多少は見通せるようなった。
「間もなく、だな」
縛り上げた足軽を見に行き、戻ってきた礼韻が、座る涼香たちの頭上に低く発した。
「間もなく、戦いが起こるぞ」
断定の言葉は重く、震えがなかった。
「分かるの?」
振り向き、見上げながら、涼香が聞いた。
「あぁ、分かる」
「でも、見えてはいないでしょ。見えないのに、どうして?」
涼香が疑問を投げかけるが、礼韻はゆっくり、大きく首を振る。お前にはなにも分からない、とでもいうように。
「『気』が、発せられている。戦いの『気』が。あの右奥、東軍がいるであろう、地点から」
「『気』?」
「そうだ。どの軍からの『気』かは分からない。しかし、戦うという『気』が、伝わってきている」
『気』なんて分かるのだろうか。なにも感じない涼香は、訝しげに礼韻を見上げる。直立不動で腕組みをする礼韻は、じっと前方を見つめている。そして涼香は、ハッとした。礼韻にまったく震えがなく、冷気をまったく感じていないかのごとく、体から表情から、硬さがまるでない。
「礼韻、寒くはないの?」
試しに聞く。
「あぁ。『気』が熱いからな」
たしかに、顔が上気して赤い。
これなら、『気』が分かるのかもしれない。涼香はまだ半信半疑だが、多少は納得した。そして礼韻の見つめる先を、同じように目で追った。
礼韻の顔を紅潮させているのは、いったい誰の『気』なのだろう。豊臣政権では軍事的な中枢にいたが、秀吉が死ぬと家康に乗り換えた猪武者の福島正則か。正則は一番隊なので、最も敵陣近くにいる。
あるいは、娘婿が家康の四男で、その松平忠吉に武功を立てさせてあわよくば二代目を継がせたいと願う井伊直政か。直政は西軍という当然の敵の他に、最前線に居座っている福島隊も隠れた敵となっている。忠吉の一番隊を望んでいるからだ。
もしくは、二番隊ではあるが、細川忠興も強い『気』を発しているはずだ。忠興の妻は石田三成に殺されたようなものだからだ。私怨という点ではいちばん激しいだろう。
そこで、ふと思い、涼香は振り返った。
「石田三成からの『気』は受けてないの?」
あれほどまでに狂おしく愛した三成であれば、最も『気』を感じていいはずだ。
「そう、感じている。それも、まだ夜が明けないうちからだ」
目線はそのままに、礼韻は静かに言った。
「でも、明ける前は寒さに震えてたじゃないの」
ゆっくりと、礼韻が涼香に顔を向けた。
「三成の『気』はな、すず、まったく熱くないんだよ」
その目のやさしさに、三成に対する偏愛が見えて涼香は言葉が出てこなかった。
中学生時代の、課外授業、あるいは修学旅行。涼香はうろ覚えの、過去の一場面を思い出そうと頭の引き出しを次々開けていく。
闇の中を、炎の不規則な明かりが礼韻を照らしていた。ということは、キャンプファイヤーでのことだったのだろうか。俗的なイベントにそっぽを向いていた礼韻だが、気まぐれで来ていたのだろうか。
そこで礼韻と二人きりになった。そして話をした。
礼韻は静かな口調だった。そして珍しく、終始涼香の目をじっと見て話していた。あれは、一種のからかいだったのだと、涼香は思い出すたびに腹立たしくなる。涼香は言葉をはさめず、聞く一方だった。
礼韻のある一夜の話だった。眠りに入る前、三成のことを考えていると、腰のあたりが熱くなったという。
礼韻は本能のままに、手と、そして指を動かした。三成の端正な顔と白い肌が、鮮明に浮かび、目の前にいるかの如く視線が絡んだ。
腰の内側がもやもやと疼き、突然、強い尿意が襲ってきた。
家は広く、トイレなど間に合わない。寝小便などという、許容できない失態が頭に浮かんだ。三成の倣いが多分にあり、幼少時から自身に鉄の厳しさを強いているのだ。
制御不能の尿意に、歯を食いしばり、腰に力を込め、抑えつけようとする。だが一方で、強い放出願望も起きていた。それは通常の尿意にはない感覚だった。
それでも、漏らすなどという恥ずべき行為を避ける意識がまさった。脈拍を感じる短い時を耐えた礼韻は、少量の湿り気を感じるだけに留めた。腰の痺れが去り、ひとつ息を吐いたあと、下着の中を拭いた。それは妙に粘着性があり、そこでもまた尿意と違うものだと感じた。
その話を、口の端に笑みを浮かべながら、礼韻は涼香にした。ときおりクッと、覗き込むように顔を寄せる。反応を探るかのように。聞いている涼香の方が、恥ずかしさに縮こまってしまった。
今、その話を思い出した。そうだ、礼韻にとって最初に愛した人間は、三成だったのだ。
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