第2章 黎明の布陣(4)

「なんとなく明けてきたな、空が」


 礼韻がつぶやく。涼香は空を見上げるが、その気配はまったくない。これから起こることに期待するあまりの、たんなる願望だろう。そう片付けたくなるが、一方、礼韻には分かるのかもしれないという気持ちもある。鋭敏になりすぎた五感と、代々受け継がれた歴史学の権威という血筋が、合戦前の夜明けの、ほんの毛先ほどの気配をつかんでいるのではないだろうか。ついそんな、超常的に考えてしまうほどの、光りを放つかのような礼韻の異常な双眸だった。


「今頃徳川家康は、最終的な陣地となる桃配山に到着したところだろう。このあと敗走することになる石田三成などより、よっぽど不安にかられているはずだ。心が鎮まらず、あのでっぷりとした体を小刻みに揺らし、爪を噛み、鼓動を速めているに違いない。

 石田三成の方は、これでようやく忌々しい家康を倒せると、こっちはむしろ期待に胸を膨らませていることだろう。皮肉なもんだよな、このあと安定した世を作って神と崇められる男と、みじめに引き回されて斬首される男の対戦が、結果と正反対の気持ちで開戦を迎えるなんてな」


 およそ20万の兵がぶつかり合う関ヶ原の戦いでは、東軍において3万ほどの大軍団を率いた家康の息子秀忠(のちの二代将軍)が戦いに遅刻をするという醜態を晒す。これにより、まず開戦前に数的不利という状況に家康は立たされることになる。涼香は素直に、礼韻の言葉に頷いた。


「関ヶ原は歴史学者から小説家から、さまざまな連中がいろんな解釈をして、主張している。秀忠の遅参も、失態だの彼は悪くないだの。実際のところはどうなのか、これは絶対に分からない。でも、東軍の兵力が秀忠軍の分だけ少ないという事実は、明らかだ。この瞬間、この闇が支配するいっときに、島津や島左近のアドバイスどおり、家康に夜襲をかければ三成の勝機も十分あったはずなのに……」


 ものごころついてこの方、石田三成に憧れ、自身を重ねる礼韻は、まだ見えぬ松尾山に向かって言った。

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