第2章 黎明の布陣(3)


 関ヶ原の合戦は朝の銃声とともに始まる。まだ闇に包まれたこの時間は、じっと待つより他ない。

 

 礼韻は震えが止まらない。激しい震えで、手を添えると腕にまで振動が伝わるほどだ。暗闇を見つめながらのそれは、涼香の目から見て、尋常とは思えなかった。

 

 なにか薬でもやっているのでは。その方面への知識など皆無だったが、そう思ってしまうほどの、礼韻の状態だった。涼香は小声で優丸に聞いた。


「おれが薬でもやってるかだって?」


 五感が研ぎ澄まされている礼韻が聞き咎め、涼香を睨みつける。


「これほどまでに貴重な場面で、正気を失うものなんてやるはずないだろ。そんなもったいないことすると思うか?」


「でも、すごい震えだわ」


「ほっといてくれ」


 そう言って暗闇に向いてしまった礼韻だが、すぐに涼香に向き直った。


「すず、だいたいお前は人に目を向けてばかりいる。時間を渡ってきたんだぞ。分かってんのか。もっと楽しめ。もっとのめり込め。こんなにも劇的な瞬間に居合わせるなど、生涯でおそらくないんだぜ」


 礼韻の目はスッと細くなり、涼香は思わず寒気が走った。いつも余裕ある態度を崩さない男が、今は場に酔い、忘我の境地にある。


 再び礼韻が闇に顔を向けた。とにかく、落ち着きがない。普段の礼韻からは考えられない、こまかな動きだった。大丈夫なのかと、どうしても心配してしまう。

 

 礼韻が闇に向かって指さす。


「まだ見えはしないが、この周辺には、後々何百年も名の残る武将たちがうごめいているんだ。各国に散らばる猛者たちが、ここ一点に集まってきている。そしてここに来ていない有力者たちも、ここで起こる一戦の呪縛から逃れているわけではない。各地で、この戦いに合わせた行動をしているんだ。つまりはここで起こることが、日本全土に影響を与えている。九州でも、東北でも。今おれたちは、そんな場所にいるんだ」


 そこで礼韻は言葉を切り、大きく息を吸い、そして吐いた。


「山に囲まれたこの盆地に、連中はいるんだ。10キロにも満たない、手の届くような距離に。走っていけばすぐにでも対面できてしまう。家康にも、三成にも。それに島左近にも、黒田長政にも」


「ちょっと!」


 涼香は、体を乗り出し、今にも走り出しそうな礼韻の腰に腕を巻きつけて引き戻す。


「心配するな。会いに行ったってたたき切られるのがオチだ。そこまで常軌は逸していない。ところで……」


 今度、礼韻は優丸に視線を合わせる。


「目と鼻の先にある、あの山に陣取ってるのは何軍なんだ、優丸?」


「小早川軍」


 ほとんど久しぶりに、優丸が口を開いた。そして、


「それを越えると大谷吉嗣。宇喜田、小西、島津、蒲生、自分たちから見て最奥が島左近の軍。その島と蒲生の後ろに、総大将の石田三成」


 なめらかに優丸が言い、礼韻が大きく2回、頷いた。


「その通り。大阪城へと向かう家康一行を、並んで通せんぼしているわけだ。おれたちはその並ぶ西軍を、真横から見ていることになる。夜が明ければ、松尾山は肉眼で、そして持参した望遠鏡を使えば、石田三成まで見えるはずだ。すず、震えるのも当然じゃないか?」


 礼韻はうす紫になったくちびるを、ほんの少し歪ませた。

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