一(ひと)刺し、シテマス

 ナゴミ帝国監査庁。

 それは帝国のどの省にも属さない独立機関。

 

 その為、庁の予算も関所や橋の通行料の一部、民からの税、魔導研究所、そして冒険者組合や旅団から徴収した税のみで運営されている。

 

 それゆえ、予算をもらっていない王族や貴族、帝国各省や軍。琥珀の騎士の不正すら正す絶対的な監査機関として存在できるのである。


 さらに長官に任命される者は公正を期す為、王族でも貴族でもない、一般庶民から任命された役人。

 その任命資格はただ一つ、

 

 『誠実である』こと。

 

 出世競争に興味がなく、王家、貴族、特定の省や高級役人に対しても、つかず離れずの距離をたもっている者が適任とされていた。


 長官という名の地位だが、監査の指揮や”執行”、そして”粛正”は、帝国の東西南北を担当している四人の監察官や彼らの下僕である”犬”に一任しており、自身はもっぱら王家から貴族、各省や琥珀の騎士の間を併走して、互いの関係が悪化しないよう、調整や忖度そんたくしている毎日である。


 こうしていつしか監査庁長官は、《究極の凡人》と王家の人間から下級役人にまで揶揄やゆされる存在となった。


 その冒険者庁の廊下の上を一人の男……の姿をした”モノ”が歩む。。

 白髪に白ひげ、中肉中背の体を赤い貴族服で包み込んだ初老の男は、帝国東部担当の監査官、皇帝から下っ端役人の”犬”の間で、《オクルス》という名で呼ばれている”モノ”。


 そして、廊下の先からオクルスに近づく一人の男。

 それは、ナゴミ帝国監査庁長官、《ケールス》であった。

 ナゴミ帝国皇帝の御前ですら優しい笑みを浮かべるケールスは、北部担当の監査官、《アウリス》ほどではないが、肥えたお腹をわずかに揺らしながらオクルスへと近づいてくる。


 オクルスは廊下の端へ移動し、通り過ぎる上司、ケールスに向かって完璧な礼と無の感情をさずける。

 しかし、ケールスはオクルスの前で立ち止まると、わずかに赤く腫れているオクルスの左まぶたへ己の眼を向けた。


「オクルス卿。その……左のまぶたの辺りはいかがなされましたか? オクルス卿ともあろう御方が”執行”や”粛正”の遂行にあたりお怪我をなさるとは……はて? そんな大それた不正が昨今ありましたかな?」

 ケールスの眼は今度は天井へ向けられ、監査庁に報告された不正の告発を思い出す。


「これはこれは、お目を汚してしまって申し訳ございません。恥ずかしながら先日、”蜂”に手痛い”ひと刺し”をもらいまして……。これも我が不徳への戒めと言ったところですかな」

 礼と同じ、無の感情で構成された返事を、オクルスはケールスへと授けた。


「そうでしたか、それはそれは。春になり蜂が蜜を集める時期です。どうかご自愛じあいなさってください」

「過分なるお気遣い、感謝の念が絶えません。それでは執務がありますので失礼いたします」

 オクルスは新たな無の言葉と完璧な礼を授けると、ケールスの前からゆっくりと離れる。


 しかし、ケールスはその背中越しに、オクルスという名ではない、いみなの”存在”へ向かって声を届けた。

「ふむ、監査官殿の気を引き締めてくれる


  『”白い雀”蜂』ですか……。


 ぜひとも我が監査庁に欲しい”蜂”ですね。極上の蜂蜜、いや、どうせなら


神の蜜ブラフマー


で勧誘してみましょうかな。ハッハッハ!」


 笑う声にあわせて、ケールスの首につけられた冒険者リング……の元となった《カーストリング》が揺れる。

 そこに表示される数字は”この世に存在できる”中での最高の数字。


  『9999+』


 そんなケールスの無垢な子供のような笑いを、歩きながら無言、無感情で背中に受けるオクルス。

 ケールスの笑い声と気配が消えると、オクルスもケールスの諱を鼻で笑う。


『フンッ! 《梵天ぼんじん風情ふぜいが……』


 それはオクルスが唯一、感情を表に出す”存在”の諱でもあった。

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