第7話 元凶

………


 気が付くと、そこは暗闇の中だった。何も見えない、虚無な漆黒の空間。自分が目を開けているのか、それとも閉じているのか、まるで判別がつかなかった。

 ただし、聴覚だけは確かに働いているらしかった。


『うぐっ…あっ…ああああ!!ぐ、ぐるじ…い…』

『さよなら…私…もう…ダメ…』

『ううっ…嫌だぁ!僕はまだ…し…死にたくないぃ!』

『誰か…タス…け…テ……』


 言葉にならない呻き声、苦しそうな喘ぎ声、悲しみに暮れた泣き声、絶望に満ちた叫び声。そんな無数の声達が、羽虫のように纏わり付いては消えてく。


『小僧!ありったけの薬を持ってくるんだ!早くしろ!』

『まずい…このままではこの子も…』

『何をしとるか!街の皆が苦しんどるのに、休んでいる暇があるか!』

『くそっ!くそっ…!くそおおっ!一体どうしたら良いと言うのだ!』


 時折聞こえるしゃがれた怒鳴り声が、その不協和音をさらに不穏な響きに仕立て上げる。

 暗闇は底なし沼のように、どんどん深くなっていく。それに伴って、阿鼻叫喚も強くしつこくなっていく。


 息が詰まりそうな闇と声に塗り潰されそうになった、その時。

 眩しい光が、唐突に闇を切り裂いた。吐き気のする声も、みるみるうちに小さくなっていく。光はやがて闇を振り払い、全てを包み込んだ。


 最後に聞こえたのは、柔らくて優しい声だった。


「キミにもこれから出来るといいね。キミにとっての、大事な思い出がさ」



 ルシタニウスが目を覚ましたのは、その直後だった。


***


 火曜日の昼。神父は教会の外壁に備え付けられた梯子を、そろりそろりと登っていた。木製の古びた梯子は、一段上がる度にミシミシと嫌な音を立てた。勢いよく登ると、横木がボキリと折れてしまいそうだった。

 梯子は教会の屋上に繋がっている。屋上には小さなドームが設けられており、その天井から青銅の鐘がぶら下がっている。ドームの側面に設けられた隙間から、その古い鐘の姿が見え隠れしている。一般的な教会にあるものより少し小ぶりで、表面には緑青ろくしょうがたかっている。

 鐘が鳴らされる時間は決められていた。平日は正午と日の入りの二回。休日は、平日の二回にミサの開始前の一回が追加される。つまりルシタニウスは今、平日の正午の知らせを告げようとしている。

 この朽ちかけの鐘も、長いこと触れられていなかった。しかし、礼拝堂の大掃除の際、神父が埃や蜘蛛の巣を綺麗に取り払った。血相を変えて掃除をしたのも、彼にとってまだ記憶に新しい事だった。


 ルシタニウスがイベーラに出会ってから、もうすぐ一か月になる。神父は彼女との契約を粛々と守っていた。朝晩の祈祷と礼拝堂の開放、掃除。そして、休日のミサ。それが彼の仕事だ。最初は参拝者が誰も来ないのに活動をするのは馬鹿げていると考えていた神父も、最近はそれも悪くないと思うようになった。部屋に引きこもっていた時に比べて疲れはするが、代わりに生活は思いの外充実していた。精霊は洗濯や食事の用意をしてくれる。活動をしていなかった時に比べて、身体的にも精神的にも楽になったように感じる。最初は彼女を警戒していた神父も、今や少しずつ心を開けるようになった。何だか、あらゆる事が好転しているような気分になった。


 しかし、この鐘を鳴らす一時だけは、その気分は消え去ってしまう。

 梯子を登りきり、屋上に足を乗せる。ルシタニウスは息を整えると、目をつぶってすぅっと一つ深呼吸を入れた。

 ゆっくりと目を開くと、街の廃墟がどんよりと広がっていた。街というより村に近いような、こじんまりとした灰色の集落が、教会の北一帯に広がっている。この場所は、その全容を一望出来る場所の一つだ。

 鐘を鳴らすには、嫌でもその廃墟が目に入ってしまう。そしてそれは、神父の色づき始めた視界を、再び灰色に戻そうとするのだ。


***


 今から六年ほど前。ルシタニウスが神学校の同期達との競争に敗れ、この辺境の地に就任して、半年ほど経った頃。

 国内全土で、史上最悪の流行病が発生した。非常に毒性が強く、一度かかった者は五日も生きてれば良い方だった。

 病は非常に勤勉だった。陸の孤島のようなこの街にも、わざわざその鋭利な毒牙を伸ばして来たからだ。

 サンタ・マリア・イベーラ教会のある百人少々の街で、最終的に生き残ったのはたったの三十人。風が強く硬い荒れ地を耕し、用水路を管理する生活を続けるには、あまりにも少ない人数だった。挙句の果てに、狂った患者の一人が街の共用の井戸に落ちて死んだ。遺体は何とか引き上げたが、井戸は塞ぐ他無かった。生命線の水を絶たれては、生き延びる事は不可能だ。人々は泣く泣く、この街を捨てることにした。


 暗黒の時間は一年近くも続いた。その間教会は、いわゆる病院のような役割を果たしていた。ルシタニウスの上司・ガルべール神父の指導のもと、症状を改善させようと出来る限りの手を尽くした。しかし、彼らの努力は皆、最後は徒労に変わった。神の御加護で病を鎮めようと続けられた毎晩の祈りはいつしか、死にゆく人々が天国に行くことができるよう願う時間に変わっていた。

 そして病は、聖職者も餌食にした。まず、二人いた侍女のうち最年長だったアリアが病に倒れた。それに続いて、ガルベールも犠牲になった。残りの侍女は病気にはならなかったが、やはり今は亡き存在だ。神父が死んだ夜、彼女は金目の物を盗んで逃げ、山道で賊に襲われ殺されたからだ。


 程なくして、ルシタニウスは王国の中央教会からサンタ・マリア・イベーラ教会の神父に任命された。国内の宗教界の力が強く、領土内の教会には必ず管理する聖職者が居なくてはならない。かといって、国中が病による混乱の中、教会の閉鎖や解体を行っている余裕はなかった。それには面倒な手続きと、多くの費用が掛かるのだ。そして、何も無い辺境の教会に派遣出来る人材もいなかった。中央はこの教会を、半強制的にルシタニウスに丸投げした。そして彼の処遇はそれきり、今でも変わっていない。


***


 ルシタニウスがこの廃墟の街に取り残されたのは、こういう訳がある。


 彼は今朝見た夢の事を思い出した。同じような夢を、彼はここ数年で幾度となく見ていた。患者達の苦しむ声と、大切な家族を失った声、そして何とか人々を救おうと躍起になるガルベール。その記憶は、5年も経った今もフラッシュバックしている。

 屋上からの景色は、当時の神父が抱いていた生々しい感情を思い出させた。多くの人が苦しみながら死んでいく苦痛。それを自分には救えないという無力感。明日自分も死ぬかもしれないという恐怖。そして、どんな手を打っても病を止められないという絶望感だ。

 彼個人の思いもあった。出世して同期達を見返すという当初の野望を叶える事が出来ないもどかしさ。どうして自分ばかりこんな仕打ちを受けるんだという怒り。こんなに酷い目に遭っているのに、誰も助けてくれないという虚無感。こうした感情が、ぐちゃぐちゃに入り混じって、絡み合って、彼の心を蝕んでいた。

 だから彼にとって、鐘を鳴らすこの時間は、過去の記憶や感情に心を押し潰されないよう耐える時間でもあった。まるで、夢の中と同じように。


 しかし、今朝の夢は最後の部分が今までとは違っていた。

 「キミにもこれから出来るといいね。キミにとっての、大事な思い出が」

 それは、以前イベーラが彼に言った言葉だ。イベーラは、この教会が始まった日の事を、宝物のように大切にしている。誰かに自慢したくなるような素敵な思い出があれば、確かに幸せになれるかもしれない。


――もし僕にそんな思い出が出来たら、この廃墟は一体どんな風に見えるんだろう?


 そう考えていたルシタニウスは、ふと空を見上げてぎくりとした。白くぼやけた太陽が、薄水色の空の南中に達しようとしていたからだ。いそいそとドームの中に入ると、ドームの南に開けられた小さな穴から日の光が差し込んで、鐘の真下の床にぼんやりとした円形を作っていた。それが鐘を鳴らす時刻の合図だった。神父は近くの耳当てをひっつかんで装着すると、鐘のぜつに繋がる紐を握った。

 紐を強く前後に振ると、その手と鼓膜に強い衝撃と振動を感じた。鐘の音は、閑散とした大地にカラカラと鳴り響いていく。


――本当に僕にも、大切な思い出が出来るんだろうか…。


 紐を何度も振りながら、神父はそう思った。

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