第6話 四百年
***
―――それは不思議な光景だった。
ルシタニウスが目を開けると、そこはベッドの上では無かった。薄暗い視界がゆっくり、前後左右に揺れていた。下を向くと、木箱の中に入れられた深紅の絹布。よく見るとその箱は、太く乾いた手のひらの上に載せられていた。後ろには紫紺の僧服が、上には白く氷柱のように垂れ下がったあごひげが、ルシタニウスと共に揺れている。どうやら彼は、小さくなって箱の中に入れられ、誰かの手の上でどこかに運ばれているらしい。
僧服は低い階段を揺れながら登り、やがての頂上に到達した。そこは祭壇だった。大聖堂にあるような派手なものではなかったが、丁寧に施された装飾、松明の光で煌々と輝いていた。中央には、どこか見覚えのあるピエタ像が鎮座していた。同じように灯に照らされ、神秘的なオーラを纏っている。
ルシタニウスがその光景に目を見張っていると、祭壇の上にもう一人の人物が立っている事に気づいた。赤いシンプルなマントを着た、恰幅の良い男だった。
「それではアフォンソ様、お願い致します。」
白髭の僧服は不意に、赤いマントの男にルシタニウスを差し出した。アフォンソと呼ばれた男は小さく「うむ」と言い、神妙な面持ちでそれを受け取った。一瞬支えを失ってヒヤリとしたが、彼の白い手袋がしっかりとルシタニウスを支えてくれたので直ぐに安定した。
アフォンソは木箱を受け取った後、目をつぶって俯いた。緊張しているのか、その表情はこわばっていた。そして、小声で、しかしはっきりとした口調で言った。
「非力なる我らに、勤勉なる彼らに、慈悲を与えたまえ」
すると今度は、ルシタニウスの身体がふわりと浮き上がった。同時に、視界が強い光に包みこまれた。思わず「わっ」と言いそうになったが、声は出なかった。
光が切れると、彼の視点は天井の高さにあった。下を見下ろすと、光を浴びた祭壇と、対照的にほの暗い礼拝堂の中を一望できた。神父とアフォンソは、祭壇の目の前で祈りを捧げていた。アフォンソの前に置かれた台にはお馴染みの木箱。木箱の中には、既視感のあるカラフルな王冠。
二人の後ろには、決して広いとは言えない礼拝堂に、人がぎゅうぎゅう詰めで集まっていた。豪華な礼服を着ている者はおらず、大部分がくたびれた農民の出で立ちをしていた。自分の持っている服の中で最もマシなものを、と思い思いの服装をしているような印象だ。彼らは祭壇の二人の同じように頭を垂れ、ロザリオを持って一心に祈りを捧げている。―――
***
「おかえり〜」
目を開けると、ルシタニウスは部屋のベッドの上にいた。見慣れた窓に、見飽きた天井。そして、お馴染みの白いベッド。深紅の絹も、紫紺の僧服もどこにもなかった。
「…い、今のって…」
神父はイベーラに、目をパチパチさせながら訊いた。したり顔の精霊は、神父の枕元あたりで膝をつき、ベッドに頬杖をついた。
「今のはね〜…アタシの最初の記憶なんだ。」
「…」
ルシタニウスは絶句した。ひょっとして、とは思っていた。しかし、いざそれが本当だと聞かされると、自分の身に起こった事を上手く信じられなくなった。
「そう言えばキミって、この教会が何年前からあるか知ってる〜?」
「え……いえ、知らないです。」
「実はね~、今年で丁度四百年目なんだよ。」
「ええ!?そうなんですか?」
ルシタニウスはベッドから飛び起きた。胃の中のスープが、大波を立てて腹に打ち寄せる。奇しくも今年が、そんな節目の年だったとは思いもしなかったのだ。
「そうなんだよ〜。だからさっき見て貰ったのは四百年前の、この教会の一番最初の日。」
「よ、四百年前…」
神父は途方に暮れたように額を抑えた。頭がくらくら回り出しそうだった。四百年も昔の光景を見る事など、誰にも出来ない筈だった。しかし彼は、先程それを見てしまったのだ。
精霊が言うには、サンタ・マリア・イベーラ教会が設立された日、街人総出で祝賀の儀式が行われた。アフォンソという人物は教会の設立発起人で、かつて街を治めていた領主だった。彼の居城は別の場所にあり、元々街の人々は礼拝や上納のために定期的にそこを訪れていたそうだ。しかし、アフォンソはこの地域の人達が熱心に働いているという理由から、この教会を街に寄進したのだという。
「随分寛大なお方ですね…」
ルシタニウスは話を聞いて、昔はそんな領主もいたのかと感心した。現代の領主は皆、基本的に自分の贅沢の事しか考えていない。
「うん…。だからこの街の人はアフォンソ様を慕っていたし、彼がくれたこの教会も大好きだったんだ。」
「そんな昔話があったなんて…」
そう零した時、ルシタニウスはある事を思い出した。
残った街人は移住先へと出発する前、皆この教会に立ち寄っていた。一人残らず、全員挨拶に来たのである。教会の入り口は、人々の家財道具で溢れかえっていた。そして皆、まるで住み慣れた我が家のようにこの教会との別れを惜しんでいた。
「じゃあ、ここは何百年も街の人々に愛されて来たんですね。」
「お、分かってるね〜!だからあれはアタシにとって、とっても大切な記憶なんだ。」
イベーラは嬉しそうに、ベッドの端にどしんと座った。
「祭壇、綺麗だったでしょ~?」
「はい…あんなにピカピカだったんですね」
「そりゃ新築の頃はね〜。でも今はなぁ…一回、誰かさんが埃だらけにしちゃった訳だし〜?」
「…言って置きますけど、僕が来たばかりの頃だってあの祭壇ボロボロでしたからね!」
「あれ〜そうだったっけ〜?」
かぶりを振ったルシタニウスに、イベーラはとぼけた声を上げる。
「そうですよ…勘弁して下さいって…」
「あはは!ごめんごめん、冗談だよ冗談〜」
楽しそうに笑う精霊を尻目に、神父は深い溜息をついた。もはやこの精霊、たじろぐ神父を見て楽しんでるだけなのかもしれない。
「ねえ、もう一つだけ訊いてもいい?」
「は、はい…?」
不意に質問され、神父は額の汗を拭うのを止めた。
「…キミの一番大事な思い出って、何?」
「僕の、一番大事な思い出…?」
神父はぽかんと口を開けた。
「うーん、大事な思い出か……何でしょう……」
ルシタニウスには思い出したい記憶よりも思い出したくない記憶の方が多い気がした。もちろん、楽しかった記憶もあるにはあるが、他愛もなく特段大事にするような物のようには見えなかった。そもそも「大事にする」ような思い出とは、一体どういうものなのだろうか?
「…難しい?」
「はい…すみません。考えた事も無かったんで…」
「う〜んそっかぁ〜…」
精霊は残念そうに、自分の短い髪を両手で抑えた。
「でもさ、キミにもこれから出来るといいね。」
イベーラはそう言うと、すっくとベッドから立ち上がった。そして神父の方を向いて、目を閉じて笑った。
「キミにとっての、大事な思い出がさ。」
ルシタニウスがその言葉を上手く咀嚼出来ずにいる間に、精霊は窓のカーテンを開け放った。外はやや薄暗く、オレンジ色の西日が地面を照らしていた。
「もう日が傾いてきたね〜」
「えっ…本当だ、もうそんな時間か…」
我に返ったルシタニウスは、ベッドの上から身を乗り出して窓の外を確認した。
「時が経つのはあっと言う間だね〜…。よし!今日はアタシも疲れちゃったし、早めに寝よっか!」
イベーラは気持ちよさそうに伸びをした。
「そうですね。僕も何だか疲れました…」
思えば、今日の彼はイベーラに驚かされっぱなしだった。ネンシュツされたスープに、何百年も前の光景。食事のお陰で体は休まったが、頭の中はかなり混乱していた。それに、今日ほどじっくりと、自分の身の上を他者に話すのは初めてだった。だから余計に神経を使ったのだろう。
「ふふっ。それじゃ、明日から頑張ろうね〜!」
「…はい!」
そのルシタニウスの返事は、彼にとってここ数年で一番元気のある返事だった。
イベーラは手を振りながら、部屋から出て行った。その足取りは、いつにもなく軽やかだった。
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