第4話 思い出の味


「いや~お疲れ様!キレイになったね〜!」

「……疲れた」

 清々しそうなイベーラの声に、ルシタニウスは擦り切れた声で応える。


 二人のいる礼拝堂は見違えるようだった。息が詰まるような埃や蜘蛛の巣はすっかり払われた。壁や床のひびは目立ったが、かつての荘厳な雰囲気は蘇っていた。

「おかげでアタシも身体が軽くなったよ〜」

 掃除を進めていくうちに、精霊の動きは日に日に健常に近づいていた。今や精霊は、神父の目の前で野うさぎのように跳ねている。

「キミには感謝してもし切れないな~!本当にありがと!!」

「い、いえ。そんな大袈裟な…」

「大袈裟じゃないよ~!いやあ、自由に動けるってこんな楽しいんだね!」

 そう言って彼女は、神父の前でくるりと一回転してみせる。重みも痛みも無く身体を動かせることを、心底楽しんでいるようだった。

 長い間王冠の中に閉じ込められていると「動ける」ということがそんなに嬉しく感じるのだろうか?彼は不思議に精霊を見つめた。


 ひとしきり動き回った後、不意に精霊はピタリと立ち止まった。手をぽんと合わせ、鼻から息を吐き、目をキラキラさせながら神父の方を向く。

「よし!!それじゃあお返しの時間だ!」

「……契約のですよね。」

「そ!実はもう準備してあるんだ~」

「一体何なんですか?お返しって…」

 張り切る精霊に、神父は訊いた。よく思い返せば、彼はまだどんな見返りを貰えるのか具体的に知らされていなかった。

「来ればわかるよ。さあ、早く早く!」

「うわっ!?ちょ、ちょっと!!」

 イベーラは唐突に彼の手を取った。そして強引に、ぐいぐいと裏戸へと手を引いた。


**


 母屋の一角のとある部屋で、ルシタニウスは口をあんぐりと開けていた。


 その部屋は、かつて教会関係者の食堂だった場所だ。神父が一人になって以来使っておらず、そこは荒れ放題になっていたはずだ。しかし、今や部屋には埃も塵もどこにも見当たらず、家具や道具も新品同然になっていた。

「神父ルシタニウス。あなたは契約を破らず、真摯に働いてくれました。よって、精霊イベーラはあなたの生活を保障します…ってことで、まずキミにはお腹一杯になって貰うよ!」

 精霊は、部屋の隅にある食卓を指差して言った。その上には大きな鍋があった。白い湯気と濃厚な香りが、ゆらゆら立ち上っている。

 それは、昔よく食堂で出されていたポタージュスープだった。色合いも匂いも、かつてのものと全く同じのようだ。


「どう?びっくりしたでしょ~?」

 イベーラは驚いて声も出せない神父の顔を得意げに覗き込む。

「…い、いつの間に…どうやって!?」

「キミがお堂にいる間に掃除したり、鍋が壊れてたから治したり。」

 神父は絶句した。精霊は三日前まで杖が手放せない状態で、霊力も限定的にしか使えなかったはずだ。それなのに、毎日食堂の前を横切る神父に全く悟られること無く、そんな準備を進めていたのだ。

「料理はお堂に行く前に捻出したんだ。」

「…ネンシュツ?」

「アタシはずっとお堂の中にいたからさ、本当の料理のやり方はよく知らなかったんだよ~。でも、こんな紙があってね~」

 精霊は懐に入れていた小さな紙を取り出した。それは、かつて従者たちが食事を作る際に使っていたらしいレシピのメモだ。簡単な図を交えて、材料や作り方が詳しく書かれている。

「ここに書かれているものを、霊力で出現させたって感じ。」

 結局、ルシタニウスには「捻出」がどんな行為なのか上手く想像出来なかった。しかし、彼女が常識では考えられない方法で料理を作ったことだけは確かだ。

 そんな事を考えていると、神父の腹が突然ぐるぐると鳴りだした。自分の腹の虫などもう死んでしまったのだと思い込んでいた。しかし虫は人知れず生きていて、食堂の隅にいてもはっきり聞こえる程大きな鳴き声を上げた。

「そろそろ我慢の限界かな?それじゃ〜早速食べてみてよ!」

 精霊は顔を真っ赤にする神父を、ニヤニヤと見つめた。


 イベーラは神父を食卓に着かせると、スープを空の器に盛り付けた。

 ルシタニウスは食前の祈りを済ませた後、スープが注がれた器を震える手で唇に当てた。恐る恐る器を傾けると、まろやかな香りと滑らかな味が、口いっぱいに広がった。久しぶりの強い味に、舌の付け根が痛んだ。ごくんと飲み込むと、汁は彼の渇いた喉と、萎びた胃へと流れ込んだ。その温かさは、彼の体を内側からじわじわと広がった。

 幸福な感覚を味わっているうちに、彼の視界が徐々にぼやけ始めた。頭もぼんやりとし、思考が曖昧になる。彼の横に立つ精霊の姿が、みるみる遠のいていく…


………


「まったくだらしない!こんな大変な時分に何杯も食いおって!」

 神父は嗄れた怒号で目を覚ました。

 辺りを見渡すと、神父は同じ食堂にいた。しかし、そこには精霊はいなかった。

「いいか!貴様がそうしとる間も、街の人々は苦しんどるんじゃぞ!もっと自重せんか!」

 声の主は高齢の男性だった。紫色の僧服を着て、向かいの席に座って彼を厳しく叱責している。

「神父、食欲があるのは若い証拠です。お説教の度が過ぎますよ。」

 そう言ったのはテーブルの横に立っていた初老の女性だった。頭巾を被っており、簡素な服装をしている。

「アリア、こやつを甘やかすでない!」

「ここは高齢の者ばかりなのですよ?若者には力を発揮して頂かなくては困ります。ですから、しっかり食べて栄養を付けて頂かないと。」

 アリアと呼ばれた従者は、吠える老人を早口で諭した。そんな感情論には付き合う余裕はない、と言いたげだった。

「恐縮ですが神父…午後も全力でお手伝いさせて頂きますゆえ…」

 突然、ルシタニウス自身の声が聞こえた。彼の声は従者の作った会話の流れを崩さぬよう、おずおずと神父に許しを乞うている。

「全く、どいつもこいつも…ええい!もう好きにせい!儂は礼拝堂に戻る!!貴様もそれを食い終わったらさっさと来い!!」

 記憶の中の神父はゆっくり立ち上がり、ひとり食堂を後にした…。


………


「…い、お〜い!」

 意識が戻ったのはその時だった。イベーラは神父の肩をゆさゆさと揺すっていた。

「お、やっと気がついた。大丈夫?急に抜け殻みたいになってたけど…」

「…すみません。昔の事を思い出してて…」

「な~んだそうだったのか!良かった~」

「…あの、すみません。」

 神父は、安堵する精霊に訊いた。

「どうしたの?」

「これ、お代わりしてもよろしいですか?」

「…もちろん!好きなだけ食べて!」

 精霊は嬉しそうに笑った。その表情には、一点の曇りも無かった。食堂にはかつてのような、怒号も叱責も、差し迫った危機感も、ギスギスした焦燥感も無かった。

「…ありがとうございます。」

 神父はスプーンを持ち、スープに入っている玉ねぎやエンドウ豆を急いで口にかき込んだ。

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