第3話 契約
「あちゃ~、こりゃ痛そうだね…」
時を再び動かしたのは、彼女の声だった。翡翠の眼は左手でルシタニウスの伸びきった前髪をかき分け、額の傷に視線を注いでいる。神父は激しい頭痛と動悸で、呼吸を続けるのに精一杯だった。
「しばらくじっとしてて。」
「……っ!!」
彼女はそのまま、瘤の中心に指を伸ばして来る。ルシタニウスは反射的に目をつむった。
しかし、次に神父が感じたのは痛みではなかった。温かい指の先からドロドロした何かが吸い出されていくような、不思議な感覚だった。
「よし!これで大丈夫」
程なくして彼女の指が離れると、その感覚は終わった。すると神父は、のしかかっていた頭痛が消えていることに気づいた。恐る恐る空いた手で額を擦ってみても、痛みも瘤の感触も無かった。
「…今のは?」
「治療だよ。感心した?」
顔を上げると、彼女は得意げに笑っていた。
額に流れた汗を手で拭う彼女に、ルシタニウスは何も返事できなかった。確かに痛みは消えたが、思考力が一気に回復して余計に頭が混乱した。突然人の形をした得体の知れない何かが現れ、真上から落ちてきた。それは完治に何日もかかる傷を短時間で癒し、今は自分の目の前で爽やかに笑っている。
全てが理解の範疇を越えていた。
「あなたは、一体…?」
彼女は上体を起こし、膝立ちで腕を両の腰に当てた。
「アタシはイベーラ。よろしくね、神父ルシタニウス」
***
翌朝。ルシタニウスは頭を搔きながら、礼拝堂の祭壇の前で立ちつくしていた。古い木製の脚立の横で、薄汚れたハタキを持って。
埃で凹凸の無くなった聖母。汚れて光を通さなくなったステンドグラス。蜘蛛の巣の張ったレリーフ…
この積もれば魔の山になりそうな塵を処理すること。それが今の彼の使命だ。
――まさかこんなことになるなんて…
「ちょっとぉ、何ぼけっと突っ立ってんのさ〜。早く始めようよ~」
怪訝そうな声が間延びする。頭巾をしたイベーラが彼のすぐ後ろに立っていた。彼女は箒の
「あ…す、すみません」神父は頭を掻いた。
「急いでやらなきゃ、一週間で終わんないよ~?」
「い、一週間!?これを!?」
「そ!ちょっとくらいキツめの計画立てた方が丁度いいじゃん?」
「そ、そうですけど…いくらなんでも厳しすぎますって…」
「そうだよね~。だからホントはアタシも心苦しいんだよ?でもねえ聞いてよ~。5年間もお堂をほったらかしにしたイケない子がいてさぁ~」
「ぐっ…」
「しかも昨日なんて、聖母様に乱暴なことしてたんだよ?酷いよねえ~」
彼女はしたり顔で迫ってくる。
「……本当に、申し訳ありませんでした」
握られた弱みを漏らさず使われては、頭を下げる他ない。
「ははは、冗談だよ!」
「…へ?」彼は顔を上げた。
「もうちょっと動けるようになったら手伝うし、ちょっとぐらい遅れても怒らないからさ。とにかくやってみようよ!ね?」
イベーラは、きょとんと項垂れる彼を覗き込むようにして言った。
「……わかりましたよ…本当に怒らないで下さいね?」
「ひひっ、わかればいいのだ!」
彼女は笑って、神父の肩をポンと叩いた。
「それじゃ、アタシ先に母屋の整理してくるね~!キミはまず、上の方のゴミ落とすこと!」
「あ、え…はい…」
「サボったら承知しないぞ~」
そう言って、彼女は裏口に向かった。箒の杖を突き、足を引きずりながら、ゆっくりと。
「……わかってますよ…」
彼女が裏戸を閉めた後、彼は一つため息をついた。
**
額の怪我を治してもらった後、ルシタニウスとイベーラは契約を交わした。
彼女は悪魔では無かった。この教会の守護のために遣わされた精霊・イベーラ。神から授かった霊力を使って、異端者の魔術じみた芸当ができる。傷の治療もその能力の一つだった。
精霊の力は、宗教活動によってその効果が強くなるという。しかし、ルシタニウスは長らく―彼女によれば5年もそれを怠っていた。その影響で、彼女は今、霊力は本来の半分しか使えない上に、下半身を上手く動かせない。それには、彼女自身が肉体に慣れていないことも影響していた。
そこで、神父は教会の活動を再開する。その代わり精霊は、霊力を使って神父の生活と安全を保障する。それが契約の内容だった。
契約の話を聞いた時、ルシタニウスは最初は断るつもりだった。やはり来客もいないのに礼拝堂を整備してミサを催すのは不可能だし、そんな徒労をしなくてはならないのは理不尽だと思えたからだ。
しかし、彼の重い腰は精霊にまんまと持ち上げられてしまう。
「そ・れ・に!これはキミにとってチャンスでもあるんだよ~!」
神父が渋っていると、精霊は目をギラギラさせながらそう言ってきた。
「あんま詳しくは言えないんだけどさ…精霊の役目の一つは、教会で信者たちの行動をじっくり見て、真面目に信仰してるかチェックすることなんだ~。チェックした内容は全部神様に報告して、『審判』の時に神様のご判断に役立てるの。だからこの教会で起きたことは大体全部把握してるのよ~。アタシがキミのことを知ってたのもそういうワケなのさ!」
「審判」は遠い未来に起こると信じられている出来事だ。世界の終わりに全ての死人が神の前で生前の行いを裁かれる。良い行いをした者は「天国」という楽園で幸せに暮らせる。逆に、悪い行いをした者は「地獄」に落とされ、そこで惨たらしい苦行を受けることになる。
神父は閉口した。「審判」のためにそんな周到な準備が行われているとは考えたこともなかったからだ。それに、彼女はその「審判」で重要な役割を担っている。自分の目の前に現れたのは、どうやらとんでもない重役らしい。
「それでね、すごく意地悪な質問になっちゃうけど~…今のキミ的にさ、キミは天国に行けそうだと思う?」
「…!?」
精霊の質問に、神父の背筋は凍てついた。
一人になってからというもの、彼は不思議と「審判」での自らの判決のことを考えずにいた。しかし、いざそれを想像してみると、その結果は明らかに絶望的であることに気づいたのだ。
「……正直、自信無いです」
「それはどうして?」精霊は静かに訊いた。
彼は罪を告白した。神父の責務を怠り、いつまでも寝て過ごしたこと。礼拝堂を埃まみれにしたこと。教会の酒をみだりに飲んだこと。御神体の聖母像に物を投げつけたこと…
「そっか…確かにそういうの、神様は嫌うかもしれないね…。でも、キミも地獄に行きたいワケじゃないでしょ?」
「も、勿論です!」
小さい頃から、地獄の惨さは散々聞かされてきた。それに、神父になった以上は地獄になど堕ちたくはない。それだけは彼の恐怖心と危機感が譲らなかった。
「それならさっきの約束、結構良い話だと思うんだ~!約束きっちり果たしてくれたら、そのことを報告できるじゃん?悔い改めてここまで頑張りました、って。そしたらきっと、神様もプラスに考えてくれるはずだよ!」
「そ、そうでしょうか…?」
「そうだよ~!それに…」
「…!?」
彼女は急に神父に近寄った。すると、口に手を添えて、耳元でこう囁いた。
「…ここだけの話、神様そういう改心話に弱いから」
**
結局ルシタニウスは、イベーラとの契約を結ぶことにした。
今でも彼はやはり、契約内容の重さには
それに、神父の仕事を止めたことによって自責の念と自己嫌悪が募っていたのも事実だった。酒を飲むようになった原因もそれだった。だから、この契約によってその心の痛みも、幾らか良くなるかもしれないと思ったのだ。
こうして彼は今、礼拝堂の清掃に取り掛かっている。それは教会活動の再開においても、霊力の回復においても第一の関門になっていた。
ギシギシ揺れる脚立に、重い脚を乗せる。その一番上に立つと、ピエタ像と同じ背丈になった。その額の埃は、昨日王冠のぶつかった箇所だけ円形に禿げ落ちていた。顔をしかめて痛みを訴えているように見える。昨日の彼にみたいだった。
ルシタニウスは、聖母の埃を落としてやることにした。
精霊が昨日、彼にそうしたように。
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