第2話 忘れられた神父

 

 ルシタニウスが埃だらけの礼拝堂に足を運んだのは、つい昨日のことだ。


 その目的は教会の主らしい、祈りや説教ではなかった。簡単に言えば「宝探し」だ。

 彼は酒が飲みたかった。貯蓄は既に空にしてしまった。あと数週間すれば本部からミサ用のワインが支給されるが、それも待てなかった。貯金も皆無だった。彼が今すぐに酒を買うには、金目の物を売る他ない。こんなにちっぽけで古くても、教会は教会。権力者の牙城だ。だから、何かしら価値のある物が隠されているかもしれない。彼はそう思って、もう何年も開けていなかった礼拝堂に乗り込んだのだ。


 そんな姿を誰かに見られたら、彼は間違いなく咎められるだろう。しかし、そういう人は現れない。この教会を運営しているのは彼一人だ。祈りに来る信徒もいない。ここから一番近い街まで、徒歩で半日。周りにあるのは森と草原と、岬と廃墟だけ。何の魅力も無いこの地に、それだけの労力を使ってやってくる人間はまずいない。

 街が廃墟になった後、神父は教会活動を放棄した。誰も人が来ないのに、律儀に活動をしても意味が無いと考えたからだ。それに、彼は当時へとへとに疲れていた。「とにかく今は休む必要がある。」それが彼の口実だった。

 時間は彼の疲れをほぐしたが、その代わりじわじわと後ろめたさを植えつけていった。やはり神父として、職務を全うすべきなのではないか。罪悪感は毎日、休む事なく募っていく。しかし、思い立った頃には既に礼拝堂は埃だらけになっていた。一人で片付ける気力も出ず、結局諦めてしまった。自己嫌悪はどんどん強く彼を締めつけていった。

 しかし酒に酔うと、そんな苦悩は幾分か和らいだ。それだけが彼の心の支えだったのだ。

 離れは既に捜索したが、目ぼしいものは無かった。礼拝堂は最後の切り札だった。

 埃だらけになる決心は、十分についていた。


 夕方。彼は祭壇の前で肩を落としていた。


 彼は、古ぼけた王冠を手にしていた。その日唯一の収穫物である。祭壇の裏側のくぼみにはめ込まれていた。オレンジ色のクッションと、錆びた骨組み。頂上には小さな赤い十字が象られている。頑丈そうだが、宝飾品の類はどこにもついていない。売っても大した価値になりそうになかった。

 祭壇を見上げると、中央に鎮座するピエタ像が彼に目を向けていた。救世主を抱いた聖母の顔は埃に埋もれ、まるで素人の作りかけの石膏像のようだった。

 

 聖母の試練は過酷だった。訳も分からないまま陸の孤島に幽閉されて、他の誰からも忘れられ、何も出来ないまま時間を食い散らかす。癒しすら手に入れられず、埃だらけで惨めな気分にならなくてはならない。何もかも思い通りにいかなかった。

 聖母はそんな神父を、救いもせずただ見下ろしていた。彼はそれが気に入らなかった。にわかに腹の底からマグマが噴き出す。


「畜生!」


 気づけば彼は、王冠を像に投げつけていた。久しぶりに振った肩がきしんだ。王冠は放物線を描き、聖母の頭に直撃した。という大きな音が虚空に響く。王冠はと落下した。

 噴き出したマグマは、彼の心を焦がしていた。


 しかし、肩と心の痛みに浸っている時、彼は不意に異変を感じた。

 衝突してしばらく経っても、衝突音が鳴りやまないのだ。むしろ残響はどんどん大きくなっていく。


 すると、突然聖母の顔が閃光に包まれた。音量は最高潮に達していた。神父のあんぐり開いた口が、眩く照らし出された。

 やがて光は人の形を作り、やがて実体となった。光に包まれた少女が、手を横に広げて宙に浮かんでいる。


 神父が呆気に取られているうちに、光と残響はするすると小さくなった。そして、光と音が完全に消えたその時――


「あっ、危なあああい!!」


 重力を受けた身体が、悲鳴を上げながら神父のもとに落ちてくる。彼は動こうとしたが、身体が咄嗟に反応しなかった。

 自由落下の加速度を肩に受けた時、よろけていた彼はうつ伏せに倒れこんだ。彼の額は丁度、床に落ちていた王冠に直撃した。


 額の傷はこうして出来たのである。


***


「な、なな、何者だ!!」


 ルシタニウスは喘ぐように、彼のベッドから起き上がったに言った。彼は胸ポケットにしまってあったロザリオを、震える手で相手にかざしていた。空腹のライオンの前で、怯えながら剣を構える奴隷兵の気分だった。


 は、ごく普通の少女のようだ。今は目を擦りながら、「う~ん…」と眠そうな声を上げている。しかし、見た目が普通でも、光の中から出てきた時点で得体の知れない存在であるに違いない。

 服装も特殊だ。オレンジ地で胸の中心に赤い十字の入ったシャツを着ている。シャツの裾は広く、ベージュの短いズボンはほとんど隠れている。そのズボンからは、ほっそりとした素足が顔を出している。


「…あ、なんだキミかぁ!おはよ~」


 やっと彼が認識できたのか、はゆっくりと反応した。

 そのまったりとした挨拶に、ルシタニウスは拍子抜けした。


「昨日はごめんね~。ホントはキミをここまで連れてきたかったんだけど、全然力が入んなくてさ~。とりあえず仰向けにして、毛布でも掛けてあげようと思って何とかここまで来んだけど、そのまま寝ちゃったみたい。」

 は茶色の髪の跳ねた部分を撫でつけながらはにかんだ。彼と長年の付き合いがあるかのような口調だ。それは彼にとって不気味でしかなかった。


「し、質問に答えろ!いったい何者だ!!?」

「何者って…?あ、そっか!キミはアタシのこと知らないのか!!」

 はひらめいたように声を上げた。大きな目はハッと見開かれる。

「そっか~!随分前からキミのこと知ってたから、すっかり忘れてたよ~」

「何だって!?い、いつから!?」

「いつから、かぁ。う〜ん…キミが最初にここに来た時から?」

「!?」


 ルシタニウスの頭の中は、更にぐちゃぐちゃになった。

 彼にとっては、言わば未確認生物だ。面識など明らかに無い。


――なのに、そんなに前から僕を知っていた?僕に全く知られずに?どうしたらそんな芸当が出来るんだ?それに、僕がここに来た時を知るヒトなんて、もう…


「よいしょ…いてて!まだちょっと痛むなあ…」

 彼が考えている隙に、はベッドから降りていた。上手く歩けないのか、手を前に軽くつきながら、膝を使って彼に近づいてくる。血統の良い猫が、優雅に歩いて来るようだった。


「ちょっ!…く、来るなっ!!…と、うわっ!」

 彼は情けなく尻もちをついてしまった。後ずさりしようとして、足が縺れたのだ。急いで後退したが、すぐ後ろの壁に退路を断たれた。

 は彼の目の前にいた。彼は目を背けて、十字を突き出すことしかできなかった。

「そんなに怖がんなくたっていいじゃんよ~。悪霊じゃあるまいし」

「ち、違うのかよ」

「違うよ〜!悪霊だったらその十字架見てとっくに逃げてるって」

「そ、それはそうだけど…っ!?!!?」

 は突然、ロザリオの十字を彼の左手ごと握った。


「な、何を!?」

「いいから、じっとしてて」

 はそのまま、握った手を彼の体の方にゆっくりと押した。

 力の抜けた腕は容易く曲げられ、彼の胸に押しつけらた。腕どころか、全身に力が入らなくなっていた。それがの魔力の仕業なのか、もう長らく感じていなかった体温の柔らかさの仕業なのか、わからなかった。


 みどり色の澄んだ瞳が、彼の顔を覗き込んだ。


 時間は歩みを止めたらしかった。

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