ピエタの残骸

伊場 敬@あれんすみっしー

第1話 最悪の目覚め


―――


 色の無い朝の日射しが、ルシタニウス神父の瞼をこじ開けた。

 定まらない焦点。ほこりの臭い。鳥の鳴き声が頭に共鳴する。


 感覚が戻ってくると、彼ははっとした。今の今まで、自分が最悪な場所で横たわっていたと気付いたからだ。

 古ぼけた教会の、古ぼけた祭壇の真ん前というスペースを、好き好んで臥床にする者など一人もいないだろう。彼だってそうだった。彼が寝る場所は、この建物の中で唯一清潔に保っている自分の部屋のベッドと決まっている。そのベッドも決して豪華なものではないが、こんなにも固く冷たい、埃だらけな床よりは断じて良い代物だ。


「どうしてこんな所で…」


 挨拶代わりの僻言ひがごとを吐きつつ、仰向けから身体を起こすと、腰が嫌な音を立てた。尻もヒリリとうめき、手足も冷えて痺れていた。頭にはズキズキとした痛みが突き刺さっている。とどめは、起き上がって重力を持った鼻水だった。鼻の中をこそばゆく流れ、気付けばくしゃみを2、3発放った後だった。

 視界はぼやけたままだった。目を擦ると、睫毛に付いていた目やにが粉のように落ちた。

 気分は最悪だった。最悪の場所で、最悪の体調で目覚めたのだ。

 本当に、なぜこんな所で眠っていたのか?彼は真面目に思い出そうとしたが、成果はなかった。考えれば考えるほど、頭痛が脳の更に深い所をえぐっていく。


 それに、手が鼻水や目やにで汚れてしまっては心地が悪かった。とにかく彼は、今は顔を洗うのが最優先だと考えた。そうすれば、頭も冴えて昨日のことも思い出すだろう、と。

 ルシタニウスはため息をついて、よろりと立ち上がった。


***


 灰色の礼拝堂を裏戸から出て、しなびた井戸から水を汲む。


 サンタ・イベーラ教会は、山に囲まれた岬のつけ根に位置している。そこは言わば、モザイクの境目だった。

 敷地の南側は痛々しい波が打ち付ける断崖の岬。東は鬱蒼とした森の終わりで、西は広く荒廃した草原の始まり。そして北には廃墟の街が、捨てられた瓶のように横たわっている。

 絶壁からの冷たい風が、彼の長い髪を揺さぶり、内陸の平原の方へ駆ける。風はあらゆるものの色を奪って走り抜けていった。空は晴れていたが、草原も、太陽も、くすんで輝きを失っている。いつも通りの光景だった。


 引き上げたバケツを地面に置き、冷たい水を掬って顔にかける。まずは鼻水だらけの鼻の下、次に目やにだらけの目を擦った。概ね汚れが取れたところで、仕上げに顔全体を擦ろうとした。


「痛っ……!?」


 それは額に触れた時だった。

 突然の、電撃を受けたような激痛。それは、今まで感じていた頭痛とは明らかに種類が違った。皮膚の神経の悲鳴だった。

 恐る恐る再び額に触れてみると、また例の痛み。

 ルシタニウスは、バケツに顔を近づけ、水にぼんやりと映る自分の顔を覗き込んだ。


「な、何だよこれ!!?」

 彼は叫んだ。

 水の中の灰色の彼は、丁度眉間のすぐ上あたりの部分を腫らしていた。それも、一目でわかるほど大きく腫れ上がっている。少なくとも、冷たい水でゴシゴシ洗って只で済むような代物ではない。


――本当に昨日、何があったんだ?


 あまりの気味の悪さに、ルシタニウスはもう一度記憶を遡ろうとした。しかし、それはやはり上手くいかなかった。頭痛はひどくなる一方だ。今度はくらくらと視界が歪んできた。

 痛みと気分に負けた彼が出した結論は、少なくとも今日はまともな活動は出来そうもないということだった。と言っても、普段から大した活動はしていない。聖書をパラパラめくる日もあるが、大概はぼーっとしたり、パンをかじったりしているだけだ。しかし、今は寝ることだけに集中した方がよさそうだった。

 腫れ物に触れないよう慎重に顔を拭き終わると、彼はふらふらと立ち上がった。一刻も早く自分の部屋に行きたかった。そこには、あのベットがある。あんな最低な祭壇などとは違って、柔らかくて、温かくて、枕だってちゃんとついているベッドだ。そこで寝れば、多少は気分もよくなるのではないか。


――もう、何でもいいや。何もしなくたって、誰にも怒られやしないんだし…


***


 ルシタニウスの部屋は、教会の離れにある。それは教会の裏口の目と鼻の先にあり、裏口と離れの入口は石畳で繋がれていた。井戸は離れのさらに裏手にあるため、今回は少し遠回りして建物に入る形になる。

 入口の物置きスペースにバケツを捨てるように置くと、ふらふらと奥の自室を目指す。床を一歩踏みしめる度に、彼の頭痛は限界に近付いていく。

 目当ての茶色い扉を開けると、部屋の隅にベッドがあった。先ほどから何よりも待ち望んでいたものだ。一刻も早く、そこに倒れこんでやる。そう決心していた。そのベッドを注視するまでは。


「………」


 甚大な違和感が、彼の足を止めさせた。その代わり、傷だらけの脳が悲鳴を上げながら高速回転を始めた。


 無人のベッドというものは、掛け布団がこんなに立体的に膨れ上がっているものだったろうか?

 そして、スースーと音を立て、もぞもぞと動くものだったろうか?


 泣き喚く額を宥めるのに苦心した。しかし、このベッドの上に「何か」が「いる」のだとすれば、ただ事ではない。恐る恐るベッドに近寄り、掛け布団の端をめくった。


「う、うわあああああああああああ!!!!!」


 ルシタニウスは思わず飛び退いた。


 自分はまだこんな大声で叫べたのかと、彼自身もじんわりと驚いた。しかし、今はそんなことを考えている場合ではなかった。突然酷使された肺は、ズキズキと痛みながらもせわしなく息を出し入れする。


「う~ん…何だよもう~」


 「何か」は、気だるげに起き上がった。


 ルシタニウスは、昨日起きた事を全て思い出していた。

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