飛べない天使が笑った日。

星名柚花@書籍発売中

飛べない天使が笑った日。

 青空の下、私は崖の上に立っていた。

 柔らかな春の風を全身で感じながら、背中に力を込める。

 肩甲骨の内側、翼の付け根を意識し、ばさりと大きくはためかせる。


 今日こそは。今日こそは、あの空へ!


 強くそう念じて、崖から跳ぶ。

 でも、灰色の翼は意思に反して風を掴んでくれず、私は数メートルの距離を墜落した。


「大丈夫!?」

 同胞から、人間から、嫌になるほど浴びせられてきた嘲笑の幻聴を掻き消すように、クリスが駆け寄って来る音がする。


 ――ああ、今日も、空は遠い。



「大げさじゃない?」

 街の一角にあるエーデリア家の屋敷で、私は右腕を見下ろした。

 酷く擦りむいた腕には包帯が巻かれている。


「ちっとも大げさじゃないよ。飛行練習に励むのも良いけどさ。女の子なんだから、無茶はやめなよ。崖から落ちるのはこれで何回目?」

 手当てに使った道具を片付け、怒り顔のクリスが私の前に座った。

 崖から落ちた回数など覚えていない。

 逃げるように目を逸らすと、クリスがため息をついた。


 一ヵ月ほど前に十六になり成人を迎えた彼は、このエーデリア家の一人息子。

 金髪青目の美青年で、高名な医者を父に持つ医者の卵でもある。


 私はちらりと彼の顔色を窺い、その怒りを和らげるべく弁解した。


「……迷惑をかけて悪いとは思ってるのよ。でも、仕方ないじゃない。有翼種族として生まれた以上、私は飛ばなきゃいけないの」


 私は人間たちが「天界」と呼ぶ、空に近い場所で、有翼種族の一人として生まれた。

 純白の翼こそが種族の象徴であり誇りなのに、どういうわけか私の翼は暖炉の灰を被ったようなみっともない色。翼だけじゃなく、髪や目も。

 何より残念なことに、美しい白鳥の群れの中に生まれた醜い灰色の鳥は、飛ぶことができなかった。


 優雅に大空を舞う同胞の姿を見ているだけしかできないことが悔しくて悲しくて、たくさんたくさん練習したけれど、どんなに頑張っても無駄だった。


 そして私は見放され、地上に捨てられた。


 地上に落とされても空を舞う夢を諦めきれず、飛行練習の末にぼろぼろになった私を偶然見つけ、家に招いてくれたのがクリスだ。

 彼をはじめとするエーデリア一家の温かい厚意により、私は怪我が治った後も、客人としてここにいることを許された。


「私が飛べないから、みんな馬鹿にするのよ。昨日だってダンやアルケに言われたんだから。私は飛べない鳥もどき、天使のなりそこないだって」

「そう。あの子たち、後で叱っておくね」

 クリスはにっこり笑った。あ、怒ってる。

 彼が私のために怒ってくれるのは嬉しい。

 でも、その優しさに甘えてはいけない。


「クリスが怒ることなんてないわよ。悔しいけど、本当のことだし。私は絶対飛べるようになって、見返してやるんだから」

 右腕の包帯を押さえ、窓の外に目を向ける。

 白を基調とした煉瓦造りの街並みの中に、ひときわ大きいセルバン男爵邸がある。


 クリスの父が主治医を務める男爵家には、美しい二人の娘がいた。

 クリスは彼女たちと親しい。とりわけ下の娘・ローラとは同い年ということもあり、身分の垣根を越えて兄妹のように仲が良かった。

 それだけなら良かったのだが、なんと先日、男爵家からローラをクリスの嫁にしたいと打診があった。


 実は成人になる前からクリスには多くの縁談が持ち込まれていた。

 本人がまだ医学の勉強に専念したいと突っぱねていたから、具体的な話にまで発展しなかっただけだ。


 でも、今度ばかりは決まるだろう。

 ローラなら結婚相手として申し分ない。

 下級とはいえ貴族という身分、財産、加えてあの美貌。気立ての良さ。

 彼女は全てを兼ね備えている。断る理由などあるわけがない。

 私がクリスの傍にいられるのは、きっとあとわずかな時間だけ……


「……って、何してるのクリス」


「ん?」

 おとなしいなと思ったら、クリスは私の背後に回り、翼に赤いリボンを巻きつけていた。

 要所要所で蝶々結びまでされている。


「飾りつけてみた。どう、可愛いでしょ?」

「いや、可愛いとかの問題じゃなくて。これじゃ動かせないんだけど」

 飾り立てられては、飛ぶ練習もできないじゃないか。


「だからいいんだよ。誰かに何か言われたら、僕が飾りつけたせいで飛べないってことにすればいい。そもそも、有翼種族は飛ばなきゃいけないなんて誰が決めたの。飛べなくてもいいじゃない。せっかくこんなに綺麗なんだ。シフレの翼は在るだけで意味があるんだよ」

 役立たずな灰色の翼を、クリスは好きだと言ってくれる。――クリスだけは。


「……ふん。こんなみすぼらしい翼を綺麗なんて言うのは、クリスだけよ。物好きね」

「そう?」

 嬉しいくせに素直にお礼も言えない、ひねくれ者の私にも、どこかとぼけた調子でクリスは笑い、その笑顔が好きだと思う。

 彼が将来誰と結ばれようと、思うだけは自由だ。



 一週間後の昼下がり。

 私は薬草を摘みに行ったクリスの後を追い、街近くの山を登っていた。

 歩行に合わせて揺れる背中の翼には、色とりどりのリボンが巻きつけてある。


 あれから毎日クリスがリボンを巻くおかげで、私は飛行練習ができず、平和な日々を送っていた。


 傾斜の大きな山道を歩く疲れに伴い、翼がいつもより重く感じる。

 飛べれば楽なのに。登山の苦労もなく、ひとっ飛びで彼の元へ行けるのに。


 なんとなく空を見る。空を見上げるのは私の癖だ。有翼種族として生まれた者のさがなのか、私はいつだってあの青空に焦がれている。飛べもしないのに。


「クリスー、どこー?」

「シフレ? こっち。ここだよー!」

 声が返ってきたのは、この辺りにいるだろうと見当をつけた場所から十分ほど歩いた頃。


 クリスは左腕に小さな籠をかけ、切り立った崖の前にいた。


「フィオレの花がいつもの場所になくてさ。この下で見つけたんだ」

 クリスに倣い、怖々と崖の縁に立って覗き込む。

 すぐ下の抉れた箇所に、丸く黄色い花が群生していた。この花を煎じて飲めば、即効性の胃痛薬になると聞く。


「なんでまたこんなところに……」

「種が風で飛ばされたんじゃないかな。ちょっと大変だけど、頑張れば摘めそう」

 クリスが跪いて花に手を伸ばす。

「気をつけてよ?」

 そう言って下がろうとしたそのとき、急に突風が吹いて私の背を押した。


 え、嘘。


 とっさのことで踏みとどまれない。

 風を受けた翼が、身体が、前へ傾く。

 眼下に広がるのは森。普段飛行練習をしている崖とは違い、地上まで数十メートルの高さはある――落ちれば死だ。


「シフレ!!」

 クリスが電光石火の速さで立ち上がり、私を後ろへ突き飛ばし、その反動で彼の足が地面から離れた。


 その一瞬、世界が止まった。

 クリスは私を見て、確かに笑っていたような気が――


 地面に尻餅をついた衝撃で時間が再び流れ出す。


 顔を跳ね上げたときには籠だけが転がり、クリスはいなくなっていた。

 声にならない悲鳴をあげて崖下を見下ろす。

 落ちていくクリスの姿が網膜に焼きつき、恐怖が心臓を鷲掴みにした。


 クリスが。クリスが死ぬ。

 私のために――飛べない私のせいで。


 ――嫌だ!!


 無我夢中で崖を蹴り、空に身を躍らせる。

 腰まで伸ばした灰色の髪が、吹き飛ぶように上へ流れていく。

 目を開けているのも辛い猛烈な風の中、私は死に物狂いでクリスを求めた。


 翼を縮めて急降下し、手を伸ばしてその身体を捕まえ、掻き抱く。


 神様、どうか。もう二度と飛べなくてもいいから。一生に一度、いまこのときだけでいいから私を飛ばせて。


 私に愛する人を助ける力を貸して!!


 全身全霊を込めて背中の翼に力を入れる。

 翼が広がるにつれて彼が結んでくれたリボンがほどけ、あるいは千切れた。

 ごめんなさい。でももういらない。翼を飾るリボンはいらない。綺麗なドレスも靴も何もいらない。ただクリスがいればいい!!


 飛べ、飛べ、飛べ、飛べえええええええ!!


 落下に抗い、全力で翼を羽ばたかせる。

 私は確かに飛んだ、が、その飛行は決して幸運を運ぶ天使と讃えられる有翼種族の優美なそれではなかった。


 何しろ私ときたら、慌てふためいた鶏みたいに、ばたばたとせわしなく翼を上下に動かすことでどうにか落下の勢いを緩めているだけなのだから。

 傍から見ればさぞかし滑稽で無様だろう。


 腕の中でクリスが何か言いたそうに口を開いたが、結局、何も言わずに口を閉じた。

 さすがクリス、空気が読める。

 いま何か話しかけられて翼を羽ばたかせることを止めたら、墜落死は免れない。



 クリスを抱いて緑豊かな森の外れに着地するなり、力が抜けた。

 傾きかけた私の身体をクリスが支え、抱きかかえる。

「大丈夫? 無茶するから……」

 疲れ果ててぐったりしている私の顔を覗き込み、クリスが心配そうに眉尻を下げた。


「……無茶はどっちよ。クリスの、馬鹿」

 目から涙が溢れ、頬を伝う。


「ほんとに、怖かったんだから。クリスが死んじゃうかもって……ほんとに怖かったんだから! クリスを犠牲にして助かったって全然嬉しくない! こんなのもう二度と嫌だからね! ほんとにっ……ほんとに、良かった。クリスが無事で……」

 クリスの胸に取りすがり、泣きじゃくる。


 私はクリス以外の人の前では泣いたことがない。飛べない鳥もどきと蔑まれようと笑われようと、絶対に弱味は見せなかった。

 でも、クリスになら素顔をさらけ出せる。

 同胞に捨てられ、身も心も深く傷ついていた私に手を差しのべてくれた人。

 何もかも信じられなくなっていた私に笑いかけ、心をほどいてくれた、大切な人。

 私と彼では種族そのものが違う。

 決して結ばれないとわかっていても、私はどうしようもないほど彼を愛している。好きで好きでたまらない。


「私は……っ、私より、誰よりも、クリスが大事。クリスが生きていれば、それでいい。他には何も望まない。クリスがローラと結婚してもいい。生きて、笑っていてくれればいい。それさえ叶うなら、傍にいられなくても我慢する。私は幸運を運ぶ天使にはなれなかったけど、遠くからクリスの幸せを祈ってるから……」

 しゃくりあげ、嗚咽する。


 ややあって、クリスが呟いた。

「……馬鹿だなぁ、シフレは」

 あやすように優しく頭を撫でられた。


 顔を上げると、クリスは微苦笑していた。


「ローラと結婚するなんて勝手に決めないでよ。もし縁談のことを気にしてるんだったら、そんな必要ないよ。丁重にお断りしたからね。大変ありがたいお話ですが、僕には心に決めた人がいますので、って」

「そう……なんだ」

 想い人がいたんだ……。

 それがローラではなかったのは意外だったけど、彼が私ではない女性を愛している事実は変わらない。


 覚悟していたはずなのに、胸が張り裂けそう。

 私は手を握り締め、泣き崩れたいのを必死に堪えた。


「だから、シフレ。僕と結婚してくれない?」

「……………………え?」

 聞き間違いかと思ったが、クリスは真顔で私を見ている。

 頭の中が混乱した。

 クリスの想い人が……この私?


「……私? と、結婚? って……ローラのほうが絶対……そもそも、私、人間じゃないし……有翼種族のくせに、ろくに飛べもしない落ちこぼれで……」

「でもシフレは飛んだじゃない。僕のために、一生懸命飛んでくれた」 

 クリスは私の頬に両手をかけて引き寄せ、額に自分のそれをそっと重ねた。

 額から伝わる体温が、息遣いすら感じる至近距離が、私の心拍数を跳ね上げる。

「空から舞い降りてきた君の姿はきっと一生忘れない。灰色の髪や翼が陽で煌めいて、本当に綺麗だった。さっきシフレは天使になれなかったなんて言ってたけど、僕にとって君は紛れもなく天使だ」

 額を押し当てたまま、クリスが微笑む。


「僕のために命がけで崖から飛び降りてくれるなんて君しかいないよ。結婚相手は君以外に考えられない。両親にもそう伝えてあるし、許可も得た」 

 クリスの青い目が私を映す。


「だから、どうか結婚してほしい。君が傍にいてくれるだけで、僕は幸せになれるから」

 空を思わせる、吸い込まれそうなほどに青いその目を見返して、ふと気づいた。


 ――ああ、なんだ、そうだったのか。


「……はい」

 はにかみながら頷くと、クリスは見たことがないほど嬉しそうに笑った。愛されていることを実感し、視界が涙で滲む。


 クリスが唇を近づけてきた。

 目を閉じてその感触を受け入れる。


 空に焦がれなくても良かったのだ。もう私は上手に飛べないことを嘆いたりしない。


 私をありのまま受け入れてくれる、唯一無二の青は、ここにあるのだから。


《END.》

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