桃の体温
いまにも降り出しそうな空だと見上げていたら、頬にぽつりと生ぬるい感触があった。立ち止まって手を差し出すとさらにふたつ、みっつと落ちてくる。走ろうかどうしようかと迷っているうちに雨は本降りになった。期末試験中で薄っぺらい制カバンを傘がわりにして、ぼくは家路を急いだ。
学校から家までは歩いて十分。その半分くらいは来ていたけれど、帰りついたころにはすっかりずぶ濡れになっていた。汗がふきだして雨と混じる。玄関に座り込んで肌に張りつく靴下とたたかっていると、すぐ脇の電話が鳴り響いた。二階の書斎から
「もしもし、
「
「なに」
「あのさあ……、今日の英語と社会どうだった」
「まあそれなりに」
「あっあー、そうなんだ……、へえー、そうかそうか。なんだかんだ春彦は文系得意だもんね」
なんだかんだ、ねえ。
千夏はぼくの沈黙に構うことなく喋り続ける。テストを作成した教師の悪口から、試験中の教室の蒸し暑さに至るまで、千夏のご不満は寄せる波のように途切れることがない。
いい加減電話を切ろうとすると、千夏は慌てて咳払いをした。
「それでね春彦、明日の数学なんだけど」
「はあ……、ああ」
千夏は小学生のころから算数が苦手で、そのまま数学も毛嫌いしていまに至る。普段は得意科目の英語の成績でおばさんの怒りをかわしているけれど、そのあてが外れてしまい焦っているのだ。
こういうとき千夏は手段を選ばない。それがどんなに無茶なことでもぼくに押し通してくる。この場合千夏の目的は学年トップクラスの数学のノートと、できればその持ち主による解説。ぼくはその人物にひとり心当たりがあった。
「
「ははっ」
はたして予想どおりの提案に笑いが洩れた。
受話器を肩に挟んで脱ぎかけの靴下に手を伸ばす。かがんだ拍子に前髪から雨粒とため息が落ちた。
「前日になって勉強会したところで、どうにかなるとは思えないんですけどね」
「やってみなきゃわかんないじゃない。なにごとも前向きに考えないと」
ぼくにはただの悪あがきに見える。
「そもそも秋之の都合ってのもあるでしょうに」
「そこをうまいことどうにかするのがあんたの役目でしょ」
「はあ?」
「はあ? なに言ってんの。わたし秋之くんとおなじクラスになったことないから電話番号知らないし」
「いやいや、いくらなんでも無茶がすぎないか」
「春彦も来ていいよ」
「えぇー? 行きたいって言った覚えはないんですけどおー?」
ようやく右の靴下を剥ぎ取って、受話器を反対の肩に持ち替える。かたむけた首すじを冷たいしずくが伝っていった。いつのまにか汗は引いて、肌はすっかり冷え切っていた。気づいたとたん、背中に悪寒が走る。これは、いけないやつだ。
「千夏、いまから秋之んちの番号教えるからさ――」
「聞こえなーい。じゃあ三十分後に駅前のマックでね。わたし席取っといてあげるから」
そんな程度のしてやった感はいらないと、言えたらどんなにいいだろう。けれどぼくが息継ぎをしているあいだに、とっくに電話は切られていた。ツーツーと繰り返す受話器を戻して電話台にもたれながら座りこむ。
こんな仕打ちをしておいて、どうして千夏はぼくが秋之に電話をすると信じることができるんだろう。そしてぼくはどうして千夏からの信頼を裏切ることができないんだろう。幼なじみだから、家族ぐるみの付き合いがあるから、隣家だから、おんなのこだから。どれも理由としてまっとうな顔をするけれど、ぼくにはどれもなじまない。ただ、マクドナルドで待ちぼうけている千夏を想像すると胸が痛んだ。
よっこいしょと立ちあがり、ふたたび受話器を持つ。
電話口の秋之はなにをどこまで察したのかわからないけれど、一言いいよと言ってくれた。
ぼくは濡れた靴下のなかで冷え切った左足を他人のもののように感じながらバスタオルを取りに風呂場へ急いだ。
公式をノートにまとめながら休憩しようと繰り返す千夏に、秋之は三回目の「きゅ」で折れた。相手にしなくていいよと助言したけれど、まんがの主人公みたいにさわやかに笑ってフライドポテトを買ってこようかと立ち上がるから、ぼくは慌てて腕を掴んだ。
「千夏を甘やかしてもなにも返ってこないから、いいって」
「でも腹減ると集中できなくなるだろ。あ、甘いもののほうがいいか。シェイクとか」
「いやいやいや」
あいた手をぶんぶんと振る。秋之はすこし困ったような顔をして鼻の頭を引っかくように撫でた。
「おれも小腹減ってきたからさ」
「だったら千夏におごらせ……、いてっ」
テーブルの下ですねを蹴られる。睨みつけてくる千夏と目があってしまったので、かわりにぼくがフライドポテトを買いに階下へ向かった。
雨はまだしとしとと降り続いていた。自動ドアがひらくたび蒸した空気が大きなゴムボールのように背後から迫ってくる。いつもなら不快なその熱気も、エアコンで冷えきった体にはうれしかった。こわばっていた背中が次第にほぐれていく。
列に並んで待つあいだフライドポテトの代金を右手に握る。ふと先ほど掴んだ秋之の腕が思い出された。野球部の練習でよく日に焼けた肌と、エースピッチャーとして鍛えられたしなやかな筋肉。そのどちらもぼくの体には備わっていない。日常生活での最低限の日焼けと、骨が目立つばかりの手首や肘のあたりは、おない年でおなじ男の腕とは思えなかった。これならまだ毎日百貨店で働いている姉さんのほうが、在庫の上げ下ろしなどで引き締まった腕をしている。たとえば父さんは……、父さんはどんな腕をしていたんだろう。
父はぼくが三つのときに病気で逝った。母はそれより前に他界していた。ぼくにはふたりの記憶がほとんどない。折にふれて姉さんはふたりのことを話してくれるけれど、写真のなかで微笑む彼らはぼくにとっていつまでも平面の住人だった。そんな人の腕をたとえ写真で見ていたとしても自分と比べられるほど思い返せるはずもない。
お待たせいたしましたと店員に声をかけられて我に返る。いつしか強く握っていた百円玉はぬるく温まり、ぼくの指先はそれが熱く感じるほど冷たくなっていた。
席へ戻ると、気が早い千夏は夏休みの計画を公式の横に書き連ねていた。
「夏祭りに、プールに、映画に、あとは海も行きたいなあ」
「時田さんは部活は?」
「陸上。でも最近足首痛くて練習出れてないから、大会出ずにこのまま引退かなあ」
「おれんとこの近所にいい接骨院があるよ。紹介しようか」
「ありがとう。でも日常生活には支障ないからいいや」
千夏はノートの端にぐりぐりと円をえがいた。何重にもなった円はふちが太く濃くなって紙も歪んだ。
小さなころから活動的だった千夏はかけっこも早かった。小学校でも陸上部でスプリンターだった。中学に上がってからは身軽さとバネをいかして走り高跳びに転向した。放課後に何度か千夏が跳ぶ姿を見たことがある。背をそらしてバーを越えていく千夏はいつもとはまるで違う、跳ぶための生きもののようだった。
秋之がなにか言いたげにぼくを見る。円で埋まっているだろう千夏の視界に、ぼくはポテトを差し出した。
「部活行けばいいのに」
「春彦には関係ない」
「結構よかったけどな、おまえが跳ぶの」
「なんで知ってるの」
「おんなじ学校なんだからそりゃ見かけるでしょ」
「えー、やだ。えろい目で見てたんでしょ。きもいきもい」
「いや、それだけはないし」
聞こえないよう呟いたのに、千夏は耳聡く聞きつけて眉を歪める。
「なによ、あるって言ってよ」
「おまえは見られたいのか見られたくないのかどっちなの」
「見られたくないけど、見られないとなるとむかつく」
「勝手にもほどがあるだろ、……って、秋之?」
千夏の向かいでは、秋之がテーブルに突っ伏して笑いをこらえていた。
「ほんとおもしろいよね、ふたり揃うとさ」
「え? 千夏だけじゃなくて?」
「うん、春彦と時田さんが喋ってると夫婦漫才みたい」
屈託のない満面の笑みで言われると返す言葉に困る。まっすぐな秋之の視線はいつもぼくの、ぼくが認めたくないいとしいとか憎らしいを突いてくる。
「漫才は百歩譲ったとしても、めおとは余計だろ」
「そう怒るなよ。羨ましいんだ。おれは親の転勤で幼なじみってのがいないから」
ぼくたちが通う中学校は町内のふたつの小学校が校区になるが、秋之はそのどちらの出身でもない。
中学の入学式当日、式が始まるまでの騒がしい教室で、仲の良かった友だちと別のクラスになり仕方なく生徒手帳を読んでいたぼくに、よかったら話し相手になってよと声をかけてきたのが前の席に座っていた秋之だった。同級生とは思えない大人びた額をしていた。人馴れした雰囲気も歌舞伎役者みたいな切れ長の目もいつものぼくなら警戒しそうなものなのに不思議と秋之の存在は呼吸ひとつでなじんだ。
あとから聞いた話では、秋之はぼくに声をかけるときに緊張しすぎて、ぼくのいいよという返事がうまく聞き取れなかったらしい。涼しい顔をしていたくせにまさかと笑い飛ばすと、ほんとうだよとすこし困ったふうに微笑んでいた。秋之の言葉には訛りがない。きれいな標準語をはなす。義兄さんとおなじ言葉を、義兄さんよりあたたかな声ではなす。
おなじクラスになったのは一年のときだけで部活も委員会も違うけれど、本やCDを貸し借りしたり、その感想を話しあったり、秋之の両親が仕事で遅い日はふたごの妹も一緒にうちで夕飯を食べたりもした。
秋之はときおり目を伏せるようにして微笑む。鋭さを失ったその横顔には野暮ったいさみしさが滲む。それを見るとぼくはひどく安心した。
機嫌をなおした千夏が頬づえをつきながらフライドポテトをつまむ。
「想像できないな。わたし、生まれてからずっとこの町だからわからないんだけど、住んでた家を離れるとか、知らない町で暮らすとかってどんな感じ?」
そこに他人のどんな傷が潜んでいるかわからないのに、千夏は力加減のわからない子どもが小鳥を鷲掴みするみたいに疑問を口にしてしまう。ぼくは一瞬ひやりとしたが、秋之は数学の質問をされたときとおなじように顎に手を当てて、そうだなあと呟いた。
「幼稚園のころは友だちや先生と会えなくなるのがつらくて泣いてばかりだったけど、いま振り返って考えてみると悪くないなと思うよ。半年で引っ越した町もあるけど、たったそれだけでもおれはその町とまったくの他人ではなくなったわけだから、……うーん、こういうときなんて言ったらいいんだろう、執着? 因縁? ほら春彦、いい言葉あるだろ?」
「えにし、とか」
「そう、それだ。えにしを結んだ、そういう場所がいくつもあるのは、八百万の神さまがいろんなところにいるみたいに心強く感じる」
特別なことを語るのではない、今日はなにを食べたいかという問いにカレーと答えるような軽い口ぶりに、かえってその言葉の重みが感じられた。それは別れを繰り返す過程で身につけざるをえなかった秋之の強さだ。
「それに、どんなに離れてしまっても、本当に心から会いたい人や町なら、きっとまた会えるんじゃないかと思うよ」
「いいなあ、かっこいい。わたしもそういうの言ってみたいな」
千夏は足をばたつかせて身を乗り出した。ぼくはさすがに呆れ果てて抗議のため息をつく。
「おまえは気楽だねえ」
「なによ」
「かっこいいとかそういう話じゃないだろ。こう、もうちょっとさあ……」
「だってこの三人のなかではわたしだけなんだよ、この町しか知らないの」
「は?」
思わず低い声で聞き返す。千夏は舌打ちをしたきりぼくを見ようとしない。
ぼくは物心ついたころからあの家にいて、おない年の千夏ときょうだいのように育ったはずで……。だけど物心がつく前のことはわからない。父と母の記憶もないのだ。他にもわからないことがあって当然だ。そう、たとえばこないだ義兄さんが話してくれた下宿のこともわからない。だっていま住んでいる家のどこをどう見てもかつて下宿を営んでいたようには思えない。
千夏はぼくから逃れるようにドリンクに手を伸ばしたが、すぐに顔をしかめてテーブルに戻した。紙コップの結露はすっかり剥がれ落ちている。ぬるいコーラはぼくも飲む気がしない。
仕方なく、千夏はぼくの視線を受けとめる。
「こないだお母さんから聞いたんだけど、あんたんち、あんたが三才のときに引っ越してきたらしいよ。しばらく隣が空き家だったから人が入ってくれるのはよかったけど、あんまり若い夫婦だし弟も小さいから心配だったって。まあだからことあるごとにわたしをダシにして様子を見に行ったとも言ってたけど」
ぼくはじっと千夏を見つめながら、ずっと忘れていたことを思い出していた。小学生のころ学校で予防接種を受けるため姉さんに書類を作ってもらったら、接種履歴の箇所に見慣れない病院名が書かれていたことがある。ここから電車で小一時間ほどの市民病院だったはずだ。
「やっぱり春彦は知らなかったんだ」
「知らない、知るわけないだろ」
「赤ちゃんのころの古い写真とか見せてもらったことないの。家とか写ってるやつ」
「ない。前に学校で使うからって姉さんに言ったけど、むかし父さんが芋焼くときに使ったとかなんとかで……」
「そんないいわけ信じるんだ」
「疑ったところで写真がないことには変わりないし」
「そうやってすぐ諦める。そこ春彦の悪いとこだから。ね、秋之くん」
「まあ……優しさでもあるんだけど」
秋之の気づかいも放り出したまま、ぼくは口を噤んで顔をそらす。
この町で生まれ育っていてもいなくても、ぼくにはそんなことどうでもいい。なのに胸のあたりがざわざわとした。嘘だとわかりながら追及しなかったぼくに非があるんだろうか。誰にでもわかるような下手な嘘は、姉さんからのメッセージだったんだろうか。暴いてくれ、という……。
「おい春彦、大丈夫か」
秋之に顔を覗きこまれてぼくは自分がうつむいていたことに気づいた。
空調の振動音が耳の底に響いて、千夏と秋之の声が遠く感じられた。口のなかは乾いて、視界は水のなかのようにゆらゆらとぼやけている。目のまわりや耳は火照っているのに、二の腕から背中にかけては凍えそうに寒い。
「大丈夫。ちょっとトイレ」
立ち上がると案外足元はしっかりしていた。すこし気持ちが落ち込んだだけかもしれない。手を洗うついでに顔を洗ってTシャツの裾で拭う。鏡のなかにはこちらを生ぬるく睨むちっぽけな中学生がいた。充血した目はまるで泣いたあとみたいだった。
ずっとむかし、姉さんと庭にみかんの種を植えたことがある。雨上がりの黒く湿った土で姉さんの手が汚れてしまうのが嫌で、ぼくは泣きながら姉さんの腕にしがみついた。庭のどのあたりに植えたのかは覚えていないけれど、いまだみかんが生ったことはない。それでもぼくはその記憶の真偽を疑うことはない。感情をともなった、いちばん古い記憶。ぼくはそこから始まっている。その確からしさは揺るがない。
席へ戻ると千夏と秋之はテーブルのゴミや荷物を片付けていた。
「帰るのか」
「当たり前でしょ。しんどそうな人がいるんじゃ集中できないし」
「だったらふたりは残って――」
「無理、無理ったら無理。ほらわたしのカーディガン着ていいから」
千夏は赤い布のかたまりをぼくに押しつける。
「いいよ、明らかに女物……」
「贅沢言わない」
珍しく静かな千夏の声に、ぼくはおとなしく従うことにした。
袖に腕を通してしまうと服をダメにしてしまいそうだったので、肩にかけるだけにする。小さな服。いつのまにこんなに差がついたのだろう。むかしは上着を取り替えて遊んだりしていたのに。
外へ出ると雨はもう上がって、雲間から光がこぼれ落ちていた。秋之は家まで送るよと言ってくれたけど試験期間中にこれ以上世話になるわけにはいかない。千夏がいるから大丈夫だよと笑って、駅前で別れた。
家へ帰り着くまでのあいだ、千夏はひとことも話そうとしなかった。一歩先に、背筋を伸ばしてゆくうしろ姿がある。すこし髪が伸びたなと思う。夏休みになったらまた突然うちの縁側へやってきて鋏を突き出すんだろう。
角を曲がって千夏の家の門へ差しかかる。千夏はそこを通り過ぎて先へ行く。
「千夏」
呼びかけても千夏は立ち止まらないし振り返らない。
「千夏」
「
「いいよ、正直さっきはすこし気持ち悪かったけど、歩いてるうちに良くなったから。これも返すよ」
カーディガンを脱ごうとすると千夏はくるりと向き直って、胸ぐらを掴むようにして前をかき合わせた。
「だめ。着てて」
「あー、洗濯して返せってこと?」
「そんなこと言ってないし」
いまにも消え入りそうな声で言い残して、千夏は顔もあわせずに帰っていった。その様子を見送ってからぼくも家へ入って布団にもぐりこんだ。
視界の端にカーディガンの鮮やかな赤がある。夢のなかでぼくは赤いヒレを持つ魚になって、魚のくせに海が息苦しくてもがいていた。
玄関で靴を脱いで、制カバンを床に置いた記憶はある。だけどそのあとどうしたかわからない。ふらつきながら数学の試験を受けたものの、帰ってきたとたん倒れてしまったらしい。
義兄さんが運んでくれたんだろう、ぼくは和室の客用布団で汗だくになっていた。梅雨前にせっかく干した布団をまさか自分で使うことになるなんて。思わず、ため息とも苦笑ともつかない息がもれた。
がさ、と畳と布のこすれる音がしたかと思うと、ぼくに覆いかぶさるようにして姉さんが顔をのぞかせた。甘い香りが小雨のように降ってくる。束ねた長い髪が制服の胸ポケットをさらった。
「おはよ、春彦」
「今日って仕事早番だった……?」
「暇だから帰ってきちゃった」
姉さんは嘘をつくときいつも唇を尖らせたり視線をそらしたりして、とびきり愛くるしい笑顔を見せる。ああ、そうか。ぼくは姉さんのつく嘘もまた好きなだけなんだ。そんな下手な嘘でどうしてやり過ごせると思えるのかは疑問だけれど、ぼくは素直にそうかと目を閉じる。セール期間中なのに暇だなんて、そんなの嘘に決まってるんだけど。
「熱はどう」
姉さんの手の甲がぼくの頬に触れる。やわくて冷たい手は火照った肌に心地よかった。閉じていた目をひらくと、姉さんは真剣な眼差しでぼくを見つめていた。
「なに?」
「春彦は時々……」
そう呟いたきり姉さんははかなく笑うだけで、名残惜しそうにぼくの頬をつねって立ち上がった。
「桃を剥いてたの。こっちに持ってくるね」
「なんか顔がべたべたすると思った」
ごめんごめんと笑う姉さんに直前の脆さはない。台所へ戻っていく素足の足音にぼくは耳を澄ます。姉さんは時々ぼくを見て傷つく。それを見てぼくは姉さんをいとしく思う。
ぼくの隣に座って姉さんは桃の皮を剥いた。きれいな姿の白桃だった。
「周くんが買ってきてくれて」
「義兄さんが?」
「春彦はきっとこれが好きだから、って」
意外に思った。うちでは風邪のときはりんごをすりおろしたものか、みかんのシロップ漬けが定番で、桃を買ってきてもらった記憶はない。
手元の桃に視線を落とす姉さんのすこし伏せられた目を見つめながら、ぼくは秋之が話していたことを思い出す。場所とのえにし。ぼくにもそれが、この家以外にあるらしい。そのことを姉さんは知っているはずなのに話そうとしない。父のこと、母のこと、下宿のこと、その町のこと、まったく気にならないといったら嘘になるけど、知らないでいることもまた、ぼくにはえにしのかたちであるように感じられた。ぼくが知らないぼくのことを姉さんが知ってくれている。ぼくの一部を姉さんに預けるという繋がりかたで。
はいどうぞと、姉さんは桃でぎゅうぎゅうになったガラスの器を差し出した。ぼくがおとなしく受け取ると満足したように、買い物へ行ってくるねと言い残して出かけてしまった。
体をねじって寝そべったまま桃に手を伸ばす。口に含むと舌で押すだけで潰れて果汁があふれた。剥くあいだに姉さんの体温を吸い上げたのだろう、桃はぬるくなって、果肉がいっそうとろけていた。冷やして食べるより味が濃く、アクにも似た甘みが舌先から喉の奥まで糸をひく。ぼくは姉さんの体温ごと淡く白い桃を飲み込んだ。
次に目覚めるとあたりは薄暗くなっていた。雨戸をたてた和室に明かりはなく、廊下を隔てた台所や居間からの光がわずかに洩れている。いま何時なのか、どのくらい眠っていたのか、まったくわからない。ただ、お出汁のいい香りがした。やわらかな香りはきっと煮物だ。かすかに油も香るから三度豆と厚揚げを炊いたんだろう。お出汁を吸った厚揚げのどこか脆いような口あたりを思い浮かべると、腹がぐうと音をたてた。ぼくはさらに鼻をすんと鳴らした。干し椎茸の深い森と太陽の香り。あとは鶏肉のあっさりとしたお出汁。鶏団子だろうか。にゅうめんだといいなと思う。もしその二品があるなら、ぼくならなにかさっぱりとした、梅と長芋のあえものなんかを添える。
かすかに姉さんと義兄さんの話す声が聞こえてくる。言葉は聞き取れないけれど疎外感はない。わからないことはたくさんあるけれど、それらはとても些細なことだ。
姉さんの楽しそうな笑い声がする。その華やぎのままぼくの名を呼ぶ。
「春彦、ごはんだよ」
ぼくはたったいま目が覚めたかのように、寝ぼけた声ではーいとこたえた。
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