春と食卓
望月あん
若葉のかげり
ブランケットを取り込もうと庭へ出ると、サンダルがずいぶん温かくなっていた。見上げると初夏のはじけるような明るさが広がっている。つい半月前の弱々しい光は花びらのひとひらほども残っていない。
居間でつけたままのテレビは帰省ラッシュのピークを伝えていた。今日は連休最終日だが、明日が土曜日のため混雑は分散しているという。大人は有給休暇があるからまだあと二日連休を楽しめるのだと、今朝出勤前の姉さんがぼやいていた。百貨店の靴売り場に勤める姉さんは連休のあいだ休みがない。仕事とはいえ、この陽気で屋内にいるのはもったいない気がした。
最近は一月に起きた地震のニュースが減り、三月に地下鉄で起きた事件や、それに関わったとされる団体の凄惨で非現実的な話題が増えた。ブラウン管に映る渋滞の列を眺めながら、その車のなかにいる人たちには悪いと思いつつ、見慣れた光景にどこかほっとした。
世紀末だと人はいう。小学生のときに流行ったノストラダムスの予言を信じているわけではないけれど、テレビを見ていると頭の片隅につい思い浮かべてしまうときがある。いつかほんとうに世界は壊れてしまうんだろうか。
鞄のなかに入れたままの進路調査票が脳裏をよぎった。取り込んだばかりのブランケットの上で大の字になって目を閉じる。高校受験、と胸のうちで何度か呟いてみるが、未来のことを考えるといつも思考はぼんやりとした。
アナウンサーが午後四時のニュースをお伝えしてくれたので、ぼくはしぶしぶ起き上がる。夕飯当番を任されていた。
今夜は、昨日のうちに漬け込んでおいた鰆の南蛮漬けと、姉さんが好きな豆ごはんに、あとは余っている野菜で味噌汁をこしらえる。
買い出しのために自転車にまたがって、家の鍵を閉め忘れたことに気づいた。あわてて玄関へ戻る。いつもは義兄さんがいるので鍵をかける習慣がない。翻訳の仕事をしながら家事全般をこなす義兄は、今朝姉さんを送り出したあと夕方までには帰ると言ってふらりと出かけてしまった。自分のタバコを買いに行くのすら億劫がる義兄さんが朝から出かけるなんてそうないことだ。どこへ行くのか。誰と会うのか。聞けないまま見送って、結局いまもまだすこしだけもやもやとしていた。
思えば義兄・
気にならないわけではないけれど、知らないからといって日々を過ごすのに不便はないし、特に嫌な顔をされたわけではないが訊いてはいけないことのように感じていた。
あと三年もすれば姉さんが結婚した年齢に追いつく。そのころぼくはなにをしているだろう。来年の高校受験すら実感が湧かないぼくには、とても想像がつかなかった。
自転車で走りだす。裏手にある公園にさしかかると濃密な躑躅のかおりに包まれた。赤やピンクや白の花は、枝葉が見えなくなるほど花びらを大きく反らしている。その上では青々とした葉で覆われた桜の木がゆったりと揺れていた。
駅前にあるスーパーは心なしか普段より客が少ない。うすいえんどうと葱と薄揚げ、あとどうしても我慢できなかったソーダバーを買って急いで帰る。内環状線沿いから住宅地の細い路地へ入ったところでスピードを落とす。片手でハンドルを操りながらソーダバーの袋を口で破ってかぶりつくと、頭の奥がきんと鳴った。
公園の角を曲がると、道先に見知ったセーラー服姿があった。しかも我が家の門の前に立っている。
「なにしてんの、
声をかけると睨みつけてきて、家を指差した。
「なんで誰もいないの。びっくりした」
「姉さんは仕事。義兄さんは朝からどっか出かけた」
「あんたは……」
そこまで言いかけて、千夏は自転車の前カゴから飛びだした葱に目をとめた。
「ねえ
「事と次第によってはとても忙しいけど、なに」
いつもならぼくの言い方に突っかかってくるはずなのに、千夏は目を逸らしてうつむいて、ぼくの腹にこぶしを押しつけた。その手には鋏を握っている。
「髪、切って」
いいよと答える前にぼくは、千夏の細い首を見つめて思う。こいつはいつか坊主にでもするつもりなんじゃないだろうか。
「うちのどっかにバリカンあると思うけど使う?」
「はあ? なに言ってんの」
「だってもう切りようがないし」
「切れるでしょ、1センチくらいなら」
「たったそれだけを、いま切る必要ある?」
「つべこべ言わないで、いいから切りなさいよ」
千夏は鋏を自転車のかごへ放り込んで、彼女にとっても勝手知ったるぼくの家の門を開けてずんずんと入っていく。隣家の庭からは犬のギンがはしゃぐ息づかいが聞こえてきた。千夏の声が聞こえたので、散歩に行けると思って喜んでいるのだろう。
おさななじみの少女の背中をそっと見やる。寂しげにも、そうでないようにも見える。ぼくは溶けかけのソーダバーを呷るようにして飲みこんで、千夏のあとに続いた。
父と母の仏壇に手を合わせてから、千夏は部屋に背を向け縁側に座った。ぼくは真後ろに腰をおろしてくしけずる。
千夏の髪はどんなに太陽を浴びても褪せない強い色をしている。千夏らしいとぼくは思う。彼女が泣くのを子どものころから見たことがない。いつだって泣いていたのはぼくのほうだ。
かわりに千夏は髪を切る。前に切ったのはまだすこし肌寒いころだった。あのときは友達にCDを盗んだと疑われ、鎖骨にかかるほどあったのに首が全部見えるまで切った。ようやく襟足が隠れるくらい伸びていたから、正直もったいない。
「もうすこし長いくらいが似合うと思うけどなあ。これじゃワカメちゃんに逆戻りするけど」
「いいから黙って切って」
「はいはい」
髪を切るときに鋏を通して伝わってくる抗いは、ただ髪に触れるよりはっきりと髪一本一本を感じさせた。自分の前髪と千夏の髪しか切ったことはないけれど、ぼくはこの感触が嫌いじゃない。
切った髪が制服にかからないよう手のひらで受ける。すこしうなだれた千夏の襟元からは、制服の下にあるはずの素肌がこぼれた。体温がにおいのように立ちのぼり、ぼくの手を掠める。泣いたらいいのに。そう言ってやりたいけれど、それだけは言えない。
「ところで、なんで制服?」
問いかけに、千夏はすぐには答えない。長く息を吐いて、言葉をさがすような間のあとにぽつりと呟いた。
「先輩に会いにいった」
「ああ、一高行った?」
「そう。部活の試合って聞いてたから」
一年上の先輩で、野球部では一番セカンド。陸上部が欲しがるほどの俊足だった。ぼくと千夏の共通の友人が野球部で、何度かグラウンドへ遊びに行くうち知り合いになり、去年の夏休みから付き合っていたようだった。
「どうだった、勝った?」
「うん……」
千夏があんまりうつむくので、髪をゆるく引っ張る。
「切りにくい」
「こないだ先輩が、中学生の彼女がいるの自慢だーって言ってたから着ていったんだけど、……無視されて」
先輩はいつも陽気で人への気配りができるタイプだが、そのぶん人の目をひどく気にするところがある。中学生の彼女が自慢なのは嘘ではないだろうが、その彼女を部活の友人に胸を張って紹介できるかというと、それはまた話が違う。
「仲間の前で照れたんじゃない?」
「違う。絶対違う。ていうか一緒にいたのマネだった」
「あ、あー……そう」
部員とマネージャーなのだから一緒にいることは当然あるだろう。それでここまで悲しむなら、たとえばふたりは手でも繋いでいたのかもしれない。
「ふつうマネと手なんか繋がないでしょ。ふざけんなって話」
ぼくは思わず笑いそうになって、慌てて顔を引きしめた。
「なによ」
「いやいや」
右耳にかかる髪を切るために体をずらすと、横目でにらまれる。間が悪い。
「千夏のことだから、どうせ余計な捨て台詞でも残してきたんだろうなと思って」
「当たり前じゃない。このインポ野郎! って叫んでポカリ缶投げつけてきた」
「……、事実?」
「知らない。そこまでしてない」
そっぽを向いた千夏の頭を手で挟んでもとに戻し、あごを撫でる髪に鋏を入れる。癖のない、まっすぐな髪。はじめて千夏の髪を切ったのは小学三年生の夏休みが終わるころだった。計算式が書かれた大量のわら半紙を前に呆然とした気持ちでテレビを見ていると、千夏が突然あらわれて髪を切れと言いだした。手にはキャラクターものの赤い鋏と、ぐったりとした金魚の入ったビニール袋を持っていた。死んでいると、すぐにわかった。ぼくは埋めてあげたほうがいいよと諭したが、千夏は聞く耳を持たず鋏を押しつけてきた。ポニーテールをしていた髪にはヘアゴムのあとがあって難しかったが、ぼくはそのときはじめて人の髪を切った。切り落とした髪を掴んだまま千夏に見せて、千夏は武士だなと言ったら、ちょんまげを切ったら武士じゃないしと言い返された。けれど千夏は笑っていた。
直後、姉さんに見つかりひどく怒られて、千夏の家まで頭を下げにいった。あのとき千夏はぼくの手をずっと握って、春くんは悪くない、わたしがお願いしたのと大人たちに繰り返していた。
「反対切るからむこう向いて」
千夏は黙ってくるりとまわる。左耳のうしろにある小さなほくろは、ぼくの他にあと誰が知るだろう。なかば伏した瞼はかたくなで、長い睫毛は震えていた。怒りか、悲しみか、羞恥か、とても判断がつかない。そのすべてなのかもしれないし、どれでもないかもしれない。
やがて千夏は小さく息を吐くように呟いた。
「先輩のこと、好きだと思ってたんだけどなあ」
ぼくは散髪に集中していたように装って抑揚すくなに訊ねる。
「嫌いになった?」
「そうじゃなくて。はじめから、どうでもよかったのかも」
「まさか」
「誰でもよかったんだよ」
乾いた声でそう言って、千夏は投げ捨てるような笑いをこぼす。そうしてじっと黙り込んだ。あまりにも乱暴な静寂に、ぼくは使命感を覚えずにはいられなかった。
「千夏、おまえ言ってることわかってるの」
「わかってるよ」
「誰でもなんて、先輩にも千夏自身にも失礼なことだろ。なんで千夏は言葉を選んだり胸のうちに留めたりできないわけ」
「じゃあ、あんたみたいに黙ってろっていうの」
細いあごを反らし、千夏は喧嘩を挑むようにぼくを睨む。ぼくは内心ではひどく動揺しながら、なんでもないように髪を切る。
はたして千夏はぼくの胸のうちのなにを知っているのか。もし、もしもぼくの絶対の沈黙に千夏が気づいているなら、そのままにはしておけない。
ぼくは平静を保ちながら鋏をそっと縁側に置いた。
「はい、終わったよ。鏡見る?」
「ねえ、人の話聞いてる?」
「なんの話」
「黙ってたって、思ってるならおなじことでしょ。だったら言っちゃえばいいのよ」
「だから、なにを」
手についた短い髪を払っていると、その手首を強く掴まれる。千夏は小柄なくせに意外と力が強い。加減を知らないのだ。
「痛いな、ばか力」
「周さんのこと、あんたよく思ってないんでしょ」
「は?」
まったく想定外の指摘に、ぼくは口をあけたままぽかんとした。千夏はじっとぼくの顔を覗きこんで、真偽を見定めようとしている。
「どうなの」
「いや、どこからその発想がくるのかと……」
言ってるそばから笑いがこみあげてきて、ぼくは柱にもたれかかって腹をかかえた。
「千夏はおもしろいなあ」
「真面目に話してるんだけど! だってもうずっと一緒に暮らしてるのに、周さんの前ではあんたまるで他人みたいによそよそしくなるじゃない」
千夏は身を乗り出して声を荒げる。ぼくは胸をなでおろした。
「よかった」
「なにが」
ぼくは千夏の肩を押し返して体を起こした。
そう。千夏がまったく気づいていなくてよかった。ぼくが姉さんをひとりの女性として見ているということは、誰にも知られてはいけない。
伝えたいなんて思ったことはない。知られたあとの世界なんて考えたくもない。いつまでも義兄さんと仲の良い夫婦でいてほしいし、いつかふたりの子どもに会えるのを楽しみにしている。そのためにはぼくが早く自立をして、この家を出ていかなければならないけれど……。姉さんと、離れなければならないけれど……。
やがて訪れるその日を思うと、ぼくの体のなかはやわらかなまま凍りついていく。
「千夏が元気になったみたいでよかったってことだよ」
「いまはわたしの話じゃなくて、春彦の話なの。あんた周さんと喧嘩したことないでしょ」
「義兄さんは千夏みたいに考えなしじゃないからね」
「
「それはまあ、姉さんには親代わりの意識があるからじゃない? 大人にはそれぞれの役割があるらしいよ。千夏だっておばさんといつもぎゃーぎゃー言ってるけど、おじさんとは別にそんなことしないでしょ。それとおなじだよ」
「ぎゃーぎゃーってなによ」
「くわしく言ってもいいの?」
ぼくが微笑うと、千夏は眉を歪めた。
「昔はもっとかわいかったのに」
「そりゃどうも」
「いつからか泣き虫じゃなくなったし、なんでも笑ってごまかすようになって……。そういうの、たちが悪い」
「中三にもなって泣いてられないでしょうが」
「だけどほんとにほんとなの?」
「しつこいなあ。鏡とってくるよ」
ため息とともに立ちあがると、玄関から義兄さんのただいまという声が聞こえた。千夏が周さんだと嬉しそうに呟いてぼくを追い越していく。千夏は昔から義兄さんによく懐いている。たぶん、そういうことなんだろう。ぼくはもう一度ため息をついてしゃがみこみ、縁側に散らばった髪を庭へ払った。
「ただいま」
振り返ると義兄さんはスーパーのレジ袋をぼくの目の高さに掲げた。白い袋に、餃子の皮の文字が透けて見える。
「おかえり。……義兄さん、それは?」
「餃子の皮と豚ミンチとニラとしいたけ」
「昨日南蛮漬け仕込んだの忘れた?」
「いや、覚えてるよ。だから今夜は餃子と南蛮漬け」
「わたしどっちも大好き!」
割り込んできた千夏をじっとりと見つめ返す。
「うちの夕飯に千夏は関係ないだろ」
「春彦のけち」
ぼくらが睨みあってると義兄さんはぼくらのあいだに紙袋を差し出した。白地に新緑色で竹山堂と書かれている。駅前の御菓子司の屋号だ。
「柏餅とちまき」
「あっ」
言われて思い出す。今日はこどもの日だった。
義兄さんは眼鏡の奥の目を細めてぼくの手に紙袋を持たせた。包装紙の紙のにおいを嗅いだだけで、口のなかにこしあんの滑らかさが思い出される。義兄さんは念を押すようにもう一度静かに微笑んだ。今夜は餃子と南蛮漬けだ。
「ちなちゃんも包むの手伝ってくれる? 迷惑じゃなかったら好きなだけ持って帰ってよ」
「いいの? やる、やるやる手伝う!」
「じゃあ手洗っておいで。ニラとしいたけ切ってもらおうかな」
「はーい」
千夏は軽やかな足取りで洗面所へ向かった。ぼくは下から義兄を見上げる。煙草の他に、かすかに線香のかおりがした。
「春彦、ほかにも用意してくれてただろ?」
「豆ごはんのつもりだった。でもいいよ、明日にまわすから。それより……」
今日はどこへ行ってきたのと訊ねる言葉は、首をかしげた義兄さんのやわらかな笑顔に、そして冷たいまなざしに掻き消される。
そうだ。これまでもこうやってなにも訊けないままだったんだ。
ぼくは一切の抵抗をせずに言葉をすりかえる。
「皮は手作りしたほうがおいしいって、こないだ姉さん言ってたのに」
「いまからだと間に合わないと思って。でも援軍がいるならできたかもね」
「作る?」
義兄さんはかるく目を伏せて首を振った。
「せっかく買ってきたし深雪には今日はこれで勘弁してもらおう」
「わかった。たまごスープ作ろうか」
「ありがとう、頼むよ」
部屋を出ていく義兄さんの背中を見送りながら、ぼくは千夏の言葉を思い返していた。
いつからか泣き虫じゃなくなったし、なんでも笑ってごまかすようになって……。そういうの、たちが悪い。
ぼくにとってはそれは義兄さんのことだ。泣き虫だったかどうかは知らないけれど、どこまでも穏やかでやさしすぎる笑顔は絶対的な拒絶でもある。そしてぼくは無意識のうちに義兄を真似ていた。
洗面所の窓からは裏手にある公園の桜の木がすぐそばに見える。淡く穏やかな夕日に染まった枝葉は赤い血が通っているようだった。その一方で、塀との境い目にかかる葉は一足早く夜の翳りのなかにあった。いつか枝が伸びたなら、光のもとで大きく葉を揺らす日が来るのだろうか。けれどこの日陰において一体どのように枝葉を伸ばすというのだろう。光が当たることのない想いもまた枝を伸ばして健全に育つことはない。いつか枯れ落ちるときがくるまで、じっと息をひそめるのだ。
台所から笑い声がする。向かうと、袖をまくった千夏と煙草をくわえた義兄さんがまな板を見て笑いあっていた。千夏のニラのみじん切りは彼女のご機嫌のように不揃いで、不思議とかわいらしかった。
塩もみをしたキャベツのみじん切りと、しいたけやニラのみじん切りを、味付けしてかるく混ぜた豚ミンチと合わせていく。そのあいだぼくは買ってきた葱と余っていた人参でスープをこしらえた。仕上げの溶きたまごは食べる直前にする。
タネをすこし冷蔵庫で寝かせてから、三人で餃子の皮に包んでいく。
「周さんは、なにやっても上手だね」
義兄さんの手元を覗きこみながら千夏は顔を輝かせた。
「ありがとう」
「それにすごくはやい」
「それは義兄さんがはやくタバコ吸いたいからだよ」
ぼくは千夏が包んだ餃子をそっと横から取って、できる限りの手直しをする。
「周さんはどこで料理習ったの?」
突然の千夏の質問に、ぼくは胸がはねあがった。もし義兄さんが話そうとせず、千夏がしつこく知りたがったらどうしようかと不安になる。けれど義兄さんはあの微笑みではぐらかすことなく、いつのまにか覚えたんだよとさらりと答えた。
「中学のときにはもう家を離れて、知り合いのところに居候してたからね。すこしでも邪魔にならないように、役に立つようにと思って手伝っていたら覚えてたんだ。たぶん、好きなんだと思うよ、料理が」
「すごい、かっこいい!」
わたしも居候してみたいとか気楽なことを千夏は言う。ぼくは千夏の餃子を手にのせたまま、ぼんやりと義兄さんを見つめた。義兄さんは餃子でいっぱいになった皿にラップをかけてタバコに火をつけた。
「家を離れたっていっても家出とか追い出されたとかじゃなく、勉強のためにね。春彦には話したことなかった?」
「あ、うん。はじめて聞いた」
「そっか。じゃあ義父さんが下宿の大家をしてたことも聞いてない?」
「なにそれ」
「聞いてないか。おれの親が義父さんの古い知り合いで、その縁でお世話になってたんだ」
「それで深雪さんと出会って恋に落ちた、と」
千夏は得意気な様子で話を脱線させようとする。ぼくはたまらなく腹が立って、手直しした餃子をこれ見よがしに千夏の皿へ戻した。
「あー、なによこれ」
「食べられるかたちにしておきました」
「むかつく」
千夏が思いきりぼくの頬をつねる。
「痛い、いたた、千夏、千夏、その手で餃子触るなよ」
「あっ」
ぼくの頬に残っているのだろう、白い粉を見て千夏は慌てて立ちあがった。
「ばっちぃもん触ったから手洗わなきゃ」
「はいはい、しっかり洗ってきてください」
急いで洗面所へ向かう千夏を見送って義兄さんがくすくすと笑う。
「おまえたちは仲がいいね」
「どこが」
「ふたりは付き合ってる?」
「まさか!」
「そうか」
義兄さんは紫煙の流れる先を見つめながら、それでも結婚することはあるんだよと冷たい目をして言った。
出来上がった餃子は名前でも書いているかのように、誰が包んだか一目瞭然だった。ぼくは義兄さんが包んだいっとうきれいな餃子をフライパンに並べた。うっすら焼き目がついたら水を入れて蓋をする。水はすぐに沸点に達して鈍い音を立てた。
餃子が焼ける前の、皮が蒸しあがっていくかおりを千夏は胸いっぱいに吸いこんで、さっきまでの不機嫌なんて忘れて子どもみたいに跳ねた。そのたびに切ったばかりの髪が揺れて小さな耳朶が見え隠れする。短すぎる気もするけれど、これはこれで似合っているのかもしれない。
「なによ」
「将来、美容師になろうかな」
「ばかじゃないの」
音は次第に高く鋭く、乾いたものになっていく。蓋をあけてそのままの火力で水分を飛ばすと、羽根はみるみる焦げていった。そこでひとつ呼吸を置いてから皿にあける。きつね色のきれいな焼き目がついていた。
「あんたはご飯つくる人がいいと思う」
聞き取れないほど小さな声で千夏が言う。ぼくは千夏の皿に羽根の大きな餃子を盛り付けた。
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