彼を受容せよ

 呆然から回復しても、扉の鎖と南京錠は消えていなかった。

 鍵は見つからない。当然、扉は開かれない。

 あの謎の少年……リヒトのようにパッと消えてしまえばいいのに。

 鍵は、この部屋にあるのだろうか? その希望は既に尽きかけていた。

 もう二度と、この部屋から出れないのかもしれない。

 そう思ったら、身体から力が抜けていった。


「おい」


 唐突に聞こえた声。


「おい」


 まだ声変わりしてない、幼い少年の声だ。

 上体を起こし、声の主を探す。それらしい姿が見当たらない。


「どこ見てやがるんだ! こっちだ、馬鹿!」


 素直に声のした方向を見てみると……あのビスクドールと目が合った。

 人工的に感情を入れられた瞳、形整い過ぎた鼻、蕾のような淡い色の唇、透き通るような白い肌。

 西洋の顔立ちの少年は濃い藍色のドレスローブを纏い、微笑んでいる。

 確かにリアルな造りだけれども、所詮は人形。

 だから動く事も話す事も出来な……。


「一度で見ろよ、声掛けてやってんだから」


 人形が喋った。口が動いた。声を発した。……喋った!?

 そして開きっぱなしだった瞼が動き、数回まばたきまでした。


「きゃあぁあああああああああああ!!」

「何だよ!? 人の顔見て悲鳴上げやがって!!」

「怖い怖い怖い怖い!!」

「怖いって……人を見かけで判断するって、失礼だと思わないのか? あぁ?」


 そしてきわめつけに自力で立ち上がり、ぴょんとベッドに舞い下りた。

 勝手に動いた。動いた。歩いた。歩いている!?


「だ、だって……にんぎょう」

「人形だからなんだよ!?」

「ひっ! い、いぃえ……」

「――――まあ、いいや。最初っからギスギスしてても仕方ねえしな」


 人形は軽快な足取りでこちらに歩み寄ってきた。


「ほらよっ」


 そして、右手を差し出して握手を求めて来た。木で出来た、小さな手。

 握り締めると固くて冷たい。私の手の温かさが吸い取られていく。


「いつまで握ってんだよ!」


 乱暴に振り払われたので我に返った。


「しっかりしろよ! お人形遊びしてる場合じゃねえだろ!」

「ご、ごめんなさい」


 先程、現れたリヒトに比べたら、随分と冷たい対応だ。

 可愛らしい顔なのに、動き出した途端その表情をガラリと変え、乱暴な口調で話し始めた。

 無垢な少年の声なだけあって、言葉の棘が異様に鋭利で胸に突き刺さる。

 私は胸に手を当てた。鼓動に合わせて痛みが増していくかのようだった。


「人形が喋るなんて……目が覚めたと思ったのに、ここは夢の世界なのね」


 独り言のつもりだった。でも人形は意地悪く目を輝かせた。


「何にも知らねえみたいだから教えてやるよ。

 この世界は、お前の心が反映された、夢でも現実でもない世界」

「えっ、夢では……?」

「夢なら、空から落っこちても無事に朝を迎えられるだろうが、この世界で間違えても飛ぶなよ?」

「し、死んでしまうの!?」


 夢は、覚めたら全て内容を忘れていた。

 どんな夢を見たのか、何をしていたのか、全部忘れている。

 まるで……まるで、今の現状のようだ。

 思い出そうとしても、もどかしくって、苦しくって。

 ただ〝忘れている〟という事だけが、事実だった。


「死にやしねぇよ! 現実世界に帰れなくなるだけだ」


 夢は、目覚めるから夢だ。覚めない夢は、ない……はず。


「まあ? もし、お前が帰りたくないと思うのなら、飛ぶのも悪くない選択だけどよ。いや、お前が飛ぶ前に奴が」

「冗談じゃないわ! こんな訳のわからない世界、今すぐ帰りたいくらいよ!」


 帰りたい。すぐに帰りたい。目覚めたい。


「あの、これからどうすれば……どうすれば帰れるのですか?」

「全てを思い出すんだよ」

「全てを思い出せと言われても……何を?

 私には……忘れている自覚がないのです」


 人形は目を細くした。その口元には冷たい笑み、侮蔑の表情を浮かべた。


「オレとマリカは初対面じゃない。オレの名前、覚えているか?」

「えっ!?」


 唐突な問いに一瞬、停止した脳を慌てて再起動させた。

 考えても、考えても……わからない。どうやら忘れているようだった。

 そして、人形の顔を見ていてわかった。

 私が答えられない事を、彼は確信している。


「……オレの名前は、アルファ」


 しばらくして、高価なビスクドールは笑いながら名乗った。


「どうせ、覚えてないと思ったよ。

 お前はオレに全く興味を示して無かったからな。

 お前はお人形遊びより、オシャレに夢中だったんだから。

 名前だって、ダサいって馬鹿にして、まともに呼んでくれなかった」

 

 アルファが私に対して良い印象を持ってない理由がわかった。


「ごめんなさい」

「謝るんじゃねえよ。

 悪いと思ってないのに謝罪されても鬱陶しいと思うだけだ」

「ご、ごめんなさい!」

「……ったく。素直なお前は気持ち悪いなぁ。

 お前は、そんな奴じゃない。まるで別人だな」

 

 アルファが私に悪意を抱いているのは、とても悲しいことだが仕方がない。

 でも、ただ一つだけ……どうしても我慢出来ないことがあった。


「……あの、お前って呼ぶのやめて頂けませんか?

 マリカと……ちゃんと名前で呼んで下さい」


 恐る恐るお願いしてみる。

 するとアルファは数回まばたきをした後、恭しくお辞儀をした。


「わかったよ、マリカ……どうぞ、よろしく」


 その機械的な笑みを見ると、何故か不安が胸に込み上げて来る。

 でも、こんな訳のわからない世界で一人っきりなんて、絶対に嫌だ。

 なんであれ、味方になってくれるというのだから受け入れよう。


「こちらこそ。よろしく」


 取り繕うように私も笑みを浮かべた。

 きっと、私の笑顔もアルファと同じく無機質になっているだろう。

 冷たくて、見るだけで胸が切り裂かれそうな……悲しい笑顔に。

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