押し寄せる悪意

 正午。


 ボクは周囲をしきりにキョロキョロしながら、『商業区』の人波の間を縫って歩いていた。


 両側頭部のツインテールを何度も振り乱しつつ探しているのは、言わずもがな、ライライである。


 団圓菜館を出た後、ボクはすぐにライライを探し始めた。

 ミーフォンのおかげで、もう迷いも負い目もなかった。

 すぐにでも会いたい。会って、今度こそ対等な立場で話したい。

 自分の苦い過去を持ち出してまでボクを鼓舞してくれたミーフォンのために、そして、ボク自身のために、今日中に必ずライライを捕まえるんだ。


 ……と、張り切って探しに出たまでは良かったが、未だに彼女の姿は見つかっていなかった。すでにかれこれ二時間以上探しているにもかかわらず、だ。


 無理もない、と思った。【滄奥市そうおうし】はかなり大きな町だ。おまけにその半分を占める『商業区』はこんなにも人で溢れかえっていて、そのせいで視界を遮られてうまく見えない。

 極めつけに、ライライは『順天大酒店』にはいなかった。つまり、今もどこかで移動を続けているということ。

 町は広くて混んでて、目的の人は移動中。探す条件としては最悪の一言に尽きる。


 【武館区ぶかんく】や『住宅区』には、一時間ほど前に探りを入れた。『商業区』とは打って変わって空いていて動きやすかったが、見つかるかどうかとは話が別だった。なので、やむなく『商業区』に戻ってきちゃったのである。


 すでにボクはヘトヘトだった。肉体的にはまだまだ頑張れるが、散々人波にもみくちゃにされてしまったので、精神的に磨り減った感じだ。体力はあるけどもうあんまり動きたくない、といった具合である。


「一回休もう……」


 ボクは休憩のため、『商業区』を出て『公共区』へとやって来た。ここの方が空いているからだ。


 大きな筒のような形状をした『闘技場』まで到着。その巨大な日陰の中に入り、壁際で体育座りした。


 目を閉じ、全身を緩め、心もリラックスさせる。しかしそのまま寝てしまわないように気をつける。一応、女の子だからね。


 が、その時、なーう、という猫の鳴き声が耳を震わせた。

 目を開けると、ボクのすぐ前には一匹の猫がいた。

 ニョロニョロとヘビのように尻尾を波打たせている、真っ黒な猫。その光沢のある真っ黒ボディの中、綺麗な金目二つだけが輝いていた。まるで夜空にきらめく星のようである。かなりの美人さんだ。


 思わず、その猫の顎を人差し指でちろちろ撫でた。喉元が振動し、ごろろろ、という音が聞こえる。


 ボクは癒されると同時に、その猫に強い既視感を持った。


「……あっ。おまえ、もしかしてあの時のうちの一匹……?」


 そう。この黒猫は『鈴』の奪い合いの最中、『闘技場』の前でケンカしていた二匹の猫のうちの一匹だった。

 この子が叫んだおかげで、鈴持ちである事がバレてしまって散々だった。


「ま、もう済んだ事だし、許してあげようじゃないか。ボクの心が広くて良かったね」


 ボクは黒猫の頭をそっと撫でた。すると、目元を気持ち良さそうに細めた。なんだかミーフォンを彷彿とさせるリアクションだった。


「待ってー!」


 そこで、幼い女の子の声が聞こえてきた。とてとてと軽めな足音が近づいてくる。


 視線を猫から上へ向けると、視線の少し先で、一人の女児がこちらへ向かって駆け足で来ていた。ボクと違って耳の下辺りで結ぶタイプのツインテールで、まだ丸みの残った顔の輪郭と、ボクよりもずっと低い身長から考えるに、年齢はおそらく七、八才くらいだろう。


「もー、黒虎ヘイフーのばかっ。どうしていつもいなくなっちゃうの?」


 女の子は黒猫のもとまで来ると、その腰周りに腕を回して抱きついた。


 黒虎ヘイフーってその猫の名前? 何それカッコイイ。


 女の子はボクの存在に気づくと、頭をぺこりと下げつつ舌っ足らずな口調で、


「あ、あの、ありがとう、お姉ちゃん。この子を捕まえてくれて」


「いやいや、別に捕まえたわけじゃないよ。この子が勝手に寄ってきたんだ」


「そうなんだ。……あれっ?」


 そこで女の子は口を止め、ボクの顔をジッと見てきた。食い入るように。


「お姉ちゃん、どこかで見覚えが……」


 独り言なのかそうでないのか、女の子がそう呟く。

 な、なんだろう。この子は一体何に気づいたんだ。ボクはその幼い眼に思わずたじろぐ。


 次の瞬間、女の子は覚醒したように目を見開き、嬉々とした表情で声を張り上げた。


「――やっぱりそうだ! お姉ちゃん、明日決勝戦で戦う李星穂リー・シンスイ選手だよね!? 髪型変わってるけど、お顔がおんなじだもん!」


 あー、なるほど。そういうことか。そういえばボク、もうすっかり有名人なんだっけ。


 しらばっくれても意味がないと思ったボクは、女の子の言葉を肯定した。


「うん、そうだよ。ボクが李星穂リー・シンスイさ」


「やっぱり! あ、あの……李星穂リー・シンスイ選手……」


「シンスイでいいよ」


「は、はいっ。あの、シンスイお姉ちゃん……あ、握手、して……欲しいなって」


 尻すぼんだ声でそう言いつつ、もみじみたいにちっちゃな手をおそるおそる差し出してきた。その顔は恥ずかしさと、おっかなびっくりな感じの両方が混じっていた。

 どうしよう。こんなちっちゃい子に握手求められちゃったよ。なんだかスターみたいな扱いで少し恥ずかしい。

 でも悪い気はしなかったので、ボクは力が入らないよう、ちっちゃい手をそっと握った。


「はわぁ……!」


 女の子は心底嬉しそうな笑顔を浮かべ、声をもらした。

 こ、ここまで喜んでもらえるとは。結構嬉しいかも。


 ボクは女の子の頭を撫でながら、


「明日の試合、応援してね」


「うん! 頑張って、シンスイお姉ちゃん!」


 にごり一つ無い純真な瞳を輝かせ、元気いっぱいに応援の言葉をくれる。


 可愛いなぁ。ボクはさらにその頭を撫で回した。


「あ、あのね、実は宮莱莱ゴン・ライライ選手もさっき見たの。でも、なんだか凄く怖い顔してたし、それになんだか怖そうなおじさん達も一緒だったから、話しかけられなくて……」


 上目遣いで見上げながら発せられた女の子の言葉に、ボクの心臓が唐突に高鳴った。


「お嬢ちゃん、ライライを見たのかいっ? どこで?」


 押し迫るようなボクの質問に、女の子はたじろぎながら答えた。


「う、うんと、十分くらい前に、この『公共区』で見たの。なんだか怖い顔したおじさん達がいっぱい出てきて、ライライさんを輪っかみたいに囲って、そのままどこかに行っちゃったの」


 その情報を耳にして、ボクは胸騒ぎのようなものを感じた。


 ――怖い顔したおじさん達。


 ライライにそんな知り合いがいるとは思えない。


『最近、この【滄奥市】で「武法士狩り」が横行してるらしいです』


『あるデカい【黒幫こくはん】が分裂したみたいで、その結果生まれた新興の組織が、自分たちの名を手っ取り早く上げるために、有名な武法士を潰しまくってるんですって』


 ミーフォンの教えてくれた情報が、ナイスタイミングで思い起こされる。

 ライライも決勝進出者。つまり、今のこの町ではボクと同じくらい有名なはずだ。

 もしかすると、彼女はその新興の組織に目を付けられ、連れて行かれたのかもしれない。


 杞憂である可能性は否めない。


 でも、ボクのカンが当たっている可能性も捨てきることができなかった。


 ボクは女の子を怯えさせないよう、つよめて冷静な口調で訊いた。


「どっち方面に行ったか分かるかい?」


「えっとね、あっち!」


 女の子が細い指を向けたのは、【武館区】のある方角だった。


 ボクは跳ねるように立ち上がると、


「ありがとう! 後でお礼にサインをあげるよ!」


 そう言い残し、【武館区】めがけて疾走した。











「こんな所に連れてきて、どういうつもりかしら?」


 宮莱莱ゴン・ライライは、氷の茨のような声色で周囲の男たちに訊いた。


 そこは四角い煉瓦造りの一階建ての前に広がる、正方形の中庭。建物のある位置以外はすべて硬い土塀で囲われており、その内側に広がったこの中庭には家具どころか、石ころ一つ転がっていない。ただ平たい土質の地面が敷いてあるだけの殺風景な空間。


 自分と、その周囲に立つ十数人もの男達は、皆等しく同じ地面を踏んでいた。


 男達のほとんどは剣や槍などで武装している。ナンパなどといった平和的要件でないことは明白だった。


「実は俺ら、あんたに一目惚れしたんだ! ――なんて話じゃもちろんないぜ?」


 リーダー格である男が両手の刀を磨り鳴らしながら、おどけた口調で言う。つられてその他全員がゲラゲラと品なく笑い出した。


 ライライはそんな連中の態度に眉をひそめながら、


「煌国語が通じないのかしら? 「どうしてこんな所に連れて来たのか」って聞いてるのよ。今、私凄く機嫌が悪いの。返答によっては全員蹴り飛ばすわよ」


「言うねぇ。鼻っ柱の強い女はおじちゃん大好きよ。組み敷いて屈服させた後の達成感が半端じゃねぇからな」


「あなたの好みなんて訊いてない。サービスでもう一度言ってあげるわ。どうして、私を、こんな所に、連れて来たの?」


 この無学そうな連中にも分かるよう、区切りを設けながら質問を突きつける。


 すると、リーダーはその岩のような顔貌を嗜虐で歪め、言った。


「簡単だよ、宮莱莱ゴン・ライライ。――あんたを潰すためさ」


「……私を? 何のために?」


「俺たち【看破紅塵かんぱこうじん】の名前を上げるためさ。あんたにゃそのための生贄になってもらう」


 ライライの頭に、電撃的に確信が芽生える。


「あなたたち……【黒幫】?」


「ご名答。だがまだ立ち上げたばっかりの新興組織でね、他の【黒幫】に比べるとまだまだ力不足が否めねぇ。それを改善するためにまず必要なモンって、なんだか分かるか?」


「……名声、ね」


「そうさ。ヤクザ者の世界で威張り散らすにせよ、部下の数を集めるにせよ、まずは実績に裏打ちされた名声が必要だ。だが今の俺たちの戦力じゃ、他の組織と戦争してもはっきり言って勝ち目はねぇ。そこで考えたのよ。名の知れた武法士に狙いを付け、そいつを叩きのめすことで、手っ取り早く名前を上げようってな」


 リーダー格の男が言うセリフには、意外にも説得力があった。

 武法士には、表の世界と裏の世界のあわいを徘徊しているような、曖昧な立ち位置の人物が多い。名の知れた武法士は特にそれが顕著である。

 あの憎き最強の魔人、強雷峰チャン・レイフォンもそうだ。あの男は有名な【黒幫】をたった一人で潰したという過去があるため、裏の世界でもすこぶる恐れられている。


 ライライは冷たい声色の中に、諭すような語り口も混ぜて言い放った。


「言っておくけど、私は予選大会の決勝まで勝ち残った程度の若輩者よ。あなた達が食べるにはいささか味が物足りないと思うけれど」


「へへっ、構わねぇさ。味が物足りなかったとしても、無味ってわけじゃねぇんだ。それに最近、活きのいい獲物がめっきり減っちまってなぁ、少しでも餌が欲しい気分だったのさ」


 どこまでも手前勝手な事を言う。

 これ以上付き合う義理も意味もないので、ライライは早々に出ていきたかった。

 しかし、外と唯一繋がる鉄の正門はすでに施錠されている上、周囲の男たちも自分を逃がさない気満々の様子だった。

 どうやら全員叩きのめさない限り、出られる見込みは薄いようだ。


 それを確信したライライは大きく息を吸い、そして気持ちを足元に落とす感じで深く吐いた。馬が蹄を翻すように、片足を小刻みに後ろへ振り動かす。


「よしよし。ようやくやる気になったかい。そうこなくっちゃなぁ」


 リーダーはニヤリと笑い、二つの刃を顔の前で交差させる。ゆるく反った三日月状の片刃剣。片手持ちのソレらを左右の手に一本ずつ持っている。「双刀」という武器だ。


 ライライの胸中は闘志に満ちていた。戦わなければいけないと分かった以上、なおも不平を吐くのは愚かしい。なら、戦いに意識を集中させたほうが有益だ。

 それに、連中にも言ったが、今の自分は機嫌が悪い。

 この戦いは、やり場の無い思いをぶつける対象としてちょうど良い。

 元を正せば、向こうから仕掛けてきた事だ。せいぜい鬱憤晴らしに利用させてもらうとしよう。


 中庭にぽつぽつと立った男たちから、次々と殺気が発せられ、こちらに伝わる。まるで水面に無数の砂利が落ち、水の波紋がいくつも生まれているみたいだった。

 今は無数の波紋だけで済んでいるが、いずれ膨大な水しぶきが舞うだろう。まさしく一触即発の雰囲気。


 ――やがて、爆ぜた。


「キェアアアァァァ!!」


 真後ろにいた男が、槍を一閃させてきた。

 鈍銀の刺突を、ライライは体をねじって回避。そのまま槍のリーチ内に入ると、持ち主めがけて疾走し、その胸部に渾身の足裏を叩き込んだ。男の足が大きく後方へスライドする。


「……っ」


 鋼板を蹴ったような感触に、ライライは舌打ちする。どうやらこちらの手を読んで、事前に【硬気功こうきこう】をかけていたようだ。


 腐ってもヤクザ者。場慣れしているようだった。


「うらぁ!!」


 真横では次の攻撃が開始されていた。その男がこちらへ迫りながら振り上げているのは、先端に大きなうり状のおもりがついた長い棒。「金瓜錘きんかすい」という武器だ。


 スイカほどの鉄塊が、銀の軌跡を残して流星のように飛んできた。


「ハッ!!」


 しかし、長年鍛えあげたライライの蹴りの前では玩具でしかなかった。鋭く振り上げた上段蹴りが錘と衝突した瞬間、錘と棒の付け根の部分が小枝のようにへし折れ、二つに別れた。

 唖然としている隙を突く形で、男に回し蹴りを叩き込んで吹っ飛ばす。

 さらにライライの攻勢は続く。宙を舞った金瓜錘の錘に狙いを定めて、思いっきり蹴飛ばした。錘は大砲のような速度で直進し、遠く離れた位置にいた棍使いの男の顔面に直撃。意識を刈り取った。


 今度の敵は三人。左右と前から槍の先端が素早く向かってきた。ライライは唯一の逃げ道である後方へ大きく跳んで、三つの刺突を回避。

 避けたと思った瞬間、自分の真後ろに人間一人分の【気】の存在を感知。

 さっきの三方向からの攻撃は、後ろで待ち構えていた男の元へと誘い出すための布石だったのだ。


「くたばぶらばぁっ!?」


 ――が、ライライはそれすらも読んでいた。後ろを一瞥もせぬまま、柄が槍のように長い斧――「大斧だいふ」という――を振りかぶった男の腹を足裏で撃ち抜く。派手な呻き、そして真後ろの土塀に物のぶつかる音が耳朶を打った。


 そのまま大斧を奪う事もできたが、それはしなかった。【刮脚かっきゃく】の専門武器は、リーダー格の男が持っている双刀。大斧のような長く重量のある武器の操作はあまり得意ではないのだ。


 しかし、武器を持たずとも、十分事足りる気がした。

 ここにいる者たちは全員、明らかに修行不足だ。連携や起点は良いが、体術の練度の甘さがすべてを台無しにしている。勢いはあっても、鋭さに乏しい。

 所詮この連中にとって、武法はただの手段でしかないのだろう。

 長年自分の流派と真摯に向き合ってきた自分との力量差など、比べるまでもなかった。

 こんな戦いを長く続けるなど時間の無駄だ。早々にケリをつけてしまおう。


 ライライは敵の塊めがけて突っ走る。


 途中、両足に【硬気功】を付与。足を覆う素肌の表面で青白い火花が微かに散る。


 そして――鉄脚を振り出した。


「「「ぐぉあああぁぁぁぁぁ!?」」」


 足のリーチ内に入っていた男三人に回し蹴りが直撃。等しく病葉わくらば同然に宙を舞った。


 片膝を上げ、横合いからやって来た柳葉刀りゅうようとうの刃を、【硬気功】のかかった向こう脛で防御。ガキィン、という金属音を耳にしてから、すぐにその刃の主を爪先蹴りで沈下させた。


 双手帯そうしゅたいを垂直に振り下ろしてきた男を、双手帯の刃ごと蹴り飛ばす。


 ライライは破竹の勢いで、敵の数を一人、また一人と減らしていった。


 ――いける!


 このままこの勢いを維持すれば勝てる。


 そこで、両足に集まっていた【気】が薄まるのを感じた。


 ライライが再び両足に【硬気功】を施そうとした時だった。


「――えぐっ!?」


 思わずえづく。喉元に、横線状の何かが強く食い込む感じがしたからだ。

 見ると、自分の左右両側にいる男たちが、互いに縄の先端を持ち合い、ダッシュしてこちらの首に思いっきり引っ掛けていた。

 頭が揺れ、一瞬、泥酔時のように気分が揺らぐ。かと思えば後方へ大きく転がっていき、戸が開け放たれている煉瓦造りの建物の中へと吸い込まれる。その内壁にぶつかったことでようやく止まった。


 建物の中は何も無い、中庭同様に殺風景な空間だった。一言で言い表すなら「何も入っていない倉庫」といった感じである。日光を入れられる穴は、自分が入った戸口以外に、天井付近に三つほど並んで穿たれた小さな長方形の穴のみ。そのせいか埃っぽく、カビ臭い。


 ばたばたばたばたっ、という多重した足音が室内に押し入って来るのを耳にしたライライは迅速に立ち上がる。

 リーダー格の双刀使いを含む、八人の男たちが屋内に入っていた。

 入口は、すでにかんぬきを通して固く閉ざされていた。光源は天井付近に開いた三つの穴だけとなったため、薄暗い。


 軟禁状態にするつもりだろう。だがそれは愚策だ。こちらが逃げられないのと同じように、相手もまた逃げる事ができなくなったのだから。


 八人の男は、懐から布袋を一つ取り出したかと思うと、それを一斉にこちらへ投げつけてきた。

 ライライは素早く横へ動いた。飛んできた袋は全て煉瓦の壁に直撃し、ぺちゃんこになった。

 そして、その中からもうもうと濃密な白煙が発生。白煙はあっという間に部屋全体を埋め尽くし、濃霧のように視界を遮った。男たちの姿が霞んで見える。


 ライライは毒霧かと思って一瞬焦ったが、吸い込んで舌で味わい、その正体をすぐに見破った。


 これは――穀粉こくふんだ。


 どうしてこんなものを?


 だが、それを呑気に考えている暇はなかった。リーダーの双刀使いが二つの白刃をむき出しにしながら、こちらへ鋭く近づいた。


 無駄だ。そんな薄弱な刃、足に【硬気功】をかけ






 ――――駄目だ。出来ない。






 ライライは丹田への【気】の集中を慌ててとりやめた。

 確かに【硬気功】のかかった足による蹴りならば、刃を粉砕しつつ、この男を仕留める事ができるだろう。

 しかし、駄目なのだ。今【硬気功】を使ったら、取り返しのつかない事態に陥る可能性がある。


「死ねやぁ!!」


 リーダーの殺伐とした気合いの掛け声で、我に返る。


 しまった。反応が遅れた。


 ライライは決死の思いで後ろに跳ぶが、片刃の射程圏内から逃げきれず、左の二の腕に切り傷を負うハメになった。雀の涙ほどの血滴が、白濁した空間を花弁のように舞う。


「っ……! このっ!!」


 焼けるような痛みをこらえつつ、負けじと前蹴りを突き出す。

 しかしリーダーはその苦し紛れの蹴りを軽やかに回避。

 そして、虚空に出された蹴り足に、敵の一人が投げた細い縄がぐるぐると巻き付いた。「流星錘りゅうせいすい」――掌で包める程度の大きさを持つ瓜型の錘を、細い縄の先にくくりつけた武器。錘を相手にぶつけるだけでなく、縄を相手の四肢に絡みつかせて束縛するのにも使える。


 そして流星錘を持った敵は、後足に重心を移し、ライライの足を思いっきり引っ張った。


「きゃあっ!?」


 ライライは盛大に重心を崩し、前に引き寄せられた。

 流星錘に掴まれた片足を前に出しながら虚空を漂い、双刀使いのリーダーの元へと体が移動していく。

 「蹴り使いが足を取られた」という事実に、屈辱を感じる暇さえなかった。

 リーダーの姿はすぐに視界の九割を占め、そして、


「カッ!!」


 踏み込みと同時に鋭敏に放たれた肘が、ライライの腹の中央をえぐった。


「えぁっ……!」


 人間大の鉄球が高速でぶち当たったような衝撃、鈍痛。

 肘による【勁擊けいげき】をまともに食らったライライは腹の空気を絞り出され、思いっきり後ろへ弾き飛ぶ。しかし片足に巻かれた流星錘がそれを途中で止め、埃の溜まった石の床に背中から落ちることとなった。


 ライライはそのまま、激しく咳き込んだ。痛みの余韻は、なおも腹部に濃く残っていた。


「――どうだい? 俺らはこのやり方で何人も仕留めてきたのさ。」


 リーダーは苦悶するライライを見下ろし、そううそぶいた。


 ライライは目を苦痛で食いしばりながら、穀粉をぶちまけた連中の狙いを確信していた。


 ――武法士が使う【気】とは、電気的性質を持ったエネルギーだ。

 ゆえに【気】は、何かを燃やすための火種にもなり得る。【送気法そうきほう】の功力が高い者なら、発した【気】で着火剤に火をつける事も可能だ。


 そう。【気】は物を燃やせるのだ。――この密室に舞う穀粉さえも。


 小麦粉やとうもろこしの粉といった可燃性の塵が煙のように漂う場所で【気功術】を使うと、【気】がその塵に引火し、粉塵爆発を起こす危険性がある。それで焼死した武法士もいるのだ。

 必ずしも火がつくわけではない。しかし、爆発する可能性がある以上、不用意に【気功術】を使うのは愚の骨頂だ。武法とは、戦い、生き残るための技術。その技術で自分を殺してしまっては本末転倒。よほどの馬鹿か命知らずでない限り、この状況下で【気功術】を使おうとはしない。


 ――この連中は今まで、そんな武法士の堅実さを逆手に取ってきたのだ。


 リーダーはライライの傍らでしゃがみ込むと、


「えーっと、こいつの性別は女で、今は……」


「今、ちょうど昼の一時になった所ですぜ、御頭おかしら


「そうかい、恩に着るぜ。なら、今の【麻穴まけつ】はここだな」


 言うと、リーダーは人差し指を曲げて第二関節をやじりのように尖らせ、ライライの左鎖骨の下辺りへ深々と突き刺した。

 痛みを感じるとともに、四肢との疎通が途切れるのを感じた。

 全身が微動だにしなくなった。手足どころか、指一本さえ全く動かせない。まるで自分の体が自分の物でないかのようだ。


 最悪だ――ライライは強い悔恨で歯噛みした。


 今、リーダーが使ったのは【点穴術てんけつじゅつ】だ。人体に無数ある経穴けいけつのいずれかを突く事によって、相手の体に何らかの影響を及ぼす技術。武法の技術であると同時に、医療の技術としても使われている。

 そして今突かれた経穴は【麻穴】。突くと一定時間全身が麻痺し、動けなくなってしまう。


 今の自分はまさしく、まな板のこい同然だった。


「さて、これから死なない程度にお前さんを袋叩きにしようって予定だったんだがな……」


 リーダーはそこで一度言葉を止めた。


 かと思えば、極上の獲物を見つけた獣のようにぎらついた眼差しを向けてきた。自分の太腿、腰周り、そして大きく膨らんだ乳房に視線が這うのを感じ、生理的嫌悪感が背筋を駆け上ってきた。


 他の男たちも同様の目をしている。


 嫌な予感が追い討ちをかけてきた。


「そうする前に――食わせてもらうぜ。こんな上玉、女郎屋にもなかなかいねぇからな」


 リーダーは双刀を無造作に放ると、もう我慢できないとばかりにこちらへ覆いかぶさってきた。


 柔肌にきつく食い込む指と爪の感触から「男」の力を感じてしまい、ライライは吐き気がするほど不快になった。


「【麻穴】打たれても声は出せるからよ、せいぜい可愛く啼いてくれよ」


 小刻みに荒い息をしながら、リーダーは下卑た口調で言った。


 汗ばんだ無骨な手が、太腿のラインをなぞりながら、股下へと近づいていく。


 これ以上無いほどの怖気が立った。


 ライライの心中は、焦りと、そして女としての本能的恐怖で荒波のようにざわついていた。

 このままじゃマズイ。

 今の自分では何も出来ない。

 誰かの助けが必要だ。

 ただの武法士じゃダメだ。もっと腕の立つ人物でないと、この連中に返り討ちにされる。


 そう、例えばあの少女、李星穂リー・シンスイのような――




『うるさいって言ってるのよ!! この――大量殺人者の弟子っ!!!』




 まるで計ったようなタイミングで、過去に自分の吐いた悪罵が脳裏をよぎった。


「……は、はは…………」


 口元が、自嘲めいた笑みを形作る。

 何を甘ったれた事を考えていたのだろう。

 あんな酷い言葉をぶつけておいて、助けて欲しいなどと。

 厚顔無恥にも程がある。


 この【滄奥市】に来て以来、たびたび行動を共にしてきたあの少女は、今は自分の隣にはいない。


 当然だ。自分が一方的に突き放したのだから。


 ――これはきっと、報いなのだ。

 彼女は何も悪くないのに、父の仇と同一に捉え、そして手酷く拒絶した。その醜い行為への報い。

 何度も自分に構ってくれた彼女の気持ちを切り捨てた報い。


 この状況は、この馬鹿な女にふさわしい天罰なのではないか。


 自分はこれから、女が味わう中で最悪の苦痛を受けるだろう。

 今まで汚れを知らなかったこの体を、この男たちの手や舌が暴力的に汚し、征服し尽くすだろう。

 五感すべてが、汚らわしい情報で埋め尽くされるだろう。


 ――せめてこの男の顔を見ないよう、目だけは閉じたい。


 ライライはまぶたを下ろし、この残酷な世界に蓋をし始めた。


 瞼が半分下りた。












































































「ライラァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァイッッ!!!」








































 そして、入口の隣の壁が、瀑布ばくふのように爆ぜた。

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