即堕ち

 ミーフォンとの試合に勝利したのち、ボクは円形闘技場から『競技場』の中へ引っ込んだ。


 闘技場への出入りは一階からのみ可能。ボクは試合後、必然的に一階を歩くことになった。


 そして現在、壁に四角い穴と行灯が並んだ『競技場』の一階廊下を歩いていた。試合前にいたのと同じ場所だ。ここは闘技場の出入り口から一番近い廊下なのである。


「一回戦突破おめでとう、シンスイ」


 隣を歩くライライが、そうねぎらいの言葉をかけてくれた。どうやら、ボクの試合も見ていてくれたようだ。


「ありがとう。ライライは今日は最後に戦うんだっけ?」


「ええ。まだまだ時間が余ってて退屈だわ。試合を見るのが唯一の時間つぶしね」


 彼女とは試合後、すぐに一階で合流した。


 観客席は一段上の二階にあるが、そこへ上がるための階段は、闘技場出入り口付近のこの場所とは少し距離がある。普通ならこれほど早く合流はできない。


 その理由はおそらく、選手用の席から見ていたからだろう。


 今大会出場選手は、一般来場者とは別の観客席で試合を見る権利が与えられる。

 選手用の席は、通常の観客席とは異なる区画となっている。規模は小さいが、通常の観客席より少し低い位置にあるため、試合を比較的近い場所から見ることができる。特等席と呼べなくもない。

 そして、そこからなら闘技場出入り口付近から近い。ライライはそこで見ていたのだろう。


「ところでシンスイ、一つ気になる事があるんだけど……」


 不意に、ライライが質問の前置きを口にしてきた。


 ボクは普段通りの声と態度で、


「なにかな?」


「……その、ミーフォンはあの時【硬気功こうきこう】をかけていたでしょう? シンスイはそれをどうして破れたのかなぁって思って。【炸丹さくたん】を使った気配なんて微塵もなかったのに……」


 ――来た。


 まあ、遅かれ早かれ感づかれるとは思っていた。


 別に隠してるってわけでもないし、まあいっか、教えちゃっても。別に困らないし。


 ボクは素直に答えた。


「実は、【打雷把だらいは】の【勁擊けいげき】には――【硬気功】が効かないんだ」


 ライライはあからさまに目を見張った。


「……冗談よね?」


 いつもの低く落ち着いた声とは違い、少し上ずった声。


 事実とは分かっているけど、それを事実とは認めたくない。そんな感情が読めそうだった。


 ボクはふるふるとかぶりを振った。太い三つ編みが尻尾のように左右に揺れる。


「ううん、本当だよ。ボクの使う【打雷把】には、【勁擊】にそういう性質を意図的に付与させる【意念法いねんほう】が伝わってるんだ」


 【意念法】とは、強いイメージの力を用いた技術のこと。

 プラシーボ効果というのをご存知だろうか。偽薬でも、飲む人が「これは薬だ」と強く信じて飲めば、薬として効果を発揮することがあるのだ。

 【意念法】の理屈は、それとほぼ同じ。動作の最中、決められたイメージを強く思い浮かべることで、その動作の速度や攻撃力を上昇させたり、特殊な効果を付与させたりできるのだ。


 【打雷把】では、【勁擊】を打つ時に仮想の相手を強くイメージし、それを打ち貫くという修行を行う。これも【意念法】だ。仮想の相手を貫くイメージで何度も時間をかけて練習することで、その【勁擊】に『貫く性質』を与える。

 代わりに、モノに【勁擊】を打つ修行は一切行ってはならない。そうすると【勁擊】は「物体を打つ」という性質を持ってしまい、【硬気功】を貫くことができなくなってしまう。

 この【意念法】は、レイフォン師匠が長年の研究の末に考案したものだ。なので、豊富な技術の結晶である【太極炮捶たいきょくほうすい】の中にも含まれていない。ミーフォンには盲点だったはずだ。


「……なんというか、前代未聞ね。私以外の選手もびっくりして前かがみになっていたわよ」


 ライライは若干引きつった微笑みを浮かべて言う。


「でも、そんな凄い武法が知られていないなんて、信じがたいわね…………その【打雷把】という武法、いったい誰が作ったのかしら?」


「えっと、それは――」


 ボクがライライの質問に答えようとした時だった。


 通せんぼするように立ちはだかる人影があるのに気がつき、思わず足を止める。ライライもそれに倣う。


 その人影は――先ほど戦った紅蜜楓ホン・ミーフォンだった。


 若干こうべが垂れているため、前髪の下に顔が隠れていて表情がよく見えない。火のごとき威勢の良さを表したような赤い菊花模様のシニヨンカバーは、若干しおれて見えた。


「……何かしら?」


 ライライは少し警戒心を帯びた声でそう尋ねる。


 しかしミーフォンは無言。


 頭を垂らしたまま、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。


 一歩。一歩。また一歩。


 ゆらり、ゆらり、と。


 亡者を思わせるその足取りに、ボクは否応なく心を引き締める。


 ――もしかすると、この場で仕返しをしに来たのかもしれない。


 戦いに勝ったら、恨みを買うことも少なくはない。そしてその恨みの数は、腕の立つ武法士ほど多い。


 ボクも武法士人生を歩み始めて以来、多くの相手と戦ってきた。一戦交えたっきり会わなくなった者が圧倒的に多いが、その中にはボクを恨んでいる者も大なり小なりいたはずだ。


 ……レイフォン師匠は戦った相手のほとんどをあの世に送ったため、案外かなり少ないかもしれないが。


 ボクとミーフォンの距離が近くなる。


 だが、彼女はなおも歩み続ける。


「…………お………………」


 消え入りそうな声で、そう口にした。


「お?」


 ボクは思わず、同じ一言をそらんじる。


 やがて、ボクらの距離が2まいを切った。


 ボクはやむを得ず、半身の体勢となった。


 いつでも反応できるよう、心構えをきちんとしておく。平静さという綿の中に、戦意という針を仕込むように。


 やがてミーフォンは、






「――――お姉様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!」






 がばーっ!! と、勢いよく抱きついてきた。


「へっ!?」


 予想の斜め上どころか、後ろへ逆走するような意味不明の行動に、ボクの思考が止まりかける。


 ミーフォンは試合時の挑戦的な表情など微塵も感じさせない、幸せ満点のキラキラ笑顔でボクの貧相な胸に頬ずりしてきた。


 って、ちょ!? 何してんのこの娘!?


「あぁんっ!! お姉様ったら凄くいい匂い!! お胸も壁のように見えてほのかな柔らかさ!! あーんお姉様お姉様ぁ!!」


 密着させてなおその奥へ進まんとばかりに、ミーフォンがゴリゴリ頬っぺたを擦り付けてくる。その声は女の子らしすぎるくらい女の子らしかった。


「うおおおおおおおお!?」


 ボクはそんな奇行に対し、意味が分からず、叫ぶことしかできなかった。


 ていうか、さっきから小柄な背丈に反してなかなか大きなミーフォンの双丘おっぱいがフニフニ当たって気持ちい……じゃなくて奇妙な感触がするんだけど!?


 凄まじくいい匂いに鼻を突っつかれて、頭もくらくらしてきた。


「ちょっ、ミーフォン!? 君、一体どうしちゃったのさ!?」


 少し経って、なんとかそう訊くことができた。


 ミーフォンは今時ギャルのようなキャピキャピした口調で、


「さっきはごめんなさいお姉様ぁ!! あたしが間違っていましたぁ!! あたしお姉様に倒されて、目が覚めました!! そしてもうあたしは身も心もあなたの虜ですぅ!! これからは「シンスイお姉様」と呼ばせて、未来永劫お傍に置いてくださぁい!!」


「いや、そんなこといきなり言われても……それに確か君って三女だよね? なら上にお姉さんがいるんでしょ? それなのにボクを「お姉様」って呼ぶのは変くない?」


「それはそれ、これはこれ、ですわ!」


 少女漫画のように輝いた眼差しでボクを見上げ、そう力強く断言する。えぇー。


 そこで突然、胸元に涼しさを感じた。


 見ると、上着を縦に留めていたチャイナボタン風の留め具の上部がいつの間にか外され、胸元のインナーが露出していた。


 ちょっ! この子いつの間に!?


 ミーフォンはそこへ顔を突っ込むと、鼻息を勢いよく吸い込んだ。


「はああああんっ!! お姉様ったら本当にいい匂い!! さっきの試合で汗かいてるはずなのに、全然グッドスメルですぅ!! もうお姉様を人間の女の範疇に入れておくには無理があります!! シンスイお姉様マジ天使ですぅ!!」


「や、何言ってるのさミーフォ……あっ! ちょ、ちょっと!? 鼻息そんなに荒くしないで! くすぐった――――あぁんっ!!」


 うわ! 変な声が出ちゃったよ! 我ながらなんて艶かしい声! 死ぬほど恥ずかしいんですけど!?


 助けて――そんな気持ちを込めた視線を、隣のライライへと向ける。


 それを受け取ったのかそうでないのか、ライライは世話の焼ける妹を見るような微笑を浮かべて一言。


「……罪な女ね、シンスイ」


「ちょっとライライ何言って――――ふあぁあんっ!!」


 また変な声出たよ! 恥ずかしい!


 ミーフォンはなおも削るように頬ずりしながら、


「シンスイお姉様ぁ!! 恋人でも妹分でも友達でも小間使いでも寵物ペットでもなんでもいいんです!! あたしを許してお傍に置いてくださぁい!!」


「わ、分かったから! これ以上は許してぇ――――――!!」

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