最終話

【高遠城の戦い】

桜が満開だ。

ヒラヒラと舞い落ちる花弁は僕の肩や頭にたくさんついている。

それを払うのも億劫で、全身春色になりながら前へ進む。

ここは高遠城址。現代では桜の名所として名高い。

しかし絶好のシーズンでありながら人が少ないのは平日だからだろう。

ちらほら見える人はみな思い思いにいっぱいに咲いた桜を楽しんでいる。

僕は手頃なベンチを見つけて座ると頭上にある桜を見つめた。

「お一人ですか」

ふと柔らかな女性の声に桜に攫われていた意識が浮上した。

声の方に目をやると、1人の黒髪が美しい女性がいた。

桜色のワンピースを着た彼女は、柔和に微笑む。

僕もつられて笑う。

「ええ……とても、辛いことがあって。ここに来れば、少し楽になれるかなあって」

僕が頭を掻きながらはにかむと、桜色の彼女は僕の隣に腰掛ける。

「私でよければお話しください。もう少し楽になるやもしれません」

桜の香りに混じって、少し甘い香りが鼻をくすぐった。

ふわりとしたその香りに誘われて、僕はぽつりぽつりと言葉をこぼし始める。

「恋人……いや、許嫁ですかね。とにかく結婚を決めていた人を、置いてきてしまって。それも、酷いことをした挙句に。それでも、僕は、本当に好きだったんです。ただ、止むに止まれず……いや、僕が弱かっただけですね。彼女には本当に悪いことをしました」

俯きながら目を閉じると、彼女の後ろ姿だけが瞼の裏に浮かぶ。

しかもその後ろ姿は想像で、僕は彼女の顔すら知らないのだ。それがたまらなく悔しくて苦しい。

僕が瞼を開けて、隣の反応を窺うと彼女もまた目を閉じている。ただ、彼女の場合は上を向いていた。

「情けない甲斐性のない男だと笑ってください」

自嘲めいた乾いた笑いが漏れる。

「顔も見たことがない婚約者でした。でも手紙をかわして、彼女の姿を想像するたび、愛おしかった。会える日を待ち望んでいました。でも僕は結局——言い訳も出ませんよ」

足元にふと目線をやると、投げ出していた足先に白い蝶が止まっていた。

地面に散らばる桜色の絨毯に、蝶の白という柔らかなコントラスト。

改めて季節は春だったと、感じ入る。

「すみません、こんなよき春の日に話す話ではありませんね。旅人の戯言だと思ってお忘れになってください」

ベンチから腰を上げて、見下ろすように彼女を見ると、さっきは桜を見上げるようにして目を閉じていたのに、今は俯いてその表情を窺うことはできない。

もしかしたらこんな話をして気を悪くしてしまったのだろうか。

「あの……」

と、呼びかけようとした喉が引っ込む。

——そういえば僕はこの人の名前も知らない。

呼びかけようとした名前が見つからなくて、そのまま立ち尽くす。

「あなたの名前は」

尋ねた問いに彼女は応えない。

その代わりに、何かを滔々と語り出した。

「この高遠の桜は、今から400年前も大変評判でした」

「現代ですらこれほどの桜はそうはありますまい。それはそれはその時代でも見事だったでしょうね」

彼女が俯いた顔を上げて、ひらひらと降ってきた花弁を手のひらで受け止めて見つめた。

その表情はなぜな悲しげに曇っている。

「ええ、それは本当に……そんな桜を誰よりも愛していたのは、その時代、この高遠城城主にして、甲斐の虎として名高い武田信玄の五男、仁科盛信。彼は家臣、領民ともに愛された心優しい男です。今でも、墓所には献花が絶えません」

胸が引き裂かれるような痛みを覚える。どうか、そんな悲しそうな顔をして語らないで欲しかった。

彼女が掌の桜の花弁を柔く握る。

「彼には母を同じにした妹がいました。彼女の名前は松姫。偉大な父と優しい母に育てられた彼女は、7歳の頃に許嫁が出来ます。許嫁は当時破竹の勢いで勢力を伸ばしていた織田信長の嫡男、信忠。彼女は信忠と手紙などの交流を通して、やがてくる輿入れの日を心待ちにしていました」

頭がピシッと音を立てた。こめかみの辺りが一瞬鋭く痛む。

「……その姫君の話なら、僕も知っていますよ。そのあと、武田と織田の関係悪化に伴い、婚約は破談。その後は先ほど聞いた兄の仁科盛信のもとへ保護され、後にここ高遠の城に身を寄せたとか」

「ええ、その通り、けれど彼女はこの見事な高遠の桜を2度ほどしか楽しむことができませんでした」

ざわざわと風が桜の木を揺らす。

あたりにちらほらといたはずの人も今はいない。

彼女と僕、2人だけの静謐な空間を、桜の香りが満たす。

どこか憂いを帯びた彼女の横顔。見ていて胸が締め付けられる。

静かで神聖にすら感じられる空気を彼女の語りが裂いた。

「まさかかつての婚約者が、実の兄を追い詰めるとは、夢にも思わなかった……でしょうね」

「……織田による甲州征伐に伴う高遠城攻めですね……その指揮は、信忠がとったという」

「よくご存知で。戦闘が本格化する前に、松姫は八王子の方へ逃げ延びました。そこまでご存知なら兄——仁科盛信がどうなったかは言わずもがなでしょう。生き延びた彼女は出家し、婚約者、信忠への愛を貫いた」

「けれど、信忠が彼女を迎えに行くことはなかった……」

ふっと彼女が吐息を漏らす。

しばらくぶりにまともに目を合わせた。

彼女の目は潤んでいた。それが乾燥のせいなのか、悲涙を堪えるせいなのか、もし後者であれば語り部である彼女が何にそんなに悲しんでいるのか、僕にはわからない。

「本能寺の変によって、父の信長もろとも信忠は討ち死しました。この時松姫は、21歳。出家するにはあまりにも若い。それでも、どうして彼女が信忠への愛を誓ったのか、わかりますか?」

「…………」

黙り込んだ僕を見かねて、正答はすぐに返ってきた。

「本能寺の変が勃発する直前、八王子に彼女が生きていると知った信忠は、改めて彼女を娶りたいと申し出ていたんです。彼女が信忠のことを思い続けていたように、信忠もまた、顔も合わせたことがないかつての婚約者のことを思い続けていたんですよ。運命というのは残酷で、彼らが生きているうちに結ばれることはありませんでしたが、松姫は、ずっと、ずっと待っていた……彼が、迎えにきてくれることを。生涯にわたって、愛し抜くことを決めたのです——たとえ迎えにきてくれることなどないと知っていても」

潤んでいた瞳から、一筋の涙が伝った。

彼女ははっとして慌てて、頬を袖で拭う。

「ごめんなさい、感情移入しすぎちゃいました。あなたの婚約者もきっと、待っていますよ。ましてやあなたは彼と違って迎えに行くことができる。まだあなたがその方のことを愛しているならきっと向こうもそのはず。後悔する前に、早く行ってあげてください。私が言えるのはそれくらいですから」

彼女が泣き笑いのような表情で僕のことを見た。

僕が呆然としていると、彼女はいたたまれなくなったかのようにベンチから腰を上げる。

「すみません、名乗りもしないで上からずかずかと。不愉快に思われたらすぐに忘れてくださって構いませんから。——でも、婚約者の方をまだ愛しているなら、早く行ってあげて、これだけは今日の高遠の桜と一緒に忘れないでくださいね」

それだけ言い残すと、踵を返して彼女が僕に背を向ける。

彼女が歩く後ろを追いかけるようにして桜吹雪が舞う。

「待って!」

手を伸ばして、彼女の背中をつかもうとする。

しかし彼女は歩みを止めず、追いかける桜吹雪もろとも消えようとしているように見えた。

そうはさせまい、させてたまるか。

「松! 松なんだろう!?」

ピタリと彼女の足が止まる。

しかし振り返りもせずに彼女は言った。

「まさか! それは400年前のお姫さまですよ、人違いにも程があります」

そういうとまた歩みを進める。

その今にも消えてしまいそうな儚い背中にすがるように必死で言葉を投げた。

「あなたはまだ待ってくれていましたか! あなたはまだ、こんな、こんな酷い男を、ずっと今まで待っていてくれたんですか!」

ピクリと彼女の肩が動き、足が止まる。

彼女の歩みをかろうじて止めることができた。

しかし、彼女は何も言わない。

「僕はあなたの顔も知らない! 声も知らない! それでも僕はあなたに惚れた! 400年ずっと、ずっと会いたかった……!」

彼女の華奢な肩が震えだす。

比例するように僕の叫ぶ声も震えた。

「後生だ、もう一度その顔を、その声を、僕に見せて欲しい、聞かせてほしい」

「信忠さま!」

桜吹雪の中、松が振り返った。

潤んだ瞳には、舞う桜の花弁が映る。

その顔は涙に濡れていた。

僕が手を広げると、桜吹雪を振り切って松が腕の中に飛び込んでくる。桜とは別の甘い香りを強く感じた。

「本当に、本当に信忠さまなのですか」

僕の顔にぺたぺたと触れながら松が幾度も確認する。僕はその問いにゆっくりと頷いて答えた。

「遅くなってすみません。……やっと、迎えに来れました」

情けなくはにかむと、松もふわりと濡れた顔を崩して笑う。

「初めて顔を見ました。……手紙の文字通りの……いや、手紙の文字以上に僕の婚約者は美しい人だった」

「私もあなたの顔をずっと想像していました。想像よりもずっと……凛々しいお顔でした。少々頼りないですけれど」

ふふふ、と涙をぬぐいながら笑う松。

「あなたはずっと古戦場跡をふらついていたのですか。向こうで待てど暮らせどやってこないので……」

「あなたが死んだあと、私も同じように死にました。色々なことがあったけれど、私なりに満足いく人生でした。死ぬ間際に、あなたにやっと会える、と思ったんです……けれど」

松がそこで顔を曇らせた。

「なにか、ありましたか」

松は少し逡巡する様子を見せたが、少し頬を赤らめて桜色の唇を震わせる。

「あなたは若くして亡くなったけれど、私はそれなりに歳をとって死にました。だから、もし、あなたが、年老いた私を見つけられなかったらどうしようと思ったんです。こんなおばあちゃんみたいな女、いらないって言われたら……そう思ったら簡単に向こうに行こうなんて思えなかった……あとは……」

また松が話し出すのをを躊躇うが、いたずらっぽく笑ってふたたびまるで内緒話をするように囁く。

「迎えに来るとおっしゃって先に死んでしまった信忠さまへの意趣返し……でしょうか。私が迎えにいくのもなんだか癪でしたので」

くすくすと笑いながらも、お気に障りましたか、と尋ねる松の髪を撫でながら首を横に振る。

「いや、あなたの言う通りです。まったく面目無い」

「ええ、おかげで400年も待ってしまいましたよ」

ちくりと松の皮肉が飛んできた。

その皮肉さえも松の存在を主張するようで愛おしい。

「いや……本当に、遅くなりました。待ちくたびれたでしょう」

松に詫びると、松はそれは違うというように首を横に振った。

「あなたを待つ400年、色々なことがありました。私たちの時代のように、人々は国同士、人間同士、争いが絶えません。私はその惨状から目をそらすように、兄上や信忠さまの最期の地、古の戦場をふらふらと彷徨っておりました。400年の間、何もない戦場の跡を訪れる人は決して多くはありませんでした」

「それではなおのこと寂しかったのではありませんか」

そう僕が心配する眼差しを向けると、松は僕の腕の中から抜け出して、落ちた桜の花弁をひとひら拾った。

「綺麗でしょう。400年前も今も、桜の美しさは変わりません。そしてきっとこれから先もずっと。それと同じように、人々の悩みや苦しみも背景が変わりこそすれ、根本の部分は変わらないのです。古戦場にはそんな悩みを抱えた人々がまるでその戦場に散った魂に導かれるようにして訪れました。私は様々な年齢に姿を変えながら、彼らの話を聞き、そのことを知りました。そんな彼らが同じように苦しんだ先人に触れて、前を向く——その様子を見守ることは決して苦痛ではありませんでしたよ」

松が手のひらの上に乗せた花弁をふっと息を吐いて吹き飛ばす。

花弁は空中を彷徨いながら、ふたたび地面に落ちていく。

「それでも、400年は短くはなかったのです。私は、人生で最も穏やかな時間を過ごしたここ、高遠の地を最後にそろそろあなたを迎えに行こうかと思っていたところでした。意地を張っていても仕方ないと、最後に高遠の桜を目に焼き付けて行こうじゃないかと思っていた——矢先のことです。よく、この広い日の本で私を見つけてくださった……」

そこで松の言葉が詰まったのは、僕が後ろから彼女の華奢な体を抱きしめたからだろうか。

香を焚いていたのは首筋にかけてだろう、そこに顔を埋めると、甘い香りを強く感じる。

「……あなたはヒントを残していってくれましたから。古戦場の近くに住む人に聞くと、『信』や『松』の字が入った名の女性、もしくは尼僧が現れることがあるという話がところどころで聞けました。それは頻繁な旅行者として語られる時もあったし、幽霊として語られていた時もあったけれど——松はあなたの名前、信は出家後の名前、信松尼からとったのでしょう、尼僧は文字通り尼から、もしくは出家後から晩年にかけてのあなたの姿だったのでしょうね。そのおかげで、あなたが古戦場を回っていることが分かりました。そして、まだ高遠の地には現れていないことも。あなたはいつかここへ現れると、そう思っていましたから——あなたと同じように僕もまた、ここで待っていたんです。すぐにあなたを迎えに行けるように」

耳元で語ると松の体が強張る。

そんな松を宥めるように、松の体に回した腕へ力を込める。

「一つ、聞いてもいいですか……松、あなたは僕の果てた地、京都には訪れていませんね。それはどうしてですか」

松の肩が分かりやすくはねる。

さらに小刻みに不規則に震え始めた肩に、彼女が涙をこらえているのを知った。

「辛い質問をしてしまいましたか」

松が溢れそうな嗚咽を飲み込んで、一呼吸遅れて質問に答える。

「ここ高遠も同じように兄上が果てた地です。それでもここにはそれ以上のあたたかな思い出がありました。けれど——信忠さまの果てた地には、信忠さまが死んだという事実、それだけです。それは、私にとって、あまりにも悲しすぎて……」

そこで松の言葉が切れた。

腕に熱い雫がかかる。

「申し訳ない、酷なことを」

「いいえ!」

松の体が翻り、泣いてくしゃくしゃの顔がこちらに向けられた。

「それでも、私は今幸せなんです。信忠さまと兄上との思い出の桜をこうして肩を並べて見ることができて、四百年待った甲斐がありました。……ねえ、今度こそ、連れていってくれますか……?」

そう不安げに言った松のワンピースが、みるみるうちに美しい桜色の小袖姿へと変わっていく。松に見惚れて分からなかったが、己の格好も現代のものから、生前見慣れた袴姿へと変わっていた。

松の鳥の濡れ羽色の艶っぽく長い黒髪が、小袖の桜色と妖しくも美しいコントラストを描く。

松の双眸からとめどなく溢れる涙を指で拭った。

「もちろん、そのためにあなたを迎えに来たんですから……さあ、参りましょうか」

松が柔く微笑む。

その小さく頼りない体を抱きとめ、松の体温を体に感じながら目を閉じる。

——400年という長い歳月が報われていく。

やがて、二人の周りを舞っていた桜吹雪によって、たちまち彼らの姿は見えなくなった。

桜の中に消えた二人を嬉しそうに見守る人影。

それは——



今年も高遠の桜は見事に咲いた。

互いを切なく思い続けた若き夫婦と、かつてその桜を最も愛した私の想いを乗せて。


たくさんの観光客が、高遠の桜を愛で、想いを馳せる。

そんな人々に、彼らの悲しくも美しい物語は、一度しかない人生を強く生きるためのヒントくらいにはなるだろうか。


「そこのあなたも聞いていかないか。なに、これは私の妹の話だ。時代は遡ること400年——その名前を『松』といってね——」


高遠の桜は、今日も変わらず鮮やかに咲き誇る。

様々な人々の想いを抱えながら——。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

古戦場の桜 葛原 千 @kiruru0202

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ