第2話


【壇ノ浦の戦い】

「おかしなところまで来ちゃった」

海風が穿いているピンクのスカートをはためかせた。

私は何をしに来たのかしら。

夫と出会った山口県を訪れて、あの子と暮らして楽しかったことだけを思い出したいのに、どうしてももう戻らないあの子の死を思い出してしまって、せっかくの旅なのに悲しくてたまらない。

ほんの少し歩くと、猛々しい二人の武者の銅像が立っていた。

一方は源義経のようだが、もう片方は知らない。

側に壇ノ浦古戦場跡と書かれていた。

「壇ノ浦の戦い……日本史でやったかしら」

なにせもう10年以上前に習ったことだ、おぼろげな学習内容に自信はない。

それにしても珍しいところへ来たものだ。

あまり観光名所というわけでもないのだろうか、平日だからか、人の姿はほとんどない。

潮風がびゅうと頬を撫でた。

体がべたつく前に撤収しようか。

二人の勇猛な武者の銅像に踵を返して背を向けたそのとき——

「どこからいらしたんですか」

「…….え?」

いつの間に現れたのだろう、振り返ると像の前に女性が立っていた。

なかなか妙齢の女性らしい。

40代手前か前半か。

しかし落ち着いた淡い桃色の着物を召しているせいか、とても上品な女性に見える。

「ええ、関東の方ですけど……」

おずおずと答えると、女性はまあまあ! と眼を見張る。

「遠いところからわざわざ、やっぱり歴史がお好きで?」

女性が私に歩み寄る。

私は当てもなく歩いて来た結果ここへたどり着いてしまった。

「いえ……特にそういうわけでもないんですがどうしてかふらふらとここへ。けれどもう帰ります」

女性は残念そうに眉を下げる。

どこかの料亭の女将のようにも見える、何かの縁だしそこで夕食をいただくのもいいかもしれない。

しかし女性は私をなおも引き止めた。

「何か思うところのある旅路で?」

「……どうして?」

怪訝そうな顔をすると、慌てて宥めるように女性が語り出す。

「たまにいらっしゃるんですよ、そういうお客さん。傷心旅行だとかで当てもなくここへ来る人。たくさん人が死んだ場所だから——何かが呼ぶのかもしれません」

女性の纏められた髪が強い風によって解けた。女性が髪にお香でも焚いていたのか、私の鼻を甘くはあるがどこか爽やかな香りがくすぐった。

「話をしてもいいですか」

なぜかずっと黙り込んでいた話をしたくなった。

女性が柔らかく微笑んで近くのベンチへ私を誘う。

腰を下ろすと、女性はああ、と思いついたように口を開く。

「名前もお話ししていませんでした、私はまこと、信じるという一文字で信、と書きます。もう、だいぶ年なんですけど」

「私は蔦川芽衣子、です」

あえて旧姓を名乗ったのは、夫ともうやり直す気のない気持ちの表れだろうか。

芽衣子さん、と信さんが口ずさんで咀嚼する。

「ここ、山口は、私が夫と出会い、息子の、浩太の生まれた場所なんです——」

信さんが海の方を見つめた。



山口は夫と出会い、と言ったが、私は仕事の出張、というより超短期の単身赴任のような形で、山口を訪れた。

のちに夫となる圭一はその出張先で勤めていたサラリーマンだった。

短い間ではあったが、仕事仲間として圭一とは気があった。願わくば、このままずっと共に仕事をしていきたいと思うほどに。

しかし、仕事は仕事、私は元の勤め先へ戻ることとなる。

「新幹線まで見送ります、見送らせてください」

圭一と連れ立って歩いた駅までの道は、今でも忘れていない。

駅のホームまで付いてきて、別れ難いなと思いつつ、新幹線は優秀で、時刻通りに容赦なくやって来る。

「それじゃあ」

そう言って、振った右手を圭一に掴まれた。

とても熱くて、燃えるような体温だったのを今も右手に蘇らせることができる。

「俺は芽衣子さんとこれっきりになりたくない」

プルルルル、と新幹線の扉が閉まる警告音がする。

乗らなきゃ、と思うのに、圭一の瞳に射抜かれたように動けなかった。

「これ、プライベート用の連絡先です。俺と、また会いたいと思ってくれたら、連絡ください」

そう言って圭一が右手に紙を握らせ、私を閉まりかけたドアに押し込んだ。

ドアの車窓からのぞいた圭一の顔は泣き笑いみたいな表情で。

こうして私と圭一の遠距離交際は始まり「こっちへこないか」という圭一のプロポーズによって私は職を辞し、晴れて圭一と夫婦になった。

そう、かつて私はここ、山口で生活を営んでいたのだ。

とは言ってもここ壇ノ浦とは遠く離れた山あいの町だったが。

やがて、私たち二人の間に男の子が生まれた。

結婚して一年後のことだった。

名前を浩太。

圭一の家にとっても、私の家にとっても初孫だったので、とっても可愛がられた。

クリクリとした目で、ママ、ママ、と付いて来る姿は愛おしかった。

小さな手はまるでモミジのよう。

何者にも代え難い存在、それが我が子だった。

しかし、そんな生活も長くは続かなかった。

浩太が、6歳という幼さで亡くなったのだ——病気だった。

病気だったんだ、仕方ないよと周りの人は言った、浩太の父親である圭一でさえも。

「仕方ないってなに? 浩太は死んでも仕方ないの? どうして? 仕方ないで済ませられるわけないでしょ!」

浩太のお通夜で励ましてくれた人全員に向かって私は感情を爆発させた。

自分でも仕方なかったと思いたかった。しかしそのためにはまだ時間が足らなすぎた。

冷静になった今ならわかる、あの人たちは私を励まそうとしてくれていた、味方だったのだ。

しかし当時の私には全員が浩太なんて死んでも大したことじゃないと言っているようで、とても許せなかった。

そして浩太が亡くなって3ヶ月、私は自殺未遂をする。

とても、死ねそうな代物ではなかった。

ムダ毛処理用の剃刀で手首を切ったのだ。

浩太の元へ行くとたった一行だけ綴った遺書。

もちろんその程度では死ねず、仕事から帰ってきた圭一に発見され、しばらく病院通い。

——よほどお子さんが亡くなってショックだったのでしょう。旦那さんは奥さんのことをよく支えてあげてください。

医師にはそう言われた。

しかし圭一は心を病んだ私の扱いがわからなかったらしい。

淡々と家事をこなして悲しいことを振り切って忘れようとするものの、どうしても辛くてしょっちゅう泣き出す私に困り果て、腫れ物に触るように扱った。圭一が悪いのではない。私だって逆の立場ならどうすればよいか分からず手をこまねくだろう。

次第に圭一は私から離れ、ずっと早く帰ってきていた家にも夜遅くだったり、帰らないことが多くなった。

私はそんな圭一に不信感を募らせるばかりで、浩太を失った悲しみに、さらなる追い討ちをかけられたようだった。

圭一が何気なく置きっ放しにしていた携帯の発信者画面に映る知らない女の名前。

思わずあの新幹線でのセリフは嘘だったの、と問い詰めたくなる夜もあった。

小さな疑いはつもりにつもり、私の精神状態は安定するどころかどんどん落ち込んでいくばかりだった。

そんなギクシャクした夫婦生活の果てに、突然、この旅に出されたのだ。

「俺なんかといるより、一人で一度浩太と過ごした土地でゆっくりしてきた方が精神的にも肉体的にも芽衣子のためにいいと思う。俺のことはいいから、羽休めしておいでよ」

そう言って圭一は微笑みながら私に山口県、新岩国駅行きの切符を握らせた。

そう考えると、ここは海沿いの下関市だから、随分と遠いところまでフラフラとやってきたものだ。

圭一の切符を握らせたその微笑みの下では私以外の他の女に会える喜びでいっぱいなんだろう。

こんな妻と気詰まりな生活をしていれば、多少の気晴らしがないとやっていけないだろう、と納得させようにも、できなかった。

もっとも圭一は浮気はバレていないと思っているんだろうが——今頃は部下の若い女性としけこんでいるんだろうか。

それでも、私が圭一の目論見通りに旅に出たのは——


「死に場所を探しにきたんです」

信さんは何も言わずに海の方をじっと怖い顔で見つめていた。

私も俯いたままで淡々と語る。

「あの時、浩太が死んだあとちゃんと死ねたらよかったのに……私は死に損ねてしまったから」

だから、せめて浩太の亡くなった山口の地で、最期に相応しいどこか綺麗なところを探して彷徨って。

「……説得とか、しないんですね」

「え?」

信さんが驚いたように海の方から私の方へ顔を向けた。

不思議だ、先ほどまでの怖い顔とは打って変わって、驚いた顔はほんの少女のよう。

「そうですねえ……」

信さんはすぐに年相応の顔に戻って、頰に手を当てながら考え込む。

と、思うと信さんは不意に私の手を取ってベンチから立ち上がった。

着物の袖が揺れる。

「こちらにきてください」

「……海ですか?」

「ええ、壇ノ浦の、海です」

私を引っ張るように信さんは海のそばまで連れてきた。

水平線が見えない。冴え冴えとした蒼がどこまでも、どこまでもひろがって、表面では太陽光を反射してキラキラと輝く様子はまるで一枚の青く煌めく反物のよう。

「綺麗ですねえ」

「ええ、まるで海の底には都が広がっていてもおかしく無いように思えるほどでしょう?」

信さんが少し身を乗り出して海を指差す。

「けれどここに沈んでるのは決して都でも竜宮城でもありません。約900年前、数えで8歳、実年齢は6歳の、たくさんの大人の都合に雁字搦めにされた幼い命がこの海には沈んでいるんです」

「6歳……」

奇しくも浩太が亡くなった年と同じだ。

「安徳天皇——歴代天皇の中で最も幼い年で崩御した平氏の母を持つ彼は、ここ、壇ノ浦の戦いでの平家の敗北に伴い、祖母の二位尼と共にここ、壇ノ浦の海に身を投じました」

私も少し身を乗り出して海の底を見つめてみる。

先ほどはキラキラと輝く美しい海が、暗い底が見えた途端、恐ろしい底無し沼にすら見えた。

ましてや少なくとも二人の人間の命を、この海は飲み込んでいる。

「あ……安徳天皇のお母さんは」

「共にこの海へ身を投げました」

「ああ……」

やはり、愛する我が子が死ぬときは、母も共にありたいと願うのは時代を超えても変わらないのかと妙な感慨に浸る。

「ですが」

信さんの声が一段階低くなった。

「安徳天皇の母君——建礼門院、当時は徳子という名の女性は、源氏方に引き上げられました。つまりは死に損ねたわけです」

「死に損ねた….…」

思わず声が詰まる。

信さんの黒髪が潮風に揺れた。

さっきまでは柔和で優しげだった笑顔が、今は意地悪そうに歪められたように見える。

「似ていますねえ、芽衣子さん。しかし、ここからは貴女と彼女は違う」

信さんの柔和な声色が厳しく硬くなっていく。

怯えの色を隠せない私に構わず、信さんは話を続けた。

ざん、ざん、と波が打ち付ける音が妙に大きく聞こえる。

「一人生き残った徳子は、実家の平家一門が滅亡したものの、自身は京の都へ送還されたのち、出家、建礼門院と名を改めます」

「出家、ということは」

信さんが潮風になびいて暴れる黒髪を撫でつける。

「髪を下ろし、俗世を離れ、仏門に入ったということです。彼女は、没落した自分の一族、平氏一門の菩提を弔い——同時に、幼くしてその命を散らした愛しい我が子の冥福を祈り続けました——それこそ、死ぬまで」

「でも……私にはとても、出家なんて無理です、大体、昔と今じゃ都合が違うでしょう」

俗世を離れ、髪を下ろし、毎日仏像を拝み経を読み続ける生活。

私はそもそも、仏教徒ではないし、正直そんなことをしているのなら、一刻も早く向こうで浩太と会いたいと思う。

「ママ、待ってたよ!」

通わせていたスイミングスクールで迎えに行った時、可愛らしい手を目いっぱい広げて、キラキラした瞳を惜しげもなく向けてくる笑顔。

その笑顔で、向こうに行っても浩太は飛びついてくるだろうか。

思わず思い出して涙が出そうになる。

しかしそんな感傷は信さんの一言でにべもなく打ち捨てられた。

「何も仏門に入って祈れなんて話じゃあありません、私、宗教の勧誘でもなんでもないですから」

「それは、そうですけど」

私が不貞腐れたように俯く。

信さんは再び海の方へ視線を投げた。

「浩太くん、可愛かったですか」

信さんのいささか突飛な質問にたじろぐ。

しかし問いはたやすく応えられるものだったので窮することもない。

「ええ、とても。可愛いなんてものじゃない、命よりも大事なもの、宝物だった……」

絶対に手から離すまいと、生まれたその日に誓ったというのに。

わずか6年で手からこぼれ落としてしまった。

自分の不甲斐なさに悔しくてたまらない。

後ろ手に回した拳を握りしめる。

「芽衣子さんもお綺麗だから、きっと可愛らしい子だったんでしょう」

「そんな……ええ、でも、本当に可愛い子だったんです。誰にでも好かれる可愛い……」

そこで声が詰まった。

ママ、ママと呼ぶ声がする。

初めての乳歯が抜けたばかりだった。

歯抜けの笑顔は少し間抜けだけれど、浩太の笑顔は誰にも負けなかった。

あっという間に病魔に蝕まれて、あっという間にいってしまったけれど、最後まで溌剌とした笑顔は絶やさなかった。

目の前の笑顔が涙で歪んでいく。

消したくないのに、涙で流れていってしまう。

口元を手で覆う。

その私の手を信さんの白魚のような手が包みこんだ。

驚いて顔を上げると、信さんの顔が目の前にある、ことしかわからない。

涙の膜で表情が歪んで、彼女の表情がさっぱりわからない、笑っている、怒っている? それとも同情?

「芽衣子さんは……」

信さんのぼやけた口元が緩く動く。

かわいそうね、辛かったわね、仕方ないよ、あなたのせいじゃないよ。

耳を塞ぎたくなる同情と慰めの言葉。

——聞きたくない。

そう思って耳をふさぐ寸前に、鼓膜に駆け込むように流れ込んできた信さんの言葉。

「そんなに大切な浩太くんを、死ぬ理由にするんですね」

「……は?」

潮風を顔面にもろに食らった。

潤んでいた視界の水分が、一瞬で攫われクリアになる。

「それは、どういう……」

「芽衣子さんは浩太くんが可愛くて愛しくて仕方がなかった」

信さんが俯いて機械のように呟く。

「ええ、そう……」

「それだけ母親の芽衣子さんが愛情を注いでいたのなら、当然息子の浩太くんは芽衣子さんが大好きで大好きでたまらなかったでしょう」

ママ! と飛びついてくる小さな手のぬくもり。

今でもその大人よりもいくらか高い体温を握った右手にまざまざと思い出すことができる。

そんな浩太は、私のことが好きだっただろうか。

「……少なくとも、嫌っていたことはないと思います。私のおごりかもしれませんが、ママ嫌い、なんて嘘でも言わない子でしたから」

ママ大好き、と言われても大嫌いと言われたことはない。

いずれ言われるさだめだったとしても、その未来すらも浩太にはもう無い。

「そうですか、それならなおのこと、浩太くんはママ——芽衣子さんを苦しめる様な真似はしたくないでしょうね、きっと」

「……何がおっしゃりたいんですか」

先ほどからの信さんの婉曲な言い回しにほとほと飽きてしまった私は堪らず信さんに詰め寄った。

もう少しで浩太に会えるのに、この人の相手をしていてまた死に損ねようものなら、あの息苦しい夫婦生活にとんぼ返り。

信さんが驚いた様に目を瞠ったあと、厳しい目で私をみた。

「では単刀直入に申し上げましょう。芽衣子さんは、愛する浩太くんに自分を殺させるのですね」

ピシピシッと頭のどこかで嫌な音がして、頭蓋内で信さんの言葉が反響する。最後まで殺させる、という言葉が脳内に漂っていた。

「……え?」

ようやく絞り出した疑問の声は掠れ、信さんに届いたかどうかは定かではない。

信さんは敢えてだろうか、私には向き合わず、再び静かに波がたゆたう壇ノ浦に目を向ける。

「芽衣子さんは浩太くんのために自らの命を絶つ。——それはすなわち浩太くんが大好きなママを間接的ながら殺すことになるんですよ」

「まさか、そんな……」

「厳しいことを言いましょう、あなたは確かに可哀想で辛く苦しい愛する子を亡くした悲劇の母親。しかしその立場に酔ってはいませんか、愛する我が子の立場に立つことを、母親として決して忘れてはいけないことを、芽衣子さんは忘れていませんか?」

信さんの言葉は海に落ち、波に溶けて消えていく。

代わりに壁に打ち付ける波の音が私の心を刺す。

「浩太くんは大好きなママが、自分のいない中でも幸せに生きることを冥府から願っているでしょう、少なくとも芽衣子さんが自分のために死ぬことは望んでいません」

信さんの髪の毛が潮風に揺れた。

「浩太くんを救えなかったご自分を、そろそろ許してあげてください。浩太くんは最初から、ママのせいだなんて思っていませんよ」

「あ……」

信さんが海の底から視線を上へあげ、水平線のずっとずっと先を見た。

「安徳天皇を亡くし、その後我が子の祈り続けた徳子が亡くなった歳ははっきりしません。いずれにせよ、人はいつか死にますから、徳子も同じように亡くなったのでしょう。その時、徳子はどう思いながら亡くなったのでしょうか、そして、冥府で安徳天皇に会った時、彼女はどんな顔をしていたんでしょうか。権力に翻弄され、我が子のあまりにも酷い最期を見届けた彼女は、懸命に生き、我が子の冥福を祈って走り抜けました。これは私の推論ですが——きっと彼女は笑って、愛する我が子を抱きしめることができたのでしょう。芽衣子さん、あなたはどうしますか?」

「わ、たしは……」

もともと浩太が生まれるまでは多少ぎこちなさの残っていた夫婦の関係。

夫婦喧嘩をしたときに仲立ちに立ったのはいつも浩太だった。

浩太はいつもお願いしていた。

——パパもママも仲良くしなきゃいけないんだよ、先生も言ってた、みんな仲良くしなきゃいけないんだよ。

浩太の私たち夫婦に飛びついてくるキラキラした無邪気な笑顔がまざまざと浮かんだ。

「浩太!」

頬の上を冷たいものが流れていた。

涙が滔々と流れて顎を伝い、地面に染み込むのが見える。

はっとして顔を上げる。

「信さん……?」

振り返れども着物姿の信さんらしき女性は見当たらない。

海の底を駄目元でのぞいてみるが、もちろん信さんがそこに浮いているわけもなく。

「消えた……? ううん、それより」

私はずっと電源を切っていた携帯を取り出して連絡先から圭一の番号を探す。

耳に携帯を押し当て、夫が出るのを待つ。しかし案の定繋がらない。

仕方がないので留守番電話に声を吹き込む。

「芽衣子です。帰ったら話したいことがあります、明日には帰るので、早く帰ってきてください」

——私たちはやり直さなければならない。浩太のために。

ざん、と打つ波の音に振り返りながら、遥か昔、数多の命が散っていった海に別れを告げる。

潮風に混じった、ほんのり甘い香りを鼻腔に感じながら。

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