3杯目のビール


   φ


「俺、仕事辞めるわ」


 陸前高田の話を聞いていて、彼のことを思い出していた。同じ学年で、法学部の男だ。桜が散りつつあった、二年前の春だ。


「辞めるって、お前、本気で言ってんのか?」


 元々なにを考えているのかわからない男だが、その日はいつにも増して理解不能だった。同じ口が居酒屋の店員に三杯目のビールジョッキを頼んだ。私の分まで頼んでくれる。



「もっとやりたいこと見つけたんだ」

「でもお前、だって自慢してたじゃねえか。上場だって。みんなも羨んでたし」


「そりゃね、そんな人生もわるかないよ。でも上場企業に収まる人間じゃなかったんだ」

「ならどこに収まるんだよ」


「東北さ」

「とうほく」

由利本荘ゆりほんじょうに来週から、観光の仕事を手始めに。ま、各地を転々とするつもりさ」



 酒に酔ってたせいもあるだろう。当時ようやく仕事に慣れてきて、冷静に業務を行えるようになってきたのもあるだろう。


 いよいよこれから、そんな時期なのに。ここで道へ踏み外してしまう彼のことが愚かしく思えて仕方なかった。



「そんなとこで働く意味、あるのか」


「そんなとこ? おい戸田、その言い方はねえんじゃねえか? 東北に、俺は人生捧げるんだ。お前ならここで祝ってくれるはずだがな。激励もしてくれちゃったりしてよ、そんで俺は東北の素晴らしさを長々布教する流れなんだがなあ」



 店員がジョッキを持ってきた。私は半ば強引に乾杯させられた。


「いい出会いでもあったのか?」

「そら何度も行ってっかんな、いい出会いもクソな出会いもあったよ。ただそれは旅先の出会いでしかねえ。腹割って話せんのはお前くらいさ」

「そりゃどうも」



 酒を飲み、時折チーズをかじりながら質問をしてみたが、具体的なよさはほとんど口にせず、「東北はいいぞ」と連呼した。本当に腹を割って話しているのだろうかと疑りたくなったころ、空のジョッキ片手に、ぽつりと言った。


「戸田はよお、被災地、行ったことあっかあ?」

「ホームセンターの人間にそんな余裕あると思うか?」

「そうか。そら、そんなもんだな」



 アルコールで真っ赤になった顔で、彼はにっこり笑った。なぜにっこり笑ったのか、今思うと不思議だった。


 それからしばらくジョッキに残った泡を見つめていた。口を開きかけて、閉じる。小さく唸り声をあげ、それからまた口を開いた。


「だーれも教えちゃくれねんだ。だーれもな。腹にたまったまんま。消化もしねえし……吐けもしねえ」


「おいお前、吐くならお手洗いで済ませよ」

 呂律のまわらぬ奴のボヤキを冗談にして返した。


 こころのなかでは理解している。今のが東北へ行く理由なんだろう。私は腹を据え、仕事に専念する覚悟を決めたが、彼はずっとなにかにもがき苦しんでいた。



 覚悟――そんな大それたものではない。多くの妥協と環境の結果、その選択を採るしかなかった。だから彼のことを愚かしいと思い、同時に憧れた。



 異動の報せが来たのは、今から二ヶ月前のことだ。


 東北に、俺は人生捧げるんだ。

 彼の言葉が浮かんだ。



 私は今勤めている会社に人生を捧げるだろうか。あるいは、大切ななにかのために。そんなこと、考えたこともなかった。彼にそんな発想を抱かせた東北とは、一体どれほど魅力あふれた場所なのだろうか。

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