五十八話 インターミッションと辛いヤツと星の海と



 治療後、アトリエの隅っこで抱えた膝に顔を埋め、さめざめと泣くオレへの慰謝には三十分ほどがかかった。


 主犯格のセルピナとローサはきまりが悪いのであろう、少し調子に乗ってしまったことを反省している様子で作業台の方から心配そうに見ているしかなく、つまりオレのご機嫌を回復させるべく尽力したのは、共犯とはいえただ見ているだけであったアリーシアとサマサの二人であった。

 サマサは一所懸命元気づけようとしてくれた、治療だったんですから~とか、そんなに気にしちゃダメです~とか、もうすぐ夕食ですからみんなで食べましょ~など、いろいろ言ってくれた、が、少し顔を上げてそちらを見るとオレと目が合った瞬間、真っ赤になって目を逸らしてしまった……


 そりゃそうであろう……仕事一筋の真面目な十七歳の乙女が、目の前であんな反り返ったモノを見せられたのである……目も合わせられなくなるというものだ……ガビーンとなったオレは再び膝に顔を埋めてプルプルと震える。

 しかし最終的にはアリーシアの、オレの頭部をギュッと抱きしめて頭をナデナデするという奥義が炸裂して天岩戸は開かれた、横面を愛の女神の柔らかいポヨンに埋められて、頭をよしよしと撫でられたら心の中には感謝の念しかなくなるのである。


 改めてベッドのイルビスを除く全員が作業台に集った、オレも気を取り直し今朝の対弓猿戦から順を追って語っていく、外周を一周し終えたところでカンナが登場し、招かれた泉でのヒュプノの攻防、そして逃げたカンナに誘い込まれたと気付いた瞬間湧き出した白霧……

 現れた白い女神の話をした途端、アリーシアがガタッと椅子から立ち上がる、驚愕の表情で唇が小刻みに震えている。

「げ、原初の八柱……水のミツハ……そんな……」


「アリーシア、ミツハを知ってるのか?」

 オレの問いにハッと我に返ったアリーシアは慌てて首を横に振る、黄金の髪が流れるように煌いて揺れた。

「直接会ったことはありません……ですが……あまり良い噂は聞こえてきませんでした……なにより原初の八柱は、今この世界にいる女神たちとは根本的に違う存在だと……」

「ああ、そんなことも言ってたな……今の世界の女神は派生神で、自分は神代の世界の末子……とかなんとか」

「はい、その力も私たちとは比べものにならないほど強力であると……」


「そうよタクヤ……ミツハの力って凄かったじゃないっ、どうやって逃げ延びたのよ? 死んだフリでもしたの?」

 焦れてきたかセルピナが間に割り込んできた、アンタ一緒にいたんじゃないの? という留守番チームの目が彼女に集中するが、分かっていないようである。

「セルピナにはカンナを任せたんだ、ずっとカンナを追ってたから、ミツハとはオレとイルビスの二人で戦った」

 留守番チームに説明するオレの言葉に、セルピナが頓狂な声を出す。

「ちょっ、ちょっと待って! 最後まで戦ったの⁉ あの化物と?」

 あーもう、今説明するから……となだめながら、オレの話はミツハとの戦闘を選択せざるを得なくなった理由の、ミツハがこの地に居た目的から続けて語られる。


 元々は禁書庫へ侵入したタイチの居所を探していたのだが、闇柩の噂を辿ってやってくるとフクロウ姿のカノポスに出会い、全ての興味がその動く物体の表面を覆うことのできる封印術へと移ったこと、それを使いヒュプノで影の精霊を操って暗殺者たる弓猿を作りあげたこと……

 そして次元の狭間でオレと戦ったイルビスを探知し、魔王の角をカノポスに盗み出させたこと、その角を贄へ植え付け魔力炉を作るつもりであったこと……

「そして重要なのは、それらが全て復讐という目的のためだった……ということなんだ、サマサ」


「ふぁっ? は、はいっ!」

 突然呼ばれたサマサはビックリ顔で返事をする。

「ミツハはサウル帝国の帝室に居たと言っていた、口ぶりからその能力を帝国のために使っていたようでもある、そんな地位のヤツがこの地で復讐を目的に暗殺者を作っていたんだ……国同士の情勢なんかは全く知らないが、サクライ学部長へは報告しなきゃならない問題だと思う……」

 把握したのであろう、あっ……という顔をしてから頷くサマサへ、頭をポリポリ掻きながら申し訳なさそうな顔をして頼む。


「いつもすまないなサマサ……オレこういう報告とか苦手だから、ずっとお前に頼りっぱなしで……ほんと恩に着るよ……」

「もうっ、タクヤさまっ、いくら私でもわかりますっ、私が報告義務に罪悪感を感じないように……そうやって言ってくれてること……」

 はは……と照れ笑いしてずっと頭をポリポリしているオレへ、サマサはニッコリと最上級の笑顔で言った。

「かしこまりました、お任せくださいっ、ご主人さまっ」


 眩しい笑顔に赤くなったオレは、照れ隠しの咳払いをゴホンと一つして次はアリーシアに尋ね始める。

「アリーシア、ミツハは魔力炉の作成にもすごく執着していた、魔力炉って何に使うんだろう……? 何か判らないか?」

「はい、そういうのはイルビスがすごく詳しいのですが……私に分かる範囲でお話します、おそらくは次元の裂け目、もしくは次元の扉を作るためのものだと思われます……」

「魔力炉でそんなことができるのか……なるほど……」

 そうなると話は簡単につながってくる、次元の裂け目を通ってターゲットの元へ送られる弓猿は、狙われる方にとってはこの上なく最悪の刺客であろう、神出鬼没に加え例え捕まえたとしても猿が口を割るわけもなく、また、中の影の精霊に気付いたところでヒュプノで操られているだけである。


 だがそこでまた疑問が湧いてきた。

「なあアリーシア、ミツハほど凄い力を持ってれば、自分で気に食わない相手を倒すなんてわけもないんじゃないかな? 実際に禁書泥棒を嫐り殺す趣味もあったほどなのに……なぜ暗殺者を作るなんて面倒なことをしてるんだろ?」

「私も聞いただけの話なんですが……神代の世界の強大な力を持つ神々は、その力の強さゆえに厳しい規律と、結んだ契約には背けない性質があると云われているようです、その規律か契約に抵触してしまう相手を狙っているのではないでしょうか……」

「なるほど……自分じゃ手を下せない相手か……そういえばかなり恨んでいる相手がいたようだったが、手を出せなさそうな様子に見えたものな……」

 ここであまり待たせると暴れ出しそうなので、セルピナのためにも戦闘の経緯へと話は移っていく。


 セルピナがカンナを追って行った後、強力なバリアで攻撃が通用しなかったこと、水弾がオレのタマに命中した悲劇、僥倖であったファイの光弾による水蒸気爆発でのミツハの負傷……

 オレがバリアに閉じ込められ、イルビスが水鞭で締めあげられた場面に至ると、セルピナは青い顔になり口が開きっぱなしになる、まさかそんな激戦になっていたとは思っていなかったのであろう、まさしく命のやり取り的な戦闘内容に、留守番チームにしても似たような感じで色を失っていた。


「怨嗟の渦へ堕ちそうになったオレをイルビスは必死に止めてくれたんだ……でもオレにはイルビスを救うすべが無かった……死んじまいたいくらい情けなかったよ、そのとき誰かに助けを請う言葉を初めて言った気がする……助けてくれ……って」

 停止した視界での出来事が語られ始めると、アリーシアは両掌を口元に当てて驚きに目を見開きながら聴いていた。

「助けを求めたオレの肩に手が置かれて……声が聴こえた……なんだかすごく懐かしく感じたよ、その声は言ってくれた……胸を張って助けを求めろ、必ずその想いに応える……ってね」

 包帯の巻かれた右手を見つめながら言う。

 視界が戻ってから、ファイと黄金の左腕と蒼い右腕がオレに力を与えてくれた話になると、場の驚愕の雰囲気も最高潮に達してきた、作業台を囲む全員が声もなくオレの左右の腕を交互に見て、そして顔へと視線を戻す。


 ミツハのバリアを消し飛ばして対峙し、人質のイルビスへ角が植え付けられる寸前に天空より急降下してきたBBの大活躍が語られると、BBのご主人様はグハァッという顔をしてガクガクされている、さすがに追いかけっこしかしていない自分が、本当は一番謙虚にしてなきゃならないというのに気付いたようである。

「シグザールの角も燃え尽きた……ミツハが白霧に消えてから思ったよ、次元の裂け目の出口がこの地になった訳……ここじゃなきゃ終わらせることができなかった……さすがイルビスの絆の属性ってことだな」


 深いため息がアトリエ内に流れる、意外な出来事の連続であった、感じる部分や想うところもそれぞれ多いのであろう、なかなか言葉が出てこないのもよく分かる、だが、その中で少し訝し気な表情をしたアリーシアがオレに尋ねてきた。

「タクヤさん……私、そんなに激しい戦闘があったというのに全く感知できませんでした……シグザールの角が覚醒したのすら気付かないなんて……泉まではたしか、二キロもないくらいの距離でしたよね……?」

「ああ、それに関してはあのミツハのことだからな……泉のある広場だけなのか、弓猿の実験場である半径一キロ内なのかはわからないが、封印だか結界だかで覆って戦闘を隠蔽しててもおかしくないと思うぞ」

「そうよね……こっちにイルビスがいるのも最初から知られちゃってたし……きっとアリーシアが来てるのも分かってたわよね」

 セルピナも同意見のようである、強大な力を持ち狡猾なミツハのことである、アリーシアの参戦など不利になる要素は排除するだろうということだった。


 外は夕闇に覆われアトリエにも灯りが入る、明日は朝からカンナの埋葬をする旨を皆に伝えた、薬棚の前にセルピナが闇の結晶で作った小さな柩が安置されており、その中で千八百年前をタイチと共に生きた十歳の少女が眠るように横たわっていた。

 中断していた夕食作りを留守番チームが再開し、さすがにくたびれたオレはクッションを一つもらって床にごろ寝する、作業台の上ではセルピナが、今度は闇を微細に結晶化し、それを組み上げてBBの義体を作成していた、かなり繊細な作業のようである。


 体のあちこちが痛いが、夕食を作る音と声、義体が作りあげられるガラス質の微かな音、アトリエを包む森の生きている音が混ざり合い、心地良い音楽となっていつの間にかオレはまどろみの中へと誘われていく。

 このとき見た夢はほとんど覚えていない、だが笑っていた気がする、じいちゃんとばあちゃんと、お父さんと小さな男の子と、そしてそこへ小さな女の子が走り寄って……みんなで笑い、それを優しく見つめる女神……


 そっと頬をつつく指で夢から覚醒する、柔らかい灯火の光がオレを覗き込むように見るローサの顔を浮かべている、具合が悪くないかを観察しているのだろう、大丈夫そうだと判断したかそっと微笑んで囁く。

「夕食できたよ、食べよ?」

「ああ、今行く」


 返事をしつつ寝ながら伸びをしていると、パタタッと羽音がして胸の上にストンと黒い鳥が舞い降りる、もちろんBBである。

「義体……完成したんだな」

 そういうオレにBBは何か言いたげな様子であるが……ああ、そうか、さっきの治療のときにオレを影縛りにかけたことを気にしてるのか……


「BB、イルビスを助けてくれて本当にありがとうな、BBのあの活躍がなかったらどうなってたかと考えると……背筋がゾッとするよ……」

 オレが影縛りに怒っておらず、しかもお礼まで言われ尚且つ褒められたとなったBBは、誇らしげに胸を張り、どういたしまして! という感じでピッと立ち、すぐにパタッと羽音を響かせて天窓へと消えた。


 立ち上がり、ベッドのイルビスの様子を見ようと向かうと、アリーシアにスープを飲ませてもらっていた、首の痣も少し薄くなっているように見え、なにより表情に苦しげな様子が見えないので、安心してそっと退き作業台へと戻る。


 今は食卓になっている作業台には、気合いを入れて作ったのであろう、たくさんの料理が並べられていた、さすが薬師のアトリエである、ふんだんにハーブらしき香草が使われていてとてもいい匂いが漂っている。

 そのいい匂いに刺激されて腹がグゥと鳴った、そういえば昼食抜きであったのだ、ちょうどサマサとローサが焼きたてのパンとスープの皿を運んできて、アリーシアもやってきた、セルピナが秘蔵の逸品よ、と自慢しながら古そうなワインを出してくる。


 かなり豪勢な夕食が始まった、目新しい料理が多いのでサマサが一つ一つ説明してくれる、ハーブに至ってはセルピナのウンチクも入るものだからモグモグしながらへ~、ほう~、と相槌も打つ、なかなかに忙しい食事である。

 そこでふと気になった、三人の留守番チームが頑張って作ってくれたこの料理の数々、一体誰がどれを作ったのだろう? そんなささやかな疑問がなんとなく湧いたので尋いてみたのである。


 満面の笑顔で真っ先にローサが答える。

「私ね~! パンを焼くのを手伝ったのと、あとコレッ! この辛いヤツ!」

 ……ちょ、ちょっと待て……この作業台兼食卓の上には十数種類の料理と、それにパンとスープが並んでいるのだが……一種だけ……? それに自分の作った料理名を、辛いヤツ……と呼びなさるのかコイツは……

 コメント能力を奪うローサの特殊能力に、二の句の継げないオレがアリーシアを見ると、追及しちゃダメ追及しちゃダメ追及しちゃダメ……と、ニッコリ微笑んでいるがそこだけ笑っていない目がオレに向けて言っている……

 ふっと目を移しサマサを見ると、突っ込んじゃダメ突っ込んじゃダメ突っ込んじゃダメ……と、満面の笑顔の中のそこだけ真剣な目が言っている……


「そ、そうかー、ローサが作ったのはこれかー、じゃあいただいてみるかなー」

 すっごい棒読みだがなんとか突っ込まずに済んだ、取り分け用のスプーンでローサの指差した、イカの刺身に唐辛子の粉をまぶしたような料理を、自分の皿にペチョンと取る。

 恐るおそる口に入れてモグモグすると、すぐに目を輝かせたローサが。

「どお? 辛い? 辛いでしょ?」

 と訊いてきた、確かに見た目通りのピリッとした唐辛子の味だ、オレは辛い物が苦手ではないので全然平気なレベルであるのだが……もしかして、辛い~っ! となるような展開を望んでいるのかな……とも考えたが、様子を見る限りではそうでもなさそうだ……


「うん、辛い……」

 これ以外に言いようがない、おそらくイカであろうものには薄い塩味しか付いておらず、噛んでも旨味はあまり出てこない、まぶされた唐辛子粉の味が九割を超えている料理である……唐辛子粉を直接舐めた方が早いのではないか……という即物的な考えが頭をよぎるが、口が裂けてもそんなことは言えやしない。


 だがローサは喜んだ、それは嬉しそうに頬さえ紅潮させて……

「ほんと? 辛い? そうよねっ、辛いわよねっ、うふふっ」

 ……なぜ辛いだけでそんなに嬉しそうになるんだ。

 追及しちゃダメというアリーシアも、突っ込んじゃダメというサマサも、どっちかというとローサ寄りの考え方をしてると思ってたセルピナですら、皆もうこの言葉が喉元まで出かかってプルプルしているようである……

 なぜ、美味しい? という質問が出てこない……?


 夕食も終わり、適度にアルコールも回った、後片付けの済んだ台所からサマサとアリーシアが戻ってくると、すでにセルピナは酔っぱらってクッションを抱きながら床に転がって寝ている。

 イルビスが負傷を癒しているので次元の裂け目は使用不可、つまり今夜はアトリエにお泊りである、とはいえベッドにはイルビスが優先的に寝かされているので、他は全員床にザコ寝であった、クッションが一個づつ支給されている。


 戻ってきた二人が椅子に着くと、作業台に突っ伏して寝ていたローサがフゴフゴ身じろぎする、手にはまだしっかりワインのグラスを握りしめているのだから感心してしまう。

 アリーシアとはオレの両腕の力の発動について少し話をした、もしかしたらシグザールは意図してこの能力を付与し、そして黙っていたんじゃないかな……と彼女へ話した途端、激しく頷かれ同意された、実は私もそう思っていたということであった。

 このオレが、人を助けることはするがその反面、人に助けを請うことが苦手だという根本的な弱点がある、というのをシグザールは見事に見抜いてたんだろうという、オレとアリーシアの共通の考察であった。


「もし力が発現するのなら、その効力はタクヤ殿ご本人の資質によるところが大きいであろう……そう言っていましたもの……」

「今考えると、かなり具体的なことを知ってる口ぶりだもんなそれ……ははは、まったくかなわないよ」

 右手を見ながら笑うオレにアリーシアも楽しそうに笑う、まったくこんなときには逝く前に一杯くらい付き合ってくれればよかったのに……と右手に愚痴りたくなる気分であった。


 夜も更けサマサも欠伸を連発し始めた、そろそろ休もうということになり灯りが消される、唯一の男性ということで皆から少し離れた入口近くでごろ寝したオレであるが、食事前に少し寝てしまったためまだ目が冴えていた。

 月の蒼い光に誘われて、海の見える大きな窓辺に作業台の椅子を運んで座る、あと少し残っているワインの瓶からお行儀悪くチビチビとラッパ飲みをし、月光に浮かんだ海と蒼茫の天に浮く星々の距離が、窓枠に全て収まってしまっている幻想的な眺めを楽しむ。


 するとアトリエの暗がりから近づいてくる気配……隣へ来ると、えいえいっと形の良いお尻をぶつけてオレから半分だけ椅子を奪い、ぴったりと寄り添って座る、窓からの蒼光に浮かぶのはオレと、やってきたローサの二人になった。

 まだしっかりとワインのグラスを持っていたので笑いそうになる、しばらく二人でチビチビ飲みながら、言葉もなく星の降る海を眺め続けた。


「私の作った辛いヤツ、あまり美味しくなかったでしょ?」

 突然の言葉に吹くのを堪えたため、鼻から少しワインが出てくる、どうしてもコイツだけは予想の範囲内に収まらない……

「そ、それにしては、なんか嬉しそうに見えたんだが……?」

 えへへ~と笑うローサは、グラスを口元につけたまま楽しそうに話し出す。

「私が小さいときに本当のお母さんと住んでいたのは話したでしょ? そのときのことなんだけども……」

 楽しい想い出を描くとき、人は上を向くという、ローサは窓から見える満天の星を見上げるようにオレに語った。


「ウチって貧乏だったから、いつも硬いパンとおイモだけのスープと、チーズとサラダを少しだけっていう食事だったの、それがある日、お隣のおばちゃんがね、旦那さんが海でいっぱい獲ってきたって言って、イカを分けてくれたの」

「でもウチってイカなんて食べるどころか見たことも無くって……でもどうやって食べたらいいんですか? なんて尋くのも恥ずかしいねって、お母さんと相談した結果……私がこっそりお隣の様子を窺ってくるって話になったの」


「それでね、そ~っとお隣の窓の下に行ったら旦那さんが大きな声で、いや~やっぱりイカは塩辛が最高だな~って言うのが聴こえたの、私、すぐに走って戻ってお母さんに伝えたわ、でも私、塩辛なんてその時知らなくて……辛くするのっ! ってお母さんに言っちゃったの……」

「ウチにある辛いものって唐辛子粉くらいしかなくて……じゃあコレでやってみようって、出来上がったのが夕食で出したアレだったの、うふふっ、お母さんと二人で辛いね、辛いねって言って笑いながら食べたのよ……」


 話し終えてニコニコするローサ、笑い話のつもりで話したのであろう、だが、何故だかオレは涙が出そうになるのを必死でこらえていた……アトリエの暗がりからもスン……スン……とすすり上げる音が聞こえてくる。

「そうか……だから料理名が、辛いヤツ……なんだな、なあローサ……」

 ん? と首を傾げるローサの頭を撫でながら。


「また今度作ってくれよ、皆で辛いねって……笑いながら食べようぜ」

「うんっ!」


 蒼い光の中に開いた、花のような笑顔が応える。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る