五十六話 最低と上目遣いと解放と



「イルビス……大丈夫か……?」

 ミツハが去り、白霧の残滓が陽光に消えるのを背にして、オレはイルビスの許へと急ぎ進む。


 その途中で突然、シュオッと左掌からファイが現れた、なんの前触れもなかったので少々驚いたが、右手の甲を見ると三つ並んだ葉の痣が全て薄れて消えていた。

 それまで全く気にしていなかったが充電切れのようである、ミツハが去ってからでよかった……と本当に心底思った、かなりギリギリのタイミングにヒヤッとするものがあり、今さらではあるが冷たい汗が背筋を流れる。


 ふーやれやれ……といった感じのファイが腕組みをしてオレをジッと見る、オレも立ち止まりふよふよ浮くファイを見つめた、短い刻の間ではあったがオレたちの心は一つの身体の中で同時に存在した、混ざり合ったわけではない、思考も感情もそれぞれ別々のものであった。

 しかしそれはまるで手に取るように理解できていた、感応、共感、共有……なんと表現してよいかは分からないが、ファイの心がオレへ流れ込み、オレの心もファイへ届いているのが不思議な感覚で理解できていたのである。

 黙って互いを見るその時は、知らぬ者が見れば束の間とすら言えぬ短さであっただろう、ニッと口元で笑うオレにファイも笑うように明るく燃え、そしてシュルッと消える、深い共感に心が喜んで震えているのが分かる……想いを胸の奥へとしまい再びイルビスへと急いだ。


 柔らかな青草の上に横たえられたイルビスは、目を閉じ眠っているように見える、胸が微かに上下して静かに呼吸をしており、表情にも苦し気な様子がないのを見てとると、途端に安堵で体中の力が抜けていく。

 ざっと見渡して大きな怪我はなさそうなのを確認するが、やはり一番目立つのはその白く細い首に赤黒く残された鞭の跡であった、このイルビスが全く抵抗もできず締め上げられているだけだったのだ、ミツハの操る水鞭の威力は単純に締め付けるだけではなかったのかもしれない。


 傍らに跪き指先でそっと頬を撫でると、涙を流し赤くなった目の周りがピクリと動き、次いで長い睫毛が震え、薄くまぶたが上がるとぼんやりした視線をオレに向けてくる、曖昧な表情なのは記憶が混乱しているせいであろう、もちろん仕方あるまい、つい先ほどまで拷問に等しい責め苦に曝され続けてたのだ。


「イルビス……身体は辛くないか……?」

 声ですら今のイルビスにはダメージを与えてしまいそうな気がして、なるべく小声でそっと訊く、オレの声が穏やかだったからであろうか、安心したような微笑みを浮かべて、頬を撫でているオレの手に微かに頬をすり寄せながら目を閉じた。

「ミツ……ハは……?」

 記憶もつながってきたのであろう、小さな掠れた声が尋ねる、痛ましさにぐっとなってしまう。

「退いたよ……もういない……角も燃えて消滅した」


 それを聞き安堵のため息を小さくついたイルビスは、両腕をオレへ向けて伸ばしてきた、起き上がりたいのだろうと思い身を屈めると、伸ばした腕がオレの首の後ろへ回されたので、こちらも彼女の背に手を回して支えつつ上体を引き上げる。

 引き上げて上体を起こしはしたが、オレはそのままの姿勢で動けなかった。

 彼女がオレの首に抱きついたまま離れないのである……やはり何処か痛いのか……それとも先程までの苦しみと恐怖を思い出したか……表情を見ようともしたがオレの肩口に顔を埋めているので読み取れない、すると……


「堕ちよう……などと……するでない……」

 さっきよりもさらにか細く、その声はあまりに小さく、そして震えていた。

 瞬間的に、オレの心を怨嗟の暗闇から引き戻したイルビスの姿が想い出される、いや、姿だけではない、呼吸すら満足にできない状態で無理やり出してくれた苦し気な声も、その声を発しオレへ手を伸ばすための代償となる、更なる首の締め上げに歪む苦悶の表情も……

 意識せぬうちに、声と同じに小さく震える彼女の肩と背を抱きしめていた、これも気付かぬうちにオレの目からはボロボロと涙がこぼれている、ついでに胸の奥から衝き上がる想いが勝手に口から言葉になって溢れていた。


「ごめん……ごめんよ……イルビス……ごめん……」

 イルビスからも押し殺した泣き声が聴こえてくる……肩と背の震えが嗚咽と重なってオレの腕に伝わってきた……

 オレは最低だ。

 心底そう思う、シグザールを魔に堕としたという自責を、イルビスがどれほどその心の内に負っていることか……オレはそれを慮りもせずに己の憎悪にあっさりと身を委ねようとしていた……こともあろうにその彼女の目の前で……

 長く美しい黒髪ごと華奢な背中を抱きしめながら、オレは何度もごめん……と繰り返し、彼女はしがみつくようにオレの首に抱きついたまま、肩へ顔を伏せてか細い嗚咽を上げ泣いた……


 やがて落ち着いてきたのであろう、肩から顔が離れた、それでも軽くすすり上げながらイルビスは肩口からそのままオレを見上げる。

 濡れた長い睫毛、泣きはらした赤い目元と紅潮した頬……未だに涙をたっぷりと溜めた目がオレを見つめながら、小さな朱い唇が掠れた声で囁いた。


「堕ちようなど……二度としては……ならんぞ……」

 イルビスのその言葉は責める意図などは含んでおらず、また、泣いていたせいもあるのか、鼻にかかった甘い声にどうしても聴こえてしまう、おそらく神の天啓や悪魔の蠱惑にすらオレはこれほど素直には応えないであろう……

「は……はぃ……」

 オレは最低だ。

 再びそう思う、だが、ほつれ髪がかかったままの、涙で濡れた美少女の顔がすぐ目の前にあるのだ、しかも上目使いで肩口から見つめられ甘く囁かれてみるがいい、これに抗うことのできるヤツだけが今、オレの赤くなってデレッとした顔を責める権利を持つであろう、そうそういるわけないと思うのである……


 ドキドキしながら破壊力抜群の上目遣いを見つめ返す、オレが素直に返事したにもかかわらず、イルビスは見つめることを続けていた、どこかで理性が警告を発している、すでに彼女は意図したうるうるビーム照射に移行しているぞと言っている、それがどうした文句があろうかと男の本能が反論もしている、しかしとにかくその視線に何の目的があるのか……それが判からなければオレはドギマギするしかないのであった。


 しかしその時、事態は急展開を迎えた。

 オレの首の後ろへと回されたイルビスの両手に、ほんの瞬間、ほんの少しだけ、引く力が加わった……

 気のせいではない……肩口という至近から見つめる彼女が、オレの首を引き寄せた……苦しゅうない近う寄れ、ということであるのだろう……だが……だがしかし、ここからさらに近う寄ってしまったら……苦しゅうある状態になってしまうのではなかろうか……


 おそらく鼻で上手に呼吸する、とかいう上級職専用のスキルを要求されるであろう……未収得である……スキルポイントも絶対的に不足している……そもそも経験値、レベル共にほぼ初期値でスキルツリーも全く開放されていない、この状態を元の世界では童貞のたった二文字で表記できる、便利なものだ、まあこちら側でも通用するとは思うのであるが……

 などという逃避思考の産物が頭の中をグルグルしていた、だが非常にマズイ、眼前のイルビスの想像を絶する可愛さに抵抗できる気が全くしない……このまま行くとどうなるのだろう……いやいや、行っちゃイカンだろ、ローサは絶対裏切れない……


 激しい葛藤で固まっているオレに焦れたのか、イルビスはもうっ……という不満そうな顔をした、なんだか以前アリーシアにもこんな顔をされた覚えがあるぞ……さ、さすが姉妹……

 なんてことを考えてるうちにグイッと首を引く力が加わる、もともとが至近である、数センチの接近が視界を劇的に変化させるのである、目の前のイルビスの顔を見たときオレの心臓は跳ね上がった。


 少しトロンとした表情であった、普段から計算高いイルビスではあるが、このような状況の時にもその能力が発揮されるものなのであろうか……? ほんのりと紅潮した頬も、視線が至近のオレの唇にあるせいか、少し寄り目がちになって潤んでいるその瞳も、これが計算の上でのものならば物質界ではレッドカーペットの上をすら歩けるであろう。

 オレが顔を下げつつあるのか、イルビスが上へ伸び上がっているのか、それすらもう分からなくなっていた……ただ二つの唇がゆっくりと近づき……そして合わさろうとする……その寸前であった。


「うりゃあああぁっはぁーっ‼ やっと捕まえたああぁっ!」

 すぐ横の茂みから勢いよく飛び出した赤いワンピース姿を、さらに勢いよく飛び出た褐色の砲弾のようなセルピナが空中でガッシリとキャッチした。

 そのまま地面にベターンッと落ちるがカンナの姿を背後からしっかりとタックルした腕をセルピナはもう離さなかった、今までずっと追いかけっこをしていたのであろう、汗だくになってゼヒーゼヒーと荒い呼吸をしている。


 ふと横のオレたちに気付きポカンとして見るが、すぐにクワッと目を剥きながら。

「あ、あんたたちっ! なにこんな所でイチャついてるのよっ! 私にだけ大変な思いさせてっ! あれ……? ミツハは……? どこいったの……?」

 と、身体の下でジタバタしているカンナを押さえつけながら言う、オレとイルビスを見守りながら浮いていた影の精霊姿のBBが、いやホントにこんな主人で申し訳ない……とオレたちへ頭を下げたように見えたのであった……


 ミツハは去ったがカノポスへのヒュプノは効力を失っていないようである、気を取り直し、オレはセルピナに押さえつけられているカンナの姿の前へしゃがみ込んで語りかけ始めた。

「カノポス、聞こえるかい? ここにお前の敵はいないよ……」

 聞こえているのだろうか、未だに押さえつけから逃れようと動き続けている、しかしオレの次の言葉でその動きはピタリと止まった……


「カノポス……覚えているかい? タイチの最後の言葉を……」

 急に静かになったカノポスにセルピナも驚いている、オレは言葉を続けていく。

「タイチはきっとお前にカンナを託したはずだ……最も信頼する一番の仲間……家族だもんな、でも、カンナの亡骸に入って動き回れとは言っていないはずだ、そうだろ? 思い出すんだカノポス……タイチはお前にこう言ってなかったか……?」

 沈黙するカノポスと同様に、セルピナも言葉もなくオレの話に聴き入っている。


「カンナの闇柩が減衰消滅したら、すぐにお母さんに知らせてくれ……そうお前に頼んでいたんじゃないか?」

 オレは、タイチの人としての気持ちがよく分かる気がする、人間より遥かに長い時を生きた……しかしそれは精霊や女神に比べるとずっと短い時でもある、タイチは愛する者の死を見送る悲しさと、愛する者を残して生を終える哀しみの両方を誰よりも知る者であったはずだ。

 そのタイチが自分の死に際して残すもの……それはこの世へ残す愛する者への想い以外にあるはずがない、ミツハの侵入で伝わらなかった想い、今こそなんとか伝えてやらなければ……


 カンナの顔がオレを見ている、感情の一切浮かばない無表情な顔であるが、カンナの中のカノポスからはオレの言葉への肯定がひしひしと伝わってきていた。

 ミツハの施したヒュプノとの葛藤が始まっているようだ、カンナを守る、守るために戦う、見知らぬ者は全て敵だ、敵は排除する……タイチの願いのようにすり替えたミツハの巧妙な誘導である。

 だが、タイチの言葉をはっきりと思い出してきたカノポスの心は、今までの自分の行動とタイチの本当の願いとの間に矛盾があるということに気付き始めた……オレはカノポスへ手を差し出し、タイチが願ったであろうことを想いながら……


「カノポス、タイチの最後の願いを叶えよう……オレたちも手伝う……カンナを……タイチの墓の隣へ葬るんだ……」

 息を飲むような沈黙、そして、やがて震えながらゆっくりと、オレの差し出す手を取ろうと伸ばすカンナの小さな手が、全ての肯定を語っていた……表情のないカンナの目に光る何かが見えたが、オレはそれにあえて気付かないフリをした。


 カンナの封印術はイルビスの言った通り、オレの短剣で体スレスレを切ると、張り詰めた絃が弾けるようなピーンッという音と共に消え去った。

 ガクリと崩れ落ちるカンナの身体を支えると、その背中辺りから黒霧が湧き出し、みるみる影の精霊の姿をとりはじめる、カノポスとの初対面である。


 現れたカノポスは弓猿から解放した他の影の精霊たちと同じで、最初は茫とした様子であったがすぐにハッと気が付いて周囲を見回す、ヒュプノも無事取り払われたようである、だが傍らで見守るセルピナに気が付くと、見てるのも気の毒と思うほど申し訳なさそうにうなだれてしまった。

「おかえり、カノポス……」

 セルピナが微笑みながら言うとハッと顔を上げ、そして再び申し訳ない様子で頭を下げると、そのままシュルッと消えてしまう……


「二十年以上ヒュプノで操られてたんだ……気持ちを整理する時間が必要なのかもしれないな……」

 オレの言葉に、カノポスの消えた宙を見つめるセルピナが応える。

「ええ……そうね……」

 そしてオレへ向き、なんだか複雑そうな顔をして尋ねる。

「タクヤ……どうして……タイチの最後の願いが分かったの……? 私には……分からなかった……」

「それは……きっとオレが人だからだろうな……タイチは意図して闇柩を減衰消滅するのに任せて残したんだ……自分が先に逝くことで悲しむセルピナやカノポスへ、わざと面倒をかけることで前へ向いて行けるようにしたのさ……だからきっと最後はカンナの亡骸を葬るように頼んだろうと思った……」

「人ってのは短い寿命のせいか、死を見つめながら生きている……でもそれは先に逝く者の気持ち、後に残る者の気持ち、どちらもよく分かるってことなんだ……タイチは半分だけど人の血を受け継いでいる、だからオレも理解することができたんだと思う……」

「そう……そうだったの……ありがとう……」

 少し寂しそうなセルピナであった、そこでオレは意識して明るい声で言う。


「ただ、そのタイチにもたった一つの誤算があったみたいだな……この辺はしっかり誰かさんの血を受け継いでるよ……」

 え……? とオレを見るセルピナへ。

「自分の力が凄すぎるのを計算に入れてなかったんだろう、闇柩の減衰消滅に六百年もかかっちまったってとこだろうな、カノポスも見守ってるの大変だったろうに」

 そう言ってニッと笑う。


 目の端にちょっとだけ涙の浮かんだセルピナの曇った表情に、陽が射し込んだような明るさが戻ってきた。

「そりゃーもうっ……私のタイチは私似の天才ですからっ」


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