五十一話 催眠と蜘蛛と出迎えと
「綺麗な場所だな……」
澄んだ水が満ちる泉は最も幅があるところで四十メートルほどであろうか、緩やかな楕円形をしており水深はごく浅く、ほとりに立って覗き込むと見える範囲まではせいぜい十数センチ程しかない深さであった。
俯瞰するように背筋を伸ばして泉全体を見渡すと、晴れた日の青空に憧れているかのように水面は天空を見事に映し出し、ほとりからその映る大空へ手を伸ばすように枝を広げる古い巨木が、向こう側にひときわ目立って見えている。
「タクヤよ、お前、ちょっと無警戒過ぎやせぬか……?」
泉をのんびり眺めるオレに、周囲を警戒しつつ寄ってきたイルビスが言う。
「ん~……取り囲んで狙撃でもする気ならここへ招待はしないだろうな……カノポスはこの場所をすごく大事にしている……と、思う」
「と、思うって……お前……」
「だってさ、あそこだろ? カンナの闇柩が安置されてた場所は……そして、タイチがアウルラへ還る眠りについた場所……」
オレがほとりの巨木へ顔を向け言うと、イルビスの後ろからセルピナが応える。
「ええ……あの大きな木の根元にね……千八百年も昔から闇柩は置かれていたわ……でも本当にこの泉だけは昔と全然変わらないわね……あの大きな木でさえもっと若々しくてもう少し小さかったのに……」
記憶を紡ぎ出して語るようなセルピナの声に、イルビスも肩から力を抜いてため息をつく。
「なるほどの……確かに争うならば避けるべき場所じゃのう……」
しかし泉に到着したオレたち三人はカノポスの意図を量りかねていた、オレたちをここに誘って何をしようというのか……セルピナはともかくオレとイルビスは初対面である、友好的にしようという理由は無いはずであった。
サワサワと木の葉を揺らして風が渡ってきた、鏡のようだった水面にさざ波が広がり映されていた天空は幻のように消えていく、そして風が通り過ぎた後にまるで置き去られたかのように現れた……いつの間にか巨木のうねった根の上に赤いワンピース姿がこちらを見ながら立っていた。
気配がまるで感じられなかった、カンナの亡骸のみであれば生気も無く気配がしないのも分かるのであるが、中に入っているであろうカノポスの気配も希薄でほとんど感じることができない。
微妙な違和感に一抹の不安を覚えながらも、カノポスの出方を見守ろうとしたその時であった。
ゾクッと背筋を走る嫌な感じ……カンナの中のカノポスから悪意の膨らむような波動が伝わってくる、まさか攻撃かっ⁉ と身構えて後腰の短剣へ手を伸ばそうとしたとき……
オレたちはカンナの暗い目の奥がボウッと白く光るのを見た。
「しまっ……」
しまったという言葉すら最後まで出せなかった、ヒュプノだっ! と察知した瞬間にはもう、眼前にはカンナの目だけが白く光って大写しになっている、手足……いや体中に重たい何かがまとわりついているような感覚で自由が利かない。
まずい、非常にまずい、頭の中ではまだ危機を感じて思考することがかろうじてできている、しかし意識が徐々に暗い底へと引きずり込まれ始めたではないか。
オレは後腰の短剣を取ろうと伸ばしかけてた手を必死に進めていく、僅かづつジリジリと進んでいるようではあった。
しかし眼前のカンナの目はさらに巨大になっていき、放たれる白光はオレを飲み込もうとしている、思考も途切れがちになってきており意識は保っていられるギリギリ限界まで落とされてしまった。
このままでは眠らされるか、最悪の場合は精神を支配されて操り人形にされるかであった、しかしオレの掌は短剣の柄を握ることができておらず、そのまま直進して自分の尻の上に置かれて止まってしまう、もう打つ手がなくまさしく万事休すの状態に見えるであろう。
――だが、それが消えかけていくオレの思考の最後の抵抗だった。
暗くなっていく視界と底無しの淵に落ちていく意識の中で、オレは死にもの狂いで右手に指令を送る、握れっ‼
そして視界も意識も全てが沈んでいく真っ暗な深淵の奥底から……それは、黄金の雷光のように闇を貫き天へと立ち昇ってくる。
「ぐぅあああぁ~‼」
立ち昇ってきたのは激痛であった、脳天を突き上げるようなその激痛がカノポスのヒュプノをオレの脳から吹き飛ばし、無意識に口から飛び出る叫び声が意識を急激に覚醒させていく。
ローサにブッスリ刺された右尻を、力まかせに握って絶叫を上げながら覚醒するオレを見て、カノポスもさすがに驚いたのか、カンナの顔は無表情だがジリッと後退る様子が見てとれた。
ズッキンズッキンする尻に涙目になりながら、オレは短剣を素早く引き抜きイルビスとセルピナの眼前で見えない何かを切り払うように剣身を振るう。
全く勘での行動であったが、薄く光る剣身に宿るアリーシアの祝福の力が、ヒュプノの効力を断ち切ってくれたのだろう、期待通りに二人はガクッと見えない糸から解かれたように動き、次の瞬間にはもうハッとした顔と光の戻った目でオレを見る。
「気を付けろっ! ヒュプノだっ、目を見るな!」
だがそんなこと、オレが言うまでもなかったようである。
「わかっておるわ……」
今度は目の前の味方にゾワッと背筋が寒くなる、地の底から湧き上がってくるような怒りの波動が、二人からビリビリと伝わってきたのだ、まあそれもうべなるかな使役する側の女神が精霊にヒュプノをかけられ、手も足も出ないまま人間のオレに助けられたのである、プライドはもうズタボロであろう……
「ヒ……ヒィ」
ヒュプノとはまた違う類の金縛りにあったおれの両横を、怒れる二人の女神が抜けていく、イルビスのこめかみには小さな青筋が浮き、セルピナはそれに輪をかけて言葉も出ないほどキレている様子がすれ違いざまに見てとれる。
セルピナの怒りもやむを得ないではあろう、セルピナは闇の冠をいただく女神であり、カノポスは眷属たる影の精霊である、タイチの筆頭眷属として千年ほど家族の一員として暮らしてもいるはずだ、カノポスにとってセルピナはどんなことがあっても弓を引くような真似はしちゃいけない相手のはずであった。
それがいきなりの不意打ちヒュプノ攻撃である、セルピナにしてみれば不始末をしでかした上に悪びれることをしない身内にブチギレたという感じであることだろう。
さすがに二人の女神の怒りの波動に気付いたか、カンナの姿がクルッと踵を返し逃走の体勢に入る、がしかし。
「逃がさないっ!」
右腕を突き出したセルピナの言下に、バシッと見えない巨大な手に鷲掴みににでもされたようにカンナの動きが止まる、精霊を使わないセルピナ自身の属性力による影縛りであろう、長時間は持たぬ属性力での影縛りであるようだが、さすが本家のパワーとスピードであった。
間髪入れずにイルビスが大きく両腕を広げる、全霊を込めた精霊の使役のようだ、能力の発動にぶわっと長く美しい黒髪が後ろに広がってなびくと、周囲の木々の至る所から極細の蔦がカンナの身体めがけて走り、腕、脚、身体と絡め上げてついには手近の木に磔にしてしまった。
一体今何人の精霊を同時使役したんだ……? 蔦が飛んできた場所の数で考えると十は下るまい……カンナの捕獲を完了してむふーっと鼻息荒く仁王立ちになるイルビスを見てオレは、大神官ってのは伊達じゃないんだなあ……としみじみ思ったのであった。
磔になったカンナの前へオレたちは集まった、なかなか凄惨な眺めではあるが……身動きひとつ取れない様子で大人しくしているようである、おそらく能力の発動もセルピナが完全に抑え込んでいるのであろう。
「オーブをどこかに持ってないか?」
見た目は十歳の女の子である、オレが身体をまさぐる訳にもいかないのでイルビスが調べるが……
「無いのう……」
かぶりを振って残念そうな声が返ってくる。
「マニュアル無しでヒュプノを使ったか……精霊も覚えればいろいろできるようになるようだな……」
おーなるほど……というセルピナと、何かを考え込んでいる様子のイルビス、とりあえず一つずつ問題を解決していかないとな……
「シグザールの角は……探知的な何かで感じ取れないか?」
「朝からやっておるがの……全くじゃ、探知防止に封印されてるようじゃのう……」
むう~……である。
「カンナを捕まえたのはいいが……なんか状況が好転しないなあ……」
ぼやくオレに怪訝そうな顔でイルビスが言う。
「カンナのピンチじゃというのに、弓猿も現れんのう……」
「うむ……そもそもこの泉にオレたちを招いたのって、ヒュプノをかけるためだったのかなぁ……それなら最初に遭ったときにできそうなものだったが……なによりこの場所でやるとは……」
なんだかだんだん嫌な流れになってきた……
「と、とりあえずできることをやっておきましょ? カンナの封印式を壊して身体だけでも取り返しましょうよ」
セルピナがそう提案すると、イルビスも同意のようで。
「じゃのう、タクヤよ、お前の短剣なら封印式だけ切れると思うぞ、身体ギリギリを切ってみよ」
ほほう、と思い言われた通りにすべく短剣の柄に手をかけてカンナへ向くと、さすがに察知したようで磔のままあらん限りの力で暴れ出し始めた。
とはいっても動く部分をジタバタさせるだけで戒めは動じることが無い、せいぜいが磔にされている木が揺れて、枯れた小枝だの木の葉だのがパラパラ落ちてくる程度である、しかしそのときとんでもないことが起きた。
ボトッ
落ちてくる小枝などに混じって、少し大きめの物がイルビスに降ってきた。
それは地に落ちることなくイルビスの肩にビタッと貼り付いている、ん? とそれを見るイルビスの瞳孔がみるみる開き顔から血の気が失せていく……
「う、うわっ!」
それを見たオレも悲鳴を上げるほどのものであった、大きさはオレの掌と同じほどもある、真っ黒な体毛と縞模様をつくる黄色い体毛、八個の黒い目と八本の脚と鎌状の牙……なんともでかい蜘蛛であった。
「ああっ! イルビスお前、たしか蜘蛛があぁっ⁉」
オレの言葉が終わるのとほぼ同時に、蜘蛛嫌いのイルビスはカックンと膝から力が抜けて声も出さずにパタリと倒れる、貼り付いていた蜘蛛はもちろんそんな所にいたくもなかったのであろう、すぐにイルビスから離れてカサカサと木の根元へと消えていった。
「イ、イルビスッ‼」
オレとセルピナが駆け寄って見ると白目を剥いて失神している……と……いうことは……まさか……
二人が恐るおそる振り返り磔のカンナを向くと……
シュルシュルっとイルビスの制御の無くなった蔦が緩み、スルッと戒めから抜け出したカンナが地に降り立つ、そしてすぐさま脱兎のごとく走り出した。
「うわ~っ! カンナが逃げたあぁっ!」
オレのこの叫びにイルビスがハッと覚醒し即座に状況を把握して飛び起きる、まだ蜘蛛のショックの抜けきらない蒼白な顔であるが、このへんの真面目さは尊敬に値する。
まだ後ろ姿の見えているカンナを追うと、泉のほとり沿いをオレたちから遠ざかるように回り込んでいってるようであった、赤いワンピースがひらひらと水辺を走っていく。
「おかしい……なぜカンナは影渡りで逃げない……? 能力が使えなくなってるのか?」
不審に思ったオレたちはほとりで立ち止まり、カンナが泉の反対側へ走るのを眺めていた、オレの問いにセルピナが首を振って応える。
「今はもう封じていないわ……」
「走って逃げるにしても、森に入ってしまえば簡単に逃げられるだろうに……これじゃあまるで……」
オレたちの反対側へ到着したカンナが、こちらを向いて立ち止まったのが見える。
「私たちをここへおびき寄せるのが目的じゃったと……見えるのう……」
オレの言葉を継いだイルビスがそう言った直後、その声は泉から響いてくるように聴こえた……
「よく来た、歓迎するぞ」
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