四十八話 白銀と禁書とタイトルと



 狭い階段を慎重に上りきるとそこは、五階に出たときと同様に三日月形のホールであった、だが広さは五階扉前ホールの三~四倍ほどもあろうか。


 帝国図書館の最深部といえる中央塔の中、許可なき者が封じられた書を求めて侵入すれば、その命をすら落としかねぬであろう黒雲獣のトラップを抜け、ようやくタイチがたどり着いた場所……


 六階、禁書庫フロアである。


 階段を上りきったのはいいのだが、タイチはそこから動かずにランタンをかざして辺りを警戒している。

 実は階段を上る途中から六階の奥より水の音が聴こえてきていた、封印式も水が由来する組成であったし、黒雲獣が出てきたのも水鏡であった、また水か? という思いになってもそれはいたしかたのないことであろう。


 だが、今タイチが辿っているのは正規の禁書庫利用者が通る道のはずである、黒雲獣が出てくるような無差別に危険の及ぶトラップなどは無いようにも思う、警戒し過ぎなのも時間ばかり浪費してしまうと考えて、ゆっくり進んでみることとした。


 五階とはまるで様相が違う、床は美しい模様の絨毯が一面に敷かれており、五階の三~四倍ほどもある広さのホールが、進むほどランタンの光に茫と全体を浮かび上がらせてくる。

 そのまま進むと目の前に白い壁が広がり、五階では機能重視の頑丈で無骨な扉が嵌っていたが、ここ六階では帝国の権威が形となったような、見事な彫刻が施された木製の重扉が禁書庫への入口を塞いでいる、しかし今、タイチの目を惹きつけているものはその扉ではなかった。


 それは扉の向かって右横、少し離れた壁より突き出すかのように設置されており、タイチは扉の前に突っ立ったまま不思議そうな顔で見ている。

 大理石の彫像のようであった、女神をモチーフにしたものであろうか、美しい女性の上半身が壁から生えるように出ており、両手に広げた大きな本を持ちそれを正面に差し出すような姿をしている。


 一体これは……という顔で近づくタイチは女神像の前に立つと、さらに不思議そうな顔になる。

 女神像の広げられた本を見ると、いわゆる洗面台のような構造になっているではないか、鉄製に見える洗面ボウルともいうべきものが本の中に据え付けられていた、排水口のような丸い穴と、その穴の上には横幅三十センチ、縦幅十センチほどの長方形の穴が開いている。

 顔でも洗えというのであろうか……ボウルの中の穴をランタンを近づけておっかなびっくり覗き込むと、長方形の穴には十センチ下あたりに鉄色の底が見えている、底とは言っても穴の周囲とは薄く隙間があるようだ、もしかすると穴にはまっているだけかもしれなかった。


 女神像の横には何かを置くためであろうか台も置かれている、それなりに立派ではあるが何の変哲もない木製の台である、しかし何を置くためのものなのか、その目的は気になるところではあった。

 女神像をもっと丹念に調べたい心を抑えて、先に調査すべきはやはり水音の方である、女神像を過ぎて更に奥側から絶えることなくチョロチョロと聴こえてくる音源は、わずか数歩歩いただけでランタンの光の縁にその姿を捉えられる。


 それをなんとも場違いなものに感じるタイチであった、これも鉄製であろう黒ずんだ鈍い銀色の縁が直径一メートル程の円形を形成して、そこになみなみと水を湛えている、そのプールの中央にはタイチの胸程までの高さのある、これも鉄製の女神像が水瓶を肩に掲げている姿で立っていた。

 女神像の立つ台座から延びている花の装飾から、澄んだ水がチョロチョロと水面へ流れ出ている、水音の正体はこれであったようだ、どこからどう見ても噴水である。


 花の装飾から流れる水が水面を揺らし波紋を生み続けている、ランタンの光に浮かび上がる噴水プールは白銀色の底が光を跳ね返し、揺れ続ける波紋がその白銀の光を乱反射させ、まるで冷たい月光のプールのように見えている。

 水深は三十センチほどであろうか、プールの縁に排水口があるのであろう、水位は一定に保たれている、憂いたような表情の水瓶を掲げる女神像をじっと見つめてタイチは思考を巡らせ始めた。

 何かの仕掛けのようであるのは分かる……重扉横の本を持つ女神とこの噴水の女神、やはり禁書庫の文献を目にするには解かねばならぬ問題なのであろう、五階での先を読みつくしたトラップ設置の手腕を見ると、とても力技でなんとかなるような甘い相手ではなさそうである。


 まず正攻法で仕掛けを解いてみようと考えたタイチは、一通り三日月ホール内を捜索し、他に仕掛けの有りそうなものが無いのを確認すると再び本の女神像の前に立つ。

 噴水の女神を見た後ではどうしても、このボウル内の穴にあの水を流し込むようにしか考えられない……ライラの聞き出してくれた六階禁書庫の情報……短い言葉ではあるが重要なヒントである。


「禁書目録と鍵は浮かび上がる……」

 何かを浮かばせるとなればやはり水を連想してしまう、このボウルの穴に水を注げば浮かび上がるのだろうか……だとすれば浮かんでくるのは長方形の穴の底にあるものであろうか……だがあれは鉄製にしか見えず浮かびそうには見えないが……それとも浮かんでくる仕掛けになっているのだろうか……


 もし間違った行動をとった場合、トラップの発動があるかもしれないという恐れがタイチの中にあった、しかしライラが聞き出してくれた、うろ覚えの短い言葉の情報源というのは司書長である、禁書庫を開く仕事があった時のために前もって教えられていた手順からの情報であろう、だとすれば司書長自身への危険があるとすればもっとしっかりと覚えているのでは……とも考えられる。


 ならば一度試してみるか……と、腹をくくったタイチであった、すぐに噴水の女神の前へ行き、彼女の鉄製のたおやかな手から肩に掲げるこれも鉄製の水瓶を受け取る。

 プールからそっと水を汲み上げると、二リットル近くは入るであろう鉄製の水瓶はなかなかの重量があった、こぼさぬように静かに両手で支え持ち、ランタンは取っ手を口にくわえてそのまま本の女神へと向かう。


 祈るような気持ちで水瓶を満たしている水を、女神が広げる本の中に据えられた鉄製のボウルの丸い穴へと注ぎ込んでいく、すると水瓶の半分ほどを注いだ時点で水面が底から上がってくるのが見える、長方形の穴の方からも底の細い隙間から水が上がってきた、やはり中でつながっているらしい。

 さらに水を注ぎこみ二つの穴の口までなみなみと満たす……が、しかしどうにも変わった様子は無い……二つの穴が水で満ちたというだけのように見える……浮かぶというのが長方形の穴の底にあるものならば、やはり浮かび上がる気配もなく沈黙したままであった。


 そのまま観察するしかなくなり、少し困惑し始めてきたそのとき。

 本の女神像の奥のほうでカコンと小さな音が響いた、タイチは瞬間ドキリとし、トラップの発動か⁉ と、飛び退って身構える。

 すると二つの穴を満たしていた水がスーッと引いていくのがタイチの目に映る、すぐにコポコポと流れきる音がして、先程聞こえたカコンという音が再び響くとそれきり静まり返ってしまう。

 念のため少し待つがもう何も起きないようであった、排水の仕掛けが作動しただけだったのか……だがタイチには仕掛けを施した女神に不正解をあざ笑われたような気が強くする……今ならはっきり断言できる、この塔に仕掛けを施した水に関する冠をいただくであろう女神は……非常に性格が悪い……


 タイチの心にメラッと闘志が燃え上がる、今までの使命感やライラへの感謝に合わせ、帝室に付いていたというその性格の悪い女神への対抗心が加わったのである。

 このような状況の場合集中力は最大の武器である、タイチはまず水の無くなった長方形の穴の底を観察し始める、ボウルの構造が解った以上、浮かぶという言葉が指すのはこの穴の底に見えるものであるだろう、そしてそれは禁書目録と鍵であるはずだ、ということはこの底に見えているのは鉄製の箱のような容れ物であると予想される……


 能力が使えれば造作もなかった、影渡りの要領で鉄箱などあっさり引き抜けるであろう、だが五階で使った影渡りがタイチの持つ力の残量を大きく減らしていた、精霊の存在しないこの封印式内では己の中にある力だけしか使えず回復もない、その力は現在はもう解錠を数回できるほどしか残っていないのであった。

 ならば通常のやり方、つまり正解を導き出せばよいのだ……とタイチは強気で思い直し、今度は禁書庫について教えてくれたライラの言葉を正確に思い起こそうと努める、司書長からの情報を教えてくれた言葉……


 『六階の禁書庫のことは五階と同じく、司書長も説明でのみ得た知識のようでした、うろ覚えの言葉しか聞き出せませんでしたが……禁書目録と鍵は浮かび上がる……とだけ……』


 この言葉を何度も頭の中で繰り返す、すると何かが引っ掛かる……

「司書長はきちんと説明を受けている……だが目録と鍵は浮かび上がる、という言葉だけを覚えていて、他は忘れてしまったのか? ……いや、うろ覚えと忘れたというのは少し違う気がする……ライラさんは司書長はあまり利口じゃないとも言っていたな……もし忘れたのではなく、最初から説明を理解できていなかったのだとしたらどうだろう……」


 タイチは手に持つ水瓶をじっと見ながら言葉を続ける。

「司書長が理解できなかった説明……禁書目録と鍵は浮かぶ……だが目録と鍵は鉄箱の中……水には浮かばない……浮かべる方法……司書長が理解できなかった理由……鉄箱が浮かぶ理由……鉄が浮かぶ……あっ‼」


 短く叫んだタイチは何かを思い付いたのであろうか、身を翻すと噴水へと向かう、噴水の女神と向き合うように立つが、視線はプールの中へ向いていた。

 ランタンをかざすとプールの縁に跪き水中を見つめる、白銀の光が乱反射し眩しいくらいである、タイチの目がスッと細くなったのは光が眩しいのかそれとも……


 するとおもむろに水瓶をプールに突っ込み始めた、再び水を汲むのであろうかという行動であるが、もし傍で見ている者がいたらこう思い目を見張るであろう。

 水瓶がプールの底にめり込むように入っていく……

 三十センチの水深をオーバーして突っ込まれた水瓶は、白銀の底面をまるで抵抗の無いように進み入っていく、そのほとんど全体を白銀の中に沈められた後すぐに引き上げられた水瓶の中は、なんとも美しい銀色の液体で満たされているではないか。


「クイックシルヴァ……まさかプールの底がこれだったとは……」

 生きている銀という意のクイックシルヴァ、錬金術全盛の物質界でも同じく呼ばれていた、古代日本ではみずかね、今は水銀と呼ばれている。


 噴水プールの底は床面より低く掘り下げられた形になっており、そこに床面と同じ高さになるように水銀が満たされていた、その上に水を張るとまさしく白銀色の底面にしか見えなくなってしまう、仕掛ける方も念の入ったことだが、それを解くタイチの頭脳こそ讃えるべきものである。


 タイチはずっしりと重い水瓶を慎重に持ち上げた、二リットル近くの水銀は二十キロを優に超す重量がある、常温常圧で唯一液体状の金属である水銀は非常に比重が大きい、そしてそれが何を意味するのか……司書長が理解できなかった理由はその辺にあるのであろう。


 本の女神の前に立ち、先程水を注いだのと同じように、今度は白銀に輝く液体をそっと丸い穴へと注ぎ込んでいく。

 クイックシルヴァとはよく名付けたもので、まるで生物が意思を持っているかのように、水とは少し違う感じのする流れ方で穴の中へと流れ込んでいく、光を跳ね返しうねるように進むその白銀色の金属は、水などとは比べ物にならぬほど重く穴の奥に溜まっていくようであった。


 銀色の水面が見え始める、徐々に上がってくるのを認めて長方形の穴へと目を移すとタイチの口元が笑みの形になる。

 十センチほど下にあったはずの鉄の底が、なんと今は五センチもない浅さになってきているではないか……つまり浮かび上がってきているのだ、あの鉄製の……恐らく目録と鍵が入ってるであろう重たい箱がである……

 丸い穴の縁に水銀が満ちたとき、浮かび上がった鉄の箱はタイチの手の中へ持ち上げられていた。


 こうなるとすぐ横に設置されている木製の台の用途がはっきりする、タイチも有難く使用させてもらおうと鉄の箱を台上へと置き、はやる心を抑えてそっと蓋を持ち上げる。

 ライラのくれた情報通りであった、硬い革の表紙にバインダーのように綴じられた目録と、とても細くて長い棒鍵がたくさん並んでいる鍵束が現れた、タイチは目録を台上で開き目当てのタイトルを探しながらページをめくる。


「あった……ウルクの守護女神イナンナの手紙……」

 様々な古代の図書館に関する文献を読み漁り、やっとのことでその名だけを突き止めることのできた、タイチの最も求め続けてきた文献のタイトルがそこに記されていた。

 タイトルの後に十五と番号が振ってある、保管されている場所の番号であろう、鍵束の鍵を見ると持ち手にそれぞれ小さく数字が彫られてあった。


 ランタンの燃料のこともある、タイチはすぐに重扉へと向かおうとするが、鉄箱の中をいくら探してもあの重そうな扉の鍵らしきものは見当たらない、それもそのはずであった、入口の重扉の鍵まで箱に入れてしまうと五、六階の仕掛けを知りさえすれば禁書庫の利用が容易なものになってしまうではないか。

 おそらく重扉用の鍵は館長が持っているのであろう、幸いにもあと数回ほどは解錠くらいならば可能である、いろいろとギリギリではあったが、どうやら帝国図書館中央塔の禁書庫攻略は達成することができるようであった。


 タイチは手に空になった鉄製の水瓶をぶら下げながら重扉へと進む、また扉が勝手に閉じてしまわぬようにドアストッパーにしようとの考えである。

 すぐに結晶化した黒霧の鍵が、カチリと解錠の乾いた音を響かせた。

 この重扉が前回開いたのはいつのことなのだろう、時間の流れを忘れるほど動かずにいたような書庫内の空気が、タイチの開く重々しい扉の動きで目を覚ます。


 決して自分一人では辿り着くことができなかったであろう、タイチは彼に道を示してくれたライラを想いながら、禁じられた書庫内へと歩を進めていった。



 キャンドルスタンドの置かれたテーブルを中心に、部屋に淡く温かい色が揺れている。


 日が暮れてから何度目の溜息であろうか、心配そうな面持ちで窓から外を眺め、そしてテーブルセットの椅子に座り、また溜息をつく。

 何度もそれを繰り返し、落ち着かぬ様子のライラであった。


 タイチならば必ず成功するはずだと、昼間のうちは彼が帰ってきてからのことで頭が一杯であった、しかし日が暮れて夜の闇が濃くなっていくにつれ、さすがに心配が募ってくるのはいたしかたのないことであろう。

 出逢ってからまだ三日目というのが信じられなかった、それどころか二日目には愛の告白をすらしてしまっていた、今だって心配で胸を焦がすような想いで一杯である……


 この三日の間、ライラは自分が自分じゃないように感じていた……彼のために着飾ったり、女性らしさにこだわったり……自分を見て欲しいと思ってしまったり、私のことを考えてと願ったり……

 全て初めての気持ちであった、戸惑いももちろんあったがなにより後悔したくないという想いが強かった、それは自分だけではなくタイチにもである……タイチにも後悔させるようなことはさせたくないと思うのであった……


 テーブルの上にはワイングラスが並んでいる、物思いに耽って結構な時間が過ぎてしまったようだ、炎が揺れる度にグラスを煌かせるキャンドルも少し短くなったように見える。

「どうか……どうか無事で……」

 ライラは心の中の心配が溢れ出てきたようにつぶやいた、そのとき、誰も聞いておらぬはずのその想いのこもった言葉に、まるで窓から忍び込んだ風が応えるような声が……


「ありがとう、ライラさん……」

 ハッと顔を上げるライラの目に、いつのまにか窓を背にして立ち、微笑んで彼女を見つめるタイチが映る。

「少し遅くなりました、心配かけてすみません……」

 神出の驚きなどは瞬時に消え去り、なによりタイチが無事な姿であると見えると、安堵と喜びが心に大波のように押し寄せてくる、ライラは言葉一つ発することができないでいた……


 タイチはじわっと目が潤んでくるライラに歩み寄る、椅子に座る彼女の脚がカクカクと震えているのを認めたためである、ずっと心配し続けてくれていたのであろう、彼女の前に立つと優しい声で告げる。

「ライラさんのおかげで……手に入れることができました……」

 ライラの想いが成就した瞬間であった。

 ライラの開いた禁書庫への道がタイチの望む知識へと繋がった、タイチを愛する女としての喜びだけではなく、人生の全てをかけてきた司書としての想いも満たす言葉であった。


「タイチさん……よかった……おめでとうございます」

 涙で濡れた目で見上げながらそう言うライラに、胸の奥が熱くなるタイチは微笑んで頷く。



『ウルクの守護女神イナンナの手紙』


 ギルガメシュ様、お久しぶりです。

 この度のウルク王権授与の決定、王権の守護神たる私とエンリル共々、心よりお慶び申し上げます。


 ……なんて堅苦しい挨拶は私らしくないですね、うふっ。

 私の知ってるお坊ちゃんがいつの間にか大人になられて、もう王位に就かれるなんて……イナンナはなんだか急に歳を取ってしまった気がいたします……嘘ですっ、私はまだピチピチですっ。


 あ、ちょっと聞いてくださいよ~、エンリルってば突然ギルガメシュ様の王権授与は俺がやるっ! って言い出して、私に何の相談もなく勝手に決めてしまったんですよ~、ひどいと思いません?

 ギルガメシュ様だってあんなむっさいオヤジから授かるより、美人で聡明でナイスバディーな女神イナンナからの王権授与のほうが断然いいですよね~? ねっ?


 でもいいもんね~、王権授与をあのヒゲチョビオヤジがするのなら、私はギルガメシュ様にこの世界の全ての知を授けちゃいますっ!

 はいっ、お察しの通り『全知の書院』へのご案内で~す!

 さすがはギルガメシュ様ですねっ、王権授与の話が出た途端に全知の書院の使用許可まで下りちゃうなんて……姉のエレクですら無条件で賛成ですって!


 ではでは入り方を説明いたしますね、満月の夜、正確には月齢十三・八日から十五・八日の間で構いません、広い水面がある場所ならどこでもいいですので、水面に映る満月の道を、渡りの能力で水月に向かって突っ走っちゃって下さいっ!

 あ、渡りの能力が無ければ出来る人にやってもらってもオッケーですっ、そうしたら接続面が作動して始まりの洞窟に出ますんで、そこからはお一人でゴール目指して進まれて下さいね、な~に、ギルガメシュ様なら全然余裕ですって!


 私は書院前で首を長~くしてお待ちしておりますっ、早くイナンナに逢いに来て下さいね~っ。

 ではでは全知の書院でお逢いいたしましょう。


 あなたのイナンナより



「ず……ずいぶんくだけた感じの女神様ね……」

 目当ての禁書の内容を書き写した紙をタイチに渡され、読み終わったライラは呆れているのか半笑いなのかよくわからない表情でそう言った。


「うん……一見とても禁書とは思えないノリだよね……」

 タイチもライラと同意見である、禁書庫の中で初めて読んだ時、あまりの軽さに少し眩暈がしたほどであった。

「このギルガメシュっていう人は物質界の伝説の王でね、時代は今から三千年ほど昔になるかな、全てを見た者とうたわれたヘロスだと伝わってるよ」


 キャンドルの灯りが茫と照らすテーブルで、二人はワイングラスを傾けながら向かい合って座り、タイチが禁書庫攻略の詳細をライラに語って聞かせていく、頷きながら聴くライラも、会話を重ねるにつれていつも通りにリラックス出来てきた様子だ。


「正式名は全知の書院って言うのね……そうよね、古代の図書館なんて古代の人が言うわけないものね……」

 古代の図書館についても研究してきたライラである、感慨もひとしおなのであろう。

「これね……記されたこの時間と場所と方法が……この手紙が禁書にまでなった理由なのね……」

 その言葉にタイチは頷き、そして真剣な顔をしてライラに言う。

「その方法について……いえ、この禁書全てについてですね……決して口外してはいけませんよ」

「そうね……全知なんて聞いたら誰もが求めて当然だものね……到達する方法を知るとなれば、危険な目にも遭う可能性だってあるわね……」

 さすがにこういう分野での理解力はすごい、ライラも専門家であった。



 ワインの空き瓶が一本、そしてもうすぐ二本目になりそうな瓶を傾けて、ライラはタイチのグラスへルビー色の液体を注ぐ。

 最初はテーブルを挟んで面と向かい座っていたが、禁書庫の話から帝室に居たという女神の話、さらには帝国の歴史に至るまでと話は弾み、用意してあった軽食やつまみをタイチへ振舞い、空になったグラスへかいがいしく酌をするライラは、いつの間にかちゃっかりとタイチのすぐ隣へ椅子を移していた。


 弾む会話とワインを楽しんでいたタイチがその距離に気付いたとき、ふと会話が途切れる……

 別にライラが意図して会話を切ったわけではない、それまでは彼女も共に互いの知識を披露しあって盛り上がっていたのだ。

 不意の静寂はタイチが改めて想い出してしまったためであった……今夜の、この夜が明けたとき、彼は帝都を後にして古代の図書館……全知の書院を目指すと決めていた。


 だが実際は次の満月までは二週間近くある、それまでは準備を進めこそすれ待つしかない状況になってしまっていた、つまり満月までは何処にいても同じという状況に変化してしまったのである。

 初志を貫徹して夜明けとともに去るというのは、今となってはライラに失礼ではないか……とすら思える、なんせ満月の道ができるくらいの広さの水面、つまりある程度大きな川、運河など帝都の中にも通っているのだ。


「タイチさん困っちゃってますね……」

 胸中をズバリ言い当てられ驚愕が表情に出てしまう。


「うふふっ、それはそうですよね、今日が新月だったんですから満月までは十三日ほどですか……場所だって広い水面があればどこでもいいように書いてありましたし……タイチさんは渡りもご自分でできますし……ね?」

 こ……この人、心が読めるのか……? とタイチに思わせるほどの聡明さを披露するライラであった、しかし驚くのはまだ早かったと思ったのは、その後の言葉を聞いてからである。


「タイチさん、私のこと心配してくれてるんですね……すぐに出立しなくてもよくなって、でも二週間近くも私のそばに居たら、私が別れに耐えられなくなってしまうんじゃないかって……そう考えてくれてるんですよね……?」

 見事である、言葉もなく降参するようなタイチの弱った笑顔を見て。


「タイチさん、仮にたった一晩だけでも……それが二週間一緒に居られたとしても……別れの時の私の気持ちは、きっと同じです……でも……でも、それがもし一日でも……一時間でも……少しでも長く一緒に居られるのなら……私はどんなことだって……」

 ライラの言葉はそこで途切れる、彼女の膝の上の手をタイチが優しく握ったからであった。


 並んで座るタイチが椅子から立ち上がり、握る手に引かれるまま立ち上がるライラと向かい見つめ合う。

 何度も見て知っていたはずのライラのターコイズブルーの目を、とても綺麗だと感じたタイチであった、照れくさくて言葉にはできないが想いはなんとなくでも伝わるのであろうか、彼女の頬は紅く染まり見つめ返す目も紗がかかったように潤んでくる。


 タイチが両肩をそっと掴むと、ライラはおずおずと顔を上げて目を閉じる、やがて唇が触れた……触れ合うだけのキスであったが……しかし夜の始まりのキスでもあった。

 今度はライラがタイチの首へと抱きつき唇を求める、すぐに重なった唇は互いを求めるように動き、タイチが強くライラの身体を抱きしめると、唇の間から微かな彼女の喘ぎと舌を絡め合う音が聞こえ始めてきた。


 唇が離れると二人は酸素を求める荒い呼吸をし、タイチは息を整えながらライラの首からモノクルの細い鎖を外していく、首にかかる鎖を長いアッシュブロンドに絡ませぬようにそっと抜き取られるライラは、初めて自分以外の人に外されてテーブルに置かれる水晶レンズを、焦点の合わぬ茫とした目で見つめている。


 ムーングレイのシャツワンピースはボタンを上から二つはずしていた、タイチの手がライラの頬を撫で、そのままアッシュブロンドを後ろへ流すと、白い首筋が胸元近くまで露わになる。

 恍惚となって首筋にキスを受けるライラは、タイチが軽く手を振り呼び出した影に、三本全ての炎が包まれて消えるキャンドルを見て嬉しそうに微笑む。


 闇の中で横抱きにされ、ライラの体重など気にもしないような逞しい腕に運ばれてベッドへと……飽くことなく互いを求め続ける新月の夜が更けていく……



 パンッ! と小気味よい音をたてて白いシーツが舞う、抜けるような青い空が目に痛いほど眩しい。


 ライラのアパートの屋上は、こんな晴天の日には住人の洗濯物が所狭しと並べられる。

 長い物干し竿にシーツを掛けて木製のクリップで留め、ふうっ……と踏み台を椅子代わりに腰掛けて一息つくライラであった。

 洗濯物を干す手を止めて遠くへ目を移すと、家々の屋根が見渡す限り続いている、絶景とは言えぬ景色ではあるがライラの愛すべきいつも通りの風景である。


 タイチが去って半年が経とうとしていた。

 十三日の濃密な日々は今でもライラの記憶の中でバラ色に輝いている、決して寂しくはない。


 彼女は三か月ほどをかけて手記を書いた、初めて愛した男の人との出逢いを物語風にまとめてみたのである、もちろん禁書の件などには一切触れず、図書館での恋心とその恋の行方に重点を置いた話になっていた。

 友人の戯曲作家に読ませたところ、面白いという話になって恋愛のアンソロジー本に掲載されると、これまたなかなかの反響があったようで、それじゃあ一冊分にして書いてみないか? と話が持ち掛けられたところであった。


 半年経った今でも想い出す度に胸が熱くなり、そして切なく締め付けられる、だが本当に寂しくはない。

 この熱い感情があるならまだ書けるかな……と思い、執筆依頼を受けようかと考え始めているライラであった。


 よっこらしょと立ち上がり、洗濯物の残りを干してしまうと、遠くで風に揺れる木の葉のざわめきが聞こえ、すぐにその風がライラへと届いてくる。

 風の吹いてくる彼方の空を見上げると思わず、タイチは今頃どうしてるかな……と考えてしまう、すると途端にキュッと胸が痛み涙がジワッと湧いてきてしまった。


 しかしそのとき、ライラの下腹を中からノックするようにトントンと蹴る感覚。

 ハッとしたライラは途端に笑顔に戻り、もうだいぶ大きく目立ってきたお腹を愛おしそうに撫でて話しかける。

「うふふっ、そうね、ごめんなさい、ママにはあなたがいるものね、ありがとう」

 女神の血を四分の一引き継ぐ、愛しいあの人との愛しい我が子がここにいる、寂しいことなどあるはずがなかった。


「そっか……あなたも物語に登場させてあげなきゃね……執筆依頼うけちゃいましょうか! さあ、そう決まると忙しくなるわね~」

 目を輝かせて楽しそうに言うライラである。


「やっぱりタイトルは最初と同じがいいわね、私の変わらない気持ち……うふふっ」

 青空へ向かって告白するように言うタイトルは。


「The Man I Love」


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