四十六話 偽装と女磨きと新月の夜と



「望みます……たとえ……どんな代償を求められても……」


 声も身体も震えていた。

 望んではいけないことだ……と、自分の心に封をして諦めようと決めていたのである、出逢ったばかりだからきっとすぐに忘れられる……と、瞬間的な熱病のような一目惚れなだけだ……と、悲しい言い訳をいくつも自分自身に用意していた。

 しかし先程、タイチは禁書よりライラの論文をとろうとしてくれた……

 もうだめであった……タイチの禁書をあきらめるという言葉に、ばかにしないでと叫んだとき……目を逸らし続けていた己の本当の気持ちを正面から見てしまったのだ。


 無情な別れの時も迫りつつあり心はなおさら強く彼を求めてしまう、だがそれは決して許されないであろう、言い訳に逃げることすらもできなくなり、壊れそうな心の痛みに堪えるしか道がなくなったとき……それは不意に彼女の目の前に差し出されたのである。

 ライラはタイチの言葉にすがり付くように答えた、もしそれが、例え彼の憐憫からの言葉だったとしても、例えほんの一夜の遊びとすら思われていたとしても、望まずにはいられなかった、彼女の全てが彼を欲していたのであった。



 翌朝、見慣れた天井がぼんやりと目に映る。

 窓の隙間から朝日が射し込んで、壁に映る光の筋も毎日見慣れたものであった。


 ゆっくりと覚醒しながら、ライラはアパートの自室のベッドで気だるくグネグネ動いている、今日明日は休みをもらったので急いで起きる必要はない、急な申請だったがどうやら彼氏ができたらしいという噂が立っていたこともあり、反対する者は誰一人としていなかったようである。


 タイチには絶対に見せられないであろうヌボーっと締まりのない顔をしながら、昨日の司書室でのことを想い起す、もちろん回想場面は決まっているようで、締まりのない顔がさらにデレッと緩んでいく。


「あなただけを見る、か……ただずっと見つめてるってだけじゃ……ないわよね……当然そうよね……」

 独りごちながらベッドの上をゴロンと転がる。

「あなただけを想うって……私に……本気になってくれるって……ことよね……?」

 ゴロリと戻る。

「そして無事に禁書を読むことができたら……ここへ来てくれる……のよね……?」

 ゴロゴロと行ったり来たり転がる。

「だとしたら……やっぱりそういうこと……よね……? だとしたら……だとしたら……今夜……私……ついに……」


 妄想中、と書いてあるような赤い顔で、文字通り今夜のことを妄想しているのであろう、しばらくプルプルしながら天井を焦点の定まらぬ目で見つめていたが、やがて妄想の中でクライマックスに近くなってきたのであろう、ンガーッとさらに真っ赤になった顔をクルッとうつ伏せになって枕へ突っ込み。

「ふおおおおぉぉっ‼」

 と、雄叫びのような奇声をあげ、それで妄想も終了したらしくグッタリと静かになる、実は昨夜から何度もこれを繰り返しておりちょうど真下の部屋のリコは、昨夜半過ぎより変な魔物に天井から襲われるという悪夢を見続けて、今朝は寝不足でフラフラと出勤していったのであった。


「こうしちゃいられないわっ!」

 枕からガバッと顔を上げてのたのたと起き上がる。

「えーと……まず買い物よね、軽く食べられるものと、お酒……ワインがいいわね、シャンパンだとゲップがでちゃうし……新しいシーツあったかしら……おしぼりも少し多めに用意しなきゃ……汗だくになっちゃう……かも……ぐふふっ……」


 また妄想に突入しそうになって慌てて首を振り我に返る、寝間着として使っていたポンチョ風の貫頭衣を脱ぎ捨てながら。

「お部屋のお掃除してから、身体も丹念に磨き上げて来なきゃ……」

 と、言いつつ脇腹のお肉を指先でつまみ、ムムウ~ッ……と唸る、まあ、今できるベストを尽くそう……ということでギャップのある理想と現実に和解をさせたのであった。



「やあ、おはよう、ちょっと尋きたいんだけど……次の村には宿屋があるだろうか?」


 タイチである、帝都の西の最外縁、防壁内から街道へ出る門であった。

 門番の詰め所で行き来をする人々を一応見分しているのであろう、衛兵の装備を着た若者に笑顔で話しかけている。

「宿屋があるのは三つ目の村だよ、まあのんびり歩いても夕方前には着くから、問題ないと思うけどね」

 気のいい若者である、にこやかにそう答えてくれた。


「なるほどー、ありがとう、あ、これよかったらどうぞ、たくさん買い過ぎちゃって」

 朝市で買ってきたばかりの熱々の揚げパンであった、まだ数個入っている紙袋の中を見て若い衛兵は嬉しそうな笑顔になり。

「これは嬉しい、いいのかい? いやー、ありがとうっ」

 と受け取り、手をあげて歩き出すタイチを見送ってくれる、これから往来の人が増えてくるであろう時間になる、今はまだまばらな人が行き交う街道へ出て、タイチは朝の爽やかな空気の中、西へ向けて歩き出していくのであった。


 ――というのは偽装である、決してライラから逃げ出してきたというわけではない。


 目的はもちろん、もし禁書庫侵入が露見したとしても、ライラに共犯の嫌疑がかからないようにするためである。

 それにはまず、タイチ自身が疑われないようにしなくてはならなかった、一昨日からライラと共にいる場面を多くの人に見られている、帝国図書館の職員で禁書にも少なからず興味があるのは周知であるライラと、最近その周りをうろつく男、つまりタイチの組み合わせは、禁書庫に侵入者ありとなった時点で怪しまれるのは火を見るより明らかであった。


 タイチが捕まってしまうような事態になれば言い逃れもできないが、それ以外の場合はやはり、タイチはこの街から出立済みということにしておくほうが何かと都合がいいと判断された。

 ということで昨日ライラに申し入れて決めた段取りである、何かあれば門番の若い衛兵君がタイチが出て行くのを見たと証言してくれるであろう、彼の印象に残るという目的のためのタイチの言動であった。


 街道をしばらく歩き、人目の無い瞬間を見計らって細い横道に入る、林道のような道を進んでいくとやがて土手に突き当たり、その土手を越えると細い小川が流れているのが見えた。

 人目にも付かなさそうで良い場所である、土手の斜面の柔らかい青草に腰を下ろし、日が暮れるまでここで過ごすのもいいなと考えるタイチであった。


 小川のせせらぎが心を安らげてくれる、岩の上から嘴の長い小鳥が水面を見つめて小魚でも狙っているのであろうか、のどかな風景に茫としながらもタイチの胸中はいつのまにか禁書とライラのことを想ってしまう。

 禁書についてはやはり、以前いたという女神が施した仕掛けが最大の懸念である、六階の禁書庫のみならず、五階のガーディアンとやらも女神の力が関与している可能性は高い。


 五階から上をすっぽりと包む封印式もかなりの強度があった、使用されている媒体から水系の女神であろうという予想はつくが、あくまでも予想なだけで攻略法などはさっぱり思い付かないのであった。

 だがライラは成功すると信じてくれている、彼女の協力がなければこれほど早く禁書への挑戦などできなかったであろうことはもちろん、五階のガーディアンの存在や六階禁書庫の仕掛けのことなど、タイチ一人では入手できなかったであろう貴重な情報も与えてくれた。


 そのライラが見返りは求めぬと苦しみながら耐えている姿を見て、そうですかと見過ごすことなどできはしなかった、一夜のみのつながりなど逆に残酷なだけなのではとタイチも思い悩んだ、がしかし、ライラがそれでも望むと言ってくれた時に、タイチ自身も彼女に惹かれ始めている自分に気付いたのであった。

 そんなことを考えていると、ライラの一途で純粋な想いのためにも、今夜の禁書庫攻略は成功させねばとタイチは改めて意気込むのである。



「う……う~む……こ、これは……」

 一途で純粋な想いだとタイチに評価されたライラは、セクシー下着売り場で唸っていた。


 下着なんだか紐なんだか判別がつかないものを両手で広げている。

「これはダメだわ……ハミ出す……」

 変態と思われては元も子もない、妄想の段階では過激になりがちな思考も、実際に実物を目の当たりにするとやり過ぎのレベルであると気付くのである。


「もう少し普通っぽいのがいいのかしら……」

 そう言いながら次に手に取ったのは、やっと紐状の物体から布と呼べるギリギリの線まで戻ってきたという代物で、横はまだ紐でありリボン結びで前後をつなぐタイプである、いわゆる足先まで脱がさなくてもリボンを解くとペロンというやつであった。

 その他にもトラ柄やヒョウ柄だったり、透けてたりOKと書いてあるやつだったり、選ぶものを総合的に見てなんともオヤジ臭い好みなのは、どうやらライラの残念な部分であるのだろう、最終的にタイチに引かれないものを選ぶことを祈るばかりである。



 抜けるような青空に真っ白い雲がゆっくりと流れていた。

 タイチは土手に寝転がり、腕を枕に空を見上げている。


 村を出てから九年近くが経過するが、未だに青空を見上げたときに潮の香りがしないと、なんだか物足りなく寂しい気持ちになってしまう。

 漁村で生まれ育ち、漁師として生活し、海と共に生きてきた彼である、こんなときにはやはり、自分は根っからの海の男なんだなと認識させられてしまうのであった。


 岩の上にいた小鳥が長い嘴の間に小魚を捕らえていた、お前も立派な漁師なんだな……とタイチは微笑んで眺めている。

 暖かな陽光に誘われて眠気が忍び寄ってきた、夜の禁書庫侵入のために休息は歓迎である、目を閉じて欠伸を一つすると、やがて時折渡ってくる微風の合間に心地よさそうな寝息がかすかに聞こえ始めてきた。



「うあっ、あいっ、いでっ、いでででっ、いだあ~ははっは!」

 公衆浴場の巨大な湯船の横、大理石でできた縁石の上に全裸で寝そべりながら、悲鳴をあげるライラであった。


 すぐ側には脱毛サービスを提供する体格のよいおばちゃんが、長く丈夫な糸で彼女の両腕と肩からうなじ、背中にかけての産毛を巻き取り脱毛している、おばちゃんが器用に操る両手の指に渡された糸が、体表を撫で上げていく度にライラの口からヒーヒー悲鳴があがっていた。


「はいっ、終了だよ、おつかれさんっ!」

 威勢のいい声にヒクヒクしながら礼を言うライラのお尻をペチンと叩いて、おばちゃんは次の客へ向かって去っていく、タイチには想像すらできぬであろう、女を磨くというのはとても大変なことであった。


「つ……次は髪を切りに……美容院にょ……」

 ガクガクしながら四つん這いになると腕の力がカクンと抜け、横の湯船にズルッと滑りドブンと落ちてそのままブクブク沈んでいく、まさに命懸けの恋である。



 夕闇が静かに帝都の上を覆い始めた。


 鳥の群れが森へ向かって帰ってゆく、古く巨大な都の平凡な一日の流れである毎日繰り返される生活のリズムが、ゆっくりと大きなゼンマイ仕掛けのように、この街に住む人間のみならず全ての生命を動かしているように見える。

 昨日ライラと二人で立った尖塔の上であった、今はタイチ一人で縁に腰を下ろし、目も眩むような高さなど気にもせずに脚を外側へ投げ出して街全体を見下ろしていた。


 沈む夕日はちょうどタイチが正面に見据える帝国図書館中央塔の向こう側にある、闇に変わりつつある茜色の空を背にタイチへと影を落とすその塔は、施された封印のせいであろうか、まるで来る者を頑なに拒み続ける孤独な使命を自覚しているようである。

 立てた片膝を抱くように腕を絡めながら、彼の表情は瞑想をしているように穏やかであった、集中力を高めているのかもしれない、ほとんど身じろぎもせぬまま塔を見つめていると、タイチの目には塔が背後の茜色を吸い込み、そして夜の闇を吸い寄せていくかのように映る。


 新月の夜には月の光が無い、しかし街の灯りはそんなことを気にもせぬように古都を闇の中に浮かび上がらせる、だがタイチは知っている、闇は新月こそ最も深くなることを……

 受け継ぐ闇の冠をいただく女神の血が深い闇の訪れを前に目覚め始める、身の内から普段は眠らせている能力が解放される喜びに打ち震えるような感覚が湧き上がってくる。


 スッと体重を前へ移し前傾になると、タイチの身体は躊躇いもなく尖塔の頂上より空中へと踊り出す、星の重力が彼を捕らえ加速度を貼りつけようとするより早く、目の前に広がる黒霧がその身を包み込み、次の瞬間彼の姿は跡形もなく消え失せていた。


 残る黒霧もすぐに霧散し、その様子を見下ろしていたかのような帝国図書館中央塔は、今宵その身に一人の挑戦者を迎えることとなる。


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