四十五話 情報と代償と熱い想いと
翌日の正午過ぎ。
昼食を摂り終えた職員や来館者が気だるげに行き来しているエントランスを抜け、古代史のカテゴリ札が掛かっている方向へと滑らかな大理石の床上を進んでいく。
古い植物由来の茶色い紙や動物の皮を加工した羊皮紙が所狭しと並んだ棚の列が続く、歴史を感じさせるカビとホコリの匂いがするその巨大ドミノのような列を横目に奥へと進むと、最奥にわざとひっそりと目立たぬように作ったかのような木製の地味なドアが現れた。
知を司るという意味でしつらえられたものなのだろうか、フクロウの刻印がなされたそのドアを赤銅色の逞しい腕が軽くノックする。
帝国図書館、古代史担当のライラの司書室である。
約束通りタイチが訪れると、別にデートでもないのだが待ち合わせはやはりときめくものがあるのだろう、ドキドキ顔のライラがすぐにドアを開けて招じ入れてくれる、タイチはソファーに座らされて、用意していたティーセットでまずは午後のティータイムであった。
少し気恥ずかしい空気が流れている。
別に二人の間に何かがあった訳ではない、昨夜の開けた窓越しに面と向かい合った時もさほど深い話はしなかった。
「えへへ~、驚いた?」
「そ……そりゃあ……驚いたよ……」
「こっちはアパートの私の部屋なの、宿の女将さんに頼んでお隣同士にしてもらっちゃった、うふふっ」
「そうだったのか……あの、ライラさん……」
「は、はい?」
「今日、お世話になりっぱなしだったのに……さっき別れ際にお礼も言えなくって、こうやって今夜中にまた逢えてよかった……ありがとう……本当に助かったよ」
「うはっ……あ……いえ……そ、そんな……大したことしてないです……でも、そう言ってもらえると嬉しいな……明日から頑張って情報集めなきゃ、えへっ」
「あ、いや、それは……ありがたい話ですが、ライラさんの立場を危うくするようなことは絶対ダメです、本当なら僕と関わることすらリスクがあるのに……」
「ふふっ、私は私が一番やりたいことをやってるだけですっ、でも案じていただいてるんだからそうね……危険なことはしないって誓うわね」
「……約束ですよ?」
「ええ……約束……」
「…………」
「……も……もうこんな時間ね……明日、午後に司書室で……待ってるわね」
「う、うん……じゃあまた明日……」
「おやすみなさいタイチさん……」
「おやすみ……」
と、こんな感じであった、とても三十二歳と百五十余歳の会話とは思えぬ初々しさである。
ティーカップをソーサーに置いたときには、気持ちも幾分ほぐれていた。
相変わらずライラはソファーでタイチの横に並んで座っている、今日の彼女はナイルブルーのコクーンワンピースであった、ちょうど膝丈のスカートが大人しすぎず、且つ無理もしていないように見えてよく似合っていた。
髪は低めの位置で二つに分けてラフなゆるふわツインテールにしている、ワンピースとの相乗効果で二十代で通用するライセンスを余裕をもって入手したようである、タイチは知るよしもないが、同じアパートに住むリコに相談しながらやっと決まったコーディネートであった。
乙女心ゆえか、努力はやはり評価されたいと思ってしまうものなのであろう、どうかしら?ビームをずっと送り続けられて降参したタイチが口を開く。
「な、なんだか今日は昨日と違う雰囲気ですね……」
すると待ってましたと言わんばかりのライラが。
「あらぁ~……そうかしら? 自分では全然気にしてなかったけども……」
ぬけぬけと言いながら、更に審査結果の言葉をにこやかな待ち顔で促す。
「その……あ、明るい感じでとても似合ってます……」
どうにかこうにか絞り出すように言うタイチと、素直に頬を染めて喜んでいるライラが対照的であった。
ご機嫌になった彼女が本題を切りだす。
本の城の異名を持ち、無尽蔵とすら錯覚させる蔵書数を誇っているこの帝国図書館とはいえ、その内に記されている知識を求めることすら禁忌とされる、いわゆる禁書と呼ばれる文献・書物はさほど多くはないという。
閲覧するどころかその存在の有無にすら触れることが叶わないとのことで、目録なども当然非公開であり、一般の来館者がもし想像の翼を広げた質問をしてきたとしても、存在しませんの一言が返ってくるだけだという話であった。
予備知識として帝国図書館の禁書扱いの概要がライラから語られていく、そして次の言葉から彼女の声のトーンが明らかに低くなった。
「タイチさん、この帝国図書館は正面から見ると、中央の一番奥に高い塔が見えるのをご存じでした?」
「ああ、あの上部には窓すらついていない尖塔……」
「あの塔、六階層なんですが、一階は要職のみで行われる会議用の部屋で、二階が館長室になってます、三、四階は貴族や富豪などから貸与されたり保存依頼されたりしている、貴重な文献・書籍用の重要書庫、そして……五、六階が……今日まで私も知りませんでした……」
ライラの膝の上に揃えた両手がギュッとスカートの裾を握る。
「そこに……禁書庫が……?」
そう尋ねるタイチに陶然とした表情のライラがトロ~ンとした目を向ける。
「はい……そこに私たちが求める知識が……答えが……」
喘ぐように応える彼女に少しギクリとして、初対面の時のように白目を剥いてひっくり返られるのではないかと、ハラハラしながらもタイチはうんうんと頷き続きを促す。
「でも五階からは、今はご不在ですが……帝室に付いていた女神さまが、昔に施された仕掛けがあるという話です……」
するとライラは、あっ……と何かを思いだした様子で。
「え~と、そういえば……禁書庫は六階のみで……」
「え……? じゃあ五階は?」
「それが……」
一転して曇った顔になる彼女は首をひねりつつ、どうにもよく分からない様子で言葉を継いでいく。
「禁書庫を守るガーディアンがいるとかなんとか……」
「ガ……ガーディアンって……警備の人がいるってことかな……?」
「いえ……警備の人なんかが出入りしてたら、禁書庫の存在はもっと知られているはずです……もっと別の何か……ごめんなさい……情報源のヤツがあまり利口じゃないものだから、本人もきっと分かってないんでしょうね、何が居るのかまでははっきり聞き出せなくて……」
「情報源って……禁書庫のことを知ってる人ってことだよね……? どうやってそんなこと聞き出せたの? ライラさんかなり無茶してるんじゃないの?」
心配顔のタイチがそう訊くと、ライラは照れたような笑いを浮かべながら。
「え、え~と、情報源ってのは司書長のことでして……コイツがまた絵にかいたような上級貴族のボンボンで、図書館の仕事なんか何一つ知らないという、まあいわゆる役職をアクセサリー程度にしか考えていない輩でして……」
「そんな人から情報なんか聞き出したら、ライラさんの立場が危うくなってしまうんじゃ……?」
「いえ、それは大丈夫……私の閲覧禁止文献が見たいっ! っていうのは今に始まったことじゃないですし……さすがに禁書はなかったですけどね……興味があるだけの素振りで聞きましたし、それに今回は相手も他言できない取り引きをしてますんで、だいじょうぶですっ!」
ニッコリと微笑んで言う彼女に、タイチは大きなため息を一つついて。
「なにがだいじょうぶなんですか、もうっ……肝心な部分をぼかして誤魔化そうったってダメですよ? なんなんですその、他言できない取り引きってのは? きちんと説明してくださいっ」
メッ! という感じで言うタイチに、やっぱりダメだったか~っという顔のライラは、やはり誤魔化す気満々だったようである。
「大したことじゃないんですよ、情報と交換に論文を渡しただけで……」
「論文……論文って……」
あっけらかんと言うライラに、目をむいて驚くタイチ。
「ほら、司書長の肩書なんか持つものだから、学術的な実績が無いと逆に笑われるじゃないですか、私の論文を自分の名前で発表すれば、やっと喉から手が出るほど欲しがってた実績が手に入りますからね~、交換条件で禁書の情報を私に教えたことを誰かにバラせば、論文のこともバレますんで~、ほらっ、だいじょうぶでしょ?」
再びニッコリと微笑んで首を傾ける、しかしそのライラの両肩をタイチの手がガシッと掴む、その目は真剣そのものだ。
「ライラさん、その論文にはどのくらいの期間をかけたんですか?」
びっくり顔のライラが、それでも思考を巡らせて答えようとすると、その機先を制するようにタイチが念を押す。
「正直に、本当の期間を教えてください」
やはり短くサバを読んで答えようとしていたようだ、シュンと肩を落としたライラはポツリと答える。
「二年半……ほど……」
その言葉を聞くや否や、タイチはソファーからスックと立ち上がり、クルッと背を向けてドアへと歩き出す。
慌てたのはライラである、タイチが歩き出した途端にその腕にしがみついて引き止めた、さすがに必死の形相である。
「まっ、待って! タイチさんっ! どっ、どこへいくのっ⁉」
なお進もうとするタイチを、全身で突っ張って引き留める。
「決まってます、司書長のところへ行って論文を返してもらいます」
「返してもらうって……そんなことしたらタイチさんが禁書目的なのバレちゃうじゃないっ!」
「いいんです、禁書はあきらめます」
そうタイチが言った瞬間。
「バカにしないでっ‼」
しがみついていた腕を放り投げるように放し、ライラは鋭く叫ぶ。
そのライラの剣幕にタイチも進むのを止め、ライラへと向き直る。
「バカになんかしていません……二年半ものライラさんの努力に報えるようなものを……僕は何一つ持っていないんです……」
そう言うタイチの目は悲しそうに伏せられる。
司書室の音を奪い去るように沈黙が覆ってくるようであった、しかし……
「いいえ……タイチさんはまだ……気付いていないだけ……」
沈黙を吹き消すような静かな彼女の声が司書室を流れる、しかしその声には心の奥から湧き上がる熱い想いがこめられていた。
「タイチさん、私……ライラはあなたのことを愛してるわ」
ゆっくりと伏せた視線を戻すタイチの目の前には、背筋を伸ばして凛と立ち、二十センチ以上の身長差がある彼をその差を感じさせぬほど真っ直ぐに、美しいターコイズブルーの瞳で見つめるライラがいた。
「昨日会ったばかりで……変な女だって思われるかもしれないけど……でも自分の心は偽れない……」
「そしてね、タイチさんの心の中にはもう、誰かがいるっていうのも私……わかっているの……」
その言葉に息を飲むタイチへ、ライラの言葉は続く。
「そんなタイチさんに何かを求めたら……タイチさんはきっと苦しむっていうのも、私、わかってるんです」
愕然とするタイチ、さもあらん、まさかここまで心奥を見透かされているとは……そしてライラの深い想いに気付き、己の至らなさに言葉すら出てこない。
「そして何度でも言います、ライラはタイチさんを愛してます、これは私の中で誤魔化すことのできない真実……なら、私は私の納得のいく道を選んでいくだけなんです、タイチさんの中の誰かのことなんて知らないっ、でもタイチさんが苦しむような見返りなんて求めないっ、今、この時に自分の心が一番望む道を選ぶの……後で後悔するようなことは絶対にしたくないの……」
「だから私はタイチさんに禁書への道を開くの、それが私にしかできないことだから……愛した人のために自分だけが出来得ることがある……そんな最高に嬉しいこと……他の何を失っても惜しむことなんてないわ」
その言葉を終える間際に、ライラはタイチの胸の中へ抱きしめられていた。
見返りは求めぬと決めたが、抱きしめられてしまうと全てが蕩けていくのも仕方のないことである、自然と涙が溢れ出し身体から力が抜けていく、心の中ではもっと強く抱きしめられることを望んでしまっていた……
「タイチさん……禁書を目指して……その知を……手に……」
夢見るように呟くライラの言葉に。
「はい……ありがとう……ライラさん……」
タイチのその言葉は、顔を埋めている彼の胸の奥から響いてきた気がするライラであった。
そのとき、二人の周りに霧のような影が湧き出す。
黒霧はあっという間に二人を包み込み、夢とも現とも分からぬ様子のライラは目の前が闇で覆われたかと感じた、しかしその矢先すぐに視界は晴れ、一瞬気のせいかと思ったほどであるが、しかしそこがもう今いた自分の司書室ではないと気付いたとき、その目に映る光景に驚愕のあまり小さな悲鳴をあげてへたり込みそうになってしまう。
帝国図書館のあちこちから天に向け突き出ている尖塔の一つ、その頂上に抱き合いながら二人は立っていた、地上とは違う風が頬を撫でて過ぎていく、遥か下の地面を見ているとそちらへ身体が吸い込まれそうな錯覚にとらわれてライラは軽い眩暈を覚えた。
タイチの腕に支えられながら周りを見回すと、直径三メートルほどの広さの塔の頂上部にいるのは間違いないようだ、側の足元には鉄板製のフタが石造りの床面に付いている、そこをくぐって下へ降りるのだろう、しかし当然ライラにはそこから登ってこの頂上部へ来た覚えはない。
不安に慄きながらそ~っとタイチを見上げて彼女は安堵する、タイチが笑顔であったからだ、タイチはこの状況を理解しているようだと把握すると、しかしその笑顔に安堵感が少しづつしてやられた感に変化してきた、ちょっと唇を尖らせてジ~ッとタイチを見上げると、クスッと笑ったタイチが喋り出す。
「怖がらせちゃったみたいだね、ごめん……」
「これは……タイチさんが? 精霊使いだったの……?」
さすがライラである、もう現状を説明する仮説を組み立てていたようであった。
「影渡り、影をつなげられる場所へなら瞬時に移動できる、僕の能力だよ」
「え……? タイチさんの……って……?」
さすがのライラも混乱しだしたようである。
「僕は人間の父と、闇の冠をいただく女神の母との間の子供なんだ」
そう聞くや目を大きく見開き、口元に両掌を当ててひたすら驚いている様子の彼女が、少しの間をあけてようやく熱に浮かされたような声で呟く。
「タイチさんが……ヘロス……そんな……すごい……」
ヘロスとは、古代の言葉で半神を意味するものであった、神話や伝説の中で活躍する王や英雄の多くがヘロスであると伝わっている。
「い、いや、そんな伝説の中のヘロスたちと同列にされると……恐れ多くて……」
そんなタイチの、謙遜というよりは本心な言葉も耳に入らぬ様子のライラは。
「だから幾多の蔵書庫や、図書館の閉鎖書庫から知識だけを得てこれたのね……」
納得がいって更に惚れこんでしまったのだろう、熱っぽい視線でタイチを見つめ、さすがのタイチも少し赤面してしまうのであった。
「でもあそこは……やっぱり一筋縄ではいかないようだね」
そう言ったタイチの見つめる先には、最上六階に禁書庫を宿す帝国図書館中央塔がそびえ立っていた、ライラは彼がこの場に来た目的がようやく飲み込める。
「分かるんですか?」
タイチに寄り添って、同じように中央塔を眺めながらライラが尋ねる。
「ああ、外からは影渡りでも入り込めない、中からは五階の入り口までしか行けないな……五階から上が大規模な封印式ですっぽり覆われて密封されてるような感じだ」
「すごい……そんなことまで分かるんですね……」
「うん……と、いうことはガーディアンとやらがいる五階を抜けなきゃならないということだな……」
難しい顔で塔を見つめるタイチであったが、傍らのライラが心配そうに見上げているのに気付くと優しい笑みを向けて、だいじょうぶ……と伝える。
「さあ、戻ろうか」
ライラの肩に手を置くと、まるで無抵抗に身を預けてくる、タイチ自身から半神であるという秘密を打ち明けられたということが、彼女の心境に少なからず変化をもたらせているということを、当のタイチはまだ分かっていなかった。
黒霧が二人を元の司書室へと運び、目も眩むような高所の緊張感から解放されて安堵のため息が漏れる、しかしそうなると今度は先程の愛の告白が想い起され、途端にギクシャクした気恥ずかしい空気が流れだした。
それでもライラは頑張って最後の情報、六階の禁書庫の話を始める。
「六階の禁書庫のことは五階と同じく、司書長も説明でのみ得た知識のようでした、うろ覚えの言葉しか聞き出せませんでしたが……禁書目録と鍵は浮かび上がる……とだけ……」
「浮かび上がる……」
心に刻み込むようにタイチが呟く。
ライラの二年半を費やした貴重な論文の代償としては、あまりにも稚拙な情報であった、しかしそれをすら是としたライラのタイチへの純粋な想いは、確実に彼の心を動かしていた。
「明日はちょうど新月です、僕は明日の夜……禁書庫へ向かいます」
決意のこもった彼の言葉に、ある程度予想はしていたのであろう、ライラは小さく頷く、しかし声は出ず……睫毛は小さく震えていた……
彼女は理解していた、禁書の在り処を知ればタイチはためらわずに向かうであろう……そして禁書の内容を入手してその方法を知ったとき、彼はすぐに古代の図書館へ向けて旅立って行くだろうと……おそらくもう逢うことの叶わぬ別れになってしまうということを……
望み、求めればタイチを苦しめてしまうと、張り裂けそうな心から湧き出る想いが口を衝いて出るのを懸命に堪える。
「禁書の内容が手に入れば、夜明けには旅立とうと思います……」
タイチのその言葉で、痛みに耐えるように俯いてギュッと目を閉じ、唇を噛んだライラの耳に、思いもよらぬ続きの言葉が聞こえてきた。
「ライラさん……望んでいただけませんか……?」
その言葉の真意を測りかねたライラは、ゆっくりと虚ろな顔を上げてタイチを見る。
「ライラさんが望んでくれるのなら……禁書庫から戻った夜、夜明けまでの一夜……僕は、あなただけを見て、あなただけを想います」
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