三十六話 賊と闇と抱擁と
砂浜沿いの道に飛び出してやっと村の入口が視界に入ると、七、八人の人だかりができており、皆が取り巻いた中心をのぞき込んでいる、戸板を持ってこいっ! と声が聞こえ、走り出す人も見えた。
「怪我人かしらっ⁉」
足を速めて近づくと。
「ペインさんだ! ペインさんが来てくれたぞっ!」
彼女が必要な状況らしい、十中八九怪我人か急病人のようだ。
到着した彼女に人だかりがサッと割れて中心が見えると、男の人がうつ伏せに倒れているのが目に入る。
「ひ……ひどいっ! 誰がこんなことをっ⁉」
男の肩口には細い矢が刺さっていた、鏃が見えぬほど深く刺さっている、ううっ……と男が呻き横顔が見えると彼女はさらに驚きの声を上げた。
「ビ、ビザルさんっ⁉」
この村へ定期的にやってくる行商人の一人であった、この村の魚の加工品と一緒に彼女の薬も、北の王国の都と行き来をしている彼に大半を卸していた、いつもなら荷馬車でやって来るのであるがそれは見当たらない。
体全体を素早く観察する、あちこちに擦り傷や切り傷があり血が滲んでいる、しかしどれも深手ではないようだ、やはり肩口の矢が一番重傷のようである。
この場でできる応急処置はないと判断し、集まっている村人に指示をする。
「うつ伏せのまま戸板にそーっと乗せて、そうそう、そして私のアトリエに運んでちょうだい、あまり揺らさずに静かに運んであげてね」
先にアトリエへ戻って治療の準備をすると告げてビザルさんを託し、急ぎ走り出した彼女の胸中には、不安な予感が嵐を運ぶ黒雲のように湧き上がっていた。
間もなくビザルさんはアトリエへ運び込まれ、そのまま戸板ごと床に置かれた、これから矢を抜いて手当てをしなければならない。
矢の刺さっている部分の服をハサミで切り開くと、やはり鏃が見えぬほどに深く刺さっている、彼女は刺さった部分を丹念に観察して軽く頷き、痛みで低く呻き続けるビザルさんに話しかける。
「ビザルさん、今、矢を抜きますからね、これを……」
棚のケースから青々とした葉を一枚取り出すと、手の中で軽く揉みビザルさんの口元へ差し出す。
「これを舌の裏側に入れて……そう、舌の裏で葉を揉みながら、唾液を少しずつ飲み込んでいて下さい」
おそらく大麻のような麻酔効果のある植物の葉であろう、ビザルさんの苦痛に歪む表情はすぐに幾分和らいできた。
その様子を見て彼女は矢を抜く作業に取り掛かった、丈夫な麻紐を矢にしっかりと結わえ付ける、真っ直ぐに引き抜くには矢を手で握るよりこのほうが良いようだ。
結わえた麻紐の両端を均等の長さに持ち、失礼してビザルさんの背中を足で踏み動かぬように固定する、薬草の麻酔効果は効いているようではあるが、さすがに矢に振動が伝わると痛みが増すようで顔が歪んでいる。
「抜きますっ! 少し我慢してね!」
両手に握った麻紐を力を徐々に込めながら引いていく、うう~っ! という低い悲鳴がビザルさんの口から洩れ続けるが、彼女は更に力を強めて引いていく、するとガッシリと根の張ったように刺さっていた矢が、奥の方から少し動いた感触が伝わってきた。
動き始めるとあっけないくらいに抜けてくる、まあ抜く時が一番痛いのはしょうがない、彼女の足の下でギャアアと背を反らせるビザルさんからズプッと音を立てて矢は抜けた、アトリエの入口付近で固唾を飲んで見守っていた村人たちから、おおっ! と声が上がる。
おそらく短弓用の矢であろう、細いため傷口からの出血はさほど多くはない、それでも流れ出てくる血は清潔な布で軽く傷口を押さえただけで出るに任せたまま、彼女は急いで鏃を調べる。
矢の先端は小さな鉄製の尖った鏃がしっかりと取り付けられていた、幸いにも尖っているだけで体内で引っ掛かるような返しなどはついていない、彼女はビザルさんの血で濡れる鏃を丹念に調べてから安堵のため息をついた。
「よかった……毒や薬物の類はついてないようだわ……」
薬物の懸念があったため出血させっ放しにしていたが一安心である、しかし傷口の治療にすぐかかろうとする彼女を、気息奄々のビザルさんが止めた。
「あ、ありがとう……ございますっ……でも、大変ですっ、私、盗賊団に襲われたんですっ……ヤツら……こっちに向かってくるかも……みなさんに警戒を……」
先程感じた漠然とした不安が、その形を現してきたようであった。
入口近くにいる女の子に声をかける。
「お願い、おかあさまを呼んできてもらえるかしら?」
女の子はすぐ頷き駆け出して行った、彼女がおかあさまと呼ぶのがタオのお袋さんだというのは、もう村人の周知となっている。
続いて彼女は二人の若者に。
「あなたたちにもお願い、丘の上から街道方面を見張ってほしいの、危険かもしれないけど……お願いできるかしら?」
二人は胸をドンッと叩いて、任せてくれっ! と意気込む、早速行こうとする背に。
「絶対見つからないように隠れて見張ってね、人影が見えたらすぐに戻ってきて知らせてちょうだい、無理しちゃダメよ」
了解の合図に手を上げてアトリエを飛び出して行く、彼女は心配そうに見ながら残った村人に。
「みなさんは手分けして村中に知らせて下さい、女性は村長宅の地下蔵に隠れる準備を、お年寄りは離れに集まってもらうように、動ける男の方は見張りと連絡を、盗賊が現れたら村長の家に集合です」
ハイッと頷き入口付近にいた村人達が一斉に出ていく、さすが漁師の村である、泣き言を漏らす者は一人もいない。
「ビザルさん、知らせてくれてありがとう……」
手当ての続きを始める、傷口は小さいので出血はほぼ治まってきていた、殺菌効果がある薬草花から抽出した精油を棚から取り出す、両手に抱える程の量の薬草花から小指の先ほどもとれない貴重なものではあるが、彼女は惜しげもなく傷口に垂らし布で上から押さえる。
最初は沁みるのである、ビザルさんはくう~っと歯を食いしばるが、やがて傷口がボウッと熱くなるような感じがして痛みがスーッと引くはずだ、あとは包帯を巻いて当て布を固定するだけである、さすがに薬師のアトリエではこの応急処置が精一杯であった。
「いえいえ、私の方こそ助けていただいて感謝いたします、でもこの村まで被害が及ばないか心配です……困ったもんだ……」
そこへお袋さんがやってきた、さすがに少し険しい表情だが落ち着いたものである。
「ビザルさん災難でしたね、怪我の具合はいかがですか?」
「いや~ペインさんの治療はすごい、もうほとんど痛みが引きました、感謝しきりですよ」
お袋さんは微笑んで頷くと、今度は彼女へ向かう。
「聞いたわ、的確な指示ね、今地下蔵へ女性を隠す準備を進めてるわ、お父さんたちが漁から戻るまでまだ三時間以上……盗賊だから明るいうちには来ないと思うのだけれど、とても不安ね……」
「おかあさま……」
不安そうなお袋さんの表情に、逆に私がしっかりしなくてはと、彼女は気を引き締めた顔になる、ビザルさんへ向き直り襲われた時の状況から尋ね始めた。
「ええ、あれはもうすぐ街道が海に突きあたる場所でした、いつも通りに荷馬車でこちらの村へ向かっていたところへ、いきなり後ろから矢で射られたんです」
その時の恐怖が蘇ったのか、少し青ざめた顔でビザルさんは続ける。
「いや恐ろしいのなんの、街道脇の藪から盗賊どもがゾロゾロと……見えただけでも十人以上はおりましたか……皆なかなかの武装をしておりました、兵士くずれに見える者も数人……」
「兵士⁉ まさか北の王国の?」
驚く彼女の問いに、ビザルさんはかぶりを振って答える。
「いえ、見慣れない丸盾を持っていました、おそらく西側の国境から流れてきたのでしょう、今はここから少し内陸側までが王国の統治下に入って、治安維持に騎士団が来たりしてますんで、賊はこちら側に逃れてきたんでしょうなあ……」
「そうだったの……でもビザルさんよく逃げれたわね……」
「ええ、そりゃもう命がけですんで……ヤツらと反対の街道脇の藪に逃げ込んで、そのまま海岸線まで藪漕ぎですよ……それにあいつら……元々欲しいのは私の荷馬車の方ですからね……ハァ……私の荷と商売道具が……」
ガックリとうなだれる姿に気の毒過ぎて言葉が出ない、だがこの村も目を付けられるかもしれないのだ、予断を許さない状況である。
手当てを終えたビザルさんは、村長宅の離れにお年寄りたちと一緒にいてもらう、あとはもう男衆が漁から戻るのを待つしかない、彼女は念のために包帯や外傷治療に使えそうな薬類を、持ち運びできるようにバッグへ詰めはじめていった。
それからは長く感じる時間であった、盗賊団が来ないことを祈り、且つ男衆が一刻も早く戻ってきてくれることを祈った時間の流れは、止まってしまったのではないかと思うほどにゆっくりと感じられた。
じりじりと不安な時が過ぎていき、やがて祈った甲斐があったのか、海の向こうに戻ってくる船団が見えたとき、彼女は今までに感じたことのない安堵感が、自分の中に湧き上がることに驚いた。
いつの間にか気付かぬうちに、こんなにもタオや村の皆に精神面で依存していたのか……と、もちろん頼るのが嫌なわけではない、これほどに人を信頼して心から依存できる自分に驚いたのであった。
浜へ到着したタオとオヤジさんに駆け寄り、状況を説明するとさすがに顔色が変わる、男衆は緊急に広場へ集合がかかった、ビザルさんも呼ばれてやってくる。
「武装した盗賊が十数人だと……やっかいだな……」
「こちらの戦える男は十五人か、武器といっても銛や棍棒程度しかないが……」
「そんな武器で、鎧を着て盾まで持ってる相手に勝ち目があるのか……?」
「兵士相手ではまともにぶつかっては勝てないだろう、網を使ってみるか?」
議論が飛び交う中、オヤジさんとタオは黙って腕組みしながら考え込んでいる。
やがて意見も出尽くしてきた頃、それまで黙って考え込んでいたタオが、丸太のベンチからスッと立ち上がり皆に告げた。
「もし盗賊が現れたら、まず俺が交渉に出る」
全員がハッとタオを見る、彼女に至っては驚くどころではない、不安と心配のあまり恐怖に近い表情になってしまっている。
「何もせずに立ち去る条件を相手が呑むなら、村のある程度の金や食料を渡そうと思う、まずは村人全員の身を護るのが最優先だ」
苦渋の決断ではある、しかし皆が納得するだけの説得力もまた十二分にあった。
「だがもし……決裂したときは……」
タオは更に険しい表情になった、こんなに怖い顔のタオは見たことがない……彼女はギュッと胸が痛む。
「俺たち男衆は戦おう」
声を荒げるわけでもなく、静かに言い放たれたその言葉はしかし、裂帛の気合いが込められていた、海の男がその言葉に鼓舞されぬ訳がなく、広場に集う男衆は一斉に立ち上がり互いに頷き合う。
それからの男たちは戦闘の準備に余念がない、彼女は村長宅の母屋で、お袋さんたち女衆の炊き出しの手伝いをしている最中であった。
大鍋に魚介と野菜のスープが煮え立つ、石窯ではキツネ色の固焼きパンが次々に焼き上がる、芋と白身魚にオレガノやバジルなどたくさんのハーブを入れた大好評のパテを、大きなボウルの中で混ぜながら彼女は沈んだ様子で考え込んでいた。
「ペインさん、後は皆にまかせてちょっと休憩しましょうか」
手の止まりがちな彼女を見てお袋さんが声をかける、でも……と渋る彼女を、いいからいいからと背中を押しながら、二人は土間から外へと出る、ちょうど太陽がその最後の欠片を海に沈める時間であった。
二人はしばらく黙って海を眺める、穏やかに打ち寄せる波と柔らかな風が、いつもと変わらぬ村の風景を作りあげている、ちっぽけな人間の争いなど気にもせぬように茜に染まった海の彼方へ太陽は消え去り、かわりにすぐ夜空が天を包むようにやってくるであろう。
「この村もね、昔には何度か、盗賊が来たり国境争いに巻き込まれたりして、略奪に遭ったことがあるって伝わってるわ……」
少しづつ夜の色へ変わっていく海を眺めたまま、お袋さんが話し出す。
「盗賊を追い返した時もあれば、負けて村が壊滅しそうになったこともあるんですって……」
「でも、勝った時ですら多くの犠牲者が出たみたい……ううん、勝てばまだいいほうね、負けると……とても悲惨な目に遭うわ……特に若い女性は……」
戦った村の男衆が負ければ、その後に待つのは略奪と女性への暴行凌辱だ、このような辺境の小さな村ですら、人の世の業ともいうべきそのような災禍からは逃れることはできなかったようである。
彼女は両手を胸に当てて目を伏せがちに俯き、何かを耐えるような表情で話を聞いていた、その彼女がお袋さんの一言でハッと顔を上げる。
「盗賊が来たら……ペインさん、あなただけでも小舟で逃げて……」
そう言ったお袋さんは、初めて逢ったタオと同じように、真っ直ぐに彼女を見つめていた。
タオの眼差しにとてもよく似ている……こんなときなのに何故か少し嬉しく感じてしまう、哀しさと嬉しさが半分ずつの微笑みを浮かべて、彼女は首を横に振った。
「私も……居たい所に居るのが……ここに居るのが一番幸せなんです」
今度はお袋さんがハッとする、凛とした彼女の一言に、彼女が何かの迷いを吹っ切ったような感じがしたためだ。
しばしの間二人は言葉もなく、また海を眺める。
何かを決意したような強い意思と、それでいてまるでもうすぐ消えてしまいそうな儚さを同時に感じて、お袋さんは彼女へ何か声をかけようとした……しかし何を言っても彼女の大切な意志に水を差してしまうような気がして、結局何も言い出すことができないまま時は過ぎていく……
彼女は一人、アトリエに居た。
あの後お袋さんに、独りで少し考えたいことがある旨を告げて別れてきたのである。
海岸沿いでは陽が沈むと闇がすぐに忍び寄ってくる、この村に来る前まではそれが当たり前だった一人ぼっちの暗闇が、今ではとても昔のことのように懐かしく、そして信じられないほどに寂しく感じてしまう。
クローゼットから勿忘草の服を取り出し、ハンガーのまま壁のフックに掛けてそのまま眺めはじめた。
灯りをつけない暗い部屋で、窓からの薄蒼い光が、より一層美しく幻想的に青い刺繍花を浮かび上がらせていた、まるでたった今咲いた花のように見える。
しばらく眺めるその表情は、楽しい想い出を追っているかのように静かで穏やかであった、やがて着ている服を脱ぎだした彼女は勿忘草の服へと着替えていく、初めてこの服を着た時のことを想い出したのだろう、口元が少し微笑んでいる。
着替えが済むとそのままラタン製のソファーに腰を掛けて瞑想するように目を閉じた、そしてやがてアトリエの暗闇に音も無く溶け込んでいくかのようなその姿は、気配さえ希薄になってまるで影と同化しているようであった。
闇が濃くなっていけばそのぶん月の光はその輝きを増す、まだ崖の向こうに隠れたままの月はその光が届く所を闇から淡く浮かび上がらせ、そして闇の上に闇より黒い影を作りあげる。
時は静かに過ぎ、窓の外が完全に闇と夜光と影だけの世界になった頃、まるで見えぬ誰かに何かを告げられたように、闇の中で彼女は目を開いた。
篝火がバチバチと音を立てて燃え盛っている。
村の入口に立つタオの姿を炎は照らし出していた。
見張りから数人の人影が村へやってくるとの報を受け、それからしばらく経過している、あまりにも来る様子がないので村の襲撃は諦めたか、と思いかけたときであった。
篝火の照らす輪の向こうから、ガチャガチャと硬い素材同士が擦れあう音が聴こえてきた、見えなくてもわかる、軽鎧のパーツや武器が擦れる音であろう。
タオに緊張が走る、賊が現れたというだけでなく、賊が音を平気でたてながらやって来るということは、こちらの行動をとうに把握してるに違いなく、音を消して忍んで来る必要のない状況だということであった。
案の定、篝火の光の範囲内へ現れた賊のリーダーらしい男と、続いてゾロゾロと現れる盗賊たちは皆が余裕をもって村への坂道を下ってくる、現れた盗賊は九人、まだどこかに数人潜んでいると見ていいだろう。
先頭の男がタオと対峙する、傷だらけの顔で酷薄そうな笑みを浮かべた、タオよりも少し背の低い中年の男であった。
ベスト型の皮鎧に金属の輪を貼りつけた、いわゆるリングメイルを素肌に着込み、腰にはグラディウスと呼ばれる実用一辺倒の肉厚の直刀を差している、見るからに場数を踏んだ戦闘のプロであった。
「お出迎えとは痛み入るね、歓迎の準備も済んでいるようだな」
タオの背後を見透かすような目で見る傷男の言葉にギクリとする、背後の民家の陰には銛や棍棒、鉈などで武装した漁師仲間たちが潜んでいた。
タオは動揺を必死に押さえて話を切りだす。
「一応訊いておこう、この村へは何の用だ?」
傷男の笑みが深くなる、後ろの賊たちも嘲りを含んだ笑いを浮かべはじめた。
「聞いてどうする? 俺達の望みを叶えてくれるつもりか?」
傷男の笑みに残忍な影が混じり始めた、タオは直感する、こいつらは村の全てを根こそぎ奪うつもりだ、金目の物も、食料も、女たちも……
「村の者から犠牲者を出したくない、何もせずに立ち去るなら、村にある金と食料は全て差し出す」
ほほう、という顔になった傷男であったが、それはタオが現実からかけ離れた希望などはもっておらぬことへの感心なだけのようだ、結果は傷男の笑みから嘲笑の要素だけが消え、残忍な本性がむき出しになっただけであった。
「残念だが兄ちゃん、俺達はこの村ごといただくぜ、なんせ王国が北から幅を利かせてきやがってな、新しいアジトが欲しかったところだったんだ」
事実上の死刑宣告に等しかった、タオは一瞬眩暈に襲われるが、気丈に言い返す。
「この村の男は漁師だ、村を襲うと言うなら男たちは皆命がけで戦う、互いに多くの死人が出るぞ」
しかしタオのその言葉を聞いた傷男の、表情に浮かぶ余裕はそのままであった。
「兄ちゃん、なかなか言うねえ、良い度胸だ、しかしな、残念だがお前等のやってることは全て筒抜けだ」
そう言うと傷男は頭上で右腕を振る、数瞬の間をおいてタオの背後で何かが砕ける音が大きく響いた。
ガシャーン! と壺か瓶が激しく割れる音のようだ、三回ほど連続して聞こえてくる、タオが驚き振り向くとどうやら民家の屋根で砕けているようである、陶器の破片が空中を舞い、その中に入っていたものであろうか、液体の飛沫も同様に舞い上がって周りに飛び散る様が見えた。
「が、崖の上から……?」
真っ暗で見えはしないが、タオは反射的に崖の上を見上げる、足りないと思ってた盗賊の数人は崖の上へ回り込んでいたと悟った。
そして、しまった! と気付く、陶器の砕けた民家は全て、タオを除いた十四人の漁師たちが打ち合わせ通り、陰に隠れる家であった。
気付くと同時にポッと小さな炎が崖の上に現れ、二つ、三つとその数が増える。
「や、やめ……」
タオの言葉が終わらぬうちに、小さな火の玉に見えるそれらはシュッと音をたてて飛来し、カツッ! とそれぞれの民家の屋根に突き刺さる、燃える火の玉は己の炎の光で自身が火矢であることを映し出した。
屋根の上の炎は最初に小さな円を作る。
行き先を迷うように揺れる炎が、炎の熱で白く気化した液体の煙に触れたとき、屋根の表面を文字通り舐めるように灼熱の絨毯が広がっていく。
三軒の民家の屋根から音も無く広がった炎は、おそらく松明用の燃油だったであろう液体を糧に燃え広がり、すぐに民家の建材自体に燃え移っていった。
木に燃え移ると、途端にバチバチとはぜる音が始まる、火の粉が舞い、黒煙が立ち昇る、なす術無く呆然とした表情で見ていたタオの目に、炎の熱と煙でたまらずに飛び出てきた仲間の漁師たちが見えた。
服の端が燃えている者もいる、慌てて叩き消しているが油がかかっていたのだろう、なかなか消えずに地面を転がってやっと消えたようだ。
隠れていた十四人が全員揃っていた、盗賊たちと十数メートルほど離れて対峙するが、すでに惨憺たる有り様である、網を使った罠も、投擲用の石も、炎と煙にいぶりだされて全て置き去られてしまった、武器すら持っていない者もいる状態である。
絶望の色が濃い、武装した戦闘の専門家に対抗するなどもはや無理であろう、集まった十四人の顔には死を覚悟した表情が見てとれる、だが彼らにその死を恐れる様子はない、彼らが本当に恐れているのは……
タオはギリッと歯を食いしばる、俺達が死ねば……村が……みんなが……そして……
傷男に向き直るタオは刺し違える覚悟を決めていた。
だがその殺気に傷男が気付かぬ訳がなく、ビリッと伝わる警戒心に逆にタオが動きを封じられてしまう。
剣の柄に手を掛けた傷男は油断なく睨みながら、徐々に余裕を取り戻す。
「やっぱり良い度胸だな、死を覚悟した上にそんなツラで刺し違えようとするたあ……兄ちゃん、よっぽど大事な女がいるらしいな?」
その言葉にハッとしたタオの胸中を見透かして、傷男はニイッと口元を歪める。
「安心しなっ! すぐに送ってやるぜっ、たっぷり楽しんだ後でなっ!」
剣が抜き放たれ、鈍い金属光が宙に残像を残して流れる、刹那の時間がスローモーションのように流れていくようだ、死を乗せた剣身は篝火の炎を反射して舞い踊り、そして舞い終えた剣尖はピタリとタオの胸へと向けられ、一瞬の停滞も無く心臓を目掛けて迷うことなく突き出された。
踏み込んだ姿勢で利き腕に握った剣を真っ直ぐに伸ばす、見事な突きの姿勢で傷男は静止している。
狙いは寸分違わずタオの心臓へ向かい、一メートル近くあろう剣身は心臓を貫いてそのまま背中へ抜けるに十分な間合いであった。
「鳥……? だと……?」
呆然とした傷男の言葉通り黒い鳥が眼前にいる、それだけではない、タオの心臓を目がけた剣は、羽を一杯に広げたさほど大きくないその鳥の体に突き刺さっている、いや、吸い込まれていると言うべきか。
驚くべきことに鳥の背後からは剣が突き出してはいなかった、柄元まで差し込まれた剣身は全て鳥の体内に飲み込まれてしまったように見える。
もちろん黒い鳥はBBであった、紋章に描かれた鳥のように羽を広げたまま剣身を飲み込み、羽ばたきもせずに空中に静止している、信じられない光景に本能が警報を鳴らしたか、傷男は一旦距離を取ろうと飛び退る、BBの中から剣身が再びズルッと現れた。
「てめえっ、そりゃあ一体なんだっ⁉」
三メートルほどの距離を取って傷男が怒鳴る、先程までの余裕が全て消え去り、理解も予測も不可能になった焦りで額に汗が噴き出ている、しかし怒鳴られたタオも似たようなもので、何が何だかさっぱり解らぬ状況に言葉すら出てこない。
「お出でなさい、ブラックベリーリリィ」
凛とした声がその場に居る者たちの耳に届く。
同時に何かが静止した。
皆が感じる、音も、熱も、全ての動きも、何もかもが半分になったような感覚。
「影が……止まった……?」
タオが気付く、篝火の炎は揺れている、しかし揺れる炎に合わせて踊るはずの影は微動だにしていない……
「影たち、炎を包んで消しなさい」
再び声が通ると、燃え上がる民家の周囲にザワザワと影が湧き立つ、黒煙をもうもうと上げて燃えているそれぞれの家へ、ザザザーッと集まり包み込むのは紛れもなく真っ黒な影であった。
盗賊たちも漁師たちも、皆が周囲をキョロキョロ見回している、ざわめく影の異様さに驚き、また姿の見えぬ声の主を探しているのである、その中でタオと傷男は妙な音がするのに気が付いた。
ピキッ……パリッ……パリン……
二人が同時に目を移したのは、なお羽を広げた格好で空中に静止するBBであった。
剣の刺し込まれた痕が縦に走っている、二人に聞こえたのはその縁から亀裂が広がり表面が剥がれ落ちる音であった、そのふわふわと柔らかそうに見える黒い羽毛は、しかし剥がれ落ちるとまるで繊細な硝子細工のように地に砕けて消える。
パリパリと亀裂はBBの全身を覆い、やがて砕け落ちる鳥の外殻の中から、さらに黒い何かが出てこようとする、タオと傷男は身じろぎもせずに見つめ続け、とうとうその姿を認めた時、傷男が信じられないように口を開く。
「精霊じゃねぇか……なんで鳥の中から……」
現れた精霊は、姿無き声からブラックベリーリリィと呼ばれていた。
物質界ではその和名をヒオウギという夏に咲く花である、そしてその花がやがてつけるのは、見つめていると吸い込まれそうなほど艶やかで美しく、どこまでも深い漆黒の実であった。
古より夜や闇をなどを情緒深く彩る枕詞として使われる、その実を人々は『ぬばたま』と呼び伝える。
ぬばたまの名を冠した影の精霊がすっと腕を振ると、タオのすぐ横に黒い霧のような影が扉のような形を成し、その中から湧き出るように彼女が現れる。
「ペイン……⁉」
驚くタオに優しく微笑んだ彼女は、そっと彼の肩に触れる、すると彼女が出てきた黒霧の扉がタオを包み、彼の姿はあっという間に消えてしまった。
タオ本人から見ても瞬時の出来事であった、黒い霧に包まれたかと思った次の瞬間、視界はすぐに明るくなり、横には十数メートルほど離れていたはずの漁師仲間たちが居て、彼らも突然黒い霧から湧きだしたタオに驚いている、呆然とするタオであるが頭の何処かでは彼女がやったことだと理解できていた。
青い勿忘草の刺繍花が篝火に揺れる。
彼女と傷男は無言で対峙していた、傷男の背後の盗賊たちも警戒心を露わにして武器を構える、やがて彼女の頭からつま先までを注意深く観察していた傷男が先に口を開いた。
「てめえ……精霊使いだな?」
不信感たっぷりのその声に、それまであらぬ方向を見ていた彼女がジロリと傷男を横目で捉える、それを肯定の意ととったか、口元をニイッと歪んだ笑みの形にして傷男に再び余裕の様子が戻ってきた。
「ふ……ふはははっ! 精霊使いが剣士とこんな間合いでやろうってのか?」
確かに間合いは三メートル程度しかない、傷男の言う通り彼女が精霊を使役しようとすれば、その間に踏み込んで切り殺す動作など並みの剣士ですら数回はできよう。
「まったく、ど素人もいいとこだなぁ、黒いねえちゃんよ、どうした? 怖くて声も出ないか?」
「ははあ……さっきの兄ちゃんの女ってのはもしかしてお前さんか? 男を助けるために来たってわけだ? それじゃあ兄ちゃんのかわりに俺達を楽しませてくれなきゃなあ?」
黙って横目で睨むだけの彼女に、先程までの警戒心の反動であろうか、下卑た揶揄はどんどんとエスカレートしていくようだ。
「よーし! そこで脱いでみろよ? 素っ裸で踊って見せたら命だけは助けてやっても……」
しかしその言葉は最後までは言えなかった、突然傷男の斜め後ろで何かが地面に音を立てて落ちたのだ。
「ぎゃあっ!」「ぐああっ!」
ドサドサと重なって地に倒れ、呻いているのは四人の盗賊であった、二メートルほど上に黒霧が固まっている、どうやらそこから落とされたようであり、傷男と背後の仲間の驚愕ぶりや崖の上を見上げる様子から見ると、崖の上へ回り込み民家に火を放った別動隊の連中であるようだ。
ハッ! と慌てて傷男が彼女へと向き直る、背後に気を取られて完全に隙だらけだったのに気が付いたようだ。
だが彼女は腕を組んでその場に立っていた、傷男へ斜めに構えて凛と立つ彼女は、傷男を見もせずに憮然とした表情で静かに言い放つ。
「私……少し怒ってるわ……」
傷男はこの時点でもう悟っていた、この女は危険だっ! 得体の知れない何かがあるっ! 早く殺らなきゃこっちがやべえっ!
考えるより先に体が動く、戦場では最も大事な要素の一つだ、間合いを詰めるべく飛び出しながら同時に剣尖を彼女へ向ける、野獣のような素早い動きで、あとは剣を真っ直ぐ突き出せば終わりだっ! という体勢に至ったとき。
「カッ……カハッ……」
突きを放とうとする体勢のまま、ガクンと固められたように傷男の動きが停止する、それのみならず顔がみるみる赤黒くなっていき、口は空気を求めてパクパク動いている、まるで首を絞められているかのようだ、しかし傍には彼女しかおらず、彼女もまた傷男には指一本触れていない。
「言ったでしょ、怒ってるって……」
今度は正面から傷男を見据えた彼女が言う、地に伸びる傷男の影には首の部分に枷のような影が重なっていた。
リーダーの窮地を察した背後の盗賊たちが殺気立つ、手に手に武器を構えて扇状に広がり彼女を半包囲した、誰か一人が叫ぶ。
「こいつは精霊使いだっ! 一斉にかかって精霊を使う暇を与えるなっ!」
おおおっ! と、いきり立つ盗賊たちが突撃の構えをとったその時であった。
キンッー! とその場に居る全ての者の身体を、波紋のように広がる神気が薙いでいく。
不意に神気に当てられた盗賊たちは瞬間的に神経がパニックをおこしたか、半分麻痺したような状態でその場に棒立ちになってしまう、そして聞こえてきた声は盗賊のみならず、離れたタオたちの耳にも凛然と響く。
「アウルラ・フィネスタ・セルピナの名において命じます、闇とその眷属たちよ、この場に静寂を」
その声と共に視界の中の全てが静止する。
先程までは影のみがその動きを止めたが実体はまだ動いていた、それですら世界の半分が止まった感覚に陥ったが、今度は更に異様であった。
全てが静止している、とは言っても時間が止まっている訳ではなさそうだ。
棒立ちのまま動きを封じられた盗賊たちを見ると、呼吸の度に胸が上下している、顔も恐怖の表情を浮かべて目だけがせわしなく動きまわっている。
どうやら強制的な静止であるようだ、実体の動きをその影が封じているのであろう、効力が及ぶ範囲に於いて影のあるものは草一本たりとて例外ではなく、吹く風にそよぎもしない徹底的な能力であった。
超常の力の前に人は成す術を持たない、理解すらできずただ畏怖し恐怖するのみである、今、理不尽で容赦のない暴力を振るい、命まで奪おうとした相手がそんな能力の持ち主だと分かったとき、傷男は追い詰められたのは自分達だと悟った。
セルピナは、影から首枷が消えてゼイゼイと貪るように呼吸をする傷男の前に立つ。
他の盗賊たちと同じように動きの封じられた傷男は、喉の奥から悲鳴のような呼吸音をたてながら恐怖と絶望の表情になり。
「て……てめえ……女神……だったのか……」
全ての動きが止まり静寂の支配する場である、盗賊たちと同様に動きの封じられたタオたちにも会話ははっきりと聞こえていた、セルピナも承知の上であろう。
「私の名はセルピナ……アウルラより闇の冠をいただく女神……」
盗賊たちの動きを封じて勝利の確定したような現状で、勝ち誇るどころかむしろ悲しみを多く含んだその声を聞いたとき、傷男の目の奥には狡猾な光が宿りはじめた。
この女、さっきあの兄ちゃんから違う名で呼ばれてたな……今も女神と聞かされて漁師の連中驚いてやがったし……これは揺さぶって優位に立てば逆転できるかもしれねぇ……
「闇の女神だと……⁉ 全くついてねえや! 王国の騎士団に追われて流れてきたら、今度はこんな化物に出くわすとはなあっ!」
タオたちへ聞こえるのが前提の物言いである、大仰な物言いではあるがその内容にセルピナの表情が急激に曇り、ギュッと唇を噛んで俯く様子を見て傷男は己の予想が当たったと知った。
「で、やっぱり俺達は闇の女神様に殺されちまうのかなあ? おっそろしい能力だよなあ、身動きひとつできやしねえ、こりゃあ簡単に皆殺しにされっちまうぜえ!」
傷男は、セルピナが女神と名乗らず村に住んでいたと見抜いた、想い合う男がいるのも先程知った、セルピナが村を己の居場所とするのであれば、村人から恐れられるようなことは絶対に避けたいはずだと踏んでの挑発であった。
女神の能力をもって俺達の命を奪えば、お前さんは恐れられて村での居場所を失くすぜ? そう傷男の目が語っている、しかしその考え方までが傷男の限界であった、黙って俯いていたセルピナが顔を上げ、その表情を目にしたとき傷男の背筋は凍りつく。
セルピナは静かに微笑んでいた。
何か重大な間違いを犯したのかと傷男は慌てた、しかし彼には解るまい、利己の思考では決して理解できぬ想いがあると、村と愛する人のために彼女が己を捨てる覚悟を決めて今、傷男たち盗賊に対峙しているということを。
「命を奪わずとも……」
固まったままの傷男の頬を、そっと手で撫でながら微笑みかける。
「光の一切届かぬ暗黒の中へ投じれば、人など半日も経たぬうちに発狂するぞ」
口の端が僅かに上がる、微笑がほんの少し深い笑みに変わったようだ。
「無理やり影を引き剥がしてやってもよいな、お前は影を剥がれた人間がどうなるか知っているか?」
セルピナの目を見て間近で言葉を聞いた傷男は、それが決して脅しだけではないと瞬時に悟っていた、優位に立とうなどと愚かな思い上がりだったことを理解した、その瞬間から心を猛烈な恐怖が支配する、歯の根が合わない、ガタガタと震えが走り全身の動きを封じられているにもかかわらず震えは全身に広がっていく。
「か……勘弁……してくれぇ……」
傲慢さは微塵に砕かれ、完全にへし折られた心は情けない命乞いの言葉を吐いた、額から油汗を流して必死の形相で続ける。
「わかった……この村にもう二度と手出ししない……本当だ、誓うっ……だから頼むっ……許してくれ……」
動きを封じる影から解放されて、坂道を転げ上がるように逃げていく盗賊たちを注意深く見送り、全てが終わった後でもセルピナは、後ろのタオたちへ振り返ることができなかった。
夜の闇の中で揺れる青い花のような後ろ姿が、消え入りそうな震える声でつぶやく。
「ごめんなさい……ごめん……なさい……」
どうしても言い出せなかった、言えないことへの罪悪感を感じ始めた頃には、もうすでにタオはセルピナの中で特別な存在になっていた、女神である自分をこれほど嫌だと感じたことなど今までになかった、それほど真実を打ち明けた後タオが離れていくことが恐ろしかった……
だが今はもう全て知られてしまった、屈強な盗賊たちが恐怖に駆られて逃げていくほどの能力を見られ、狡猾な傷男が震えあがるほどの恫喝の言葉すら聞かれてしまった……
世界の全てから恐れられてもいい、どんなに不審の目で見られても、心ない言葉を浴びせかけられてもかまわない、だが……タオの目の中の怯えの光には……私は耐えることができない……
前方へ手をかざすとBBが黒霧の扉へと姿を変える、ただひたすら黒い、ぬばたまの影の扉はこれから先の自分の心の色のようだとセルピナは感じた。
後ろは振り返らなかった、いや、振り返れなかった、驚愕と恐怖で固まったタオの姿を見ると、きっと心が壊れてしまうだろうと思ったからだ。
ふらっと魂が抜けたように扉へ向かう、黒霧に包まれれば全て終わる……その姿が扉の中へ全て消えようとしていったとき。
ススーッとセルピナの姿が再び現れ見えてくる、彼女が退ったわけではない、扉が彼女から遠ざかるように移動したためであった。
「……BB? ……どうしたの……?」
不審そうに扉と化したBBを見るが、もう動くのをやめているようである、セルピナはもう一度扉へと進み、今度こそ黒霧が彼女の全てを飲み込もうとする寸前であった。
最後に消えんとする彼女の右手首を、赤銅色の手がしっかりと掴む。
力強く、しかし優しく、今度は動かぬ黒霧の扉からセルピナの姿が引き戻されて現れた。
両肩をしっかりと掴まれた彼女の目のすぐ前にはタオの顔があった、離れていた距離を全力で駆けてきたのであろう、少し肩で息をしている。
「行くな……頼むっ……行くなっ!」
翡翠色のタオの瞳が真っ直ぐにセルピナの目を、まるで心の中まで射貫くように見つめている。
「で……でも……私……女神……闇の……」
言葉が上手く出てこない……タオを見つめ返す彼女の藍色の瞳が溢れてくる涙で濡れる。
「女神であろうが、なんであろうがだ」
首を振りながらタオは言う。
「今俺にわかるのは……お前がいないとダメだ……それだけだ……」
掴まれた肩が熱い、タオの体温がセルピナの体中に伝わってくるようだ。
「タオ……私が……私が……怖く……ないの……?」
震える声で訊ねる彼女に、タオは何も言わなかった。
ただその目を優しく、そして真っ直ぐに見つめる。
見つめられた彼女は思った、彼の翡翠色の目は陽光の下の海の色のようだ……と。
見つめ返された彼は思った、彼女の藍色の目は月光の下の海の色のようだ……と。
海と共に生きる民は穏やかな海も、荒れ狂う海にも、変わらず共に寄り添って生きていく、タオも海の男としてそうして生きてきた、全てを正面から見据えて受け入れる生き方をしてきた彼が、愛した女一人の全てを受け入れられない訳がなかった。
セルピナは全てを包む腕に強く抱きしめられる、彼の逞しい胸は太陽の匂いがした。
苦手と言っていた太陽の、今は大好きなその匂いを闇の冠をいただく女神は胸いっぱいに吸い込んだ。
「うおわっ!」
空中に開いた出口から地面までは、少し距離があった。
距離と言っても五、六十センチほどのものではあるが、不意に落下して地面に落ちると、落ち方によっては大怪我の恐れもある高さである。
オレはというと、格闘技の類などもちろんやったこともなく、よって当然受け身などとれる訳もなく、ジタバタ手足を動かしただけで、間抜けにも仰向けの姿勢のまま背中から落ちた。
「がはっ!」
衝撃で肺から空気が絞りだされる、背中と同時に腰も打ちつけ、ショックで身動きすらできない。
そしてそんなオレの目は、オレに続いて落ちてくる黒いお尻を捉え続けていた。
「ぶぎゃっ!」
オレが地面に落ち落下が停止すると、当然まだ落下を続けるお尻はオレと激突する、カエルが踏みつぶされたような悲鳴がでた。
「あ、あいててて……」
数分後、後頭部をさすりながらようやく上体を起こすことができた、イルビスも少し赤い顔をしてお尻をさすりながらオレの横に座っている。
朽ちた木くずや木の葉が堆積し、その上を苔が覆う、そんな地面だから大怪我せずに済んだようであった、天然のクッションのような弾力が掌に伝わってくる。
「おいこら、タクヤよ……」
少し眉間にシワが寄っているイルビスであった、柳眉もほんの少し上がっており、若干ご立腹らしいのが見てとれる。
「な、なんでしょう?」
「お前、私が教えた通りに、真面目に出口のイメージに集中したのじゃろうな?」
「も、もちろんっ! ちゃんと家の玄関前をイメージしたよ?」
「じゃあ、どうして……私たちはこんなところにいるんじゃ⁉」
イルビスが両腕を拡げて示す周囲は、鬱蒼とした森の中であった、四方を見回しても木々と草と苔の緑のみの世界である。
「オレに聞かれてもなあ……だってオレこんなところ初めて来るぞ?」
ふーむ……と唸るイルビスも腕組みをして考え込んでしまう、オレたちは物質界からイルビスとオレの右腕が創った次元の裂け目を通って家へ帰る……はずであった。
だが着いてみると以前来た覚えなどない森の中である、次元の裂け目の到着ポイントは既知の場所でなければならないとイルビスが言っていたのはしっかり覚えているので、オレの失敗ではないと主張したいところである。
「まあでも、ここって精神界なんだろ? だったらもう一回次元の裂け目を、今度はイルビスが家の前へつないでくれればいいんじゃないか?」
どっこいしょと立ち上がり、バックパックを背負い直す。
「それはそうなんじゃがの……もしかしてここは……」
思い当たるフシがあったのか、イルビスが首を捻りだしたときであった。
ドッスと背中に衝撃が走る。
「うわっ!」
驚き背後を振り返るが、何もない、おかしいな……確かに何かがぶつかってきたような衝撃が……
「タ……タクヤ……それ……」
イルビスが青ざめた顔で指差すのは、オレの背負ったバックパックであった、見るとなんとっ! 深々と矢が突き立っているではないかっ。
「タクヤ……矢が……矢が……刺さっておるぞ……矢が……」
イルビスの指は震え、目の端に涙まで浮かべている、なんだかんだ言いながらそんなに心配してくれるんだな……こんな時ながら少し嬉しく思ってしまう。
「イルビス、大丈夫、オレの身体までは届いてないよ」
安心させようと言った言葉に、即怒鳴り声が返ってきた。
「たわけっ! そんなことはどうでもよいっ! その背の鞄の中の、何に矢が刺さっておるのかじゃっ!」
「何って……たぶん買った図鑑に……あっ……」
オレの言葉の終わらぬうちに、メラッとイルビスの周囲に怒りのオーラが見えたのは気のせいであろうか。
ああ……そう……そうよね……
矢の飛んできた方角へ仁王立ちになって腕を伸ばすイルビスは、もうすでに精霊を放っているのであろう、愛する図鑑の仇を討つために、まだ見えぬ敵へ向かって戦闘準備を整えている。
そこへ、ヒュンッヒュン! と風を切る音と共に再び矢が襲う、オレのすぐ横の木の幹にズカカッと突き刺さった。
「ひっ……ひええっ」
こりゃまずい! と、イルビスの腕を引っ掴んで反対方向へ走り出す、見えない敵から射かけられる場所はまずい、移動しながら追ってくる姿を目に捉えないと対処のしようがないからである。
走っていると後方でザザッと影が動く、やはり追って来ているようだ、しかし見えた影はなんだか……妙に背が低いというか……小さかったような気がする、しかも木の上を……枝から枝へ移動したようにも見えたぞ……まさか猿じゃあるまいし……
思った通り背後の影は素早かった、二人ほどの射手がオレたちとの距離を縮めて射程内に入ると弓を射る、そしてまた開いた距離を縮めに追ってくるの繰り返しである、狙いもかなり正確でほとんどの矢がオレたちを掠めている、本当は命中しているはずの矢も多いのだろうが、イルビスの操る風の精霊がかろうじて軌道を変えて防御してくれている。
しかしまずいことに防御も限界に近付いてきたようだ、なんと追ってくる影の数が増えたようであった。
「三……四人かな……まずいな」
ゼイゼイと息が切れてきた、走る速度も落ちてくる、しかし相対距離が縮まったせいで相手の様子が見えるようになった、フードローブ姿で顔は見えないが、やはり小さい……子供なんじゃないのか? という疑念さえ湧いてくる。
М字型の短弓を手に、物陰から物陰へ素早く移動しながらこちらとの距離を縮めてきている、用心深さもかなりのものだ、そしてオレたちはいつの間にか前にも回り込まれ、囲まれて四方から狙われる状況になってしまった。
「こいつら、何なんだ⁉ オレたちをどうする気なんだ?」
なるべく大きな木を選んでイルビスを木を背に立たせ、オレが前に立ってフードローブたちを待ち受ける体勢に入る、バックパックを手に持ち盾のように構えた。
「無差別に問答無用で撃ってくるのじゃ、こちらを殺す気しかあるまい」
オレの背からイルビスが応える、確かにそうだ、最初の一発もバックパックの中に図鑑が入ってなければ、オレは命すら危うかっただろう。
木を背にしてるのでフードローブたちも扇形に囲んできた、一斉攻撃の準備をしている様子が見てとれる、さすがに四本同時の矢はまずい、こちらから攻撃したいところではあるが、防御で使役していた風の精霊で見極められてしまったか、イルビスの精霊の射程内には入ってこない徹底した用心深さであった。
やむなくすぐ側に木の精霊が呼び出された、蔦が伸びてうねる、飛来する矢を防ぎ撃ち落とす構えである、場の緊張感は高まりいよいよ戦闘が始まろうとしたその時であった。
サワサワサワ……
最初は風に草木がそよいでいると思った、だがおかしい、風など吹いていないし草木も揺れていない。
するとフードローブたちが目に見えて動揺しているではないか、弓からつがえていた矢を外し周囲を見回している、何かに怯えているようにも見える程のうろたえぶりであった。
ザッ!
何かが吹き抜けたような気がした、その瞬間、僅かな間ではあるが世界の半分が止まったように見えた、フードローブたちが恐慌状態になっている、何が何だかさっぱりわからないがヤツ等は逃げ出そうとしているようであった。
そのとき一番近くにいたヤツのフードが風でめくれた、それを見たときオレもイルビスも驚愕のあまり目を見開いて絶句する、フードローブたちは大慌てで逃げ出して行き、周囲が静けさを取り戻したあとオレたちは呆然とつぶやく。
「猿だった……」
「猿じゃったぞ……」
知り合いに猿はいなかった、当然猿から恨みを買う覚えもない、こっちの世界の猿は弓矢で縄張り争いをするのかな? と一瞬思ったが、イルビスの驚愕ぶりからそれはないなと思い直す。
とにもかくにもこの物騒な森からさっさと立ち去りたいところである、もたもたしているとあのフードローブの猿たちが再び襲ってくるかもしれない懸念もある、ここは早急にイルビスに次元の裂け目を繋いでもらった方がいいだろう。
「イルビス、さっさと帰ろうぜ……ん……?」
オレと一緒に猿に驚いていたイルビスは、今はあらぬ方向をポーッと眺めていた、返事すらしないので一体何を? と思い視線を辿ってみると……
「今度は鳥だ……真っ黒い……」
少し離れた木の枝に黒い鳥がとまっている、カラスほど大きくはないがなんだか存在感があるな、などと思いながらイルビスを見ると、よっぽど気になるのか鳥を見つめたままでふらりと歩き出す。
「お、おいっイルビス?」
慌てて追い表情を確かめる、何かを一所懸命想い出しているような様子であった、しかし目にはしっかりと意志の光があるので、催眠や暗示で操られているのではなさそうである、一応安心した。
とりあえず後ろについていく、黒い鳥はイルビスがある程度近づくとパタタッと小さい羽音を響かせて少し先の木の枝へと飛んでいく、どうやら案内役のようであった。
しばらく無言で進んでいくが、何か知っている様子のイルビスにいろいろ訊いてみたい衝動をグッと抑えていた、先程から懸命に思索中のようであるからだ、こんなときの彼女に声をかけると大抵は冷ややかな目できつく睨まれる、残念だがオレにはそういうのを喜ぶ趣味はないので黙ってついていくのみであった。
さらにしばらく進むと突然目の前に道が現れた、道とは言っても今にも消えそうな細い道で、荷馬車がやっと一台通れるほどのものである、実際にうっすらと残る荷馬車の車輪の幅がそのまま道幅になっていた。
黒い鳥が飛び去った方向へ道を辿る、するとさほど進まぬうちに道は終わり、その終点には古いがそこそこ立派な工房であろう建物が建っていた、木々と草や苔の色しかなかった自然の世界に、そこだけが人の手が造りだした場所として浮かび上がっているように見える。
なんだかミスマッチ的な不思議な感覚に陥りながら、建物を眺めつつ扉の前に立つ、扉にはとても古い小さな木の看板が掛かっていた。
掠れて消えかかっている看板の字を、顔を近づけてイルビスが読み上げる。
「ペイン……キラー……あります……?」
オレとイルビスは不思議そうに顔を見合わせた。
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